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【小説】あなたといた道、母が見た空 第六章 ①

【第一章はこちら】

 ぽつん、と何かが道場の窓を叩いた。雨粒だ。
 休憩中の剣道部は、稽古の時の気迫とは違う賑やかさに包まれていた。そんな中でも、桜には雨音が聞こえてきた。誰かが知らせてくれたかのように。
 空から落ちてきた水滴が重みを増して、中庭の木々の葉に弾かれる。葉っぱがそこかしこで揺れていた。
 隣では、仁美が外を見て眉をしかめている。
「うわ、けっこう強めに降ってきたね……夏休み最後の日がぁ……」
 そうぼやく仁美の気持ちが、桜には少しわかった。なんだか、夏休みそのものがどんよりとした灰色に塗りつぶされてしまいそうだ。
 しょんぼりしながら、仁美は更に言う。
「しかも私、傘忘れたんだよね……」
「天気予報では雨だったじゃん。私、傘持ってきてるよ。折りたたみだけど」
 予報では午後から雨だとは言っていた。だが、まさかこれほど強くなるとは予想外だった。果たして折りたたみ傘で、二人分の安全圏を確保できるだろうか。少し不安だ。
「そこまではいいよ。ただ、帰りにコンビニまで入れてもらっていい? 傘買うから」
 桜は、笑顔のまま硬直した。『コンビニ』……その言葉を聞いて。
「桜? どうしたの?」
「な、なんでもないよ。コンビニね、うん。行こう行こう」
 さすがに、その申し出を断るわけにはいかない。
 だけど桜は、できることなら、そこだけは避けて通りたいのだった。あそこには、『彼』がいるから――
 部活が終わり、仁美に付き添う足取りは重い。
 理由は、行き先がコンビニだからというだけではない。今日が、七日後だからだ。夕方には、あの人と顔を合わせなければいけないからだ。
(正直、会いたくない……)
 ため息が出そうになるのをどうにか堪えて、コンビニまでたどり着く。
「私、外で待ってるから、買ってきなよ」
 桜がそう言うと、仁美は急いで中に入ろうとした。だが、歩みが止まった。
 中から出てこようとした人物とばちっと目が合って、桜は思わず声を発した。
「あ」
 それは相手……多岐川咲翔も同じだった。お互いに、ぎこちなく会釈を交わす。
 その様子を気に留めつつ、仁美は店内に入った。そこで、悲鳴のような声を発していた。
「か、傘が……!」
 雨の日には入り口近くに傘売り場が出ているものだ。見たところ、今も入ってすぐの場所に置かれていたようだ。だが……並んでいる数が少ない。作りのガッシリしたこうもり傘のようなものしか残っていないようだ。
「ああ、今日はけっこう降り続けてるから、よう売れたから……」
「ええぇ! 一番安い小さい傘が良かったのに……こんなに大きい傘、重いしいらないよ」
 仁美は項垂れて言う。そうは言うものの、外は傘なしでは歩けないほどの雨脚だ。致し方なく、売り場で一番高い傘に手を伸ばそうとした。
 すると、そんな仁美に向けて、透明な傘が差し出された。
「良かったら、どうぞ」
 咲翔だ。手に持っていたビニール傘は、さっき買ったばかりのもののようだ。
「でも、これ使うんじゃ……?」
 外と咲翔を交互に見て、仁美が言う。だけど咲翔は小さくかぶりを振った。
「家、近いんで。あぁ……一旦家に帰るんで、ちょっと遅れますって伝えてもらえますか?」
 咲翔は桜の方を振り返り、付け足すようにそう言った。かと思うと、戸惑う桜と仁美から逃げるように、走り去ってしまった。容赦ない雨の総攻撃を食らいながら。
 後に残された二人は、ぽかんと後ろ姿を見つめるしかなかった。
「あの人、ここの店員さんだよね。桜、知り合い?」
「まぁ、うん……」
「へぇ……いい人だねぇ。ていうか『遅れる』ってなに? 会う約束でもあるの?」
「まぁ……事情があって、毎週来てくれてる」
「うそ! どういう関係?」
 仁美の両目が、好奇心で輝き出す。その視線から逃れつつ、桜は言葉を探った。
 いったい、どういう関係と言えるのだろうか。
「えーと、お母さんの知り合いっていうか、友達っていうか……」
 母のことを引き合いに出した途端、仁美の顔色が変わった。ぐいぐい迫ってきていた勢いが、失せていく。
 違う。そんな風に友達を萎縮させるようなものじゃない。仁美を安心させるような関係性の表現は、何かないか。そう考えた時、思いついた。
「家族……みたいな?」
「ふぅん。なんか、いいね」
 仁美の表情がやんわりと和らいでいく。
 嘘は言っていない。だけど『家族』と口にした時、桜の胸はちくりと痛んだ。一番言いたくない言葉だったが、仕方がない。

******

 約束の時間を少し過ぎて、咲翔は家にやって来た。先ほど見た服装と変わっている。
(やっぱり、すごく濡れたんだ……)
 桜まで申し訳ない気持ちになった。
「いらっしゃい。よく来たね。濡れなかった?」
「大丈夫です。ただ……濡れそうで、今日は手土産をお持ちできなくて、すみません」
「そんなのいいから、あがって。こちらの方が、食べて欲しくてお取り寄せしたものがあるんだ」
 父の声が弾んでいる。冷蔵庫にしまっているお取り寄せ品をうきうきして取り出していた。
 その間に、テーブルについた咲翔にこそっと告げた。
「あの……さっきはありがとうございました」
「え?」
 咲翔は、目を瞬かせている。
「傘……友達に譲ってもらって……お礼言ってました。私からも、ありがとうございます」
 そう言い、ぺこりと頭を下げる。咲翔はそれを見ても、どこか困った様子だった。
「そんな……お礼言われるようなことしてへんし……」
「いや、したでしょ。だって仁美、すっごく助かってたし」
「でも、あの状況やったら普通……」
「『でも』じゃない。『どういたしまして』でいいの!」
 胸の内に溜まっていたもやもやしたものが、少し吹き出た感じがした。だが、思ったほど強くはなかったらしい。
 咲翔は一瞬驚いていたようだが、すぐに、クスクス笑い始めた。なぜか、父まで一緒に。
「な、なに?」
「いや……おばちゃんと同じようなこと言うてると思って」
 そう言って笑う咲翔を見て、桜の心臓は大きく跳ねた。
 ぎゅっと、強く拳を握りしめる。動揺を悟られたくなくて、顔を逸らせた。
 頭の天辺から、すぅっと血の気が下っていく。全身が冷徹になっていく。
(ああ、嫌だ……多岐川さんは、いい人なのに……)
 仁美のように、素直に好意や感謝を口にできれば、どれほど楽か。今の桜は、理性では咲翔を受け入れようとしつつ、感情がそれを拒んでいた。
(すごくいい人なのに……好きになれない。好きになりたくない……!)
「あの……大丈夫、ですか?」
 俯き唇を噛みしめる桜を、咲翔が覗き込んでいた。いつの間にか、苦悶の表情を浮かべていたらしい。父まで心配そうにこちらを見ている。
「ごめんなさい。大丈夫」
 桜は笑顔を取り繕って、席についた。
 大丈夫、胸の内までは悟られていないはずだ。
 そんなことを考えていると、父がリビングに戻ってきた。手には大皿を抱えている。ほくほくと湯気の上がるものが、三つ載っている。
「あ、豚まんですね」
「そう。大阪といったらこれでしょ?」
 大阪土産としては定番と言ってもいい、豚まんだ。チルドでのお取り寄せもあるらしく、数日前に父が受け取っていた。
 母以外にも、大阪に行った友人から何度もこのお土産を受け取ったことがある。とっても美味しいことを桜は知っている。父は桜以上に楽しみにしていた。我慢がきかず、今日を目前にして手を着けてしまいそうになっていたくらい。
 今、咲翔と同時に頬張っている。喜色満面とは、こういう顔のことを言うんだろうと桜は思った。
「あの……良かったら、私の分もどうぞ」
「え? 桜、食べないの?」
「うん、お腹すいてないから」
 自分の分を差し出すと、父はちょっと残念そうに眉を下げた。咲翔までが、心配そうに桜を見つめ、食べる手を止めてしまっていた。
(ああ、もう……私が駄々っ子みたいじゃない……!)
 実際、それに近いのだろう。ものすごく不本意ではあるが、桜は自分から話を振ることにした。
「それより、大阪はどんな感じだったんですか?」
 ぶっきらぼうに言うと、父が驚いていた。
「桜がそんなこと聞くなんてねぇ」
「別に……大阪とか行ったことないから、気になるじゃん」
 思えば、桜から咲翔に旅の話を聞いたのは初めてかもしれない。今だって、本当は聞かせてほしいわけではないけれど。
 咲翔は居住まいを正し、いつもより慎重に言葉を探していた。
「えぇと……正確には、大阪だけやなくて関西地方を回ったって感じなんですけど」
「へぇ? どこ行ったの? あの後、どうなったの?」
 父がぐいぐい迫っていく。その勢いに押されつつ、咲翔はふわりと天井を見上げた。
「大阪へは、飛行機やなくて新幹線で行きました。それから……」

◇◇◇

 ふわん、と窓の外が溶けるように流れていく。
 新幹線の中は電車ほどの喧噪はない。その代わりに、思っていたよりも揺れる。これが速さの代償か。
 外の風景が流れていくごとに、咲翔とおばちゃんは目的地に近づいていく。この車体の軽やかな動きに反して、咲翔の胸の内はずんと重くなっていくばかりだ。
 そんな咲翔の隣で、おばちゃんは鼻歌交じりに旅行雑誌をめくるのだった。何度も思ったものだが、この暢気さが、心底羨ましい。
「そんなん読んでたら、乗り物酔いしますよ」
「平気だって。私、乗り物酔いには強いんだから」
「……飛行機では酔ってたやないですか」
 出会った時の青白い顔を忘れてはいない。今は幸い、見る影もないが。
 むしろ今は、咲翔の方が顔色が悪いかもしれない。
 これまでの旅では目的地に近づくと心が躍ったが、今は、自分から爆弾に近づいているような気分だった。なにせ、家族と合流する手はずになってしまっているのだから。
「あの……やっぱり次で降りたらダメですか?」
「次はもう大阪駅だよ?」
「え⁉」
 いつの間に京都駅を通過していたのか。悲鳴に近い声を聞いて、おばちゃんは咲翔の心中を察したようだ。うんうんと頷きながら、優しく肩を叩く。
「大丈夫。誰も取って食いやしないから」
「喰われんかったらいいってわけやないです……」
 記憶の中の家族は、いつも咲翔を味噌っかす扱いしていた。しばらく会っていないとはいえ、ひと月たらずの間に変わっているとは思えない。まして、咲翔はろくに連絡もなしに急に家を離れた。いわば家出状態だ。銘々にきついお叱りを受けることは想像に難くない。
「はあぁぁぁ」
 深いため息が漏れ出た。そんな重い声に覆い被さるように、車内アナウンスが響いた。
『次は大阪駅です』
 来てしまった。
 咲翔は隣にいるおばちゃんに、ちらりと視線を向ける。
 おばちゃんはにっこり笑って、頭上を指さした。荷物を下ろしてほしいということだろうか……。
(忘れてた。この人、味方のようで味方やないんやった……)
 しぶしぶ立ち上がり、荷物棚からスーツケースを引っ張り出す。
「そういえば、足はどうするんです? またレンタカーですか?」
「ううん、車出すって言ってくれてるから借りてないよ」
「……うちが、ですか?」
 おばちゃんは、またしてもニッコリ微笑む。
(これまでで最上級に緊張するレンタカーやな……)
 咲翔は、なんとかため息を飲み込んだ。我慢したのだから、胸の内で思うくらいは許してほしい。
 二人の鞄を下ろすと、アナウンスが到着を知らせた。
 いよいよ、だ。
「降りよっか」
「……はい」
 聞こえるかどうかわからない小声で答えると、咲翔は歩き出した。自分よりも背の低いおばちゃんの影に隠れながら。
 ホームに降りると、びくびくしながら周囲を見回した。だが、見知った顔はいない。
(あれ? おらんのか?)
 ほっとしたが、よく考えれば改札の外にいる可能性が高い。また肩に力が入る。そんな咲翔を、遠くからおばちゃんが呼んでいた。
「おーい、えみくん! 早く早く~」
(人の気も知らんと……)
 恨めしく思ってしまうが、さすがにそれは筋が違う。咲翔は黙っておばちゃんに従った。
 だが……改札を過ぎても、いると思っていた人影は、まだ見当たらない。おばちゃんも彼らを探している様子はない。それどころか……。
「ねえ、えみくん。ここから大阪城って、どう行くの?」
 こんなことを言う始末。
 また考えなしに計画して……と小言を言いそうになった。だが彼らに会わずにすむなら、その方がいい。
「大阪城は……環状線に乗って行けますよ。こっちです」
 咲翔は、そそくさとおばちゃんを誘導した。ほんのひと月前まで過ごしていた懐かしの古巣だ。脳内のあらん限りの地理的知識を掻き集めて、一刻も早くこの場を立ち去る方法を考えたのだった。
 新幹線の到着した新大阪駅から在来線を乗り継いで約二〇分。コインロッカーに大きな荷物を預け、城を取り巻く大阪城公園を歩いた。
「緑が多いねぇ。そんな中のお城って、素敵だね」
「そうですね。ここに来たんは久しぶりですけど、不思議と前と違う感じがします」
「前はいつ来たの?」
「小学校の遠足やから……一〇年以上前ですね」
「それはこの場所が変わったんじゃなくて、えみくんの感じ方が変わったってことじゃない?」
「……そうでしょうか?」
 首を傾げていると、やがて開けた場所に出る。先ほどまでの並木道から見ると三倍以上の人が行き交っていた。
 ちらほらと屋台も見える。香ばしい香がそこここから香ってくるのだった。
「そうか、天神祭やから」
「天神祭ってなに?」
「七月にある菅原道真を祀る祭で、大阪天満宮がメインなんですけど、色んなところでイベントやるんです。大阪城でも特別展示とか、あるんちゃいますかね?」
「へぇ……じゃあとりあえず、屋台を見て回ろうか」
「……新幹線の中でぎょうさん食べたやないですか」
「おやつだってば」
「これから天守閣に上るんですから。その後にしましょ? ね?」
 子どもを宥めるような言い方に、おばちゃんはちょっと不服そうだったが……しぶしぶ頷いた。『叔母と甥』という設定だったはずだが、これでは逆転しているように見える。
(どっちが子どもやねん……)
 歩いても、おばちゃんはまだ屋台に未練が残る様子だ。おばちゃんに並び、屋台が視界に入らないように歩いた。すると、急におばちゃんの顔がぱっとほころんだ。
「あれ! お城だ!」
 人垣の向こうに堀が見える。先日見た五稜郭の堀に勝るとも劣らない大きな堀だ。その向こうに、黒々と、そして堂々たる佇まいの石垣が経っている。『堅牢』という言葉が形を成したかのような佇まいだ。
 そして、その向こう――石垣と木々の立つ奥に、微かに見える姿は……
「あれが大阪城?」
「そう、ですね……」
 天守閣だ。はるか頭上から、城を臨むものを見下ろしている。
 咲翔は、観光客であるはずなのに、なぜか身震いした。
(別にこれから攻めるわけとちゃうのに……圧がすごいな)
 そんな咲翔の横から、またも暢気な声が聞こえてくる。
「へぇ……あのお城そのものは昭和に建てられたんだって。意外と新しいんだね」
「そうらしいですね。祖父が『エレベーターなんか城につけてどうないすんねん』て怒ってました」
「エレベーターなんてあるの?」
「あるんです。だから祖父は、興味は持ってましたけど、なんとなく行きたくないって言ってました」
「まぁ、歴史好きの人なら嫌かもね……あ、でも石垣はほぼ当時のままなんだって。すごいねぇ」
 旅行雑誌を片手に、おばちゃんは感嘆の声を挙げる。
 咲翔は一瞬、言葉に詰まった。おばちゃんの感動を塗りつぶしてしまうかもしれなくて、言うのは気が引けたが、口にした。
「……え~と……実際に大坂夏の陣とかの時にあった石垣はもう埋められてるんです。今あるこれは、幕府が再建したものなんです」
 おばちゃんは目を丸くして聞いている。
「埋めたのに、また建てたの? なんで?」
「そこは政治的な目的で……大坂の陣で豊臣が滅ぼされたあと、徳川が、豊臣の痕跡を消すために石垣を埋めたらしいです。で、その上に新しく自分たちの城を築いたんです。『これからは徳川の時代や』っていう、支配者としてのアピールですね」
「へぇ、なるほど……ただ勝てばいいわけじゃないんだ。支配するのも大変なんだね」
「まったくです……って、祖父が言うてたことですけど」
 そう言っても、おばちゃんは感心して石垣を見上げていた。祖父がここにいたら、その素直な反応に喜んでいただろう。
 石垣を抜けてエントランスで入場券を買うと、地下一階に降りてから順々に上がっていった。
 大阪城についてのガイダンス、発掘された豊臣期の石垣の展示、パネル展示や鯱などの原寸大レプリカ、豊臣秀吉にまつわる歴史資料、大阪城本丸の復元模型などもあった。なかでもおばちゃんが驚いて感激していたのが……。
「大坂夏の陣のミニチュア再現だって。すご……ちっちゃいけど、本当に合戦してるみたい」
 鎧武者が手に刀や槍を持って戦っている。小さくとも『戦場』と呼べる臨場感だ。咲翔もまた、思わず唸ってしまった。
 もう少し見ていたい気がしていたが、展示はまだ他にもある。後ろ髪を引かれながらも、そのフロアを後にした。
 その後に控えていたのは豊臣秀吉の歴史。これにはおばちゃんはあまり興味を示さなかった。資料としてみるより、ドラマなどで見る方がわかりやすいのかもしれない。
 その代わり、次のフロアは開放されたように喜んでいた。なぜなら……。
「おお! 展望台だ! すごいねぇ、大阪が全部見えそう! ねぇ、えみくん?」
 当然、咲翔は壁の方を向いている。外を見たら、動けなくなる。
 おばちゃんも、五稜郭タワーで充分理解したのか、咲翔のことはそっとしておいて、一人で風景を堪能している。
 ふと、腕時計を見ると、十六時十五分。時間が経つのはなんと早いことか。
 息をついていると、おばちゃんがとことこ寄ってきた。
「よぅ! 青年、楽しんでる?」
「……この下の階までは」
「まぁ、そうだよね。大丈夫、高いところからだと景色が楽しめない人も、地面に近いところなら楽しめるでしょ? とっておきのプランを用意しているから」
 そもそも、咲翔は地元民なので、そこまで景色を堪能する必要もないのだが……おばちゃんの勢いは止まらない。
「えーと、プランて?」
「これ!」
 そう言って、おばちゃんはスマホの画面を突き出した。そこに表示されているのは……
「水上バス……ああ、大阪城の近くから出てる観光クルーズの?」
「イエス!」
 大阪市内を流れる『大川』を船で周遊するのだ。確かに、低いところからの景色が様々見られる。観光客にも地元大阪民にも人気のプランだ。
「面白そうですね。僕、これ行ったことないです。でも人気やから予約した方がいいってききましたよ?」
「うん、したよ。ここから出たら向かう予定」
「へぇ……何時からのクルーズなんですか?」
「もうすぐだよ。十七時からの便だって」
 ピタリと、固まった。次いで、腕時計を見る。
 十七時とおばちゃんは言った。そして現在は……十六時二〇分。
「マズいです。急いで下りましょう!」
「え? でもまだ四〇分あるんじゃ……」
「よく見てください。『乗船時間の二〇分前までに受付をお済ませください』って書いてあるでしょ? ここから乗り場まで十五分くらいありますよ」
「あれ?……ピンチ?」
「めっちゃピンチです。行きましょう」
 頷き合うと、あとはもう疾風のようだった。人の波をかき分けて階段を駆け下り、エレベーターを待つほんの僅かな時間も焦燥感に見舞われながら、大阪城を駆け出した。先ほど感激しながら見上げた石垣を、今は一瞥もせずに背を向け、とにかく走る。
 大阪城を目指してくる人並みを逆走していく。チラリ振り返ると、おばちゃんの姿がない。まさかはぐれたかと思いきや、前方から声がする。
「おーい。えみくん、早く~!」
(いつの間に……⁉)
 困惑しながらも、今はただ、走った。その結果……今、汗だくの手のひらには乗船チケットを握っている。
「ま、間に合った……!」
 息も絶え絶えに零したその声は、周囲の乗船客の喧噪に紛れて消えた……。隣では、おばちゃんが汗を拭いつつも、満面の笑みで立っている。
「いやぁ、ほんと危なかったね。ごめんね、全力ダッシュさせちゃって」
「いえ……」
 それ以上、言えなかった。敗北感に押しつぶされそうになりながら、咲翔はどうにか息を整える。
 落ち着いてくると、風がふわりと頬を撫でた。川面を吹き抜ける風は、真夏の熱気を攫っていくようだった。
 大阪の市街地で、こんなにも心地よい風に恵まれるとは思っていなかった。
 無事に乗船して席に着くと、もうその風を感じることはなかった。だが、ガラス張りの窓と天井の向こうには大阪の風景が広がっている。咲翔の視界が、大阪の街で埋め尽くされるのだ。
 船は、ゆったりと岸辺を離れ、悠々と皮の中心を進んでいく。水に浮いている浮遊感と、ぐいぐい進む揺れが、奇妙な不安定さを生み出す。
「えみくん、大阪城が小さくなっていくよ……」
 おばちゃんが寂しそうに言う。確かに、さっきまであの天守閣にいたかと思うと、去りゆく姿を見るのはなんだか名残惜しい。だが……。
「あの……大丈夫ですよ。一時間後くらいには、ここに戻って来ますから」
 そう、この周遊クルーズは大川を巡って、様々な大阪の風景を堪能すると、最後には戻ってくるプランなのだ。何一つ、寂しくなどないわけだ。
「わかってるけど……いいじゃない。この侘しさも味わいたいの」
「はぁ……すみません」
 そうは言うものの、おばちゃんの視線は既に去りゆく大阪城から迫り来る街並みへと移っていた。
「おお~大きな橋だね」
「天満橋ですね」
「なにそれ? どこ? どんな場所?」
「えーと……まぁ、その……大きい街です」
 観光ガイドでもなければ地元民でもないので、いきなり詳しい説明などできないのであった。地元だからと特にガイドブックも何も見ていなかったことを後悔した。
「えみくん、あれ何?」
 おばちゃんが、また外を指さす。同時に、船内でアナウンスが響く。
「右手に見えますのが、『大阪市中央公会堂』です」
「……って、なに?」
 アナウンスを聞くと、流れるように咲翔に説明を求めるのだった。
「ええと……明治時代にできた建物で、岩本栄之助っていう実業家が多額の寄付をしたおかげでできて、国の重要文化財で……って、アナウンスで言うてはりますよ」
「ごめん、聞くのがくせになっちゃって。よくわからないけど、レトロで素敵な建物だね」
「はい。僕もそう思います」
 レンガに覆われた赤と白の壁、そして緑の屋根が、古びていながらも趣を感じさせる。現在も運営されているという説明を聞くと、感慨深い。あんなところで仕事をするのはどんな気分だろうか。
 そんなことを思っていると、おばちゃんが前方を指さした。
「おぉ……また橋が見えてきたよ」
「あれは……淀屋橋ですか。今はビジネス街ってイメージがありますけど」
「本当だ。ビルがいっぱい並んでるね」
 橋の向こうには、ビル群が見える。咲翔がかつて勤めていた企業も、その中に含まれている。脳裏に苦い記憶が甦るのを抑えるように、咲翔は、知識だけを掘り返した。
「確か……昔からこの辺りは商工会議所があったりして、商業の中心地やったんです。だから今も企業がたくさん並んでるのも当然なんでしょうね」
「へぇ……それもおじいさんが仰ってたの?」
「いや、これは大学のゼミでちょっと調べたことがあって知ってただけです。よう覚えてませんし」
「そっか。じゃあ、それはえみくん自身が掴み取った知識だね。ちゃんとおじいさんを超えて、えらいじゃない」
「えらい……ですか? 生意気とかじゃなく?」
「『えらい』よ。子どもはいつか周囲の大人を追い抜くものでしょ。おじいさんだって喜んでるよ、きっと」
「そういうもんですか……?」
「そういうもんです」
 おばちゃんはびしっと言い放つと、また前方を向いた。次なる観光スポットが迫っているのだ。
 咲翔の戸惑いなんて、遙か彼方に見える橋の影よりも小さく、ちっぽけだと言わんばかりだ。
(いや、たぶん……ホンマにちっぽけなのかもしれへんな……)
 祖父の後ろから出るのは、怖かった。それがいつしか『出てはいけない』という意識に変わっていた。
 だけど祖父は、そうは思っていなかったのかもしれない。おばちゃんは、思っていなかったと言う。
「そうなんかもな……」
 もしかしたら、家族も本当は……そう、頭によぎった。
「ねえ、えみくん。また橋なんだけど?」
 次々に見えてくる街並みを見て、おばちゃんは目を輝かせる。幸い、このクルーズでは咲翔の知識が役立ちそうだ。
 おばちゃんの指さすものを見て、咲翔は応える。
「あれは――」

******
 
「いや~すごいね、大阪! 漫才のイメージしかなかったんだけど、すごいビジネスの中心地じゃない」
 人目も憚らず、おばちゃんはホクホクした様子で言う。
 観光知識よりも、歴史知識を駆使することで、おばちゃんにご満足頂けたようだ。人前で叫ばれるのは、ちょっと恥ずかしいが……。
「さて、じゃあそろそろホテルに向かいましょうか。えーと、梅田って書いてるんだけど……?」
「電車で戻らなあかん場所ですね。じゃあ駅に行きましょか」
 幸い、船の乗り場から駅までは徒歩で数分の距離だ。大阪城から必死に駆け抜けた分、のんびり歩くことにした。
 だが落ち着くと、咲翔は重要なことを思い出した。のんびりしようと思っていたのに、急に身体が固くなっていく。周囲を見回し、ゆったりと言うより、そろりと歩を進める。
「えみくん、何してんの? いくらなんでも歩くのゆっくりすぎない?」
 おばちゃんは咲翔を訝る視線を向ける。何も気にしていない風なのは、なぜなのだろうか。
「いえ、もしかして……誰か来るんかなって思って……」
「誰かって、誰?」
「誰って、そりゃあ……」
 咲翔が言葉を濁していると、おばちゃんの方が察したようだった。
「ああ! もしかしてお母さんたち?」
 と、なんとも遠慮のない声で咲翔の恐れているキーワードを挙げてくれる。否定することもできず、咲翔は小さく頷いた。
 するとおばちゃんは、しばし首を傾げていた。
「うーん、言ってなかったっけ?」
「な、何をですか?」
「お母さんたちと回るのは、明日以降って」
 その言葉を聞いた途端、咲翔の全身から力が抜けていった。今日一日、ぐっと歯を噛みしめていた気分だったというのに。
 呆気にとられた咲翔の顔を、おばちゃんはのぞきこんでくる。咲翔は、かろうじて視線だけをおばちゃんに向けて、言った。
「はよ言うてください……」
 その声は力なく、か細く、帰宅ラッシュで賑わう街中の喧噪に、紛れて消えたのだった。

******

 空は快晴だった。遠慮会釈のない日差しが、寝起きの咲翔を容赦なく照らす。
 咲翔は億劫そうに目を細め、太陽をにらみ返した。ただでさえ憂鬱なのに、これ以上いためつけてくれるなと。
 枕元に置いているスマートフォンには、着信はゼロ。つい先日までほぼ毎日かかってきていた電話やメッセージが、ぴたりと止んだ。
 咲翔が大阪に戻ると、わかったからだろうか。あれほど面倒だと思っていたものが急になくなり、かえって怖い。
 まして今日は、恐れていたことが現実になると、決まっている。
「はぁ……行きたくない」
 今すぐに台風が来てくれないだろうか……なんて思ってしまう。
 うなだれながら食べる朝食ビュッフェは、どれも味がしなかった。おばちゃんはいつものごとくもりもり食べていたが。
「えみくん、あんまり食べてなかったけど大丈夫?」
「大丈夫です……」
 空腹よりも胃痛に襲われそうだ。この状態で車の運転ができるのだろうか。不安になったが、よく考えれば、今日乗るのは家の車なのだ。
(そうや。都合よく解釈しとこう。どうせ誰かが運転するやろ。楽させてもらお)
 一度部屋に戻って、大きな荷物は置いて鞄だけ持ってロビーへと向かう。おばちゃんとの待ち合わせ場所だ。
 さて、どこで合流予定なのか……そう思っていると、視界の外から声が聞こえた。
「咲翔!」
 懐かしい、というには鮮やかに記憶に残っている。低く太い声。普段はそれほど大声は出さないのに、いざ叫ぶと重くよく通る声だ。ほんのひと月ほど前まで、毎日聞いていた。
 反射的に、声の主を振り返る。
 短く整えた黒髪、厳しさを滲ませる切れ長の目、それを覆うシャープなデザインの眼鏡、ノータイだがきっちりシャツのボタンを留めたその人は、咲翔の返事を待たずに駆け寄ってきた。
「父さん……」
 咲翔の声に、父は息を詰まらせていた。
 頭のてっぺんから足先まで何度も視線を走らせると、咲翔の目をじっと見つめた。
「相変わらず、やな」
 ため息と共に、そう呟いた。この人から見れば、相も変わらず迷惑ばかりかけるということだろうか。
 咲翔は何も答えられず、俯くしかなかった。父もまた、何も言葉を発しようとしない。朝のロビーは忙しない声で溢れているというのに、二人の間だけ、重い静寂に包まれている。 だが二人の間に走る奇妙な緊張の糸を、ふわりと緩める声が聞こえた。
「えみくん、お待たせ」
 おばちゃんが何も気にする様子なく、立っていた。咲翔にも、横に立つ父にも同じように微笑みかける。その様子を見た父は、居住まいを正して、頭を下げた。
「梶さんですね? この度は、うちの息子が大変お世話になりました」
 いきなり深々と頭を下げられ、おばちゃんは戸惑っていた。だが、すぐに何か気付いたようだ。
「ああ! えみくんのお父さん? はじめまして、梶と申します」
「はい。多岐川です」
 父は名乗ると、胸もとから名刺入れを取り出した。それを見たおばちゃんは、慌てて押しとどめる。
「そ、そんな……やめましょう。ビジネスの場じゃないんですから」
「しかし……」
「本当に、お名刺は結構ですよ。息子さんを見れば、確かなお人柄だってわかりますから」
 おばちゃんと父、二人の視線が咲翔に注がれる。なにか恥ずかしいことを言われた気がした咲翔は俯き、視線から逃れた。
 しばし、空白の時間が流れたかと思うと、父の声がした。
「今日は、妻と息子……咲翔の兄は仕事の都合で来られず、失礼しました。私がご案内します」
「ありがとうございます。むしろお時間を頂いてしまって、恐縮です」
「とんでもない。息子が大変お世話になったんですから、当然です。今日、明日、明後日と、関西を楽しんで頂けるように全力を尽くす所存です」
「そんな全力なんて……一緒に楽しんでもらえれば充分ですよ」
 父の強すぎる圧に、おばちゃんはまったく怯まない。咲翔は、感心してしまった……。
「それで、梶さんのご希望は? どこでもお連れいたします」
「どこでも?」
 父の言葉に、おばちゃんはごくりと喉を鳴らす。父は、神妙に頷いた。
「どこでも、です」
「じゃあ……」
 おばちゃんは、いつになく遠慮がちにそろりと告げた。
「胃がはち切れるまで、食べ歩き……したいです」
 態度とは裏腹に、なかなかに過激な願望が飛び出した。咲翔はおばちゃんの勢いには慣れている。だが父はそうではない。どう思っているのかと窺い見ると、父は静かに唸りを上げていた。
「おばちゃん、もうちょっと方向性を絞りませんか?」
「え~じゃあ、とりあえずたこ焼きかな……?」
 おばちゃんがそう言うと、父は、大きく頭を振った。
「『とりあえずたこ焼き』……? 梶さん、冗談言わんといてください」
 呆れたような声音だった。まさか、苛立っているのだろうか。
 咲翔が割って入ろうかと思ったその時――。
「人間の胃袋くらい、軽く決壊できずして大阪人を名乗れますかいな。近畿二府四県を、甘く見ないで頂きたい」
(何言うてるんや、この人?)
 父は、大真面目な顔で言い放つと、踵を返した。
「覚悟してください。胃袋が四つあっても足りませんよ。行くぞ、咲翔」
「行くぞって、どこに?」
 思わず尋ねた咲翔に、父はため息交じりに告げた。
「どこって……一つしかあれへんやろ」
 そう言って迷いなく歩く父に、咲翔とおばちゃんは、おずおずとついて行くことにした。ぐんぐん進み、電車に揺られ、父が案内したそこは……
「道頓堀……ここしかないやろ」
 威風堂々たる様で、父は言う。
(そんなドヤ顔で言うことか……?)
 道頓堀は、大阪を代表する繁華街の一つだ。某走っている人の巨大看板や、某巨大なカニ、某赤と白のしましま服の人形など、シンボルとなるものが多い。そしてもちろん、人気の飲食店もずらりと立ち並んでいる。
「ここなら美味いものが選び放題です。最初はどこからいきますか?」
 父は、そう言って商店街を指し示す。四方から、ソースやタレのいい香りがぷんと香ってくる。「どこから」と言われても、全部としか言えない状況だ。おばちゃんが、大変珍しいことに、困り果てている。
「えみくん、どうしよう……ここにあるもの、全部食べてみたいよ」
 突然神妙になったかと思うと、もう目がキラキラしている。今まで巡った観光地でも見た顔だ。こういう時に返すべき言葉を、咲翔は既に心得ていた。
「はぁ……まぁ、ほどほどにお願いします」
「どうしよう……! どれから行くべき?」
「……端から端まで歩いて、目についたもの、とりあえず食べていきましょ。心のままに」
「心のままに……うん、それしかないね」
 どうせ、全部目移りしているのだし、いいだろう。そう思ったのだった。
 だが、それを聞いていた父は眉をひそめた。
「待て待て。目についたもん全部て……食べ歩きの常識ではあるけども、考えなしに食べとったら最後の方にある店のもんが食べられへんようになるぞ」
 もっともな意見だ。だが、それは世間一般論。咲翔は、思わずふっと笑みをこぼした。
「父さん……おばちゃんを甘く見たら、あかんで」
 なおも困惑する父に、咲翔は「まぁ見といて」とだけ言って、歩き出した。
 何を甘く見てはいけないのか。それは当然、胃袋だ。
 歩き出したおばちゃんは、商店街を縦横無尽に駆けめぐった。美味しそうな香りがするたびに引き寄せられ、そのすべてを瞬時に平らげていく。
「見て、かにまんだって! こっちはホラ、たこ焼きのたこが飛び出してる! エッグタルトも柔らかくて甘ーい! よく見たらラーメンのお店多いね! 一日で全部回れるかな?」
 食べ物は軒並み、おばちゃんの胃へと吸い込まれてしまうのだった。ブラックホールのように。そしておばちゃんは、まだ次の目標を探し求めている。まるでレーダーのようだった。うきうきしながら歩くおばちゃんの歩幅に、やがて咲翔と父は遅れるようになっていた……。
 粛々とおばちゃんに付き合って買ったものを食べる咲翔の横で、父はぽかんと口を開けたままでいた……。
「咲翔……あの人は、人間か?」
 父は唇からこぼれ落ちるように、そう尋ねた。
「まぁ……うん」
 だから言っただろう、と返したいが、咲翔はなんとか堪えた。すると、父の声音がふと強ばる。
「……どんな人なんや?」
 それは、どういう意図の質問か、咄嗟に図りかねた。ちらりと父の顔をのぞき見ると、その視線はまっすぐおばちゃんへと注がれていた。厳しい視線だった。そこに含まれているものが、好意的ではないことは見て取れた。
「……いい人やで」
「具体的には?」
「具体的て……」
 父の視線が、咲翔の方へと向けられる。正面から受け止めることができなくて、咲翔は視線を外した。そんな咲翔に、父の詰問の声は尖っていく。
「どないした? はっきり言え」
「それは……」
 その先を、言おうとして言えなかった。咲翔の返答が、おばちゃんへの印象を左右してしまうかもしれない。そう思うと、声が出なかった。
 無言だったのは、僅かな間だった。だがそれでも、父にとっては判断に足る時間だったようだ。父は、ため息をこぼしながら頭を振った。
「また……考えなしに簡単に信用してからに……」
「……信用したかて、ええやろ。あの人のおかげで助かってんから」
「お前はな。そやけど、あの人に何の得があるねん。何処の馬の骨とも分からん、特技も何もない、食い扶持増やすだけの若造を拾って、あの人にええことがあるんか?」
 父の声が、胸を底から抉るようだった。痛みで息ができなくなりそうだ。
 否定しなければ、咲翔の胸は潰されてしまう。そう思うが、できなかった。だって、事実だから。ただ拳を握りしめて耐えるしか、今の咲翔にはできなかった。
「……あの人にお世話になったのは、ようわかる。そやからできる限り楽しい思いさせてあげたいとは思う。そやけど、これ以上付き合うのは、考えた方がええんとちゃうか?」
「……え……」
 思考がフリーズするとは、このことだろうか。咲翔の頭がすぅっと一気に冷えて、凍り付いたかのように何も考えられない。
 だがそれに対して、胸の内では様々な感情が勢いよく渦巻いていた。熱くて、胸が焼けるようで、苦しい。それをうまく言葉に代えられないことが、もっと苦しい。
 答えられずにいる咲翔に、父は肩を叩いた。
「まぁ、よう考え。ここは俺に任せて」
 そう言うと、父は前をずんずん進むおばちゃんに大きな声で呼びかけた。
「梶さん! 食べ歩きもええですけど、別の楽しみ方もしてみませんか?」
「別の楽しみ方? 何ですか、それ?」
 振り返ったおばちゃんの目は、ピカピカに磨いた宝石よりも輝いていた。面白いものに目がないこの人のことだ。絶対に食い付くだろうと咲翔は思っていた。だがまさか、ここまで予想通りだとは……。
 手早く手に持っていたものをぺろりと平らげると、おばちゃんは大人しく父に従った。先ほど父が咲翔に向けた言葉が、ふと甦る。
――また……考えなしに簡単に信用してからに……
(おばちゃんの方が、よっぽど当てはまるんとちゃうか……?)
 言い出したのが父でなければ、間違いなくおばちゃんを連れて逃げ出していたところだ。
 幸いなことに、父は、逃げる必要などない場所に連れて来た。
 看板に、有名なカニにも負けず劣らず巨大なタコが、からみついている。どの旅行雑誌にも載っているような有名なたこ焼き店だった。当然、店の外まで行列ができている。
 有名店の美味しいたこ焼きをごちそう――かと思うと、父はその行列を避けて、階段を上った。そして別の入り口から入ると、おもむろに店員に告げた。
「予約していた多岐川です」
 その言葉を聞くと、店員は奥へと案内してくれた。不思議と、一階で感じたソースの濃い香りがあまりしない。たこ焼き店だというのに、なぜだろうか。
 その答えは、すぐにわかった。
 案内された座ったテーブルに用意されていたもの、それは――たこやネギなどの『具材』。そして、なにやらとろみのついた卵色の液体。これは何の材料か、明白だ。
 そう思ったのだが、次に目に留まったのは、穴が空いた二つの丸太のような型。よく知られているアレとは、なんだか形が違う。
「たこ焼き作り……やと思うやろ?」
 父はなぜかニヤリと笑った。初めて見た、いたずらっぽい笑みだ。おばちゃんと二人、きょとんとしていると、店員が苦笑しながら説明に入った。
「はい、サンプル作りにお越し下さり、ありがとうございます」
「サンプル?」
 二人揃って尋ね返すと、父はニタリと笑った。いい年なのだが、なんだかイタズラが成功した少年のようだった。
「食品サンプルや。よく店頭に置いてるやろ? ここはその体験もさせてくれはるんやで」
 父から促され、店員が手順を説明していく。
 二つの丸い型に蝋を流し入れる。その中に、同じく蝋で作ってあるタコを入れる。このタコ……実に精巧に作られていて、咲翔は実際に持ってみるまで本物なのではないかと疑っていた。
 タコを入れたら、あとは自分の好きな具材を入れていく。ネギでも紅ショウガでも揚げ玉でも……それは、たこ焼き作りとまったく同じだ。ただ、型と材料が違うだけだ。
「なんや……たこ焼きやけど、たこ焼きちゃうって変な感じです」
「そうだねぇ。作ってると、こういうのを食べたくなってくるねぇ」
「さっき色んな店で食べたでしょ」
「このたこ焼きを実際に食べてみたいんだってば」
「諦めて下さい」
 咲翔が鋭く言い放つと、おばちゃんは不服そうに睨んでいた。
「そう切り捨てんでもええやろ。梶さん、お家で作らはったらどうですか?」
「家で?」
 おばちゃんはきょとんとしている。
「家にたこ焼き用のプレート、ありませんか?」
「たこ焼き用の……ないですね」
「え、ないんですか⁉」
 咲翔は、思わず割って入った。たこ焼きプレートなんて、各家庭に一台は必ずあるものだと思っていた。おばちゃんは、驚く咲翔に驚いていた。
「それ、普通なの?」
「大阪では……まぁ」
「へぇ……こんなに美味しいたこ焼き屋さんがたくさんあるのに、家でも作るんだ……これがコナモン文化ってやつなの?」
「……まぁ、文化の違いって意味では……」
 咲翔の方が、衝撃から立ち直れないでいる。まさか地元大阪でカルチャーショックを受けるとは思ってもみなかったのだ。
 咲翔が驚いている様を真正面から見ている父は、それでも粛々と『たこ焼き』を仕上げている。今はもう一つの型に入れたものを取り出して、ソースを塗っているところだ。
「まぁ、食べたい気持ちにさせるのが食品サンプルやからな。梶さんがお上手やから、自分の作ったもんでも引き寄せられるんや」
 そういうものだろうか。首を傾げる咲翔を置いて、父はふと手を止めた。
「お家にないんやったら、せっかくですし、買って帰らはりますか?」
「この近くで買えるんですか?」
 父は神妙に頷くのだが、咲翔は、なんだか嫌な予感がした。この近隣で、たこ焼き器が買えると断言する場所、それは……。
「この近くに、道具屋筋いう場所があるんです。色んな金物が買えるので、そこやったら好きなんを……」
「ち、ちょっと待ちぃや、父さん!」
 咲翔の大きな声に、父は目を瞠っていた。
「あそこは飲食店用の金物がほとんどやろ。家庭用やったら、家電量販店とか家具の店の方がええんちゃうか?」
「え、なにそれ? それはそれで、ちょっと見たい」
「……さっき買った店なんかで使ってる、一回で五十個以上焼けるやつですよ?」
「あぁ、そこまでのは……いいや」
 家庭用のたこ焼き器は、せいぜい二十個程度。父の提案だと、どう考えても荷が勝ちすぎる買い物になってしまう。
 他ならぬおばちゃんからお断りの言葉を聞けて、咲翔はホッとした。同時に、父に釘を刺しておかねばならないとも思った。
「あの人、面白そうと思ったらすぐフラフラ行ってしまうんやから……こっちが考えなしに提案したらあかんねん」
「おお……そうか。すまん」
 父は頭を下げると、元の作業に戻った。おばちゃんは、既に青のりと鰹節を振りかけている。どちらももちろん、サンプルだ。
「見て! これ、本物に混ぜてロシアンたこ焼きできるんじゃない?」
 確かにクオリティが高い。本物のたこ焼きと一緒に並べても、誰も気付かないかもしれない。問題は、本当にやるかもしれないと危惧してしまう点で……。
「あの……わかってると思いますけど、絶対ダメですからね?」
「わかってるってば」
 出来上がったサンプルは、2つ並べて店の名前入りの袋に入れてもらえる。土産物店で売っているものと同じようなパッケージだ。
 おばちゃんは袋に入った自分の作品を見て、うふふと満足そうに笑った。
「多岐川さん、ありがとうございました。また一つ、いいお土産ができました」
「それは良かったです。一つでもご恩がお返しできたんやったら……」
「恩? 恩て何ですか?」
 おばちゃんが、きょとんとして返す。それが想定外の言葉だったのか、父もまた目を瞬かせている。
「息子がお世話になったのが恩……ですけど?」
「ああ……そうですね、私がお世話した部分もありますね。でも……」
 おばちゃんは、隣に座る咲翔をチラリと見て、笑った。
「同じくらい、私もえみくんにお世話になっているので、お礼を言って頂くようなことは何もないんですよ」
「し、しかし……」
 おばちゃんは微笑みを崩さず、きっぱりと言い放つ。
「私は、息子さんの……咲翔くんのおかげで、ここまでずーっと楽しかったんです。とっても、お世話になったんです」
 反論を許さないような気迫がこもっているようだった。父が押し黙ったところを、咲翔は初めて見た気がする。
 父はおばちゃんの視線に怯んでいた。次いで、咲翔のことを一瞥して、考え込むようにため息を吐き出していた。
「そう……ですか。咲翔が……」
「はい。だって、すごくいい子で、すごく頼りになるでしょう?」
「……はい」
 父は、神妙に頷くとおもむろに立ち上がった。そして先ほどよりも深く、頭を下げた。
「梶さん、改めまして……ありがとうございました」
 おばちゃんもまた、立ち上がった。そしてまっすぐに、お辞儀を返した。
「こちらこそ。お礼申し上げます」
 咲翔の目の前で、二人が頭を下げ合っている。それもおそらく自分に関することで。なんだか居心地が悪いような、でも胸の奥からじんわりと何かが滲んでくるようだった。
 それからだろうか。父の、おばちゃんに向ける視線は、先ほどのような鋭いものではなくなっていた。それどころか……
「ほれ。これで梶さんを美味い店にご案内せぃ」
 そう言って、お小遣いと言うにはかなり贅沢なお金を渡してくれた。
「いや、こんな額……どこに連れてったらええの? ていうか、全部任せろて言うてなかった?」
「ここからはお前に任せる。その方がええやろ」
 それだけ言うと、父はおばちゃんに向けて言った。
「梶さん、本日はお付き合い頂いて、ありがとうございました。私はここで失礼しますので、後のことはどうぞ咲翔を頼ってやって下さい」
「多岐川さん、とんでもない。こちらこそ、一日振り回してしまってすみません。でも、とっても楽しい一日でした。息子さんの面倒見の良さは、お父さん譲りなんですね」
「いえ、私になんぞ……それよりも、息子をよろしくお願いいたします」
「はい。確かに、承りました」
 そう言って、父はおばちゃんにもう一度頭を下げ、咲翔に小さく頷いて見せると、踵を返した。そのまま、何も言わずに駅の方へと歩き出すのだった。
「……あれ? 『息子をよろしく』って……」
 家に連れて帰らないのだろうか。てっきりそのつもりなのだと思っていた。
「ホテルはちゃんと二部屋とってるよ?」
 すかさず、おばちゃんが言う。その一言に、咲翔はやはり安堵していた。
 だが、不思議と今までのような安心感とは違った。そこを取り上げられたら身の置き場がないといた焦燥感を感じない。
 なぜだろうか。父の言葉を聞いたから、だろうか。
「よし! 折角だから、お言葉に甘えて美味しいもの食べに行こう! どこがおすすめ?」
「え……こんな金額の店なんて知りませんよ」
 数年前まで大学生だった咲翔には、信じられない予算額だ。おばちゃんのように素直に甘えることも難しい。困惑していると、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。
 父からだった。メッセージアプリで、「言い忘れた」と届いている。次いで、こう届いた。
『明日は、澄生に任せる』

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