【小説】あなたといた道、母が見た空 第七章 ②
【第一章はこちら】
仙石原から車で十五分ほど走ると、その建物は見えてきた。
黒っぽい壁と屋根の合間に、白や黒や金で象られた大きな雲の模様が、窓ガラスにいくつも描かれている。寄せ木細工で良く見かける模様だ。
高々と掲げられた看板におどるのは、『からくり美術館』の文字。
「からくり……?」
ここに来るということは予定としては聞いていた。だがここに来るまでの二軒の印象が強すぎて、この場所のイメージがまるでわかない。
首を傾げていると、おばちゃんが後ろからぐいぐい咲翔の背中を押した。
「いいからいいから。まずやってみようよ」
「『やる』? 『見る』やなくて?」
そう言って、おばちゃんが連れて行ったのは、美術館の入り口……の隣の、引き戸になっている場所だった。
そこには『体験教室』と書かれている。
「え、こっちでも体験ですか?」
「そうそう。予約の時間がギリギリだから、美術館よりこっちが先ね」
おばちゃんは急いだ様子で受け付けの人に話しかけていた。結局、何の体験なのか、教えてもらっていない。
室内をキョロキョロ見回すと、他の参加者らしき人の姿が見えた。その人たちは手に木箱を持っている。細かな模様が描かれていて、遠目でも見事な細工物だとわかる。
(そうか。寄木細工の体験か)
箱根の伝統工芸、寄木細工――異なる種類の木材を組み合わせて文様を作り出す伝統技法だ。祖父と一緒に何度もテレビで見た。その度に、一度手に取ってみたいと語り合ったものだ。
(あれを、自分の手で作れるってことか……)
土産物として手に取るだけではなく、作り出せる。そう思うと、胸がふわりと踊るのが分かった。するとそこへ、おばちゃんも駆け寄ってきた。
「良かった。間に合ったよ。えみくん、座ろう」
「はい。楽しみですね。寄木細工作れるて……」
「え? そっちが良かった?」
「え? どういうことですか?」
お互いに首を傾げて見つめ合ってしまう。おばちゃんが、そろりと視線を動かし、他の参加者の方を見ると、急に合点がいったように唸った。
「えみくん、ごめん。やっぱり説明しとけば良かったね。体験てね、二つのコースから選べるの」
「はぁ」
「寄木細工のコースと、もう一つが、からくり箱のコース」
そういえば、ここの名称は『からくり美術館』だった。
「からくり箱って……あの開け方の難しい細工されてる箱ですよね?」
「そうそう、それ! 面白そうでしょ」
こちらも箱根を代表する伝統工芸の一つだ。興味深く思っていた。
だが、ほんの少し心配に思う。
とても精巧で精密な作りであり、だからこそ開け方が難解で、芸術品と呼べる逸品なのだが……つまり、それだけ難しいというわけで……。
「私には、才能がなかった……」
体験は四十分ほどで終わった。参加した人は手に手に自分の作品を持って、友人や家族と見せ合っていた。そんな中、おばちゃんはというと……がっくりと項垂れていた。
「私だけ……壊れた……なんで?」
何度も言うが、からくり細工は精巧で精密で、繊細である。うまくはまらないからと言って力ずくではめ込んだり、押したり引っ張ったりすると、あっという間に壊れてしまうのだ。おばちゃんの手元の箱のように。
「仕方ないですって。難しかったですもん」
「えみくん、上手だね……」
この道何十年の職人による手ほどきにより、咲翔はなんとか作り上げることはできた。ただ、組み上げたが最後、開け方が分からなくなってしまったとは言えない。
咲翔もおばちゃんも、揃って良い生徒とは言えなかったようだ。
「ほら、美術館の方に行きましょ。展示見て、お土産でも買っていったらええやないですか」
「そうだね。そうしよっか」
おばちゃんは、よろよろと椅子から立ち上がった。用意してもらった材料に加えて、呼びの材料まで破壊してしまったことで、さすがに落ち込んだらしい。
(おばちゃんにも失敗してめげるってことがあるんやな……)
メンタルオバケだと思っていたおばちゃんの、人間らしい側面を見てしまった。が、そんなものは一瞬だった。
工房の隣にある美術館の方に足を踏み入れると、おばちゃんは展示されている物を秘湯一つ食い入るように見て回った。その顔色は先ほどまでの落ち込みようなど雲か霞の如く消え失せてしまったかのようだった。
「おーい、えみくん! あっちでからくり箱触れるんだって」
からくり箱を開けてみる体験コーナーもあるようだ。何人か他の客もいて、その中心で、誰かが説明をしている。どうも開け方を解説しているようだ。
何も知らずに開けようとすると、壊してしまうことがあるのだろう。丁寧に手順を解説し、一人ずつ、ゆっくりと開けていく。
「おお! 開いた!」
開いた瞬間は、達成感に満ち満ちている。
(でも、明日になったら開けられんようになってるんやろなぁ……)
そう思うと、箱が開いている今が、なんだか名残惜しい。咲翔は、できるだけゆっくり丁寧に箱を閉めていく。
「いいねぇ、えみくん。いつかカノジョができたら、この箱に指輪入れてプロポーズしなよ。ものすごく特別感出るよ」
咲翔は、何も言わない代わりに、思い切り顔をしかめてしまった。
「……なんて言って渡すんですか」
「そりゃあ……『僕の大事な思いをこの箱に詰めたよ。開けられるのは、貴女だけ』……とか?」
「おばちゃん、それ言われてときめきます?」
「……多少は」
人の人生の重大イベントに『多少』程度の案を言わないでほしい……。
「ていうか……相手の人が開けられへんかったらどうするんですか。一世一代の告白が一生はこの中やないですか」
「その時は、えみくんが開けたらいいじゃない」
「その構図……ものすごい間抜けやないですか?」
「そう……だねぇ。あはははは」
おばちゃんはごまかすように笑った。だが咲翔は、ごまかされない。軽くひと睨みして、おばちゃんに順番を譲った。
次に開けるのはおばちゃんだが……はたして、開けられるのか。おばちゃんの隣に立って、その結果を見守る。
「よっ……!」
最初から、力を入れすぎだ。さっきの体験の時のように、遠からず木材が悲鳴を上げそうな予感がする。
「おばちゃん、こっちです。これをずらして……」
「あ、そうか。それで、こっちを動かして、こうして……こうだ!」
教わった順番通りに側面や蓋をするすると動かす。すると、力を込めすぎていた先ほどよりもずっと、すんなりと箱は開いた。
(良かった。展示品を壊さんですんだ……)
今度は、『喜び』よりも『安心』を感じた咲翔であった。そんな咲翔の胸中など構わず、おばちゃんはきゃっきゃと喜んで跳ねている。
「良かった~今度は開けられたよ」
「良かったですね……」
「よし、えみくん。ミュージアムショップに行こう。この箱、買っていこう。開け方わかったし、これなら大丈夫!」
本当だろうか、と不安になる咲翔であった……。
******
「……で、結局、猫になるんですね」
夕飯の湯葉丼を前にしながら、咲翔は呆れ顔でこぼす。
あの後、ミュージアムショップで、おばちゃんだは意気揚々とさっきのものと同じ細工の箱を買おうとしていたが、とある品を見た途端、急に心変わりしてしまったのだ。そう――寄木細工で作られた、猫の形の小箱に。そこには、からくりはない。ただ、ぱかっと開くだけだ。
猫はそろそろ打ち止めなのかと思っていたが、やはりまだ最有力候補らしい。
「というか、ここまで来ると猫グッズが好きなんは娘さんやのうて、おばちゃんなんやないかって思えてきますよ」
「私も好きだよ。でも娘はもっとレベル高いの。部屋中猫まみれ。私があの部屋にいたら、悪夢見るね」
いったいどんな部屋なんだろうか……。さすがにちょっと気になる。
咲翔がそんなことを思う中、おばちゃんは目の前に置かれた湯葉丼セットに手を伸ばした。湯葉の卵とじの入った器を丼に入ったご飯にかける。
「おお! 湯葉丼、美味しいね」
おばちゃんがそう言うので、咲翔もそれに倣って『湯葉丼』を完成させた。豆腐のような柔らかい食感に、出汁のしっかりと効いた味が、やんわりと口の中に広がっていく。濃すぎず緩やかな味なのに、しっかり刺激されている。ご飯が止まらなくなる。
「湯葉丼……美味しいですね!」
「うん。パンチはそれほど強くはないけど、なんか病みつきになりそう……娘が」
おばちゃんは、ほんの一瞬だけ、遠い目をしたような気がしたが、咲翔は気付かなかったフリをした。
「へぇ……娘さんが?」
「うん。女子高生なのにさ、なんか渋好みなんだよね。サラダよりおひたしの方が好きだし。あと洋菓子より和菓子、肉より魚、スープより味噌汁ってね。炊き込みご飯も好きだなぁ、あの子」
「渋いっていうか……完全和食派ですね。ああ、それで箱根に着いてすぐ入ったお土産屋さんで干物送ってたんですね」
「そうそう。ああいうの好きだからさ。試合の日なんかさ、すごくこだわりがあるの。普段はそんなに好き嫌い言わないんだけどね、その時だけは絶対に『炊き込みご飯おにぎり』しか食べないんだよね。なんかこれだと力が出るんだって」
そう、思い出の中の人を思い浮かべて、呟いていた。
その人物像なら、確かに目の前の料理は理想的だろう。きっと、こう思ったに違いない。
「……食べさせてあげたいですね、湯葉丼」
「うん、そうだね。そうなんだけど……」
おばちゃんは、なぜかため息とともに俯いてしまった。どうも何か琴線に触れてしまったらしい。
咲翔が顔を覗き込むと、おばちゃんは一瞬『しまった』と言いたげな顔をした。そして、何かを言おうかどうしようか、迷っている様子へと変わった。
「あ~えーと……」
おばちゃんが、珍しく言い淀んでいる。咲翔の方をチラチラ見ていると言うことは、きっと何か気兼ねをしているに違いない。
「何か……ありました?」
おばちゃんは、しばらく悩んでいたが、やがてそろりとスマホの画面を見せた。メッセージアプリが開かれていて、どうも娘とのやりとりが表示されているらしい。
自分が見てもいいのかと恐縮したが、おばちゃんはずいっと見せてくる。その最後のやりとりに目をやると、おばちゃんの言葉らしきものが目に留まる。
『週末、試合じゃなかった? いつものやつ、いる?』
それに対する返答は、こうだ。
『お気遣いなく。どうぞ気が済むまで旅行を続けてください』
やけに丁寧な言葉が、刺々しい。そう感じるのは咲翔だけではないようだ。おばちゃんは、深いため息をついて呟く。
「怒ってるよねぇ……」
はっきりと同意は示しづらいが、咲翔も胸の内では同意見だ。
「いや、前からわかってたことなんだけどね。当然だとも思うし」
そう苦笑するおばちゃんの顔を見ていると、咲翔は胸が痛んだ。
娘さんは、確かに怒っている。一週間足らずの旅行と聞いていたのに、気付けばひと月になろうとしているのだから、当然だ。
そうなったのは、咲翔のせいだ。
おばちゃんは咲翔に寄り添うために旅を延長してくれた。そのために、家に帰れなかった。咲翔が、おばちゃんと彼女の家族とを引き離してしまっている。
そう思っていると、おばちゃんがまた察したように笑顔を作った。
「あ、違うからね? 私が自由過ぎるから怒られてるんであって、えみくんは何も悪くないからね? 自分を責めちゃダメよ?」
「いや、でも……」
とても、そんな風には考えられない。どう考えても原因は咲翔にあるのだから。
だがおばちゃんはそんな咲翔の重苦しい表情すら吹き飛ばそうと笑う。
「いやだなぁ。私がえみくんを振り回してたんじゃない。初日からそうでしょ? えみくんは、はじめから今までずーっと、楽しませてくれたの」
「はぁ……」
おばちゃんは今も、こうして咲翔を庇い続けてくれる。咲翔はそれに感謝するしかできない。
(なんて無力なんや……)
自分が、おばちゃんとその家族のためにできることはないか。自分が、自分の家族との折り合いをつけてもらった。今度は咲翔が何かをする番だ。そう思った。
もちろん、おばちゃんはそんなことを思ってはいないだろうが。
「ところでさ、えみくん。明日はここ、行ってみない?」
そんな感じに、軽やかに話題を変えてしまう。
咲翔は、今、決めた。
今度は自分がおばちゃんに寄り添う。もちろん、家族の元に帰るまでだが。そして、娘さんとの確執が埋まらないなら、自分ができることで助力する。その方法を、考え続けようと。
「明日は……明日も、楽しいといいですね」
だが一方で、一日も早く家族のもとに帰してあげたい。そんなあべこべな思いも、抱いていた。
◇◇◇
――帰してあげたい
その言葉を告げると、咲翔はふっと息をついた。どうやら、きりのいいところまで話したらしい。
気付けば、咲翔のコップは、麦茶がまだたくさん残ったまま、ぬるくなっていた。
「お茶、入れなおしますね」
「お、お気遣いなく」
咲翔の遠慮は聞き流すことにほぼ決まっている。桜は立ち上がり、咲翔と自分のコップを持って台所へ向かった。
その時、玄関の方で音が鳴った。
「ただいま~咲翔くん、まだいるよね?」
そう言って、父がバタバタと駆け込んでくる。桜は無言で、コップをもう一つ取り出した。
咲翔はというと、父の足音に驚き、そして動揺し始めた。家に入る許可はとったのに、まだ罪悪感を持っているらしい。そんな咲翔の動揺をよそに、父は変わらずニコニコフレンドリーに寄っていく。
「やあやあ、咲翔くん。よく来たね。うちの娘に強引に連れ込まれたんだって?」
「え、いや、そんな……」
よくもまぁ、そこまで咲翔を困らせる言葉選びが出来るものだ。事実ではあるが。
(私たち、家族揃ってこの人をいじりすぎだなぁ……)
桜はちょっと反省しつつ、冷えた麦茶の入ったコップを三つ、テーブルに置いた。
「お、桜ありがとう。いやぁ外、暑いね~。あ、ちょっと休憩のつもりで家に?」
「い、いえ……先日伺った時に渡しそびれたものがあるって言うてはって……」
「渡しそびれた? 何を?」
「……おじさんが、そう言うてはったって、桜……ちゃんが……」
「おお! 『桜ちゃん』になったね! いいね、仲良くなったの? で、桜……渡しそびれたものって何だっけ?」
予想外の訪問がそんなに嬉しかったのか、父のテンションが異様に高い。それに戸惑っていると、いきなり核心を突かれてしまった……。
そうだった。咲翔にはお土産を渡すと言っていたんだった。しかも父の名前で。
その父まで帰ってきて、すべてがつまびらかにされてしまった今、もはやとるべき対応は一つしかない。
「ごめんなさい! 嘘です!」
桜は即座に深々と頭を下げた。それはもう深く。身体がきれいに折り重なるくらいに。頭上では、咲翔の困った声が聞こえてくる。
「そ、そんな……謝らんといてください。僕の方が、お茶まで頂いてお世話になってるんですから」
「いえ、予定外にお話までしてもらっちゃって……本当にごめんなさい」
すると父が「え⁉」と素っ頓狂な声を上げる。
「もしかして、お母さんの旅話、聞いてるの? 今? 箱根の話?」
「う、うん……まだ途中だけど」
「ずるいなぁ。そういうのは僕を混ぜてくれなくちゃ困るよ」
父は、駄々っ子のようにそう言った。案の定、咲翔が困って焦っている。
「す、すみません!」
「ごめん、お父さん。私が無理矢理話してもらったみたいなもんだから」
桜が謝ると、父は口を尖らせていたが、ひとまず座った。
「桜、なんで僕よりも先に話を始めたの? 僕に聞かれたくない話でも、あった?」
「そういうわけじゃ……あ!」
一つ、思い出した。母に絡んだ、聞き捨てならない話だ。
「そうだ。お母さん、私のこと、なんて言ってたんですか?」
急に咲翔に向き直ると、びくっと震えていた。怖がらせて申し訳ないが、有耶無耶にはしたくない案件だった。
「えぇと……さっきの話……湯葉丼のときに言うてはったんですけど、おばちゃんはホンマにおじさんと桜ちゃんに申し訳ないて思ってはって……」
「それで?」
「何が一番申し訳ないって、その……ご飯作ってあげられへんことでって……」
徐々に、咲翔が視線を逸らしていく。その言葉の先に、何か桜を怒らせることが待っているのだろうか。
「オブラートに包むとか考えなくていいです。お母さんが言った言葉、そのまま言ってください」
桜がまっすぐ射貫くように見つめると、咲翔は一歩か二歩、後退する。そして、諦めたように告げた。
「おばちゃん曰く……『桜ってばお料理だけは壊滅的に下手なんだよね。だからこのひと月、大丈夫だったのかなって心配で……家族がっていうか、台所が』……だそうです」
咲翔が、ちらりと桜の顔を窺い見る。父も、興味深そうに覗き込んでくる。いったい自分はどんな顔をしていたのか、桜にはわからない。ただ、にこやかではなかったことは確かだ。
桜の顔を見た咲翔と父が、揃って顔を引きつらせていたから。
ふぅっと深呼吸をして、一旦、気を落ち着かせる。
「ご飯、作る」
自分で思う以上に憮然とした声だったのだろう。咲翔も父も、黙って頷くばかりだった。
桜が台所に戻ると、二人が椅子に座ったのが見えた。なにやらこそこそ話している。
「失礼なこと言うてしもて、すみません」
「こっちこそ、ごめんね。うちの奥さん、桜の上達ぶりを知らないから……」
「上達……」
今度は咲翔の視線が飛んできている……気がする。だが同時に、父のやんわりした声が聞こえる。
「大丈夫。台所、きれいなもんだろう? 桜が少しずつ自分で料理するようになって、たった一ヶ月の間に随分うまくなったんだよ。心配いらない、美味しいから」
「あ……えぇと、お手伝いを……」
「いいよ。たぶん桜も、リベンジしたいんだろうから」
「リベンジて……」
父に止められて、咲翔は仕方なく腰を下ろしたようだ。その方がいい。
父の言う通り、桜はリベンジのつもりで台所に立った。誰に対する、何のリベンジか。明確には言えないけれど、見せつけたいという気持ちは、確かに『リベンジ』だろう。
「多岐川さん、本当にお気遣いなく。一人でできますから。私が戻るまで、父にさっきの話をもう一回してあげてください」
ちょうどそれくらいの時間はかかるだろう。冷蔵庫を確認すると、ちょうどしめじと人参があった。あと、もう一つ、魚の干物も。
「よし」と気合いを入れて、桜は、鍋に水を注いだ。そこに出汁パックを入れて、火にかける。出汁を取っている間に、もう一つのコンロにフライパンを置いた。そこにキッチンペーパーを敷いて、干物を焼いていく。火の熱が徐々に伝わり、ジュウジュウという音が、徐々に大きくなってくる。
その間に野菜を刻む。しめじは石づきをとってほぐすだけだが、人参は時間がかかる。千切りにするためだ。丁寧に皮を剥き、三等分くらいに切る。そこから薄く切って、さらに細く細く切っていく。先がくっついていたり、短冊ほどの太さのままだったり……自分の不器用さが恨めしい。だがそれでも、なんとか人参一本分を切り終えると、ちょうどお鍋が沸騰を告げた。火を弱めて、今度は炊飯器の釜を取り出す。
同時に、フライパンの様子を見る。フライ返しを使ってそっと覗き込んでみると、茶色い焼き色がついている。桜は、そのままひっくり返し、鮭などの調味料を入れて、蓋をした。
米びつも取り出し、一合ずつ、米をすくい入れる。そこに水を入れて、手で研いでいく。泡立て器を使う家庭もあると友達から聞いたが、なんとなく、母が手でやっていたので、桜もそれに倣っている。何度か研いで、水を入れなおし、半透明ほどになったところで止める。
そして、フライパンの蓋を取ってみると、熱い湯気に見舞われた。同時に、香ばしい香りに包まれた。いい焼き加減であると、わかった。
皿に移して、手早く皮と骨を取り、小さくほぐしていく。ふんわりした身はすぐに箸を受け入れる。箸を入れる度に、香ばしい香りとしょっぱくも甘辛い香りがすんと鼻腔を刺激した。つまみ食いしたい衝動をどうにか抑え込んで……諸々、最後の仕上げを終えて、炊飯器にセットした。
炊き上がりまで、少なからず時間がかかる。あとは、待つばかり。
ふとダイニングを見ると、父が咲翔の話に耳を傾けていた。ちょうど、からくり箱の話が終わったところのようだ。
見ると、最初に桜が出した『うり坊』のお菓子がなくなっている。何か他にないかと戸棚を探していると、父の声が飛んできた。
「おーい、桜。たぶん桜も聞いた話に追いついたから、そろそろこっちにおいで。仕込みは終わったんだろう?」
「お茶菓子、何かないかと思って」
「いいよ。晩ご飯前なんだし」
それもそうか。せっかく作ったものがお腹いっぱいで食べられなくなってはもったいない。
(そういえば、ご飯前なんだからお菓子はダメって、お母さんによく言われたな……)
ぼんやりと、そんなことを思い出した。
今に限ったことじゃない。思い出すのは、いつも何でもない記憶だ。重大なイベントの思い出よりも、小さなことばかり。
エアコンの設定温度のことでケンカしたり、桜の好きなお菓子を買い溜めしておいてくれたり、食いしん坊だったことだったり、桜が初めて剣道の試合で勝ったときにすごく喜んでくれたり……気付くと、手の甲に温かいものがぽつりと落ちた。
桜は、それ以上が零れないようにぐっと堪えて、ポケットからスマートフォンを取り出す。画面には、あのメッセージが表示されていた。
『頑張れ。絶対、見に行くから』
きっとこれは、母の言葉だ。送信時間に不可解な点があったって、母のものだ。だって母は、帰ろうとしていた。咲翔だって、帰してあげたがっていた。
ただ、桜のせいで帰れなかった。それだけだ。
桜が馬鹿なことさえ言わなければ、きっと母は帰ってくれていた。
そう、自分に言い聞かせ、潤む目元を乱暴に拭った。
そして何でもないようにニコニコしながらダイニングに向かうと、二人は何事もないように待っていてくれた。
父の隣に腰を下ろし、ともに正面に座る咲翔に視線を向けた。
「じゃあ咲翔くん、続き、聞かせてくれるかい?」
桜は、我知らず手のひらに汗が浮かんだ。
咄嗟に、気付いてしまった。父の言う『続き』とは、咲翔の話してくれた日の『次の日』とは、いつなのか。
咲翔も、同じ事を思ったのか、ぐっと息を詰まらせていた。小さく、深呼吸をしている。
覚悟を決めた、という様子で、咲翔は語りだす。
「あの日は……おばちゃんは、すごく楽しみにしていたことがあったんです……」
◇◇◇
「見て見て、えみくん。予約しちゃった」
朝食の席で、おばちゃんがスマートフォンの画面をぐいぐい見せてきた。昨夜、行きたいと言っていた芦ノ湖のクルージングだ。
その表情は、船に乗れるという期待に満ちている。昨夜の夕飯の時に見た沈んだ面持ちは、少しも見えない。
(楽しみなんはホンマやろうけど……あっちはあっちで、大丈夫かな……)
昨夜零した娘さんの怒りの一言について、咲翔はまだ気にかかっている。おばちゃんだって本当は気になって仕方ないだろう。だが、気にしても何も変わらないのもまた事実。だからおばちゃんは、他のことに意識を向けている風に振る舞っているのだろう。
(それなら、全力で楽しめるようにしてあげな……)
そう、決意した。
「あ、そうや。昨日作ったあれ、まだ手元にあるんですよね?」
「あれ? ああ、体験で作った?」
昨日は美術館巡りをして、その中で工房も体験した。おばちゃんは娘さんにプレゼントしようと、桜模様の磨りガラスのグラスを作っていた。からくり箱の方は……残念な結果に終わったので、ない。
「僕、今朝のうちに家に送ろうと思ってるんですけど、おばちゃんも送っときませんか? 壊れたらいやですし」
「そうだねぇ。じゃあ、そうしようか」
朝食を満足するまで食べた後、咲翔とおばちゃんは部屋に戻った。いつもは身支度をして、荷物を取ってくるだけだが、今日は違う。
手にはカバンと、昨日の体験工房で作った品がある。あの黒に月が上るグラスと、どうにか組みあげた、からくり箱だ。あとミュージアムショップで買った
(とりあえず、実家に送っとくか)
『仕方なく』ではなく『とりあえず』送り先を実家にと考えるようになったのは、大きな変化だと自覚していた。
それも、とても『良い変化』だ。
すべてはおばちゃんのおかげだとも、わかっている。そのおばちゃんは、自分がものすごい人助けをしただなんてまったく思っていない顔で、咲翔に手を振っている。その手には、ガラスの森美術館で作ったグラスの箱を抱えていた。
娘さんの名前の花を描いたグラスだ。あのグラスが、少しでも娘さんの気持ちを和らげることができればと願ってやまない。だけど、運命は想像の外へと向かうようだ。
「あ」
そんな声と共に、おばちゃんは姿を消した。正確には、足下につんのめって、おばちゃんがバランスを崩したのだ。踏ん張りがきかず、おばちゃんはそのまま床に倒れていった。と同時に――持っていたものが宙を舞った。おばちゃん作の、グラスだ。
しっかりと梱包されていたとはいえ、中身は繊細な割れ物。取り落としたらどうなるか、想像に易い。
咲翔が咄嗟に駆け寄ったことでおばちゃんの転倒は防げた。だが、グラスが入った箱は勢いよくポーンと飛び、咲翔の頭上の遙か上を舞って、落下した。そして、想像通りの音が響いた。
「お客様、お怪我は⁉」
ホテルのスタッフがそう言って駆けてくるまで、咲翔もおばちゃんも思わず硬直していた。硬直から解放されると、おばちゃんは弾かれたようにグラスの箱に駆け寄り、おそるおそる蓋を開けた。
「あぁ……」
おばちゃんは、そんな小さな、ため息とも区別のつかないような声を零すのだった。
咲翔もそっと覗き込むと、やはりグラスは箱の中で割れていた。無理もないこととはいえ、咲翔には、かける言葉もなかった。
その代わりに、様々な考えが脳内を巡った。昨日行った体験工房に今日、もう一度行くか。あの美術館のミュージアムショップで他のグラスを探すか。もしくは、また別の体験工房で娘さん用のお土産を制作するか……。どれを提案しようか迷っていると、おばちゃんがそろりと顔を上げた。
「うん、仕方ないね! 何か別のお土産探そう!」
けろっと、そう言ってのけた。咲翔が「え?」なんて聞き返す間もなく、おばちゃんは割れたグラスを箱ごとホテルのスタッフに差し出していた。
「本当にすみませんけど……処分してもらっても、いいですか?」
「よろしいのですか? どなたかへの贈り物だったんじゃ……?」
「割れちゃって、もうプレゼントできませんから」
ホテルのスタッフも困惑して、ちらりと咲翔に視線を向けてきた。どう答えたものか、迷っていると……
「ほら、えみくんの分、郵送処理しちゃおう! それが終わったら出発! 予約の時間もあるしさ~」
楽しそうな声だった。本心と同じかどうか、わからないが。
咲翔は咄嗟に、スタッフに後を頼み、フロントへ向かった。おばちゃんがあのように言う以上、今は次の目的地へ急がねばならないのだ。
******
箱根湯本のホテルを出て向かったのは、芦ノ湖北端にある桃源台港。おばちゃんに連れられるがまま、咲翔は港に停泊する船に乗り込んだ。
芦ノ湖を南北に行き交う、海賊船に。
「いやぁ、近くで見ると本当に『海賊船』だねぇ。フェリーなら乗ったことあるけど、海賊船に乗れるとは思わなかったよ」
おばちゃんはうきうきした様子で周囲をあれこれ見ている。気持ちはわかる。乗り込んだ遊覧船は、想像以上に豪華だった。
金色を基調とした船体が湖面の青と映える。船の作りについては詳しくはないが、映画などで見る帆船だった。ただ、四階構造になっており、五百名を超える人間を運べる仕様になっていた。
三階は展望デッキになっており、湖を悠々と渡っていく様を360°一望できる。
一階~二階までは船室となっており、上客一人一人がゆったりと腰を落ち着けられるソファ席が設けられている。少し金額が高い特別船室になると、ソファの仕様やデザイン、より広々とした空間と、グレードアップしている。
おばちゃんは当然のように、お高い方の特別船室を予約していた。何故なら、展望デッキから先の四階にある、特別展望台に上りたかったからだ。
「おおぉ! 良い眺め! えみくん、見て!」
「み、見えてます……」
特別船室から入れるデッキにある階段を上ると、特別展望台だ。四階というより、船のマストを囲むように設置されたバルコニーのようになっている。おばちゃんが感動するのも頷ける見事な景色が拝めるのだが……それはつまり、壁のない高い場所に身一つで晒されるということでもある。
咲翔は、先ほどから足がガクガク震えるのを必死に耐えていた。
「あ、ごめん。展望っていっても、いつもより低いからうっかりしてた。怖い?」
「怖いです……!」
これまで上った展望台というのが八階だの地上86メートルだのというレベルだったので、比較して高くないと感じるのは致し方ない。だが、それでもこの展望台だって四階建ての最上階。低いわけがない。まして航行中なのだから風も吹き付ける。
(落ちたらどうしよう……!)
そう考えてしまうこともまた、致し方ない。
咲翔の必死の訴えに、おばちゃんは展望台から下りてくれた。デッキにいるのも怖いが、そこまでワガママも言えないので、どうにか堪えている。
「ごめんごめん。大阪の水上バスではずっと中にいたじゃない? デッキに出られるって気持ちよくてさ」
「それは……そうでしょうけど」
三階デッキに戻って椅子に座り、ようやく震えが収まった。それでもまだ、周囲を見回すのは怖いが。
するとおばちゃんがおもむろに咲翔の隣に腰を下ろした。そして、ぽつりと呟いた。
「えみくん、朝はごめんね」
「……え?」
急に、しおらしい声になった。なんだか不気味にすら思える。
「ほら、グラス割っちゃって……私、目に見えて沈んじゃったでしょ。あの時、相当気を遣わせちゃったよね。本当に、ごめん」
そう行って、おばちゃんは深く頭を下げた。まさかこんな場所で謝られるとは思ってもみなかった。
「そ、そんな……僕に謝ることなんか何もないでしょう。あのグラスは残念でしたけど……」
「そうだねぇ……せっかく桜にいいお土産ができたと思ったのになぁ。まぁ仕方ないよ。別のお土産屋さんで、似たようなの探すよ」
努めて明るく、おばちゃんは言う。その笑みが、咲翔には痛々しく見えるのだった。
「娘さん……週末に試合あるんですよね?」
「うん、そう言ってた」
「それやったら、必勝のお守りとか祈願しましょう。お守り買って、急いで郵送したら明日とかに届いて、試合の日に間に合うかもしれませんよ」
「……それで許してくれるかな?」
おばちゃんの目に不安が浮かんでいる。いつもとはまったく違う目をしている。
今は、咲翔が強くならないといけない時だ。唐突に、そう悟った。
今まで弱っていた咲翔を力づけてくれたのは、他の誰でもない、おばちゃんだ。だから今、こんな風にいつもの元気をなくしているおばちゃんを力づけるのは、咲翔の役目だ。咲翔しか、いない。
咲翔は、ぐっと拳を握りしめて、強く言い放った。
「許す許さないは娘さんが決めることです。おばちゃんがやるのは、思いやりとか、心配とか、そういった気持ちを行動に移すことやないですか?」
「行動……」
おばちゃんは、噛みしめるように言う。その言葉の先にある言葉まで、手を伸ばしているようだ。
「そうだね。船から下りた先で神社にお参りに行こうか」
「ここなんか、どうです?」
咲翔はスマートフォンを素早く操作して、目的の神社のホームページを開いた。それを見たおばちゃんは、驚きながらも笑っていた。
「なんか……えみくんに先越されてるなぁ。私が考えなきゃいけないのに」
「ええやないですか、たまには」
「そうだね。エスコートありがとう。じゃあ港に着いたら、下りて参拝に行こうか」
******
海賊船は、桃源台港を出て航行することおよそ二十五分。芦ノ湖を縦断して、南にある箱根町港へ、次いで南西にある元箱根港に到着した。昨日訪れたからくり美術館の近くだ。
目指すは、そこから徒歩二十分ほど。芦ノ湖の周囲を左手にぐるりと回って、到着した。
船上から見る景色とはまた違う芦ノ湖が、眼前に広がる。今は船に乗った時よりも日が高い。陽光が湖面に跳ね返って、キラキラ輝いている。
「場所が違うと趣も違うもんだねぇ」
「ホンマに、そうですね」
港から続いてきた道を歩くと、大きな鳥居が建っていた。そこをくぐると、大きな杉の林が続いている。京都の竹林でも感じたが、木々が陽光を遮ってくれる道というのは、熱さを忘れさせてくれるだけでなく、どことなく爽やかな空気に包まれて心地いい。
この外とは違う涼やかな空間が、御祭神に守られた神聖さを感じさせる。
杉林の途中には様々な末社や施設がある。長い歴史の中で親しまれてきたのがよくわかる。
「あ、右の方に行ったら武道場があるんだって。へぇ~居合の試合もやってるんだ」
「居合はあんまり見たことないですね。気にはなりますけど……娘さん、居合は興味ないんですか?」
「う~ん、今は剣道に集中してるみたい。でもいずれ、やりたくなるかもね」
そうなったら強いだろうなぁ、とおばちゃんは娘さんの姿を想像している。その目元をゆるゆるに緩んでいる。
武道場を通り過ぎると、咲翔たちの前を横断するように、大きな階段が通っていた。左手には芦ノ湖の湖上に大きな鳥居が建つ。
「あれが平和の鳥居ね」
観光案内を見ると、建立されたのは昭和27年らしい。その後、東京オリンピック開催と御鎮座1200年に際して「平和」の扁額が掲げられ、それ以来『平和の鳥居』と呼ばれるようになったのだとか。
「てことは、この神社……1200年前からあるの⁉……って、何時代?」
「えーと……天平時代ですかね。平安時代には征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷征討の際に参詣して表矢を奉献した……って本に書いてます」
「天平……平安……想像もつかないわぁ。あ、でも蝦夷征伐の時に奉献したってことは……武道に関してなにかしら御利益があるのかな?」
「ある……んちゃいます?」
正直、よく考えずに誘ったのだった。境内でこんなことを話した末にお参りしたら、罰当たりだろうかと、咲翔はちょっとビクビクしていた。
だが、咲翔の怯えなど、おばちゃんの勢いの前には意味を成さなかった。
「よし行こう、えみくん。早くお参りして、お守り買わないと!」
おばちゃんはそう言うと、平和の鳥居に背を向けて、石段をぐんぐん登り始めた。九十段はあると聞くが、ものともせずに走っていく。
(大丈夫かな……)
そう思ったが、杞憂だった。むしろ、息切れして心配されたのは咲翔の方だった……。
息も絶え絶えではあるが、咲翔は、感嘆の声を漏らした。
大きな鳥居を境に階段は終わる。その向こうには、長い参道が続き、遠くに狛犬が鎮座しているのが見える。その奥には、真っ赤な門構えの拝殿が見える。
朱塗りで、古風な佇まいであり、遠くにあるので小さく見えるというのに、今感じるのは、荘厳な空気だった。鹿児島の、霧島神宮で感じた圧倒されるような存在感だ。
(神様が、いてはる……!)
そう、思ったのだった。理由も根拠もないが、強く感じたのだ。
咲翔が息を呑むと、となりにいたおばちゃんは……
「わぁぁ、大きいねぇ! 霧島神宮とか瑞鳳殿と、どっちが大きいかな?」
「……比べるのは罰当たりやと思いますよ」
神社にお参りに来ているというのに、神も仏もあったもんじゃない発言だ。なんとなく、神様に聞かれていないか心配になってしまった。いや、筒抜けだろうが。
咲翔は、はしゃぐおばちゃんを参道の端に連れて行って進んだ。看板に書かれている通りに参拝して、再び狛犬の元に戻ってくる。
次は、お札所に行く。いわゆる御守りなどの授与所だ。
「御守り、色々ありますね。どれが一番、今の状況に合うか、ですかね」
「ちょっと待ってね。旦那さんにね、どれがいいか相談してたの。返事が来てるから……あれ?」
うきうきしていたおばちゃんは、ぴたりと動きを止めた。どうしたのか、咲翔はその顔を覗き込んだ。
「……桜、試合、出ないんだって」
「え、そうなんですか?」
おばちゃんは機械のように頷く。
「三週間くらい前……試合の前に怪我しちゃって、前の試合は出られなかったんだって。週末の試合も、まだ本調子じゃないから外されたって……だから、御守りとかは逆効果かもしれないって……」
項垂れるおばちゃんのもとに、一陣の風が吹いた。優しく慰めているようであり、おばちゃんの心情を露わにしたかのようでもある。
こういう時、なんと言えばいいか、咲翔はいまだにわからない。だが、必死に考えを巡らせた。自分の辞書に載ってないなら、誰かを参考にするしかない。
おばちゃんなら、どんな言葉をかけるだろうか。そう必死に考えた。
「け、怪我したのって三週間前なんですよね?」
「そうみたい。全然知らなかった……」
「それは、言わんようにしてたんとちゃいますか? 言うたら旅行を中断してまうと思ったんやないかと……」
「そんなの……どっちが大事かなんて……あ、ううん」
おばちゃんは、その先は言わなかった。旅を『そんなもの』と言ってしまえば、咲翔のことを軽視することになると思ったのだろう。
(そんなん、考えんでいいのに……)
おばちゃんは、おばちゃんの家族を一番に思えば良かった。それなのに、咲翔に時間を使ってくれた。それも、こんなにも長い間。
「あの……い、いいやないですか。御守りがあって悪いことなんて、ないでしょう」
「でも、今必勝祈願とか送られたら嫌かも……」
「別に次の試合のことやなくてもいいやないですか。引退するまでにまだ何回か試合はあるでしょうし……ほら、昇段審査とかも受けるでしょうし。それに『必勝』が気になるんやったら……こっちとか」
咲翔は、お札所の御守りの一覧を見て、咄嗟に、指さした。
「幸福御守……?」
それは寄木細工の木札の御守りだった。『寄喜御守』とも書かれており、服を招き寄せる御利益があるらしい。
「服を招くやったら、今後何が起こるにしても万能やないですか? 怪我しぃひんかもしれへんし、勝てるかもしれへんし」
「なるほど」
咲翔が必死にプレゼンをして見せると、おばちゃんはようやく興味を示したように、御守り一覧を覗き込んだ。
和合御守に干支御守、交通安全、学業成就、厄除けの印籠御守もある。様々な御守りをみているうちに、おばちゃんの目がまたキラキラし始めた。楽しくなってきたようだ。
良かったと、咲翔が思うと同時に、おばちゃんはこれ、と決めたようだ。手には、二つの御守りを持っている。
一つは咲翔が勧めた寄木細工の幸福御守。もう一つは、当初買い求めようとしていた必勝御守だ。
「それも、買うんですか?」
「うん、買う。えみくんの言う通り、まだ試合の機会はあるだろうしね。それに、これを足す」
「必勝の上に幸福もあったら、めちゃめちゃ強運な高校生になりますね」
「うーん、そうだなぁ……ちょっとだけ、意味合いが違うかな。この幸福御守は、お祈り」
「『お祈り』? って、どういう……?」
おばちゃんの、御守りを握る手のひらに力が籠もっていた。
「私、あの子の大変な時にまったく気付かずに自分のことばっかりやってたから……次は、私の分をあげようと思って」
「おばちゃんの分を? あげる?」
「私の分の幸運とか幸福とか、あげてもいいかなって……桜、大変だったけど、これから二人分の幸せがもらえるなら、なんとか取り戻せるかもしれないじゃない?」
そう言って浮かべた笑みは、咲翔が今までに見たどの笑顔よりも温かくて、柔らかくて、そして志を感じるものだった。
咲翔は、おばちゃんの娘さんには会ったことはない。それでも今、伝えたくなった。
君のお母さんは、心から 君のことを大事に思ってる。君が、誰よりも大切な存在なんだ――誰に憚ることなく、そう言える。
二つの御守りを買い求める後ろ姿を見て、そんな言葉が胸の奥からあふれ出た。同時に溢れそうになった涙は、おばちゃんが振り向くまでに拭っておいた。
(娘さん……ホンマに帰って来るなって思ってるんかなぁ?)
そんな疑問まで湧いた。
(だって……最高やん、こんなお母さん)
くるっと振り返ったおばちゃんは、満足げだった。刈りに成功して気を良くしたという感じの、いつものおばちゃんだ。
「大収穫! じゃあえみくん、他の神社も全部、お参りに行こう。で、美味しいもの食べに行こう!」
もしかしたら、このおばちゃんは咲翔の前だけのおばちゃんなのかもしれない。
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