【小説】あなたといた道、母が見た空 第六章 ③
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車は、軽快に進んでいく。流れるように走り、静かに動きを止める。その繰り返し。いつの間にか車は大阪を出て、奈良県境を越えていた。
スムーズな旅に、助手席に座っていた母がため息をこぼしていた。
「あんた……運転うまいなぁ」
「……どうも」
どう答えていいかわからず、ついぶっきらぼうになってしまった。何かフォローをした方がいいかと思った矢先、補うようにおばちゃんが言った。
「でしょう? ほんと、頼りになりますよね」
バックミラーに映るおばちゃんは、いつも以上にニコニコしていた。不自然なくらいだ。
そんなおばちゃんに、母はたじろぎながら愛想笑いを返している。
「まぁ、そうは言うてもねぇ……長いこと旅行してたら、色々あったでしょう。うちの子、ご迷惑おかけしてませんでした?」
「とんでもない! むしろ私の方が息子さんにご迷惑ばっかりかけてましたよ。ねぇ?」
おばちゃんがくるっと咲翔をみる。答えは決まっているだろうという目だ。
「え、いや、う~ん……」
迷惑ではないが、困らされたことはよくある。返答に困っていると、おばちゃんがけたけた笑った。
「やだなぁ、もう! うそでも『そんなことないです』って言ってよ~」
「ほんま……気のきかん子ですみません」
母が、肩をすぼませて言う。すんと、静寂が降りた。
おばちゃんは、黙って母を見つめている。
「……冗談ですよ。咲翔くん、本当にすごくいい子でしたよ。いつも先回りして色々考えてくれて、助けられてばかりでした」
有無を言わさぬ声音で、おばちゃんは言う。母は、黙って愛想笑いを返していた。
バックミラーを介して交わされる視線は、冷たく、同時に熱い。そこに込められた感情の正体がわからないまま、咲翔はひたすらに車を走らせた。
大阪を出発して約一時間半ほどで、到着した。春日大社近くの大きな木々に囲まれた駐車場で、咲翔はぐんと背伸びをした。
「運転ご苦労さん」
母から労いの言葉が出た。咲翔はそれにもなんだか動揺してしまい、うまく返事できないでいた。
「べ、別に……こんなん……」
視線を逸らした先におばちゃんが見えて、咄嗟に思いつくまま、声に出てしまう。
「こ、こんなん全然平気や。沖縄とか鹿児島とか、これくらいのドライブ当たり前やったし、北海道では札幌から函館まで行ったんやから。片道四時間半はありましたよね、おばちゃん?」
水を向けると、おばちゃんは一瞬だけ目を瞬かせた後に、大きく頷いた。
「そうそう。しかも周り何もなかったんだよね。いやぁ辛い旅だったねぇ」
「四時間半……?」
母が目を瞠る。
「そんな長いこと? 一人で?」
「そうですよ。私が運転しようとすると怒るんですよ。さっきお母さんに言ったみたいに」
おばちゃんと母が、揃って訝る目で咲翔を見る。だが、これに関しては咲翔は譲る気はない。毅然として言い返す。
「当たり前でしょう。四時間半一人で運転するのは体力が削られますけど、おばちゃんの運転は命が削られるんです」
「あんた……お世話になってる人に、そんな偉そうに……」
咲翔の物言いに母が眉をひそめた。だがそれを押しとどめたのは、おばちゃんだった。
「いいんですよ、本当のことですから。なんせ夫にも運転禁止令出されてますから」
「き、禁止令⁉ そんなん初めて聞きましたよ。それやのに沖縄でレンタカー借りてたんですか? 旦那さんに黙って?」
「うん、これからも内緒にしといてね」
「そら、言いませんけど……今後一切、運転席に近寄ったらダメですよ」
「はぁい。じゃあ、行きましょうか。神様にご挨拶しなきゃ」
話を切り上げるように、おばちゃんは歩き出す。前を向いているようで、隙あらば運転席を狙っているように見えてならない。
おばちゃんを見張りつつ、咲翔も歩き出す。
「……母さん、行こうや」
「ああ、うん」
なぜか茫然としているように見えた母も、咲翔に呼ばれ、追いついた。だが、どうにも観光地を歩くような表情ではないように見えたのだった。
******
駐車場から歩くこと数分。道は観光客で溢れかえっていた。さらに言えば、日本語の会話が聞こえないほど、外国語が飛び交っていた。
「世界的な観光地だねぇ」
おばちゃんは周囲の声にいちいち反応して、そう言う。だが、こんなもんじゃなかった。 第一の目的地である春日大社にたどり着いた時、おばちゃんはそれまでとは格の違う驚きを見せた。
「鹿!」
そう、鹿。
春日大社の玄関口に当たる二ノ鳥居の前を遮るかのように、鹿が悠然と立っていたのだ。まるで門番のようだ。
「ねえ、この鹿……なんか睨んでない?」
「気のせいです……」
そうは行ったが、咲翔も内心では、何やら試されているような気分でいた。鹿のお眼鏡に適わなければ、この門をくぐる資格はないとでも言いたげだ。そう思っていると、横からパシャッと無機質な音が聞こえた。そして……。
「はいはい。横、通りますよ。入りまーす」
おばちゃんが、華麗に鹿をやり過ごしていく。
咲翔と母が慌ててついていく。鹿はというと……特に気にする風でもなく、そこに立ち続けている。
「おばちゃん、よくスルーできますね」
「え? ちゃんと『通りますよ』って言ったよ」
「それにしたってね……」
あんなにも堂々と立ち憚られたら、大抵は戸惑うだろう。おばちゃんのスルースキルが異様に高いと、今、気付いた。
「何か食べるもの持ってたら寄って来られただろうけど、今は手ぶらだし。それに……」
「それに?」
「目を逸らせた方が負けるっていうじゃない?」
確かに動物と対面した時の鉄則だ。言われてみれば、今、歩き回っている鹿は野生だ。ならばおばちゃんのいうことも当てはまるのかもしれない。
「大丈夫だって。ビクビクする方が良くないって本にも書いてあったよ?」
「そりゃ、僕かてビクビクしたくはないですけどね……」
「あんた、昔から鹿のこと怖がって逃げとったもんなぁ」
後ろから、母の声が飛んできた。嘲笑や呆れたような響きはないが、どこか雑に言い放つ物言いだ。
「……そうやったっけ?」
「そうやで。そういうところは、やっぱり変わってへんな」
(……悪かったな)
言われたことが嬉しくなくて、だがムッとした顔は見られたくなくて、咲翔は顔を背けた。すると、大きな朱色の建物が視界に入った。
「うわ、これが……!」
おばちゃんは、息を呑んでいた。
三人の視界に映るのは、全長一〇メートルを超える、鮮やかな朱塗りの門。真っ白な壁とのコントラストも相まって、実に華やかだった。
門を通ると、授与所があった。御朱印を求める人も大勢いたが、母は別のものを買っていた。
「この先の御本社に参るには特別参拝の受付をせなあかんのよ」
「あ、おみくじも引けるんですね」
おばちゃんが、めざとく授与所の品を見つけた。そこには手のひらサイズの鹿の人形が鎮座していた。木目そのままの鹿と、真っ白に塗られた鹿が二匹。口には小さく丸めた紙をくわえている。
「へぇ……神様のお遣いが、おみくじを渡してくれるってことかぁ。私、引いていく」
そう言うや、おばちゃんは早速、白の鹿を買っていた。
その間に、咲翔はさらりと並んでいるお守りなど見回した。すると、母がそろりと覗き込んできた。
「……あんたも、おみくじ引くんか?」
「いや、鹿よりも猫はないんかな、と思って」
「猫? さすがにここにはないんちゃう? なんで?」
「おばちゃんの娘さんが猫好きらしくて、行く先々で猫グッズ探してるねん」
「そうなん……ふぅん」
母は、怪訝な目で咲翔を見た。確かに、鹿が有名な場所で猫を探すのは、お門違いかもしれない。キョロキョロするのをやめると、今度はおばちゃんの顔が見えた。なにやら、どんよりしている。
「……『凶』だって」
「そ、そうなんですか……」
珍しい。今まで神様を脅しているんじゃないかというくらい『大吉』に恵まれてきた人だというのに。
「『対人運:諍いあり。時を置くことも吉』だって。誰かとケンカするってこと? 誰だろう……」
そう言って頭を抱えるおばちゃんに、咲翔はかける言葉が見つからなかった。
「こういうおみくじは、どこかサービスみたいな面もありますから、大吉が多いもんですよ。凶を引いたのは、むしろラッキーなんちゃいます?」
咄嗟にそう言った母に、おばちゃんは眩い視線を向けた。
「ありがとうございます……! 優しいんですね、多岐川さん……!」
「え? いえ、まぁ……」
そりゃあ、これだけ落ち込んでいれば誰だって励ますだろう。そう言いたそうだったが、母はぐっと堪えていた。そして母の言葉により、驚くほど早く復活を遂げたおばちゃんは、一人でスタスタ歩き始めるのだった。
「まぁ、ケンカにならないように注意すればいいんですよね! よし、頑張ろう! あ、次、こっちに行けばいいんですか?」
おばちゃんについて、咲翔と母も歩き出す。授与所のあった南回廊からぐるりと周り、西回廊へ。そこは華やかというよりは厳か、そしてどこか幻想的だった。朱塗りの柱が並ぶ中、天井から釣灯籠がいくつも下がっている。
「うわぁ、何これ。すごいね……!」
おばちゃんが感嘆の声で振り向く。子どものように素直な反応だ。
昔、自分が祖父にあんな顔を見せたのではなかったか。そう思うと、なんだか祖父が話していたことが思い起こされた。
「……貴族や武士、庶民もみんなが家内安全や商売繁盛なんかの祈願をこめて、寄進してきた灯籠らしいですよ。いちばん古いのは平安時代とか……」
「そんなに古いの? もしかして有名な人も、寄進してるの?」
「えぇと確か……藤原頼通が最古の寄進だったとか何とか……」
「誰、それ? この世が我が物だ~って感じの和歌を詠んだ人だっけ?」
「その息子です」
おばちゃんに続いて、母からも感心したような声が漏れた。
「あんた、よう知ってるなぁ」
「……おじいちゃんが言うてたやん」
「そんなん覚えてないわ。でもそうやな……あんた、熱心に聞いてたもんなぁ。おじいちゃん、嬉しいやろなぁ」
どこか遠い目をして、母は言う。その言葉は、咲翔の胸の奥にじんわりと沁み込んでいった。同時に、奥底から熱いものが滾る。
(今更、なんやねん……)
咲翔はぐっと拳を握りしめて、歩を進めた。おばちゃんたちが早足になっている音がする。歩みが速くなっていたようだが、速度を緩めることはしなかった。少しでも母と距離を置きたい――その思いが足を動かしていた。
「えみくん、もうちょっと味わわない? ね?」
「……すみません」
おばちゃんにそう言われるまで、足を止めることを考えなかった。
先ほどまで、華やかさと神聖さの融合したこの空間に見惚れていたというのに、今は何も目に入らない。
流れるように参拝ルートを歩いた。途中、祖父から聞いたあれやこれやが甦ったものの、おばちゃんから質問されない限り、口をつぐんでいた。
(おじいちゃんのものから遠ざけたのはあっちやのに。なんで今更、おじいちゃんと仲良かったことを懐かしそうに言うんや、母さんも兄貴も……!)
苛立ちがあふれ出てくる。それが知らず知らずの間に、歩幅まで大きくしていた。はたと歩みを止めたのは、おばちゃんに強引に腕を掴まれた時だった。
「えみくん、一周したよ。最後におみくじ引いたら?」
「は? いや、僕は……」
「いいから。茶色の方、引いてよ。それで、人形だけちょうだい」
「あ、そういうことですか……」
そんなことをしていいのだろうか、とも考えたが、おばちゃんは急かしてくる。断る猶予もなく、おみくじの代金を渡される。仕方なく、並んでいる茶色い鹿のうちの一体を掴み、おみくじだけ抜き取る。
「はい、人形どうぞ」
「ありがとう。おみくじは? なんて書いてある?」
後で見ればいいと思っていたのだが……おばちゃんがぐいぐい覗き込んでくる。致し方なく、おばちゃんにも見えるように丸まっていた神を広げた。そこに書いてあった文字は……
「『大吉』だ。良かったねぇ」
満面の笑みを向けられても、咲翔は「はぁ」としか返せなかった。『大吉』とは、具体的にどんないいことが起こるのか。読み進めると……
「『復縁の兆しあり』だって。良かったじゃない」
おばちゃんの引いたおみくじと真逆のことが書かれている。薄気味悪いくらいに、真逆のことが。
「……おばちゃん、何か仕込んでませんよね?」
「するわけないでしょ。ていうか、できるわけないでしょ」
おばちゃんは一瞬だけ、拗ねたような顔をしたかと思うと、咲翔の手からおみくじを奪い取って、きれいにたたんでポケットに突っ込んだ。
「よし! じゃあ次行こう、次! 神社の次はお寺だ~」
おばちゃんはそう言うと、咲翔を追い抜いてさっさと歩いて行った。後ろで所在なさげに立っていた母とぱっちり目が合ってしまう。
「……行こか」
「そうやね」
******
春日大社の境内を巡って、歩くこと数分。今度は大きな木造の門の前にいた。黒く変色した柱は古びた佇まいを見せていて、厳格そうな雰囲気を醸し出している。
「おぉ~、これが東大寺……」
おばちゃんが見上げるのは、世界最大級の木造建築物であり、先ほどの春日大社と同じく国宝や重要文化財の宝庫……その正門である南大門。
南大門前は大きく開けた石畳のつくりになっており、行き来する人が後を絶たない。もちろん、この奈良の有名観光地の例に漏れず『彼ら』もいる。
「あ」
「どしたの、えみくん?」
咲翔の足がピタリと止まる。視線は、目の前に悠然と立つ鹿へと注がれる。
「ああ、ここにもいるね」
「鹿は春日大社の神の遣いですから。奈良では、人間より鹿の方が偉いんですよ」
「……そうなんですか?」
咄嗟に解説をする母の言葉に異を唱えたかったが、咲翔にはできなかった。悔しいが、その通りだった。
「たぶん、鹿にとっては人間なんて下僕ですわ。鹿せんべいを差し出したら、ちょっとだけランクアップできるみたいな感覚やと思います」
「……やとしたら、僕は最底辺の奴隷なんやと思います……」
咲翔がそう言うと、おばちゃんはきょとんとしていた。やはり、理解しがたい感覚なのだろう。
「……この子は、何回か奈良に来てるんですけど、その度に惨敗してるから、トラウマなんやと思います」
「え、全敗? 鹿に?」
母がこれ以上、勝手に喋らないように、咲翔は意を決して自分で話すことにした。できるだけ鹿から目を逸らしながら。
「僕かて最初からこんな怯えてたわけやないんです。でもたぶん五歳くらいのとき、鹿せんべいをあげようとしたら、その辺の鹿がわらわら寄ってきて、一瞬にして持ってた鹿せんべいを全部奪われました。それから小学生の時、中学生の時、高校生の時……何回か来ましたけど、毎回弁当か鹿せんべいかお土産かを強奪され続けてきたんです。僕は、一生かかっても勝たれへんのです」
「あら、まぁ……」
さすがに言葉をなくしのか、おばちゃんが困ったように母に視線を送っていた。母は、呆れたようにため息をついていた。
「でも……お父さんも澄生も私も、襲われるようなことはないで? そんな気弱そうにしてるから、なめられるんやろ」
また出た。自分たちにできることは、当たり前に他人もできるという思い込みをしている。家族の中で咲翔一人が、できないことが多いことが、彼らの『恥』だった。
父は軽蔑するような目で咲翔を見ていた。兄はどうしてできないのかわからないと言って、無自覚に差を見せつけてきた。母は、できないのは努力が足りないせいだと、いつも責め立てた。
何度も言われたことだから、今更深く傷ついたりしない。だが、棘が刺さったままのような小さな痛みが甦ったように感じた。
言い返す気力も湧いてこない咲翔の背中に、衝撃が走る。おばちゃんに背中を叩かれたのだと気付いたのは、数秒後だった。
「うん、じゃあさっさとここを離れよう。鹿せんべい持ってるって勘違いされたら困るし」
そう言って、咲翔の背中をぐいぐい押していく。
南大門の内部には、二体の金剛力士像……通称・仁王様が立っている。そこを通る者をじろりと見張るような視線に、咲翔は思わずぺこりとお辞儀をしていく。
門をくぐると、巨大な木造建築物が目に入る。年季の入った木目とくすんだ色が、落ち着いた佇まいに感じられた。
仁王様の監視を抜けられたおかげか、不思議と厳粛な空気は少し和らいだ気がしていた。今感じるのは、解放感だった。広々とした空間で息がしやすいと感じる感覚に近い。
屋外にいるし、広々とした場所なので当然かと咲翔は思った。だが、大仏殿に近づくにつれ、その思いは変わっていった。
大仏殿もまた、広い建物だった。その中にあって、盧舎那仏像……人呼んで『大仏様』は、ひときわ大きな存在だった。物理的大きさもそうだが、何よりもその存在感が大きく、強い。強いのだが、決して圧迫感はなく、恐ろしくもない。先ほどまで感じていた解放感が、この大仏様によって作り出された場所にいるからなのだと、咲翔はうっすら思った。
手を合わせることも忘れて、咲翔はその大きな仏様に見入っていた。大仏殿の中をゆったりと歩く。
正面から、側面から、様々な角度から、大仏様の姿を目に焼き付けた。背後に回ると、大仏様の光背まで見ることができる。裏に回ってみると雲の文様が描かれており、より高みの存在なのだと感じ取れた。
一周して、胸がいっぱいになるのを感じていると、どこかからおばちゃんの声が聞こえた。
「見て見て! 大仏様の鼻の穴だって」
見ると、おばちゃんは大仏殿の中に立つ柱の側にいた。その柱の足下には、ぽっかりと穴が空いており、子どもがくぐっている。
「そこをくぐると厄除けになるらしいですよ。でも、ちょっと……小さいんとちゃいます?」
穴は高さ約三〇センチ、幅約三五センチほど……小柄とは言えない体躯の大人が通れるとは、思いにくい。そう思っていたのだが、おばちゃんはおもむろに上着を脱いだ。
「何事もチャレンジ!」
咲翔は、全力で引き留めた……。
「やめてください。ひっかかったらどうするんですか。ここで詰まって救急車呼んだりしたら、とんでもない事態ですよ?」
「失礼だなぁ。そんなに太くないよ」
「なんで通れる自信があるんですか。リスクに見合ってないって言うてるんです! それに詰まったりしたら、ほら……後ろにいる子らがチャレンジできなくなるでしょ?」
おばちゃんの背後には、小さな『チャレンジャー』たちが列を成していた。遠足か何かだろうか。大仏殿の中には小学生がたくさんいた。
ここは、子どもの力を借りるしかないと、咲翔は咄嗟に考えたのだった。
子どもたちの視線を受けると、さすがのおばちゃんも怯んでいた。すごすごと列を外れ、後ろにいた子に「どうぞ」と言う。
子どもたちはお礼を言って、順番にくぐり始める。次々に『厄除け』されていく姿を、咲翔は微笑ましく見つめた。それはおばちゃんも同じのようだったが……一つだけ、咲翔とは違った。
「……やってみたい……」
先ほど咲翔に止められたせいで『チャレンジ精神』が燻ったままなのだ。つまり、何かに挑戦しなければ収まりが付かないらしい。
(何か挑戦できるものないか? 救急車沙汰にはならん、怪我も少ない、挑戦しがいのあること……)
そう考えて、瞬時に思いついてしまった。これしかない、と。
「おばちゃん、それなら表に行きましょう。好敵手がいます」
首を傾げるおばちゃんとは対称的に、母は、咲翔の意図を読んだようだ。顔をしかめて、尋ねる。
「咲翔、あんた……好敵手てまさか……!」
「……おばちゃんやったら、あるいは……て思う」
「でも、いきなりは……」
母は引き留めにかかる。だがおばちゃんは、そのことで余計に興味を引かれたらしい。目が爛々と輝き出す。
咲翔は餌で惹き付けるように、大仏殿からおばちゃんを連れだし、そのまま南大門も抜けた。大通りに近づいていくと、そこには観光客と車と、そして鹿がいた。とても大勢いる。
そこまで来ると、おばちゃんもうっすらと察したようだった。
「えみくん、もしや、アレを……?」
咲翔は、こっくりと頷く。
おばちゃんは、決心したように財布から小銭を取り出した。そして、まっすぐに向かう。鹿せんべいの出店へ。
一つ買い求め、手早く包み紙を取り去る。鹿せんべいの束をすぐに鞄にしまい、左手に一枚持った。すると、まるで吸い寄せられるように鹿たちがわらわらと集まってくる。おばちゃんの手にしているものが自分のものであると、信じて疑わない目をしている。
近づいて来た鹿は、迷いなくおばちゃんの手の内の鹿せんべいにかじりつこうとした。だが――それは、おばちゃんによって阻まれた。ひょいと持ち上げて、鹿に対してまっすぐに告げる。
「奈良の鹿さんて、挨拶するって聞いたけど? ほらほら、欲しいなら『いただきます』でしょ?」
鹿に対してこんなに居丈高に言い放つ人を、咲翔は初めて見た。だが、おばちゃんの言葉が通じたのか、はたまた風格のようなものを感じたのか、鹿は一歩退いて、ぺこりとお辞儀をした。
それを見て、おばちゃんはお辞儀をした鹿に一枚、差し出した。鹿は、大人しくおばちゃんの手からかじっていく。その様子を観察していた別の鹿が近づいて来て、横からかじりつこうとした。すると――
「待ちなさい。これは、この子の分」
ぴしゃりと言い放つ。雷に打たれたように、鹿は動きを止めた。そして、叱られた鹿に倣うように、周囲の鹿たちもおばちゃんの様子を窺うようになった。
「よしよし。順番だから……ね?」
不思議な光景だった。いや、神々しいというべきか。
天から地上へ、鹿せんべいを与えるおばちゃん。その周囲には、静かに自らの順番を待つ鹿たちがいる。
咲翔が見たことのない、それどころか想像だにしなかった光景が今、目の前に広がっている。
「咲翔……あの人、ホンマに何者なん?」
「俺もわからん……」
咲翔と母が茫然としている間に、おばちゃんはすべての鹿せんべいを与え終えてしまったようだ。手ぶらであることを示すように、両手をパーにして鹿たちに見せる。
だが、まだもらっていない鹿たちは納得していない。おばちゃんが手ぶらであることを疑うように、しつこく周囲をうろついている。苛立っているようにすら見えた。
「う~ん、志方ないなぁ。じゃあもう一個買うか……あ、今度はえみくんがあげたら?」
「はい⁉」
急に水を向けられて、素っ頓狂な声が出てしまう。まだ「やる」と言わない内に、おばちゃんは鹿せんべいをもう一つ買い、包みをはずしながら咲翔に手渡した。
「えみくん、連敗中なんでしょ? リベンジ、リベンジ!」
「リベンジて、そんな勝手に……」
異を唱えようとするも、状況はそれを許さない。鹿せんべいを手に持つ咲翔に、鹿たちは寄ってくる。もはや隠しても無駄だ。
「う……」
たじろぎ、無意識に一歩退こうとしてしまった、その時――
「後退りしない! 堂々と立つ!」
おばちゃんの声が飛んできた。背中を叩かれるようだった。
思わず背筋をピンと伸ばして、鹿たちを真正面から見据える。すると、不思議なことに鹿もまた、ピクンと身を固くしたように見えた。
もっとも前にいる鹿に、咲翔は一枚、差し出してみる。
パクッ――と、食べた。一口、二口、三口と、ゆっくりと味わっている。すると、他の鹿が咲翔の持つ鹿せんべいの束に目をつけた。横からかじりつこうとするので、咄嗟にひょいと遠ざけた。
横取り鹿は、反逆者を見るような目つきで咲翔を睨む。怯みそうになる咲翔だったが、ふとおばちゃんの言葉が脳裏によぎる。
――目を逸らせた方が負けるっていうじゃない?
確かに、犬でも猫でも熊でも、そのように聞いたことがある、ならば鹿も同様のはずだ。
咲翔は竦みそうになるのをどうにか堪えて、鹿を睨みつけた。
(勝手に食うたらあかん。横取りもあかん。あかんぞ……!)
そう、視線にこめた。
すると鹿たちは、おばちゃんに対するのと同じように、大人しく頭を垂れている。一枚目を終えると、ゆっくりと二枚目を引き抜き、近くにいた鹿に一枚あげる。それを、繰り返していく。
落ち着いておばちゃんの真似をしているだけだ。だが、かつて一度たりともなしえなかったことを、今、できている。
「できた……?」
思わず振り返ると、おばちゃんがぐっと親指を立てて、満面の笑みを向けてくれる。その隣に立つ母を見ると……なぜか、瞳が潤んでいた。
「咲翔……すごいなぁ」
「へ? いや、言うても鹿にせんべいあげただけで……」
「ええから、褒めさせて」
母はそう言うと、咲翔の頭をぐりぐり撫でる。咲翔も不思議と、それが心地悪いとは思わないのだった。
なぜか感激している母は、昼食に奈良公園内の店へ案内した。飲食店や土産物店や雑貨店が並ぶ集合施設の中の一つの店だ。
入ってみると、一階は柿の葉寿司の製造直売店となっている。伝統的な柿の葉寿司や、この店オリジナルの寿司がいくつも並んでいる。
母はそのまま、二階の食事処へと進んだ。古民家を再利用した建物らしく、屋根や柱が趣を感じさせる。そしてなにより、二階に上がってすぐに目に入る、大きな窓。そこからは、先ほど首が疲れるほど見上げた東大寺の大仏殿と南大門の大屋根が見える。
「あれだけ大きい建物を、今度は上から見るんですね」
「趣向が変わって面白いでしょう?」
おばちゃんに一番窓に近い席を勧め、咲翔はその隣に座った。母は、その向かいの席に着く。
咲翔は、視線を彷徨わせていた。前を向いたら母と目が合ってしまう。前以外のどこかをチラチラ見ていると、料理が運ばれてきた。
一階でも見た柿の葉寿司と天ぷらの盛り合わせ、そして三輪素麺から作ったにゅうめんのセットだ。
「柿の葉寿司! 一回だけお土産で頂いて以来、食べてないです。美味しそうですね」
「ここの、ホンマに美味しいんです。ぜひ、ぱくっと一口でどうぞ」
母が勧めると、おばちゃんは手早く柿の葉寿司の包みを解いていく。緑の葉の中からは、一口サイズの押し寿司が現れる。鯖と寿司飯の重なる様は、葉の緑とも合わさって鮮やかだ。
だけどおばちゃんは、すぐにパクッと頬張る。感傷に浸る間も惜しいといった様子だ。
「美味しい……!」
そう、打ち震えるように言う。
「酢飯が思ってたよりも、ほんのり甘い! 柿の葉の香が合わさって、口の中までいい香りがする! 出来たてで温かい! 柔らかい! このまま家に持って帰りたいです」
思うさま、あふれ出す胸の内を述べるおばちゃん。その箇条書きの感想に、はじめ戸惑っていた母も、やがてふわりと頬を緩める。
「喜んでもらえて、良かった。これ、お土産もありますよ」
「おばちゃん、天ぷらも美味しいですよ」
なんとなく柿の葉寿司は、おばちゃんの反応を見て、食べた気になってしまっていた。別のものをと思い、箸を伸ばした天ぷらは……脳天を突くほどの美味しさだった。衣がパリパリ、中はほっくり、脂っこくなく、かといってサッパリしすぎてもいない。
次いで、咲翔はにゅうめんに箸を伸ばす。のびてはいけない。まだ湯気ののぼる器を引き寄せ、つゆをたっぷり絡めながら一気にすする。
「にゅうめん、いいねぇ……おそうめんて冷した食べ方がほとんどだったけど、これもいいなぁ。そばともうどんとも味わいが違うんだね」
「細いし柔らかいから、あっという間に食べてまいますね」
おばちゃんと咲翔から、交互に感想が飛び出す。特に喋るつもりがなくても、つい口から出てしまうのだ。
そんな二人を、正面に座る母は静かに見つめていた。それに気付いた咲翔は、思わず顔を伏せた。母の視線をどう受け止めればいいか、わからなかった。
そのまま、ちょろちょろと食べ進める。急にスピードダウンしたせいで、おばちゃんの勢いに置いてけぼりをくらい、気付けばおばちゃんは「ごちそうさま」なんて叫んでいた。
「いやぁ美味しかった~。多岐川さん、ここ、よく来られるんですか?」
「え? あ、いえ……仕事でこの近くに来たことがありまして……」
「そうなんですか。もし良ければ、お仕事のこと、聞かせて頂いても?」
母は、戸惑ったような視線を咲翔に向けた。気遣わしげに見えるそれに、咲翔の心はまた波立つ。苛立ちを押し隠すように、咲翔がその先を続けた。
「両親ともにシステムエンジニアですよ。父は企業向け、母は図書館や学校向けのシステムを扱ってるんです」
母が目を瞬かせているのが見えた。だがそれでも、咲翔は母から顔を背けた。
「え、システムエンジニア⁉ お忙しいんじゃないですか? 今更ですけど、お時間作って頂いてしまってすみません」
「いいえ、そんな……息子がお世話になった方なんですから、できるだけのことをしようって家族で話し合った結果ですから。どうぞお気になさらず」
「そうですか……あ、じゃあ昨日のお兄さん……澄生さんも、エンジニアを?」
母の視線が、一瞬だけ咲翔に向く。何の気遣いをしているのかわからないが、咲翔には棘のように思えてしまった。
「……兄貴は旅行会社に勤めてます。旅行好きの上に語学好きなもんやから、学生のうちから海外旅行に行きまくってました。なるべくしてなった職業ですね」
投げ捨てるような言い方をすると、しんと鎮まってしまった。おばちゃんまでが、言葉を失っている。
(しまった……!)
つい、自棄になった物言いをしてしまった。
母はもとより、おばちゃんも、咲翔が仕事を辞めた経緯を知っている。今のような言い方は、二人から見ても明らかにただの八つ当たりだ。
「ぼ、僕は……その……何やってもうまくできへんので……すごいですよね、ははは……」
とってつけたような言葉も、虚しく響くだけだった。母も、何も言わない。きっと父と兄から何か聞いているんだろう。言葉に困っている様子だ。
向かい合って、沈黙が下りる。
と、それに割って入るように、おばちゃんが顔を覗かせた。
「ねえ、えみくん。私、今は専業主婦だけどさ、前は何してたと思う?」
「は? 何ですか、突然?」
そう問い返すも、おばちゃんはそれ以上答えなかった。いいから当ててみろ、ということだろうか。
そう言われても、まったく想像がつかない。咲翔はしばし考え込んで、うんうん唸っていた。それでも思いつかないので、かろうじて捻り出した答えは……
「ほ、保育士さん……とか?」
「ブー! 看護師でした」
「嘘でしょ⁉」
店中に響く声で叫んでしまい、咲翔は慌てて口をつぐむ。だが、時既に遅し。おばちゃんはじっとりと咲翔を睨みつけて、拗ねていた。
「嘘じゃないですーこれでも現役の時はバリバリ頑張ってたんですー」
「すみません、つい……」
看護師といえば、冷静かつ理性的、ロジカルに仕事をこなすイメージだった。おばちゃんの『思い立ったが吉日』という思いつき最優先の行動と、まったく結びつかない。
「まぁ、もう辞めちゃって長いからねぇ」
「辞めはったのは、ご結婚の時ですか?」
「ううん。妊娠の時に……ね」
おばちゃんは、言葉を濁した。咲翔はそこから、省略された言葉を察した。
(沖縄の、後か……)
母ひとり、訳が分からず、きょとんとしていた。
だがそれ以上を言うこともできないのか、おばちゃんはおもむろに立ち上がった。
「私、下の柿の葉寿司見てきますね! お土産に買ってきます」
「え?」
声をかける間もなく、おばちゃんは一階に下りて行ってしまった。後には、咲翔と母がぽつんと残されている。
急に変化したおばちゃんの様子に戸惑ったのか、母が窺うように尋ねてきた。
「あの人……なんかあったん?」
「そら、まぁ……いろいろあるよ。誰でも、そうやろ」
おばちゃんの事情を咲翔が勝手に話すわけにはいかない。咲翔は、そんな大雑把な言葉で、母のこれ以上の追求を封じた。
母も、それ以上を尋ねようとはしない。だが代わりに、別のことを尋ねた。
「あの人と、どこで会うたん?」
詰問するような声音ではなかった。咲翔は、答えようかどうしようか、少しだけ迷った末に、答えた。
「沖縄」
「なんで、知らん人と一緒にいてるん?」
「まぁ、成り行きで……」
「……澄生も言うてたけど、人に言えん関係とかじゃないんやんな?」
「当たり前やろ。おばちゃんは、雇用主や」
きっぱりと、言い放つ。母は吟味するように咲翔をじっと見つめていたが、やがて、小さく息をついた。
「……まぁ、あの人に聞いてた通りってことやね」
そう言って、母はおばちゃんが消えた先に視線を向けていた。
「聞いてたって……おばちゃんから?」
「そうや」
そういえば、関西の案内役に咲翔の家族が名乗りを上げたのも、おばちゃんが繋ぎをつけたからだった。いったい、何をどこまで話したのだろうか。
「……おばちゃんと、何話したん?」
「秘密」
「……俺の知らんところで色々話しといて、それはないやろ」
「別に、何も聞いてへんよ。『細かいことは、ちゃんと家族で話してください』って言うてはったから。私があの人と話したのは、あんたが風邪引いた時に食べられるもんとか、持病がないかとか、そんな話や」
母の皿も、既に空になっている。間をつなぐように母がお茶を飲み、咲翔はまだ残っている天ぷらを一口、かじった。
「……あんた、なんで沖縄になんか行ったん?」
咲翔は思わず、咀嚼を止めてしまった。
「法事の席で、おじさんが言うたこと……気にしてたんか? あれは、ごめんな。私もお父さんも、よう言うといたから」
「……別に、ホンマのことやろ」
「なんで、そんなこと言うの」
「なんでも何も、母さんも父さんも兄貴も、ずっと思ってたことやろ? 『迷惑かけとらんと働け』とか『いつまで休んでるねん』とか……」
自棄気味に、残りの天ぷらをすべて口に放り込んだ。母は、その様子を見ながらも何も言わなかった。唖然としているのだ。
「ずっと思ってたって……私らが?」
わなわな震えながら、母は尋ねる。
「迷惑やなんて、誰が言うた⁉」
ドン、と机を叩くと同時に、母は叫んだ。店にいた他の客の視線が、一斉に集中する。だが母は、そんなことには構わず咲翔を凝視する。
「……迷惑やないんやったら、なんで俺を外したんや?」
「え、外した?」
母は首を傾げている。
「形見分け。俺には近寄るなって言うたやん」
「それは……」
母の声は、すぼんでいく。視線も言葉も、うろうろと彷徨っている。
母はどんな顔をしているだろうか。億劫そうな顔だろうか、それとも図星を指されて怒っているだろうか。そう思っていたのに、目に飛び込んできたのは、母の泣き顔だった。
「母さん……?」
頬を一筋、涙が伝っていた。
強く突っぱねすぎたのだろうか。そう思った時、咲翔の手を、母がぎゅっと握りしめた。不思議と振り払いたいとは思わない。母の手は、こんなにも温かかったのかと、驚きを隠せずにいる。
母の手は温かく、震えていた。
「ごめんね」
「え?」
「ずっと……ずぅっと、あんたのこと傷つけてきたんやね。そんな風に考えてしまうくらい、あんたはもう私らへの信頼なんて、なくなってしもたんやね……」
咲翔には「違う」と言えなかった。声にならない声の代わりに、視線だけを母に向ける。
「そやけど、言わせて。私らは、あんたのこと迷惑やなんて思ったこと、一回もない」
「でも……」
言葉を返そうとする咲翔を、母は手で制した。
「あんたを形見分けの場に入れへんかったのは、あんたが辛いと思ったからやで」
咲翔は、怪訝な表情を浮かべているのが自分でもわかった。そんな言葉、納得がいかない……そう思ったのが母にも伝わったのだろう。
「おじいちゃんと一番仲良かったんは、あんたやろ。だから、おじいちゃんの遺品を見て、捨てるか残すか選別せなあかんのはしんどいと思ったんよ。私も、お父さんも、澄生もな」
「そんなん……辛くても、やりたかったよ。お前はやるなって言われる方が、ずっと辛いわ」
「そうやな……ほんまに、ごめん。ただ、これはおじいちゃんの遺言でもあるんよ」
「え⁉」
目を瞠る咲翔に、母は深く頷いて見せた。
「あんたがおらん時に言うてたんよ。咲翔にあげるもんは決めてあるから、それ以外のものは私らの判断に任せる。その時に、咲翔を同席させんといてほしいって」
口の中が、一気に乾いていくような感覚だった。声が、うまく出てこない。
「なんで……?」
「そんなん、決まってるやろ」
母の強い声音に、咲翔は怯えた。まさか、祖父にまで……そう思ってしまう。そして、その通りだったら、これ以上どうすればいいかわからない。
だが、母の声は止まらない。
「あんたが……優しくて繊細すぎるから、やろ」
「……え?」
力の抜けた声が、漏れ出た。先ほどと違い、今はぽかんと間の抜けた表情をしていることだろう。それでも、母の言葉に理解が追いつかないのだった。
「私らみんな、ずっと、あんたのことが心配やったよ。あんたは優しいからコロッと騙されるんちゃうかとか、嫌やと思ってても言い出せへんのとちゃうか、とか……一番、心配してはったのは、おじいちゃんやった」
「だからって、なんで……」
「人一倍、感受性が強いあんたのことや。ずっと慕ってたおじいちゃんの遺品一つ一つに泣いて、傷ついてしまうんやないかって。まして、あの時……あんたはおじいちゃんが亡くなったのを自分のせいやって思ってたやろ。余計に、遠ざけた方がいいと思ったんよ」
「そう……やったんか」
そう言われれば、母たちのあの時の態度も腑に落ちる。
「でも……あんたの今の顔を見たら、それも正しかったんかどうか、わからへんね」
「そんなに、ひどい顔してるか?」
母はまたも、深く頷いた
「ごめんね。私らは今まで、あんたに甘えすぎてたんやわ。あんたがなんでも許して、受け入れてくれるから……私もお父さんも澄生も、あんたを気遣うのが下手になってしもてた。ほんまに……ほんまに、ごめん」
「それは……」
咲翔は、その先を言葉にできなかった。謝られたなら、許したくなる。だが、今までのすべてを「ごめん」の一言で……しかも三人分、帳消しにはできない。沈黙から、母は概ね察したようだった。
「だから全部なかったことにしてなんて言うつもりはないよ。でも、おじいちゃんのことで、これ以上あんたに傷ついてほしくないって気持ちも、ほんまやで」
「……俺は、弱い子やから?」
「『繊細』やからって言うたやろ」
「でも、昔から言うてたやん。俺のこと『弱い』とか『鈍くさい』とか」
我知らず、恨み言を口にしてしまった。そんなつもりはなかったのに。
はっとした時には、既に母の胸に、咲翔の棘のような言葉は刺さっていたようだ。
「そうか……ああ、もう……私らは昔から……」
母は頭を振って深いため息をつく。だがそれは、苛立った様子でも、呆れた様子でもない。
「それも、ごめんな……私らみんな、けなすつもりではなかったんよ。叱咤激励いうんかな? ちょっときつめに言うことで奮起してくれたらえなって思ってた。でも……やっぱり、あかんな。あの人の言う通りやわ」
「あの人って……おばちゃん?」
母は小さく頷いた。
「さっきは特に話してないて言うたけど、嘘。けっこう色々話したよ。全部……耳の痛い話しやったわ」
「た、例えば?」
「褒めるのはおじいちゃんが家族全員分やってくれるから、私らは厳しくすることにしてたって言うたら、『なんで?』て言われてしもた。褒めるのも叱るのも、足し引きで帳尻合わせなんかできへんて。おじいさんがたとえ十人分褒めたって、私らまで褒めたことにはなりませんよ……やって」
「それは……その通りやと思う。正直……母さんらに褒められたり労われたりした記憶がない……何やっても、あかんて言われたとしか……」
「うん、そうやな……ダメな家族で、ごめんな。あれだけおじいちゃんに言われてたのに、あんたの気持ち、ずっと見ぃひんフリしてしもた」
「そんな……」
「こんなダメな私らやけど、やり直し、させてくれる?」
「やり直して……」
咲翔がおずおずと問い返すと、母はなんだか苦い笑みを浮かべた。
「遺品整理、実はやり直そうかて話してるんよ」
「え、ほぼ終わってなかった?」
「あんなん……趣味の品と日用品と、証明書の類いをざっと分けただけや。銀行や保険関係はさすがにもう手続きしたけど……それ以外は、やっぱり私らじゃわからんかった。あんたやないと……って、思ってな」
「今更……そんなん言われても……」
引き受けたい気持ちはある。だが、どうしてもそう思ってしまう。そこに、母は深く頭を下げた。
「お願いします……!」
今すぐに「わかった」と言ってしまえば、この場は楽になる。わかっているが、エミットホア、それでも頷けなかった。
「……主夫に戻ってほしいってことか?」
「違う!」
顔を上げた母の両目から、涙が飛び散った。髪も乱しながら、それでも母は咲翔に視線を向けていた。
「そんなんやない。あんたがいなくなるのが悲しい……ただ、それだけなんよ」
「……悪いけど、信じられへん。俺は、『血が繋がってると思われへんくらいアカンタレ』なんやろ?」
母が息を呑んだ。だけど咲翔の声は、止められなかった。
「『今はあんたが主夫やから』とか都合よくあれこれ使いっ走りしてたやん。緒乱用になったら不便になったんやとしか、思われへん……」
「あれは私らみんな、『頼りにしてる』ってつもりで……」
「俺の勘違い? 勘違いしてた俺のせい……なんかな?」
咲翔は、震えをこらえて問うた。震えているのを悟られないように、必死に拳を握りしめて。
「わかってるよ。父さんも母さんも兄貴も、みんなしっかり働いてて……俺一人、なんもできへん奴で……それは、ホンマのことやけど……ホンマやからかな……?」
母の不安そうな顔が視界に入る。咲翔が言おうとしていることを察しているのだろうか。
咲翔の胸が、ずきんと痛む。それでも、「言ってしまえ」と叫ぶ声が、止まらなかった。
「おじいちゃんがいなくなってしもたら、もうなんや、俺は何のためにいてるのかすら、わからんようになってしもて……」
「咲翔……」
「ごめん、今は……」
そう言えば怒るだろうか、と考えた。だが、そんな声は降ってこなかった。
「……わかった」
そんな、静かな声だけが返ってきた。咲翔が震えを堪えていたように、母は涙を堪えているようだった。ぐっと唇を噛みしめながら、母は尋ねた。
「……もう思い直してるん?」
「思い直す? 何を?」
母は、窺うように咲翔の顔をのぞき見た。
「もう、自殺しようとか考えてへんか?」
「どっから出てきてん、そんな突飛な話⁉」
咲翔が叫びつつ、全力で否定すると母は息を大きく息をついていた。
「はぁ……良かった。まさかとは思ったけど、最悪の事態を考えてしもたわ……」
「いや、だから……どっから自殺やなんて出てきてん?」
「梶さんが言うてはったから」
「おばちゃんが⁉」
母は、迷いなく頷いた。どうやら嘘ではないらしい。
「心配そうに言うてはったよ。沖縄であんたと一緒にいる間ずっと、消えてしまいそうやったって」
「消える……⁉」
「目を離すと、遠いとこに行ってしまいそうやった……そんな風に言うてはったで」
喉の奥から出かかっていた言葉が、すべて引いていく。同時に、おばちゃんの折々の態度や言葉が腑に落ちた。
誰とでもすぐに仲良くなってしまう人――そう思っていた。だが、違うのかもしれない。
(おばちゃんは繋ぎ止めようとしてくれてたんか……)
それが、ようやくわかった。
「咲翔……」
母が、目を瞬かせて咲翔を見ている。そんな母の顔が、じわりと滲む。
咲翔は気付いた。自分の目元が、涙で溢れかえっていると。
「あ、あれ? なんでこんな……」
拭っても拭っても、涙は溢れ、咲翔の頬を濡らしていく。同時に、胸がとてるもなく熱い。だけど痛みでも苦しみでもない。
今まで、なにかずんと重いものが胸の内を占めていた。だけどそれがふわりと、羽のように軽くなった。
そしてそれは、思えば今急に取り払われたんじゃないとわかる。沖縄から鹿児島、北海道、仙台と移り変わる度に、少しずつ別のものが代わりに占めるようになっていた。そんな気がする。
『別のもの』とは何だろう。
それは、もはや考えなくたってわかる。
ぎゅっと、胸の前で拳を握りしめる。ようやくわかった想いを逃さないように。
そうすると、もう言葉が出なかった。咲翔は、人目も気にせず涙を流した。嗚咽を止めることを、しなかった。
こんなことをしていたら、また家族に叱られるかもしれない。
以前の咲翔ならそう思っただろう。だが今は、不思議と、そうはならないと思えた。そしてその予想通り、咲翔の目の前には、何も言わずに母が手を出した。
母は、自身も目尻を潤ませながらハンカチを差し出している。
「ええ人なんやね、梶さんて人は……」
咲翔は、おずおずと、ハンカチを受け取った。そこからは、どこか懐かしい香りがした。ずっと暮らしていた、家の香りだ。
「……うん、ええ人やで。ものすごい、ええ人や」
母は、ただ「そうか」とだけ言って、咲翔が涙を拭くのを見守っていた。
再び咲翔の脳裏に、おばちゃんの言葉が脳裏によぎった。
――楽しかった……二十五年前にあの子がいなくなっちゃった場所で、あの子と同い年の男の子と一緒に色んな所に行って、同じ空気を吸って、お話しして……
――これも、何かのお導きだったのかなって思ってね
あの日、確かにそう言っていた。
(ああ、そうやな、おばちゃん。たぶん、そうなんや……)
あの日、咲翔が行き先を沖縄に選んだのも。おばちゃんが宝くじに当たったのも。おそらく、すべては導かれてのことだった。
その答えが、咲翔の中で導き出された時、階下から誰かが勢いよく走ってきた。想像通りの人物が。
「ただいま! いっぱい買っちゃった! って、えみくん、どうしたの⁉」
おばちゃんは、両手いっぱいに柿の葉寿司の袋を抱えながら仰天している。いつも仰天させられてばかりの咲翔にとっては、なんだか意趣返しができたようで、楽しかった。気付けば、涙と共に、胸の奥から笑いまでこみ上げてきた。
「ぷ、く……ははは」
「え、なに? お寿司買いすぎ?」
「いやいや、違うんです。でもなんや、笑いが止まらんくなって……は、はははは……!」
笑いの止まらない咲翔を、おばちゃんは怪訝な目で見ている。時々母にも視線を向け、説明を求めている。母は何も言わず、ただ咲翔が笑うに任せていた。結局、おばちゃん一人、釈然としないという顔をしていた。
「す、すみません。なんや止まらんようになって……」
「……変なもの食べたんじゃないよね?」
「おばちゃんと同じもんしか食べてませんよ」
「……さっきの鹿せんべい、こっそり食べたとか?」
「鹿せんべい……ああ、そうですね」
「え⁉ 食べたの⁉」
「食べてません。そやけど、買いに行きましょうか。奈良公園、行きましょ」
「食べるの⁉」
「食べませんて」
おばちゃんの不審そうな顔まで、おかしくておかしくて、たまらなかった。
おかしくて、今まで押さえ込んでいたものがすべて吹き出たように笑い続けた。そして、思い切り笑うと、なんだか気が大きくなっていた。
「なんや、今までの分全部取り返せそうな気がします。リベンジしてきます」
咲翔がニヤリと笑うと、おばちゃんは急に楽しそうにニンマリと笑った。
「いいねぇ。そういうことなら一緒に行くよ。鹿対決、勝ち越して帰ろうよ」
おばちゃんなら、乗ってくれると思っていた。
「母さんも、はよ行こ」
「……うん」
母に、そんな風に声をかけたのなんて、いつ以来だろうか。覚えていない。
咲翔はおばちゃんの荷物と母の荷物を一つずつ持って、軽やかな足取りで店を出た。
(今なら、勝てる気がする……!)
そう思い、鹿せんべいの売店を探し、意気揚々と一つ買い求めたのだが……。
「あ、あれ?」
鹿せんべいの包みが、思ったよりもきつく縛られていて、剥がせない。周囲には、鹿がわらわら寄ってくる。鹿せんべいを購入した段階から、彼らは狙いをつけるのだ。
鹿せんべいは、彼らのものなのだから。
「あ、いや、ち、ちょっと……待って……」
咲翔は焦る。焦れば焦るほど、手元は狂う。
確かに手元にあるのに、鹿せんべいを鹿に差し出そうとしない。そんな人間は、彼らにとってどういう存在か。
それは――反逆者だ。
「痛っ⁉」
鉄槌が下る瞬間は、突然来た。鹿は、逆らう者に容赦しない。怒りを滾らせて、咲翔の腰に思い切り頭突きをかます。
「悲鳴あげたり、怯えた様子を見せたら、逆にどんどん迫ってくるよ」
おばちゃんが遠くからアドバイスをくれる。だが、もう遅い。鹿は持っているせんべいをすべて出すよう、咲翔に迫る。頭突きという形で。
「痛いって! ち、ちょっと待って……あ!」
待たない。鹿は、もう一度咲翔に突撃した。その勢いに飲まれ、咲翔はまだ包み紙のとれていない鹿せんべいを、ぽろりと取り落とす。
地面に落ちたそれに、鹿たちはむしゃぶりついた。何枚も重ねてあった鹿せんべいは、あっという間に姿を消してしまった。
茫然と立ち尽くす咲翔の前に、二人分の影が差す。おばちゃんと、母だった。
母は哀れむような、呆れるような曖昧な笑みを見せていた。そしておばちゃんはと言うと……非常に楽しそうな顔で笑っていた。
「えみくん」
「……はい」
「黒星ひとつ、追加だね」
悔しいやら、悲しいやら、だ。
確かにこの地で、今まで抱えていた重い荷物を下ろせたはずだったのだが……別の荷物を背負ってしまう自分が、とんでもなく情けなく思う咲翔だった。
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