【小説】あなたといた道、母が見た空 第七章 ③
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立ち直ったおばちゃんは、史上最高の勢いだったかもしれない。
「落ち込んでたらお腹すいちゃった」
……なんて言って境内から出ると、すぐさま昼食の店を探し、うな重を食べに一直線に向かったのだった。
鰻の蒲焼きと白焼きが市松模様を描いて載っているうな重は、見たことのないメニューだった。鰻で甘辛い、甘塩っぱいが交互に押し寄せてくる、初めての食感だったように思う。
おばちゃんと旅をしている間、食べたことのない美味しいものばかり食べた気がする。今後、普通の食生活に戻れるか、少し不安になる。
そこでお腹がはち切れるほど食べたというのに、おばちゃんはすぐに「行こう」と咲翔を引っ張って行く。
先ほど行った箱根神社と並んで『箱根三社』と称される神社にまで足を伸ばした。芦ノ湖畔に鎮座する九頭龍神社と、ロープウェイで駒ヶ岳山頂まで行くとそびえ立っている箱根元宮だ。
他にも、箱根神社の末社として祀られていた九頭龍神社新宮や、駒形神社、高根神社、曽我神社、恵比寿社、弁財天社、第六天神社、日吉神社……とにかく回れるだけ回って、拝メルだけ拝んだ。おばちゃん曰く――
「ここの神様全部にお参りしたら、ほんともう、今後どんな困ったことが起こってもなんでもカバーできるんじゃない?」
という、信心深いのか図々しいのかよくわからないことを言っていた。
箱根神社に誘ったのは咲翔だが、参拝を終える頃には「これで良かったのか」と思うようになっていた……。
行けるだけの参拝を総て終え、二人は再度港に戻って海賊船に乗っている。来た時と違って、すでに日が落ち始めている。
夕日に変わる前の、ほんの少し低い日差しに照らされて、芦ノ湖が再び輝く。宝石が散らばったような湖面を、咲翔たちが乗っている船を含めて何艘もの船が渡っていった。
「ホテルに帰ったら、この御守、郵送してもらうね」
「そうしましょう」
頑なな態度の娘さんだが、きっと、喜ぶんじゃないかと思う。その結果、帰ってきてもいいと言ってくれればいいのに。
そんな思いを肯定してくれるように、水面を吹く風が、さらりと咲翔の頬を撫でていった。
その時、なんとなく予感はしていた。きっとこの旅は、もうすぐ終わると。
おばちゃんも、そう感じていたんだろうか。それとも名物はすべて食べたと思ったんだろうか。夕食は、芦ノ湖を一望できるイタリアンレストランに行った。意外と、旅の道中、イタリアンは食べてこなかったかもしれない。なんだか盲点だった。
その土地その土地の名産を味わってきたからだろう。
箱根そのものの名産とは違うかもしれないが、夕暮れ時の芦ノ湖を眺めながら味わうイタリアンは、充分、箱根名物なんじゃないかと、咲翔は思った。
芦ノ湖が一面、茜空に染まる様を堪能して、店を出た。のんびり運転して帰ると、ホテルに着いたのは二十時を過ぎていた。
郵送の受付は何時までだったか。おばちゃんは慌ててフロントに確認した。すると……
「まだ受け付けておりますよ。発送は明日の朝になりますが、よろしいですか?」
「ああ、良かった……お願いします!」
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言って、伝票などを用意してくれる。
おばちゃんはほっと息をついていた。明日の朝一番に箱根発送なら、うまくいけば明日中に東京の家に着くかもしれない。
「旦那さんに伝えたら、受け取ってくれるんとちゃいますか?」
「あ、そうだね。入れ違いとか、ないかも」
そう言うと、おばちゃんはスマートフォンを取り出して、電話をかけようとした。が、その手が止まった。そのまま、画面を凝視している。
「おばちゃん?」
咲翔が尋ねても、おばちゃんは答えない。なにやら画面を操作しているようだが、何が映し出されているのか、わからない。
すると、おばちゃんがはっと息を呑んでいた。
「ど、どないしたんですか?」
たまらず尋ねた。何か良くない知らせだったのだろうかと、咲翔まで息を呑んだ。だが、おばちゃんは声を震わせて、首を横に振った。
「娘が……その……これ……」
言葉が、うまく紡げない様子だった。その代わりに、画面を見せてくれる。
先日も見た、メッセージアプリの画面だ。娘さんとおばちゃんの会話画面のようだ。そこに、新しいメッセージが増えている。
『試合、出るよ。炊き込みご飯のおにぎり作りたいから、レシピ教えて』
そう、届いていた。
「これって……」
咲翔がおばちゃんに視線を向けると、おばちゃんは無言で頷いた。何も言えないようだ。目元が、じんわりと滲んでいる。
「はよ、なんか返した方が……」
「そ、そうだね」
おばちゃんは急いで打ち込もうとした。だが、手がピタリと止まっている。
「なんて打てば、いいんだっけ?」
「えっと、この場合……聞かれてるレシピを教えてあげたらええんやないですか?」
「そ、そっか……どんなレシピだっけ?」
「僕に聞かれても……というか、なんで『炊き込みご飯のおにぎり』なんですか?」
「試合の時はいつも持っていくの。野菜もタンパク質も炭水化物も全部詰まってて、手早くパパッと食べられる割に腹持ちが良くて、美味しいから……だって」
おにぎり一つにそこまで筋を通すとは、なかなか理屈っぽい子のようだ。だがおばちゃんはクスクスわらっている。
「なんか理由つけてるけど、ようはなんとなく試合の時に食べたくなるってことよ。ほら、ジンクスみたいな?」
「ああ、なるほど」
「前の試合の時、作ってあげられなかったのが申し訳ないって思ってたけど……そっか、自分で作るか……成長したなぁ」
おばちゃんは、感慨深そうに画面を見つめている。
その横顔を見ていると、言わなければいけないと思った。
「おばちゃん、帰りましょう」
きょとんとして、おばちゃんは振り返る。だけど咲翔は続けた。
「帰って一緒に、その炊き込みご飯、作ってください」
「え、でも……自分で作るって……」
「今帰らんで、いつ帰るんですか。娘さんには、おばちゃんの助けがいるんですよ」
「助けってそんな……炊き込みご飯くらいで……」
「その炊き込みご飯が重要なんでしょ? だから気まずいのに連絡くれたんやないですか」
「でも、えみくんは……」
「僕は、もう大丈夫です」
きっぱりと、言い放った。まだ家に帰る決心がつかない言い訳に咲翔を使うのを、拒んだ。
おばちゃんは、帰らなければいけない。
そう、確信していた。
「もう、大丈夫なの?」
「はい。おばちゃんのおかげで」
咲翔のことを心配している。それも本当だったとは思う。だけど今は、その必要はもうない。おばちゃんは、おばちゃんの家族のことだけを考えてほしい。
そして、おばちゃんと家族を繋ぐ――咲翔の最後の仕事だと思っていた。今こそ、それを果たす時ではないか。
「帰りましょう、家に」
おばちゃんは、何かを言おうとして、ぐっと堪えた。何度も言葉を紡ごうとして、飲み込んで、それを繰り返した。
そして、何も言わずに頷いた。
「……では、郵送はキャンセルでよろしいですか?」
フロントのスタッフがおばちゃんと咲翔を交互に見て、確認を求めている。
咲翔とおばちゃんは、二人揃って頷き、答えた。
「はい。自分の手で渡すので」
フロントスタッフは、ニッコリ笑ってお辞儀をして、二人の部屋のキーを差し出した。
お辞儀をしてうけとると、二人はエレベーターへと向かう。
「……長いこと泊まらせてもらっちゃったねぇ」
「ホンマですねぇ。でも、明日で終わりですね」
「寂しいねぇ」
ポツリとおばちゃんが呟くと、エレベーターが開いた。他の客はおらず、エレベーターの中も二人だけだ。
「また来たらええんちゃいます? ほら、あのコップ壊れてしもたし、今度は娘さんも一緒に体験しに来るとか」
「いいねぇ。行ってない温泉も、あるしね……」
さっきから、えらくゆっくり話す。なんだか様子が気にかかった。
「おばちゃん、どうしたんですか?」
「あ~いやいや、何でもない。ちょっと頭痛がするだけ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。一日のうちにこんなに落ち込んだり喜んだりはしゃいだりしたから、疲れちゃった。寝たら治るよ」
「……ほんまに?」
おばちゃんは笑いながら頷いた。今日は本当に慌ただしかったから、致し方ないかもしれない。
「それより、終わりだって思うと心残りが色々出てくるねぇ」
「そうですね……大阪も、また来て下さいね。面白いところは他にもあるんで」
「うん。神戸の方も行ってみたいなぁ……」
「いいですね。仙台は……なんか僕のせいですみませんでした」
「いいよ。それこそ、また行こう。今度はグルメ中心とかさ」
「はい。その分、史跡巡りに付き合ってもらいます」
「もちろん、いいよ。北海道も……もっとたくさん回りたかったね。富良野とかさ」
「そうですね。北の方も行けてないですしね。あそこだけでひと月回れそうですね」
「ほんと……あとは……鹿児島も。観光スポットもグルメも、未体験のものがたくさんあったよねぇ」
「それで言うなら沖縄も。西の方、まだ行ってませんでしたね。首里城とかも」
「そうそう。あぁ……なんだ、色々回ったつもりでいたけど、まだまだ全然じゃない」
「行けてない県も、ぎょうさんありますよね。四国とか」
色々と挙げるとキリがない。二人で挙げた未踏破の地を聞きながら、おばちゃんは「そうだねぇ」と呟く。
「……まだまだ全然だけど、でもすっごく大収穫だったと思うよ、この旅」
「ホンマですか?」
それなら良かったと、言おうとしたその時だ。おばちゃんはいきなり背伸びして、咲翔の頭に手を置いた。そして……思いっきりわしゃわしゃっと頭を掻き回した。
「うわ! 何するんですか!」
「撫でてる」
「撫でてません!」
「いいからいいから。よーしよしよし! えみくん、本当にありがとうねぇ」
「何なんですか」
強引に戒めから逃れると、おばちゃんと目が合った。笑いながら、泣いていた。浮かんだ涙を拭おうともせず、咲翔の頭を撫で回していた。
「感激しちゃうじゃない。長いようで短い……ほんのひと月の間にさ、娘と息子、二人のすっごい成長を見られたんだよ。泣くに決まってるじゃない」
「息子って……」
疑問符を浮かべると、おばちゃんはただニッコリ笑った。どこか、照れくさそうなのは気のせいだろうか。いや、気のせいだと思いたくない。
だからといって、どう返せばいいのか、わからなかった。目を瞬かせて言葉を探していると、甲高い音が鳴った。咲翔の部屋の階に到着したのだ。
咲翔は、一瞬の躊躇の後、エレベーターを降りた。
振り返ると、おばちゃんが手を振ってくれている。さっきの言葉の返事は、明日の朝までに考えておこう。
そう思い、咲翔は手を振り返した。
「じゃあ、また明日ね」
「はい。朝、ロビーで」
咲翔の言葉の終わりと同時に、エレベーターは閉まった。
「……荷物、まとめとかんと」
明日の朝は、早いのだから。
……そう思っていたのだが……
時刻は、午前八時十五分。咲翔はいつも通り、ロビーにいた。
いつもこうしてロビーでおばちゃんと待ち合わせて、朝食に向かっていた。咲翔が先に来ることがほとんどだが、おばちゃんもいつもはもう少し早く来る。
たいてい、七時三十分には合流するし、遅くても八時には走ってくる。今日は、えらく遅い。
朝食はホテルのレストランで食べられる。終了時刻は九時三十分だからまだ余裕はある。だが、それにしたってのんびりしているものだ。
スマートフォンを取り出し、おばちゃんの番号にかけてみる。さっき一度かけたが、その時は出なかった。寝過ごしているのかと思ったが、もしや、と思う。
電話の向こうでは、呼び出し音が鳴り続ける。まだ寝ているんだろうか。
だがふと思い出す。昨夜の別れ際、急に具合が悪そうにしていた。まさかまだ不調が続いているんだろうか。電話に出ることすらできないくらい、悪いのでは。
そこまで考えると、今度は別のことを思い出した。
大阪を発つ日、おばちゃんは咲翔に何も告げずにチェックアウトしていた。
(まさかまた……⁉)
そう思って、咲翔はフロントに向かった。だが、フロントスタッフの答えは簡潔だった。
「いいえ、梶様はチェックアウトはされておりません」
ということは、まだ部屋にいるんだろうか?
胸の奥が、ざわついた。
ロビーにはまだ来ていない。咲翔はとって返してエレベーターに乗った。おばちゃんの部屋の前まで行き、ブザーを鳴らす。
ドアの向こうから、ピンポーン、と音が聞こえる。呼び出し音は聞こえるのに、他の音は聞こえない。
「……え?」
もう一度、鳴らしてみる。まだ反応がない。もう一度、鳴らす。声も音も、何も聞こえない。もう一度、もう一度、もう一度……何度も呼び出しブザーを鳴らした。きっと相当うるさいはずだ。初日におばちゃんが咲翔の部屋で鳴らした音よりも激しく鳴らしたのだから。
うるさいはずなのに、なぜ、何も言わないのか。
心臓がぎゅっと鷲づかみにされたように、痛んだ。
ブザーに反応しないなら……咲翔はドアを、ドンと叩いた。遠慮がちな音が響く。そんな音で聞こえるはずがない。もう一度強く叩く。もう一度、今度は更に強く。
「なんで……なんで?」
ドアを叩く音と共に、何かがドクドクと鳴る。それが心臓の音だと気付くのに、時間がかかった。
まさか――そんなこと、考えたくもなかった。
「おばちゃん……おばちゃん! いるんやろ! 返事して!」
他の部屋の人に迷惑だとか、そんなことを考える余裕なんてなかった。ドア一枚隔てた向こうにいる人が、出てこない。これほど不安なことがあるだろうか。
叩き破らんばかりの力でドアを叩いていると、ホテルのスタッフが寄ってきた。
「どうなさいました? 何か問題が?」
問題? そうだ、問題だ。何か問題が起こっている。
咲翔はスタッフを凝視した。
「おばちゃん……この部屋の人が、起きてこないんです。全然、反応もなくて……そうや、鍵……鍵開けて下さい!」
「……ご関係は?」
「一緒に泊まってる多岐川です。あ、部屋は別ですけど、同行者です。友人です!」
それで通じるかどうかはわからなかったが、咲翔の気迫にただならぬ事態であると察したのだろう。スタッフは「少々お待ちください」と言って駆け出した。
もし通じなかったらなんと言えば開けてくれるだろうか。友人で、家族だ。大事な『家族』だ。
(頼むから、誰か……誰か、助けてくれ……‼)
祈りが届いたのか、廊下に足音が響いた。先ほどのスタッフと、もう一人のスタッフが走ってくる。
「多岐川様ですね。開錠します!」
スタッフがロックを外した。同時に、咲翔は乱暴にドアを開けて中に入る。侵入者と思われてもいい。
ドアをくぐると、奥にベッドが見える。駆け込むと、すぐにその姿は見えた。
「おばちゃん!」
驚くほどの大声を上げたというのに、その人は、ぴくりとも動かない。
昨日別れたときと同じ服装のまま、ベッドに座ったのだろう。そのまま腕を投げ出して、横になって倒れていた。おばちゃんは――。
「おばちゃん……?」
倒れている顔を覗き込むと、目も口も、虚ろに開かれたままだった。ついさっきまで誰かと話していたかのようだ。
そうだ、頭痛がすると言っていた。部屋に着いて、旦那さんか娘さんか、誰かと電話でもして、そのまま疲れて寝てしまったんだろう。寝坊しているだけだ。
そう思い、肩を揺する。
「おばちゃん、朝やで……え?」
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
冷たい。
この冷たい感触を、咲翔は知っている。二度と知りたくなかった、あの感触だ。
「き、救急車……呼んでください」
遅れて入ってきたスタッフに、そう告げる。二人のスタッフは、頷いて部屋を飛び出していった。
だけど、咲翔はわかっていた。わかりたくないけれど、わかっていた。すぐに、警察を呼ぶことになるだろうことが。
こんな時に、いやに冷静になっている自分が憎らしい。
だけど、そうするほかない。今は咲翔が冷静にならなければいけない。だって、おばちゃんはもう、自分の力では家族の元ヘは帰れないのだから。
咲翔しか、いない。
「おばちゃん……ごめん……ごめんなさい……!」
咲翔の最後の役目は、変わってしまった。だけど、最後までやり遂げなければ。
そう思い、咲翔はおばちゃんの手を握った。昨日、乱暴に頭を掻き回した手を。何度も自分を引っ張ってくれた手を。背中を押してくれた手を。
あんなに力強くて温かかった手のひらが、今はなんて、冷たいのだろう。
◇◇◇
「それからは、ご存じの通りです。警察も来て事情聴取受けて、おばちゃんを病院へ運んで……お二人を待ってました」
「……そうか」
桜は、何も言えなかった。咲翔の心中も、覚悟も、知ってしまった今、桜が言えること何て、何も無い。そして父も、俯き加減のまま、何も言おうとしなかった。
だけど咲翔は俯いたまま、肩を震わせていた。泣いているのかと思ったが、そんな声音じゃない。何かに、怯えているのだろうか。
そう思った瞬間、咲翔は立ち上がり、そして床に手をついた。土下座して、床に頭をこすりつけている。
「本当に、申し訳ございませんでした……!」
桜はぎょっとして立ち上がった。
「ちょ、多岐川さん……やめてください!」
起こそうとするものの、びくともしない。
「いいえ、僕はもっと早く、こうしないといけなかったんです。おばちゃんが帰れなかったのは、僕のせいです。僕のせいで、あなた方は大事なご家族を……!」
「なんで今の話で多岐川さんのせいになるの? あんなの……仕方ないじゃん……」
「そんなことはありません。おばちゃんの具合が良くなかったのはわかってたんです。あの時に夜間診療でも勧めていたら、何か違ってたかもしれません。それ以前に、大阪を発つときに無理にでも家に帰るように勧めていれば……そうすれば……」
咲翔の声が、消え入るようにか細くなっていく。同時に、拳を握りしめる力が強くなっていく。
桜は今、ようやくわかった。出会ってからずっと、咲翔の中に潜んでいたものが何だったのか。彼の内側はぽっかりと穴が空いているように感じていた。だけど違った。
桜には想像もできないような、重い、重い、罪悪感と後悔。それらがずっと咲翔の胸を占めて、他の感情を抱く余裕がなかったのだ。
そして彼はずっと、それを表に出したくてたまらなかった。同時に、表に出すことを恐れていた。その相反する思いに苦しんでいた。
これが、人の死を見届けるということなのだ。
咲翔はそれを、桜たちの分まで背負ってくれていたのだと、わかった。
そして父は、咲翔の背負うものを理解していたからこそ、何も言わず、笑顔で受け入れていたのだ。
(私ひとり、なんで子どもなんだろう……)
苦い気持ちが、桜の胸の内に広がっていく。
同時に、父もまた苦いような、痛みを堪えているような、そんな面持ちだった。父はそんな表情のまま立ち上がり、咲翔の前に立った。
「まずは、言わなければいけないことがある。もっと早く、言うべきだった」
「……はい」
咲翔は覚悟を決めたような、短い声で答えた。そんな咲翔に、父はぽんと肩を叩いて告げた。
「うちの奥さんのことを看取ってくれて、ありがとう。そしてその瞬間を、君一人に立ち会わせてしまって申し訳ない」
「……え?」
咲翔がおそるおそる顔を上げた。その顔を、父は柔らかく見つめる。
「……怖かったろう」
「……いえ、そんな……」
「いいんだ。目の前で大事な人が冷たくなっていて、怖くない方がおかしい。そうだろう?」
父にまっすぐに問われて、咲翔は小さく頷いた。
「……怖かったです。昨日まで普通に話していた人が動かないなんて……何度見ても「信じられません。息が……できなくなりました」
「うん。でも、こうして僕と桜のために必死に耐えてくれた。本当に、ありがとう」
父は、咲翔の前に膝をついて、頭を下げた。その様子に、咲翔は慌てて起き上がる。だけどやめてくださいとも言いづらいようで、あたふたしていた。
すると、父は急に頭を上げて、まっすぐに咲翔を見つめた。いや、睨んだという方が正しいような、鋭い視線だった。
「だけどね、咲翔くん。そんな君だからこそ、間違えないでほしい」
「ま、間違え……何を、ですか?」
「君は、うちの奥さんの気持ちを理解してくれたんじゃないのか? 彼女は、君のことを何と言っていた?」
咲翔は父の視線を受け止めきれずにいた。ろうろと視線を彷徨わせていると、桜と目が合った。それも苦しいようで、また咲翔は俯いて、ぽつりと短く答える。
「その……『息子』って……」
「そう。うちの人にとってはね、君は最初から『息子』だった……『家族』だったんだよ」
「僕には、そんな資格は……」
「家族に資格なんているものか。それにね、君が亡くなる前夜のことに注意を払えなかったのが原因だったというなら、最も責められるべきは僕なんだよ」
「え?」
咲翔に加えて、桜も驚きを隠せなかった。
父は咲翔に、椅子に戻るよう言って、席に着いた。再び三人がテーブルに着くと、父は深い息を吐き出して、語った。
「あの日……お母さんが亡くなる前の日、お母さんと電話で話したんだよ」
「そうなの?」
父は頷く。
「それ自体は珍しくない。お母さんが旅行に行ってからほぼ毎日、電話でその日のことを話していたから。あの日のお母さんは、それはもう嬉しそうだった……桜に炊き込みご飯の作り方を教えてあげるんだって言ってね。一ヶ月もほったらかしにした分、うんと構うんだって、言ってたよ」
母らしい言葉だと思った。いつまでも子ども扱いで、それを面倒に思ったこともあった。だけど結局は、その子ども扱いに甘んじている自分もいた。
「……頭が痛いと言うから、早く寝るように言ったんだ。寝れば治るなんて甘く考えていた。僕こそ、病院を勧めていれば良かった。そうすれば間に合ったかもしれない。こんなに……桜も咲翔くんも傷つくようなことはなかったかもしれない……本当に、申し訳ない」
父は再び、深く頭を下げた。咲翔は、ただただ恐縮するばかりだった。先ほどと、完全に逆転してしまっている。
すると、父がくるんと顔を上げた。
「……こんな話を聞いて、君は僕を責めるかい?」
「……あ……」
父がニタッと笑うと、咲翔は急にもじもじし始めた。
「責めないでいてくれるんだろう? だから僕も、君を責めない。桜は?」
父が桜に視線を向ける。桜がしっかりと頷くと、父は満足そうに微笑んだ。
「ほらね。だから、さっきみたいなことは、なしにしよう。家族は家族に土下座なんてさせない。そういうものだ」
「……はい」
呟くように答える咲翔は、なんだか縮こまっているように見えた。同時に、窺うように、父に視線を向ける。
「あの……おじさんも、『家族』って呼んでくださるんですか?」
咲翔に問われて父は即答するかと思いきや、首を捻って苦笑いした。
「実は……ほんの少しだけ、君を恨んでしまいそうになった。警察から連絡を受けて、箱根に向かう道中のことだよ」
父の視線が、テーブルに落ちていく。
「帰って来ると聞いていたのに、あんなことになって……動揺していたとはいえ、一緒にいた人間に悪意をぶつけそうになった。そうしないと、自分を保てる気がしなかった。そう、思ってしまっていたんだ。だけどね……」
暗く沈んでいた瞳が、咲翔の方を向いた。そこにはもう、影はなかった。
「病院で君と会った時、わかったんだよ。ああ、この子が……うちの奥さんがどうしても助けたかった子なんだって。見ておかないと、遠くに行ってしまいそうだって言っていた、あの子なんだってね」
咲翔はなんだか困惑しているようだ。否定してもいいのか、というところか。それすらも察したように、父は笑う。
「ごめんね。でも僕も正直、同意見だった。だから……僕たちのそばにいてもらった」
だから、だった。父が強引に咲翔を引き留め、母の話をするようにせがんでいたのは。新雪にする割に随分と強引だと思っていたが……
(それで続きは来週って言って、引き延ばしてたんだ……)
変なアラビアンナイトのようだと思っていたが、ようやく合点がいった。
「本当に、ごめんね。家族とのことはもう大丈夫とは聞いていたけど、うちの人のことで、また傷つけてしまっただろう? また元の木阿弥になったりしていないか心配で……とはいえ、ごめんね。引き留めるのが下手くそで……本当に」
力なく笑う父に、今度は咲翔がまっすぐな視線を向けた。
「いえ、ありがたいです。おじさんが僕を恨みに思うのは、本当なら当然なのに……僕から恨みに思う事なんて、あるはずがないです」
「そう……じゃあ、いいかな。僕も『家族』と思っても?」
咲翔は、しっかりと、深く頷いて見せた。だが、その視線が桜の方を向いたとき、その表情がほんの少し歪んだ。悲しそうに、困ったように。
桜は、そうさせたのは自分だと気付いていた。きっと、自分の方が複雑に歪んだ面持ちをしていたのだと思う。
さっきからずっと、頭の中をぐるぐる巡る思いが存在していた。
父と咲翔のわだかまりのようなものが少しでも解消できたなら良かった。だけど、桜の方にはまだ一つある。それが咲翔と関わりがあるかもしれないと、思ってしまった。
咲翔は何かを問いたげに、桜の方を見つめている。
わかっている。尋ねれば、この人は答えてくれるだろう。だからこそ、戸惑う。
尋ねれば、この人は傷ついたりしないだろうか。言いたくないことを言わせてしまうことにならないだろうか。
逡巡したが、尋ねることにした。桜はもう、咲翔に疑念を持っていたくないのだ。
「これ……」
桜は、咲翔に向けて自分のスマートフォンを見せた。母とのやりとりが表示されている。当然、あの夜、母が咲翔に見せたメッセージも。そして、その後……葉はらしからぬ短い、最期のメッセージも。
そのメッセージを見た瞬間、咲翔は痛ましそうに眉を動かした。
(ああ、やっぱり)
そう思った。
思ってしまったらもう、聞かずにいられなかった。
「この最期のメッセージ、お母さんが送ったんじゃないですよね」
咲翔は、静かに頷いた。
頷けるのは、一人しかいない。本当にこのメッセージを送信した者だけ。
「どうして……って、聞いてもいいですか?」
咲翔はぎゅっと肩を縮こませて、深呼吸して、そして語り出した。
「あの時、ホテルの人らが救急車を呼びに行ってすぐ、ベッドの足下に落ちてたのを見つけてん。メッセージは打ち込んであるのに、未送信やった。おばちゃんは、間に合わんかったんやって、わかった。だから僕が代わりに……」
「そう、なんだ」
「お母さんからやなくて、ホンマにごめん」
咲翔は神妙な面持ちで、頭を下げた。その姿に罪悪感を覚えながらも、桜は質問を重ねた。
「なんで、送ろうと思ったの? あれくらい……放っといたって良かったじゃん」
「それはあかんよ!」
咲翔が勢いよく顔を上げる。驚く桜を見てもなお、引き下がる様子はない。
「僕は……僕は、おばちゃんとご家族を繋げるって決めたんや。だから……」
だから、繋いでくれた。
母が届けられなかった最期のメッセージを、遠く離れた家族の……桜の元ヘと、繋いでくれた。
「そっか、これちゃんとお母さんのメッセージだったんだ」
そんな小さな呟きにも、咲翔は全力で頷いてくれる。
桜は、そっと画面を撫ぜた。
「ありがとう……ございます」
それしか言えなかった。声が詰まってしまって、他の言葉が出てこなかった。一言だけじゃ、足りないのに。
そう思った時、こみ上げてきたものをぐっと飲み込んで、桜は立ち上がった。
「ご飯、つくる」
父も咲翔も、何も言わず見送ってくれた。
助かった。今、複雑なことを聞かれたら返事が出来ない。
ちょうど炊飯器が炊き上がりを知らせたというのもある。蓋を開けると、醤油やみりんの香りのする湯気が溢れてきた。肝心のご飯は……良い色だ。
さきほど準備した野菜も魚も、一緒に炊き込んでいたのだ。ご飯の上に乗っている状態のそれらを、しゃもじで豪快に混ぜ返していく。
底に沈んでいた香りまでが浮き上がったように、香ばしい香りへと変わっていく。
「炊き込みご飯……できた!」
桜は次に戸棚から大皿と三角形のケースを取り出す。手にはビニール手袋をはめて、しゃもじを手に炊き込みご飯をすくいだす。
それを三角形のケースに入れて、ぎゅっと押し込む。ある程度固まったら、型から取りだして、最後に手でもう一度ぎゅっとにぎって固める。
炊き込みご飯のおにぎりの、完成だ。
いつもなら一つか二つ作る程度だが、今は炊飯器にあるだけ全部、おにぎりに変えた。大人数用の大皿がおにぎりで埋まっていく。
香りに気付いたのか、父と咲翔の視線も、こちらに向いていた。なんだか気恥ずかしいので、手早くにぎって、大皿をダイニングへと運ぶ。
どーんとテーブルに置くと、咲翔が目を瞬かせているのがわかった。
「炊き込みご飯のおにぎり……です!」
「ああ……これ……」
咲翔の視線が、おにぎりに降り注がれる。神々しいものをみるような視線に、なんだかいたたまれなくなってきた。
ご飯を作ると言っておいて、これしか作っていない。さっきの話を聞いていたら、作る者はこれ以外にないと思ってしまった。
桜がどうぞ、と勧めると、父も咲翔も一つ手に取り、「いただきます」と言って頬張った。
「美味しい!」
「うん、桜、また上手になったね」
二人とも、手放しに褒めてくれて、桜は安心した。
安心して席に着き、自分も一つ手に取る。ぱくっと口に入れると、出汁と醤油の沁み込んだご飯のうま味が、口いっぱいに広がった。
美味しい。だけど……と、思ってしまう。
「美味しいけど……お母さんの炊き込みご飯とは、ちょっと違うね」
そう呟くと、父がこちらを向いた。咲翔も、はっとしているのが見えた。
「……本当は、わがまま言って一番振り回してるのは私だって、わかってた。小さい子みたいに駄々こねて、バカみたいだって……」
また一口、頬張る。また感じてしまう。あの味と違うと。
自分の味と、記憶に残る味が、口の中で妙な混ざり方をしていく。
「お母さんに、好きなようにさせてあげようってお父さんと約束したのに……楽しませてあげようって。でも、いつまで経っても帰って来なくて、イライラしてた。私は怪我して大変なのにって、言ってもしょうがないこと考えて余計にもやもやして……あんなこと、言っちゃった」
今思えば、軽い嫌味を言っただけのつもりだった。母もそれほど気にしないだろうと思っていた。「ごめん」の一言で軽く取り払える程度のわだかまりだろうと、そう考えていた。
いつだって、傷つく人間は傷つける側の何倍も真剣に受け止めて、苦しむというのに。それを知った今、ようやく自分が酷いことを言ってしまったとわかった。
「あんなこと言ったのに、私、まだ簡単に考えてた。レシピ教えて、なんて気軽に言って……ああ言えば、もしかしたら帰ってきてくれるんじゃないかって、甘えたこと考えてた」
あっという間に、一つ食べ終えてしまった。桜はもう一つ、かぶりついた。それもやっぱり、食べたかった味とは違う。
「えーと……確かにお母さんの味とは違うけど、それはこれ……入ってる魚も違うからじゃないかい?」
父は、おにぎりに入っている魚のほぐし身を指して言った。咲翔も、それに反応してもう一口食べていた。
「ああ、確かに。この魚、美味しいですね。何の魚です?」
「……鯛」
「それはまた、豪華な……」
「鯛の干物……箱根の」
それを聞いた咲翔が、目を見開いた。覚えが、あるのだろう。
「お母さんが送ってくれたものです」
帰ってきたら、びっくりするだろうと思っていた。桜を料理下手だと思っている母が、この炊き込みご飯のアイデアを聞いたら、きっと驚く。そして、母の作り方に鯛を足して、いつもの炊き込みご飯おにぎりをグレードアップさせて試合に臨めたら、すごく良い成果が出るんじゃないか……そんな都合のいい未来を想像していた。
「でも……もう、食べられない」
この炊き込みご飯が、母の味に変わることは、もうないのだ。だって……
「お母さん……もう、いない……」
言ってしまった。誰よりも自分の口から出てほしくなかった言葉が、出てしまった。そうなったら、もう声も涙も、止まらなかった。
「いないよぉ……お母さん……!」
おにぎりに、ぽたっと涙が落ちた。ああ、しょっぱくなってしまう。そう思うのに、とめどなく溢れてくる。
全身が震えて仕方がない。すると隣から、父がそっと背中をさすってくれる。だけどそんな父の目元も、じわりと滲んでいた。
「そう、だね……お父さんも、もうお母さんに会えないね。寂しいね……」
そう言って、目尻をそっと拭って、一口かじった。
向かいに座っている咲翔も、じっと手元を見て呟いた。
「……僕も、まだ行けてなかったところに行こうって言ってたのに、もう……できません」
そう言って、大きな口でかぶりついた。咲翔の目も、うっすら赤くなっている。
あの味と違うとわかっていても、二人は食べてくれる。桜も、食べるほかない。
「お母さんのご飯、食べたかった……それと、私が作ったの、食べてもらいたかった……!」
叫んで、大きな口でぺろりとまるごと頬張った。口の中で咀嚼しながら次の一つに手を伸ばす。すると、別の手とぶつかった。咲翔の手だ。
「僕は、これが食べたいです」
「僕も、これ好きだよ」
そう言って、父ももう一つ手にした。
二人とも一口で飲み込む勢いだ。
「お母さんの分まで、皆で食べよう」
父の言葉に、咲翔が頷く。
「おばちゃん……きっと羨ましそうにしてますよ。それで、たぶん……この部屋のどこかにいて、一緒に食べたいて言うてます」
「……一緒に、食べられるかな?」
桜がそう問うと、咲翔も父も、頷いた。
二人がそう言うなら、そうかもしれない。桜はティッシュペーパーの箱をテーブルの真ん中に置いて、おにぎりをもう一つ手にした。
食べていると、涙が溢れてくる。それをティッシュで拭いながら、パクパク食べる。
三人で、それを繰り返していた。
おにぎりが大皿からすべて消えるまで、それほど時間はかからなかった。
そして、食べている間聞こえていたのは、三人分の鼻をすするような音と、三人分の「美味しい」の声……それだけだった。
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