【小説】あなたといた道、母が見た空 第六章 ②
【第一章はこちら】
翌日、朝食に向かうより前、咲翔の部屋に突然来訪……いや襲来した者がいた。ドアのベルを乱暴に何度も何度も鳴らし続ける迷惑な人物は誰か。一人しか思い浮かばない。
「おばちゃん、そない何回も鳴らさんでも……」
呆れつつドアを開けた咲翔の前に立っていたのは、おばちゃん……ではなかった。
「おう」
ぞんざいにそう言ったのは、咲翔より上背のある男性だ。その人物を、咲翔はよく知っていた。
『多岐川 澄生(すみお)』……咲翔の二つ年上の、兄だ。
「兄貴……?」
咲翔の囁き声は気に留めず、兄はじっと部屋の奥を覗き込んだ。
「……一人か?」
「そうやけど?」
「入るで」
そう言って、兄はずかずかと部屋に押し入っていく。ちょうど荷物を広げていたベッドの上に、無遠慮にどかっと座ると、腕を組んで咲翔をねめつける。
「で?」
「『で?』って、何が?」
父といい、兄といい、まず先に『久しぶり』ではないだろうか。咲翔が言えた義理ではないのだが。
そういった口上を抜きにして、いきなり本題に入るところが苦手だ。しかも何が言いたいのか、まったくわからない……。兄の方は、なぜわからないのかわからないという顔だ。
「どういう状況やねん」
「えーと……何のことか……」
「ごまかすなや。いきなり家出したかと思ったら人妻と不倫旅行て、いったいどういうことや?」
「……は?」
兄から飛び出した言葉の一つ一つが、身に覚えのないことばかりだった。目を瞬かせ、首を傾げ、それでも何も返せない咲翔に、兄は特大のため息をぶつけた。
「俺は悲しい……お前は人が好すぎるところはあるけど、人の道に反することだけはせぇへんて思ってたのに……」
「いや、待ってや」
「父さんがきっちり言い聞かせて連れて帰ると思ってたのに、絆されてその人……梶さんやったっけか? 梶さんのことを『思ってたよりずっとええ人やった』なんて言いよって……ええ人なんかも知らんけど、どっちも冷静になって考えんかい」
「いや、だから……」
「お前と梶さんにとってはお花畑でええかもしれんけど、相手の家族にとっては地獄やし、お前ら二人かてあとちょっとしたらとんでもない目に遭うんやで。今のうちにちゃんと……」
「ちょっと待ってや! 何の話やねん?」
無理矢理に話を止めると、兄の眉がぴくりと跳ね上がった。
「なんや、逆ギレか?」
「ちゃうわ! いつの間にそんなストーリーが出来上がってん! 勝手に広げんなや。兄貴の頭の方がお花畑やないか!」
今出せる、最大の声量で叫んだ。血流が激しく脈打つ。ホテル中に響き渡ったのではないかと心配になったが……今は、目の前の兄だけが問題だ。
兄は、未だかつてないほどの咲翔の大声に面食らっているようだ。しばらくぽかんとしていたが、やがて考え込みだし、しばらくして顔を上げると、尋ねた。
「もしかして……俺の勘違い?」
咲翔は、それに頷く元気すら残っていなかった。
******
「どうも、咲翔の兄の『澄生』です。弟が大っっっ変、お世話になりました!」
兄は、ロビーでおばちゃんに会うなり深々と頭を下げた。それはもう、折り紙のようにぴったりと身体を折り曲げている。きっと本人の居ないところとはいえ、不倫疑惑をかけてしまったことへの罪悪感があるのだろう。
そんなこととは知らないおばちゃんは、ニコニコして兄と咲翔を見比べていた。
「そんな、こちらこそですよ。昨日お父様にもお伝えしましたけど、私の方がずーっとお世話してもらってるんですよ。ね、えみくん?」
「え? いや、そんな……」
返答に困っていると、兄は疑わしいという視線を向けてきた。
「遠慮は無用ですよ?」
「いえいえ、本当に。えみくんがいなかったら、私、間違いなく途中で野垂れ死んでましたよ」
「そんな大袈裟な……」
兄は苦笑いを返しているが、咲翔はそうはできなかった。おばちゃんの言ったことが、リアルに想像できてしまった。決して『大袈裟』ではないのだ。
「ほな、今日はどうしましょう? 僕が一日お付き合いしますんで、どこでも行きたいところを言うてください」
「う~ん、そうだなぁ……」
ホテルの外には、実家の車が停まっている。大阪に限らず、関西一円へお連れする所存のようだ。
その意を汲んだのか、おばちゃんはかばんに入っている旅行雑誌を引っ張り出した。付箋だらけのページをめくっていく。
「あの……兄もこう言うてることですし。多少の無茶はかまわへんと思いますよ。大阪以外に奈良とかもありですよ。あとは……京都とか?」
「ほんと⁉」
急に食い付かれて、咲翔はびくっと震えた。だが、爛々と輝くおばちゃんの目を見て、色々と察したのだった。
これはおそらく……『細かいことは任せるから、とにかく行きたい』の目だ。
「兄貴、京都がいいみたいやで」
「なんで? 今の一瞬で何が決まってん?」
「とにかく今日は、京都やねん」
咲翔は、断言した。兄はなんだか釈然としない様子だったが、おばちゃんの顔を見て、しぶしぶ承諾していた。
「ほんなら梶さん、京都のどこに行きたいです?」
「京都かぁ……京都なら……」
おばちゃんはぶつぶつ言いながら考え込んでいた。大阪しか頭になかったらしい。旅行雑誌とにらめっこしてはうんうん唸っている。
「おばちゃん、そない悩まんでも……ほな、咄嗟に思いついた三箇所をとりあえず言うてみてください」
「三箇所? う~ん……嵐山。それに……金閣寺」
なるほど、京都観光の代表格だ。では最後に口にする場所もよく耳にするところだろうか。そう思っていると、おばちゃんはチラリと咲翔を見て、ちょっとだけ悩んでいた。だが、急にぺこりと頭を下げた。
「えみくん、ごめんね」
「な、何がです?」
「清水寺、行ってみたい」
その一言で、咲翔はがくりと崩れ落ちた。
(よりによって、一番避けたかったところを……)
そう思うがしかし、おばちゃんが行きたいのならば従うと決めているのだから、お供するほかない。
「……わかりました。でも『ちょっとだけ』にしてくださいよ」
「了解! パッと見るだけだから」
おばちゃんの『パッと』は信用できないが、致し方ない。
立ち上がると、兄の視線とぶつかった。どうも目を丸くしているようだ。
「なに? なんか変なことあるんか?」
「いや……」
兄は、いつもハキハキしている。こんな風に言い淀むことなんて珍しい。また何か、咲翔の判断に意見があるんだろうか。
尋ねてみようかどうしようか、迷っていると、兄の方が先に口を開いた。
「ほな、行きましょうか。車で行ったら混んでるやろうし、電車で行きましょ」
そこからは、ガイドツアーよろしく、兄が先導した。阪急電車に乗り、河原町から四条通を抜け、八坂神社を横目に進んでいく。
歴史と風格を感じさせる建物がいくつも並びつつ、新しい装いも見える。レトロモダンな趣と現代の街並みが混ざった、不思議な街並みだ。
しかも、そんな趣を好むのは日本人ばかりじゃない。すれ違う観光客は、外国人であることも多い。外国には、おばちゃんのようにアクティブな人が多いのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、おばちゃんの姿が見えないことに気付いた。
幸い後方に見つけることができたのだが……その側には、もう一人、いた。困っている顔をした外国人観光客が。
「えーと、私も京都は初めてで……あ、英語かな? う~ん、まずここがどこなのかなぁ」
きっと頼られたのだろうが、今は一緒に困り顔になっている。とはいえ、英語で助太刀することなど、咲翔には難しい。どうやって助けたものかと思っていると、隣にいた影が、素早く動いた。
「梶さん、どないしました?」
「あ、澄生さん。なんかね、この方たち、迷子みたいなんです」
そう聞くやいなや、兄は英語と思われる言語で話しかけていた。流暢な話し方に、相手は驚きつつ、安堵しているのがわかった。言葉と身振りで何かを伝えたかと思うと、観光客たちはにこやかに手を振って、去って行った。
「祇園で舞妓さんと写真、撮りたかったみたいです。道教えたら伝わったみたいですよ」
「すごい、ペラペラでしたねぇ。英語ですか?」
「今のはドイツ語です。英語もいけますけど」
「へぇぇ!……ドイツ語って、あのドイツ語?」
「どのドイツ語ですか……大学の外国語の授業で選択してたんやから、あれくらいできますよ。なぁ、咲翔?」
兄が振り返り、尋ねてくる。だが咲翔は同意できない。さっきも、彼らが何を話していたか、まったくわからなかったのだ。
「あぁ……そう、やな」
兄くらい優秀なら、できたことかもしれない。だけど、咲翔にはできない。子どもの頃からずっと、できなかった。その結果、こう言われる。
「できへんのか? なんでや?」
心底、不思議そうな声だ。それもまた、うまく答えられず、咲翔は曖昧な笑みで誤魔化した。
(今日一日、ずっとこの調子なんやろか……)
早く帰りたい。咲翔は、早くもそう思ってしまった。
「帰るて……どこへやねん……」
誰ともなしに呟いて、咲翔は歩き出した。前方では、兄とおばちゃんが楽しそうにおしゃべりしている。
******
「わー高い! 怖いねぇ!」
そう言いながらも、おばちゃんはキャッキャと笑っている。怖いなんて嘘だ。本当に怖ければ足が竦んで動けないはずだ。咲翔のように。
断崖の上に立つ絶景スポットとして名高い清水の舞台に立てば、誰でも足がすくむものだ。そう思っていたのだが、例外はどこにでもいるらしい。
いや、周囲を見回すと、どうも咲翔の方が例外らしい。誰一人、悲鳴や感嘆の声をあげてはいても、恐怖で硬直している人物はいなかった。
恐怖のほかに敗北感まで湧いてくる中、頭上から呆れた声が降ってきた。
「お前……相変わらず、だらしないのぅ」
咲翔は、顔を背けた。だが兄はかまわず続ける。
「人前でそんな情けないツラ見せるなて言うたやろ。そんなんやからブラック上司につけこまれるねん」
元上司と高所恐怖症は、まったく関係ないじゃないか。そう思うのだが、咲翔は言葉にできなかった。
気にすることはない。兄のいつものお小言だ。待っていれば終わる。だが、いつ終わるのだろう。そう思っていると……。
「えみくん、こっちも行きたいんだけど」
おばちゃんは二人の間にずいっと割り込み、旅行雑誌を押しつけてきた。
「『地主神社』? ああ、向こうにある縁結びの?」
「そうそう。恋愛以外の縁も結んでくれると思う?」
「さ、さぁ……神様同士、伝えといてくれるんちゃいます?」
互いに首を傾げながら、自然と足は次の目的地へと向かう。舞台から臨む絶景は、いつの間にか視界から消えていた。
結果から言うと、縁結びは叶わなかった。何故なら、地主神社そのものが社殿修復工事のために何年も閉門されていたからだ。
「おばちゃん、すみません。普段、行かへんもんやから工事中て知らんで……」
「えみくんのせいじゃないでしょ。なんで謝るの?」
閉門の看板を見た時にはあからさまにガッカリしていたおばちゃんだったが、数秒経つとけろっとしていた。地主神社は諦めたものの、極彩色の三重塔も見たし、弁慶の錫杖と高下駄も見た。音羽の滝の水もすくい、今は清水坂で宇治抹茶スイーツを堪能している。どこからどう見ても、清水寺観光を満喫している。
兄が店に並ぶスイーツを全種類食べ尽くす勢いのおばちゃんを怪訝な目で見ていた。
「……梶さん。次はどこに行きたいですか? 朝に言うてはった場所を回りますか?」
問いかけられて、ようやくおばちゃんは食べる手を止めた。そしてしばらく考え込んだかと思うと……
「うん、そうね。金閣寺! 一回、直に見てみたいですね」
「確かに、地元民でもそう思います。ほな……咲翔、タクシー捕まえてきて」
さらりと命じる兄に、一瞬眉をひそめつつ、咲翔は黙って従うことにした。
「わかった。ほな、ゆっくり来て」
おばちゃんが申し訳なさそうな顔をしていたことが、申し訳ない。
なにより、兄に苛立っても何も言い返せない自分が、なんとも情けない。
(やっぱり、来たくなかったわ……)
早く終わらせるには、おばちゃんに楽しんでもらう以外にない。咲翔は大通りに出て「空車」の文字を掲げる車を探した。
幸い、すぐにタクシーは止まってくれた。逆にタクシーに待ってもらわねばならないかと危惧した直後、背中を小突かれた。兄だった。相変わらず力加減を見誤っている人だ。
思わずにらみ返すが、視界に入った兄の顔は、なんとも……決まり悪そうだった。対して、隣に立つおばちゃんは上機嫌に見える。
(なに話したんやろ?)
不可解な空気を纏いながら、兄は無言でタクシーの助手席に乗り込んだ。そしておばちゃんが、後部座席に乗るよう咲翔に勧める。
兄はぶっきらぼうに「鹿苑寺」と告げていた。
(この空気は、どうしたんやろ?)
咲翔の疑問が募るままに、タクシーは一路、金閣寺へと向かった。古き時代の名残を感じつつ、現代の華やかさも混ざった景色を、おばちゃんは窓からじっと眺めていた。かと思うと、急に鞄をごそごそして、助手席にいる兄に何かを突き出した。
「あ、お兄さん! お支払いはこれで!」
押しつけるように渡したそれは、お金だ。一回のタクシー代としては多すぎる。おそらく往復もしくはこの後のタクシー代も含んでいるのだろう。
兄は思いきり顔をしかめて、押し返した。
「けっこうです。弟がお世話になったお礼をしてるんですから、こんなことされたら困ります」
「いいじゃないですか、交通費くらい」
「というか、せめてこっそり渡してくれませんか? こんな運転手さんの前でやなんて無粋やし、いやらしいし……」
「こうしないと断られるでしょ?」
「どうしたって断りますよ。とにかくお金をしまってください……咲翔、なんか言え」
ミラー越しに、運転手の苦笑いが見える。咲翔は小さく頭を下げてから、ため息交じりに言った。
「兄貴、あきらめ」
「は?」
「おばちゃんは、言い出したら聞かへんで」
「なに言うてんねん、お前?」
兄はぎろりと睨みつけてきたが、それを遮るかのような明るい声が響いた。
「さすがはえみくん! よくわかってる! てわけで、はい!」
味方を得て勢いを増したおばちゃんは、ぐいぐいお金を押しつける。そのやりとりを聞いていた運転手は、噴き出して笑っていた。
「お客さん、お言葉に甘えはったらどないです? たぶん、受け取るまで諦めてくれへんのとちゃいます?」
「そう! 運転手さん、鋭い! 私、諦めないよ。車から下りてもずっと付き纏うよ?」
そう言われて、兄は青ざめた。金閣寺のような観光客でごった返す中でもこんな押し問答をされては、どうなるかわからない。
「……わかりました。タクシー代はありがたく頂戴します。ただし拝観料や食事はこっちが払いますからね。いいですね?」
「はーい」
しぶしぶお金を受け取る兄に、おばちゃんはニコニコ……というより、ニヤニヤしていた。本当に、さっきのわずかな間に何があったのか……。
咲翔が首を傾げるのとほぼ同時に、タクシーは、金閣寺の前に到着していた。
車で来た人、徒歩で来た人、さまざまな人が一つの入り口に向かって集まっていた。その人並みを、警備員がさばいている。「ご苦労様です」と心の中でつぶやき、咲翔たちは参道へと進んだ。
これまで訪れた史跡と同じく、緑の枝葉が天井になっていた。真夏だというのに厳しい陽光を遮って涼しいばかりか、葉の間から覗く光がきらきらと光って宝石で彩られているようだった。
拝観受付をして、総門をくぐる。豪奢ではなく、むしろ質実剛健とした佇まいだ。
なんだか、意外だった。金閣寺とは、もっと金箔だらけのイメージを抱いていたのだが……。だが、ほんの数分歩くと、見えてきた。当初のイメージどおりの建物が。
「これが鹿苑寺……通称、金閣寺です」
兄が、自慢げに紹介する。兄も初めて来るはずだが、この一瞬にしてイニシアチブをとってしまうあたりが、兄のコミュニケーション力と言える……。
おばちゃんは感心しながら、目の前の金ぴかの建物と、解説が載っているのであろう雑誌とを交互に見た。
「へぇ……鹿苑寺ね。もともとはお寺じゃなかったんだ」
「みたいですね。あれは舎利殿……仏像や仏様の遺灰なんかを安置する建物で、時の上皇を招いて宴会したとも言われてますね」
そう、祖父が言っていた。祖父が楽しそうに話していた様子を、また思い出してしまった。
「咲翔……よう知ってんなぁ」
視界の外から、兄の声が聞こえた。振り向くと、感心した顔だった。その目は金閣ではなく、咲翔に向けられている。
「……え? おじいちゃんが言うてたやん」
「そうやったっけ? よう覚えてるな」
兄が目を見開くのと同様、咲翔もまた茫然とその言葉を聞いていた。兄から、こんな風に感心された事なんて、初めてかもしれない。
(いつも『頼りない』とか『しっかりせえ』とか、そんなことしか言わんかったのに)
初めての経験に、咲翔は硬直していた。すると、おばちゃんがくるりとこっちを向いた。
「そうなんです。えみくん、こういう史跡に行くと、なんでも教えてくれるんですよ。おじいさんの教えをよく覚えてるみたいで」
なぜか、自慢げに言うおばちゃん。それを聞いた兄は、これまたどうしてか、憮然としていた。今のやりとりに、何か機嫌を損ねるようなものがあっただろうか。
出しゃばったことを否定しなければ――そう思った。
「いや、あの……いうても又聞きの知識やし……」
「咲翔」
慌てて弁明しようとする咲翔に、兄の強い声音が覆い被さった。
「なんでもかんでも謙遜すればええっちゅうもんとちゃうやろ。お前のそれは、謙遜やのうて、卑屈や」
「……へ?」
きついお叱りだった。だが、不思議といつものように、足の竦む思いはしない。それがなぜなのかも、わからない。
咲翔がきょとんとして兄から視線を外せずにいると、兄の方が居心地悪そうに目を逸らせた。
「……梶さん、他にも見るところはありますよ。こっちです」
兄は、スタスタ歩いていってしまった。写真をパシャパシャ撮り終えたおばちゃんは、クスクス笑いながら、それに従おうとしている。
「……ようわからんわ」
二人の間に何があったのか、未だに判然としない。だがおばちゃんがずっとニコニコ……いや、ニヤニヤしているところを見ると、どうにも平和的ではなさそうに思えてならない。
聞いた方がいいのか、悪いのか。悩ましい問題に頭を抱えながら、咲翔は二人について歩いた。
参道は、まだ続く。左手に金閣を見ながら歩くと、再び木々の生い茂る道へと入る。しばらく歩くと、すぅっと澄んだ空気に包まれた。その空気の正体は、すぐにわかった。
「わぁ……滝だね」
高さは二メートルを超えているだろう石組みの滝が、目の前に現れた。ナイアガラの滝のような水量ではない。細い筋が幾本も川上から流れ落ちている、静かな滝だ。だがそれでも、水しぶきは大きく跳ねている。跳ねた水滴が、小さな虹を描く。
涼やかで、清らかで、そして鮮やかだった。
「龍門滝(りゅうもんのたき)です。故事にあるでしょ? 滝を登り切った鯉は龍になるって言う……あの『登竜門』が由来になってるって聞きました。ほら、滝壺の石。あれが鯉を表してるそうです」
言われてみれば、普通の滝よりも大きな石が滝壺に鎮座している。
「えみくん……上る?」
おばちゃんは、滝を指さして尋ねる。咲翔は当然、首を横に振った。
「上りません。当たり前でしょ」
ぴしゃりと言うと、おばちゃんはイタズラっぽく笑っていた。さっきのニヤニヤ顔より、ずっといい。
ふわりと、咲翔の顔にも笑みが浮かんだ。
そのまま再び木々に覆われた小道を歩き続ける。上り坂で息が上がったが、それでも日差しにじりじり焼かれた肌がゆったりと癒されていくようだ。
道なりに進むと、今度は古びた小さな建物が見えた。庵のように見えたが、近づいてみると、茶室であることが分かった。
「『夕佳亭』……夕日に映える金閣が佳いって意味だって」
振り返ると、咲翔たちは金閣を見下ろす位置にいた。今はまだ日が高いが、もしも茜空のもと、この風景を眺めていたらと想像すると、胸が躍るような思いだ。
それこそ、砂金の海を眺めているような光景だっただろう。
「梶さん、あっちで休憩できるみたいですよ」
兄が声をかける。視界の端に茶所が見えた他の観光客も、そこで休憩しているようだ。
お抹茶と、金箔をあしらった和三盆の茶菓子のセットがお値段500円となっていた。咲翔は金箔が一片載っているというだけで、なんだかドキドキしてしまったが……おばちゃんはパクッと一口だった。
(なんやろう……人間的な器の大きさの違いが見えたな……今更やけど)
咲翔は思い切って、一口で茶菓子を口に放り込むのだった。
「それにしても意外だね。今見た金閣寺って、割と最近に建て直されたものだったんだね」
雑誌に載っていた説明書きを読んで、おばちゃんは驚いていた。それに相槌を打ったのは、兄の方だった。
「そうですね。確か、あの金箔を貼り直すのも一大プロジェクトやったらしいですよ。どっかのドキュメンタリー番組で取り上げてました」
「そりゃあ、そうだよね。金箔の枚数もすごいだろうし、職人さんも集めないとだもんねぇ」
「金箔貼って数日で全部剥がれ落ちて、下の漆だけ見えて真っ黒になったこともあるそうです。『金閣寺やなくて黒閣寺や』なんて言われたとか」
兄の言葉に、咲翔の記憶もぼんやりと浮かんできた。確か、家族で一緒に見た番組だ。咲翔が小さい頃に、祖父の膝の上で観ていたものだ。
(兄貴も覚えてたんや……)
お抹茶をすすりながら、兄の顔をのぞき見る。
不思議だ。さっきまでぶすっとしていたのに、懐かしい話をしている今は、穏やかで寛いだ顔をしている。兄は、その顔のままおばちゃんに尋ねた。
「ほな、次はどこに行きます? このまま近くを散策しますか? 夕飯は、実はええところを予約してますねん」
「えー楽しみ! うーん、じゃあ次は……渡月橋が観たいです」
「嵐山ですか? ここからちょっとかかるな……咲翔、どう思う?」
いきなり、兄の視線が咲翔を向いた。驚いて、一瞬息を呑んだ。
「えっと……どうって、行き方とか? 電車ちゃう?」
おずおずと答えると、兄は「そうやんな」と同意した。
「ただ、電車の駅までがなぁ……バスかな」
「うん、徒歩は厳しいと思う」
咲翔の返答を聞いて、兄はスマホで何やら検索していた。しばし唸っていたかと思うと、急に立ち上がった。
「よし、行けます! タクシーやと道が混むんで、バスと電車移動にしましょ」
「え、もう行くの?」
そう咲翔が問うも、兄は既に歩き始めていた。風のように素早い。追いつけたのはバスが待っているバス停の前で、追いつくやいなや、バスに飛び乗った。息切れする咲翔を、兄は相変わらず「体力ないなぁ」なんて言って笑った。
悔しい。悔しいが、不思議と以前よりも温度を感じていた。
そう思ったのだが……渡月橋に到着して、またあの視線を浴びる羽目になった。
「咲翔……やっぱり、アカンタレやな」
兄は、咲翔を心底呆れた目で見て、言った。
そんなことを言われたって困る。怖いものは怖いのだ。渡月橋から見下ろす川の風景は涼やかであり、迫力もあり、壮大でもある。だが咲翔にとっては、橋の高さが問題だ。
水面までの距離が遠い。欄干が低い。川の底も浅そう。橋から見える風景からインプットした情報が示す可能性は、すなわち『落ちたら危険』。一度その言葉が浮かんでしまうと、咲翔の足は動くことを拒否してしまうのだった。
「大丈夫やろ。むしろフラフラ歩く方が落ちるぞ」
「お、落ちるて言わんといてや!」
咲翔だってわかっているのだ。渡月橋は見た目こそ木造の古めかしいつくりだが、内部はきちんとコンクリート製になっており、路面も同様にコンクリートと石畳のモダンな造りになっている。人や車が行き来しただけで壊れるようなことはないし、よほど身を乗り出さなければ落ちることだってない。
「でもこの風景……じわじわ怖いねん……!」
そう言う咲翔を見る兄の目は、呆れ以上に哀れみを含んでいた。言い知れない屈辱を感じていると、横からおばちゃんがにゅっと笑顔を覗かせる。
「別にいいじゃない、無理しなくても。動けないなら、そこで待ってなよ。ちょっと行ってすぐに帰って来るから。あ、澄生さん、写真撮ってもらっていいですか?」
「ああ、はい」
そうだった。咲翔は思い出した。ここにはおばちゃんの観光のために来ているのだ。おばちゃんが向こう岸へ渡りたいと言うなら、お供せねばなるまい。
そう思うと同時に、咲翔の身体は動いた。主に、上半身が。咲翔は気付けば、歩き去ろうとするおばちゃんと兄、二人の腕をがっちりと掴んでいた。掴まれた二人は、一瞬、驚いた顔を見せたものの、なんだか温かな表情に変わった。そして、何も言わずに歩を進めるのだった。咲翔の歩みに合わせてくれるので、とっても遅かったが。
亀のようにのろのろと渡月橋を進んでいく。途中、橋の中間地点で写真撮影をする。咲翔はおばちゃん一人にしてあげようと思ったのだが、素早く動くことができなかった。結果的に、桂川を背景に、おばちゃんとツーショットになってしまった。
スマホを構えていた兄は、眉をひそめた。
「咲翔……人様の記念写真にそんな青い顔で映るなや。心霊写真みたいやないか」
「そんなん言われても……」
何度でも言いたいが、怖いものは怖い。そう思っていると、すぐ側から笑い声が聞こえた。
「あはは、いいよ。しがみついたままでも。ツーショット撮ろうよ」
あっけらかんと言うおばちゃんに、兄は困り顔だったが頷いた。おばちゃんに合わせて、咲翔も青ざめたままどうにかピースサインを作ってみせる。兄は何度も「笑え、アホ!」と叫んでいたが、数度目で諦めて、シャッターボタンを押していた。
無事に撮り終えたら、足早に渡月橋を渡りきる。兄は「なんで最初からこの速度で歩かへんねん……」と呆れていた。
暑さと緊張で汗だくの三人は、涼める場所へ行くという見解で一致した。向かった先は、竹林の道。文字通り、竹林の中の小径だ。並ぶのは高さ五メートルはゆうに超える竹ばかり。天をも覆うほどの光景だ。先ほど訪れた金閣寺の参道と同じく、真夏の暑さから参拝客を守ってくれる。
「いいねぇ……緑の多い場所って。クーラーじゃない自然の涼しさ、ほんとイイ……!」
咲翔も、汗を拭きながら頷いた。おばちゃんの旅に同行してから、その良さを噛みしめることが何度もあった。
「グリーンカーテンてありますもんね」
「ああ、あのひさし代わりに植物育てるやつか? おかんがやろうとして、全部枯らしてもうてた……」
「ああ、そんなこと、あったなぁ……」
兄の言葉につられて、咲翔も思い出していた。二人揃って、同じタイミングで笑ってしまった。
「あの時、大変やったな。ものすごい量のゴミが出て……」
「大変やったんは俺一人やろ。兄貴も父さんも母さんも、ずっと家の中におったやん。枯れたツルを引き剥がす作業は全部、俺がやりました」
咲翔は思わず恨み節になってしまった。兄に対して、強く言いすぎたかとハラハラしたが、帰ってきた兄の言葉は……。
「悪かったて。美味いもん奢ったるから」
そんな、苦笑い。手を合わせて許しを乞う様子には、もう少し反省して欲しいと思うが……咲翔は、胸の内が清々しくなっていることに気付いた。
「……ていうか、最初から普通のカーテンにしとけば良かったのにな」
「ホンマにな」
また、二人して同じタイミングで噴き出す。すると、前方でパシャッと、シャッター音がした。おばちゃんが、咲翔と兄にカメラを向けている。
「いいね、兄弟仲良しだね」
「はぁ? そんなことは……」
思わず否定しようとして、兄の顔が見えた。申し訳なさそうな、少し傷ついたような表情が、視界の端にちらつく。
(なんで兄貴がそんな顔するねん。いつも面倒くさそうな顔で見てきたくせに……こっちが突き放したら傷つくとか、勝手やないか)
咲翔が、家族との確執を感じて、彼らとの関係に自信が持てなくなった原因において、兄が占める割合はかなり大きい。いつだって偉そうに、何でも下手だ中途半端だと責めていたのは兄だ。
だというのに、今は、そんな空気は微塵も感じない。
今まで感じてきた疎外感や閉塞感が、ほんの数秒笑い合っただけでなかったことになんて、ならないのに。
だが、おばちゃんの言うことが、嬉しく思っている自分も感じていた。
「ていうか、えみくんも『俺』って言うんだねぇ」
「はぁ? 当たり前やないですか」
「だって今まで、ずっと『僕』って言ってたよ。私と会ってから、一人称が『俺』になったの、さっきが初めてじゃない?」
言われてみれば、おばちゃんは雇い主だから、遠慮もあって『僕』と言っていたかもしれない。そして兄に対しては、さきほどちょっと油断してしまったかもしれない。
「そら……友達とか家族とかには……」
「良かった」
「え?」
「ちゃんと『家族』なんだねぇ」
おばちゃんがニッコリして言う。思わず、兄と視線がぶつかった。気まずくてすぐに逸らすと、向こうも逸らしていた。それがシンメトリーに見えたようで、おばちゃんは更にクスクス笑った。
「ねえねえ、澄生さん! 弟さんにお詫びの美味しいもの奢るついでに、どこかでお茶しません? 休憩しよ」
このニコニコは、提案ではない。仲直りするなら今だぞ、という脅しに近い。
兄は追い詰められたように視線を彷徨わせた末に、俯き加減に、ぽつりと尋ねた。
「何、食いたい?」
それがおばちゃんではなく、咲翔に向けられた問いだと、明らかだった。
咲翔はおばちゃんに視線を向けた。お茶をするなら、おばちゃんの希望が一番だと思ったのだが……おばちゃんは、静かに頭を振った。今は、咲翔が答える時なのだ。
「えっと……嵐山のおすすめ、何かある?」
「……ぎょうさん、あるで」
「ほな、それ全部で」
「全部て!」
強めのツッコミが飛んできた。咲翔は肩を押さえながらも、兄より先に歩き出した。
痛いけれど、なぜか痛くない。痛くないけれど、痛いフリをして、しばらくは兄にわざとらしく負い目を感じさせることにしたのだった。『嵐山駅前おすすめ食べ尽くしツアー』の間、ずっとだ。
兄のおすすめを奢ってもらうという主旨だったが、美味しいものを目の前にして、”おすすめ”だけで満足できるはずがない。結局は目に付いた、食べ歩きできるものをほぼすべて堪能するという胃袋への挑戦と化したのだった。
当然、嵐山駅前を一周するだけで、咲翔も兄も歩けなくなっていた。前を悠々と歩くおばちゃんの、胃の容積と柔軟性に、改めて脅威を覚えていた。
「父さんも言うてたけど……あの人、ホンマに人間なんか?」
「一応、そうらしいけど……」
兄は、妖怪を見るような目でおばちゃんを見ている。その気持ち自体は、わからなくもない咲翔だった。
「この後……鴨川沿いの川床、予約しててんけど……」
兄が、ちらりと窺うように見てくる。咲翔は小さく首を横に振った。
「おばちゃんは、食べられると思うけど……」
「まぁ、そうやろな」
兄の言う川床とは、鴨川沿いの納涼床を指す。鴨川沿いの店が、川に面したテラス席で食事を楽しむという夏の風物詩だ。川のせせらぎと夜風で涼みながら京料理を味わえる風流なディナーやランチは、観光客だけでなく地元関西でも人気だ。
……満腹でなければの話だが。
咲翔も兄もはちきれそうな状態だが、おばちゃんに対する経験値がある分、まだ咲翔の方に分がある。耐性がない兄は、大きく息を吐き出して、ギブアップを宣言した。
「俺はここで失礼するわ。後のことは頼んだ」
「は⁉ なんでやねん。川床はどうすんねん?」
「俺の分、キャンセルしとく。金は渡すし、店の情報は送っとくから、よろしく」
言うが早いか、兄からメッセージが飛んできた。店のURLとアクセス情報のみのシンプルなメッセージだが。
「……って、予約の時間ギリギリやん」
「そうやねん。すまんけど急いでくれ」
今この瞬間まで、兄との心の距離が縮まったと思っていたが、また広がった気がした。しぶしぶ、送られてきた住所の地図を確認していると、「ほれ」と言ってお金を手渡された。受け取ろうとすると……なかなか手放さない。まさかこの期に及んで出し渋る気だろうか。
「ちょ……くれるんちゃうん?」
「……すまんかった」
「いや、悪いて思うなら放してや」
そう言うのに、兄は手にぐっと力をこめた。
「そうやなくて、その……朝言うたこと、謝る」
「朝?」
唐突に言われて困惑したが、すぐに、脳が記憶と結びついた。
――いきなり家出したかと思ったら人妻と不倫旅行て、いったいどういうことや?
確かに、そう言われた。
「実はな、お前が否定しても、まだ信じられへんで……梶さんにも、訊いてしもてん」
「えぇ⁉」
半分怒りを孕んだ視線を向けてしまった。だが、兄は甘んじてそれを受け止めていた。
「それで……おばちゃんはなんて?」
「なんも……ちょっとの間、ぽかんとしてたけど、すぐにケタケタ笑っとった。それでな、言われてん。『お母さんも、お父さんも、お兄さんも……ご家族みんな、ほんとにえみくんが可愛いんですね』って」
咲翔は目を瞠った。いや、目を見開いたり、瞬かせたり、きょろきょろしたり忙しかった。そうまでしても、言葉の意味がわからなかった。『可愛い』……家族が、咲翔のことをそう思っていると、おばちゃんは評した。
「えーと……なんの話?」
にわかには受け入れられず、そう尋ねると、兄は悲しそうに眉を下げた。
「そうか……まぁ、そう思うわな」
兄は納得しようとしていた。
「梶さんに言われてしもたわ。お前のこと、子ども扱いしすぎとちゃいますかって」
兄の表情が陰る。だがそこに浮かぶのは、怒りや不快感ではないように見える。
「子どもや思って、何もわかってない、何もできないって決めつけてませんかって……それに……」
兄が、拳をグッと握りしめた。
「『子ども扱いするくせに、あの子の優しさに甘えすぎじゃないですか』やって……痛いところ突かはるわ」
苦い笑い声と共に、兄は顔を上げた。
「昔から色々と……お前は言い返すのんが苦手やし、何言うても受け止めてくれるから、俺も父さんも好き放題言うようになってたな……ホンマに、すまん」
深々と頭を下げる兄を見て、咲翔は戸惑った。こんなこと、初めてだ。
「いきなり、そんな……どうしたん? おばちゃんに言われたからか?」
「ああ、そうや」
やっぱり、と思った。心から反省したというのとは、少し違うようだ。だからだろうか、謝られても、なんだかぼんやりして、うまく飲み込めない。
だが兄は、もう一度まっすぐに咲翔の顔を見つめた。
「『ご家族が大事にしないなら、私がもらっちゃいますよ』やて……どう思う?」
「どう、て?」
「あの人の家族に……なるか?」
ひゅっと、息の詰まる音がした。声が出なかった。なぜか、答えられなかった。
どうして兄が、そんな問いかけをするのか。そんな悲しそうな顔で問うのか。
兄の顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
「えっと……」
「すまん、変なこと訊いてしもて」
兄は、ようやくお金を持っていた手を、放した。
「まぁ、楽しんでこいや。京料理は俺らもめったに行かへんかったし、ちょうどええやろ」
立ち上がった兄は、駅とは逆方向へと歩き出した。見送ることも、しないのだろうか。そう思ったが、兄は急に振り返った。
「そうや。明日は母さんが行くって言うてたで」
「あ、そうなんや……」
「……俺や父さんには、まぁ……別にええけど、母さんにはちゃんと話せぇよ。心配しとったんやで」
「……わかってる」
それだけ言うと、兄は、夕暮れの観光客の波に紛れていった。咲翔は、その後ろ姿を見送り、そして、前を歩くおばちゃんに追いついて、急いで電車に乗り込んだ。
予約の時間には、なんとか間に合ったのだった。
******
翌日も、よく晴れていた。だが咲翔の胸の内は、なんだかはっきりしない空模様だった。曇ってはいないのだが、快晴でもない。
昨日、兄に言われた言葉が頭の中で何度も反芻されるせいだ。
おかげで納涼床の京料理も、ホテルのふかふかのベッドも、何度食べても美味しい朝食ビュッフェも……何も堪能できないまま時間が過ぎていった。
『あの人の家族に……なるか?』
そうなりたいと思った自分がいた。あの瞬間まで、そういう選択をしてしまおうと思っていた。
だが、いざ言われてみると戸惑った。そんなことをするはずがない、と当たり前のように思ったのだ。
だけど、家族へのもやもやした感情が胸の奥深くに根ざしていることも事実。
結局、何が何だか分からなくて、一晩中、頭を抱える羽目になってしまった。
(ああ、せっかくのごちそうやったのに……)
なんだかまた兄が恨めしく思えてきた。
救いは、テーブルの向かい側に座るおばちゃんが、これでもかというくらいの見事な食いっぷりであることだ。
「相変わらず……よう食べますね」
「そりゃあね。観光は体力勝負ですから」
咲翔も、それには同意する。特におばちゃんは思いつきの振り幅が大きい。しっかり食べておかないと、間違いなく倒れる。しかも今日は、おばちゃんと二人ではないのだし……。
「き、今日は……何時にどこで集合予定です?」
「9時半頃にホテルまで来てくれるって」
「そう、ですか。あの……」
咲翔が声をかけると、おばちゃんは「うん?」と言って顔を上げる。
「あの……今日も、ここに宿泊ですよね? 大きい荷物は置いていっても……いいですよね?」
「うん、いいんじゃない? どうしたの、いつもは聞かないのに?」
「いえ、なんとなく、確認です……」
本当に、どうして聞いたのか自分でもわからない。だけど、そうしたかった。おばちゃんの口から、答えを聞きたくなったのだ。
******
「息子が、大っ変お世話になっております!」
「いえいえ、こちらこそ、いつも大変お世話になっております」
朝食を食べて部屋に戻り、鞄を持ってロビーに集合した咲翔が真っ先に見たのは、二人の女性によるお辞儀合戦だった。
片方はいわずもがな、おばちゃん。もう片方は……ひと月ぶりに見る、母だった。咲翔は、なんとなく声をかけづらくて、遠巻きに彼女たちを見ていた。すぐに見つかったが。
「おーい、えみくん! お母さん、いらしてるよ!」
おいでと手を振るおばちゃんに苦笑いを返しつつ、咲翔は二人の元におずおずと歩み寄った。
母の方も、どこか表情が固い。
近づき、軽く会釈をすると、母もまたぺこっと頭を下げた。
「やだもう! そんな他人行儀な挨拶して~」
おばちゃんに背中をバシバシ叩かれる。痛い。だがその痛みよりも、母を前にして張りつめてしまう緊張感の方が、よっぽど苦しい。
「……体調は、もう大丈夫なんか?」
ぽつりと聞こえた母の声は、あまりにもか細く、糸のようだった。それでも、声とともにはっきりと咲翔に視線を向けている。
「大丈夫。もう、熱も下がったし」
母は「そう」と小さく返して、ようやく視線をはずした。
「お母さんが、えみくんの好きなものとか色々教えてくださったおかげでね」
おばちゃんがそう言うと、母はさらにきまり悪そうにうつむいた。そういえば、咲翔が倒れている間に、二人はやりとりを重ねていたのだった。
おばちゃんの看病がやけに手厚いと思ったが、それは彼女の性格だけが理由ではなかったのか。ふとおばちゃんを見ると、ニヤニヤしている。何を言いたいのか、なんとなくわかった。
「……ありがとう」
顔を背けたまま、ぽつりと呟く。すると母からも「うん」と聞こえた。
(なんや調子狂うわ……いつもはアレコレうるさいのに)
父や兄よりも、様子が違う気がしていた。その理由がわからないでいると、おばちゃんに肩をがっしりと掴まれた。
「よし! じゃあ行きましょうか!……どこ行くんですか?」
おばちゃんは母の肩も掴んでいる。おばちゃんのバグ起こりまくりの距離感で近寄られて、母は混乱しながら答えた。
「ええと……大阪と京都は行ったって聞いたので、良ければ奈良にお連れしようかと……」
「奈良! いいですね! 大仏様にお参りしたいです」
「東大寺ですか? わかりました。あとは……春日大社も行かはります?」
「聞いたことあります! 世界遺産ですよね! 行きたいです!」
「ほな、そうしましょうか」
まさかここまでグイグイ迫られるとは思っていなかったのだろう。母は、先ほどのお辞儀合戦が嘘のように腰が引けている。
おばちゃんはおばちゃんで、不気味なくらいにフレンドリーになっている。中年女性が二人、肩を組みながら歩く様は、なんともシュールに見えた。
だが、咲翔は忘れていたのだ。もっと重大な問題が控えていたことに。
「ほな、行きますよ」
そう言って、母は車を発進させた。助手席には咲翔。後部座席におばちゃんを乗せ、奈良市内まで安全運転のはずが――
ガックン、ブゥゥン、キキッ……と、車の運転において、あまり聞きたくない音のオンパレードとなった。わずか、一分間の出来事だ。
(な、何が起こった⁉)
何が起こったのかは明白だ。運転が荒い。ただそれだけ。問題は、その荒い運転を行っている人物である。
咲翔はおそるおそる、運転席を見た。母がいる。わかっている。車に乗ったときから、変わっていない。
ということは、信じたくないが、あの酷い運転をしていたのは……。
咲翔の中で、恐怖と驚きと思考が一致した時、思わず声を発していた。
「母さん、運転替わってくれ。俺がやる」
「へ? でも今日は私が連れていくって……」
「ええから! 信号替わる前に、早く!」
咲翔自身、強すぎる物言いだったとは思っている。だがそれでも押し通さねばならないと思ったのだ。母の運転と、旅の道中で経験したおばちゃんの運転が重なって見えたのだ。それはすなわち、命がけであることを示す。
(旅行で命かけるのなんか、ごめんや……!)
しぶしぶ運転席を譲った母に代わり、咲翔はシートベルトを締める。
(なんや久しぶりな気がするな)
運転をするのも、この関西の地を走るのも、どちらも少し時間が空いている。深呼吸をして、咲翔はアクセルを踏み込んだ。
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