【小説】あなたといた道、母が見た空 第五章 ②
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瞼に当たる柔らかな朝日が、咲翔をそっと起こしてくれた。
目を開けると、昨日と同じ天井、同じ壁が目に入る。だが不思議と、昨日よりもずっと穏やかな気持ちでそれらを見ることができた。
自分で自分の額に手を当ててみる。
(熱くない)
そう思い、ベッドサイドにあった体温計で測ってみた。結果は『三十六度八分』。平熱より少し高いものの、昨日と比べれば、下がったと言える。
咲翔は、安堵の息をついた。これで心配をかけずに済む。
手近なペットボトルは空になっていた。残りは冷蔵庫か。
「よいしょ」
言葉に反して、咲翔の身体は軽く動いた。昨日のような億劫さや重苦しさは、微塵もない。『良くなった』と実感できた。
おばちゃんが冷蔵庫に入れておいてくれたペットボトルを取り出して、ぐいっと飲んだ。砂漠の砂に水が染み入るように、体中が潤っていく。
「はぁ……元気って、ええな」
思わず、そんな言葉が零れた。それと同時に、部屋のドアが開いた。
「おはよー。あれ、えみくん? 熱下がったの?」
おばちゃんが、お盆を手に入ってきた。腕には何やらビニール袋をガサガサいわせながら下げている。
「おはようございます。熱は下がりました。色々、ご迷惑をかけてすみません」
「『ご迷惑』とか言わない。こう言う時は……」
「ありがとうございます」
「よろしい」
おばちゃんはにっこり笑い、お盆を差し出した。
「朝ご飯、持ってきたよ。お粥、食べる?」
「はい。いただきます」
咲翔はお粥の載ったお盆を受け取ると、ベッドサイドのテーブルに置いた。まだ湯気がのぼって、ホクホクしている。
おばちゃんはビニール袋の中身をあれこれ出していた。追加で買い物してきてくれたようだ。
ずんだ餅に、仙台味噌焼きおにぎり、それに……
「あ、冷凍みかん」
コンビニに売っている、冷凍フルーツだ。いちごやマンゴー、パイナップルなど、様々なラインナップがある中、咲翔はこのみかんが一番好きだった。
特に疲れて食欲の失せている時には、食事代わりによく食べていたのだ。
「ありがとうございます。これ、めちゃくちゃ好きなんです」
「どういたしまして。これなら食べやすいよね。昨日、気付かなくてごめんね」
「そんな……これならいつでも食べたいです。それも、みかんがドンピシャで好きなんです。なんでわかったんです?」
「え? あぁ~なんとなく、かな?」
「そうですか?」
なんだか、あやしい。そう思ったが、おばちゃんが思いつきで行動するのは、よくあることだ。そこを追求しても特に意味はないだろうし……そう思い、咲翔はそれ以上は考えないことにした。
咲翔は、持ってきてくれたお粥を口に含んだ。とろっとした食感と、ほのかな塩気が口に広がり、正常な舌と胃に戻ったことを実感するのだった。
「足りなかったら、おにぎりも食べてね。でも、冷凍みかんはデザートだからね」
「はい」
小学生に言い含めるように、おばちゃんは言う。なんだか子どもの頃を思い出して、笑いがこみ上げた。
(ああ、そうか。これを言うたんは、おじいちゃんやないんやった……)
母の顔が、浮かんだ。
みかんは一粒も口にしていないのに、口の中に酸味が広がったような気がした。
「えみくん、どした? まだどこか辛い?」
「大丈夫です。お粥だけやったら少ないなって思っただけです」
「あ、やっぱり? はい、おにぎり」
味噌焼きおにぎりをぽんと手渡される。そして同じものを、おばちゃんは大きな口を開けてかじりつき、頬張っていた。見ているだけで、美味しいと思えてくる。
「いただきます」
フィルムを剥がしてかじりつくと、思った通り、美味しかった。香ばしさと主張しすぎない上品な甘みと辛味が、口の中で絡み合っていく。治ったから、美味しいと思えたのだ。 「ありがとうございます」
「? 何が?」
「看病してくれて、です」
「え~? お礼言われるようなことじゃないでしょ。目の前に病人がいたら、普通は面倒見るよ」
「……そうですね」
それが、彼女の『普通』なのだ。
(ほんま、かなわんなぁ)
そう思いながら、咲翔はもう一口、がぶりと大きくかぶりついたのだった。
******
仙台に来て三度朝を迎え、ようやく、咲翔はホテルから外に出たのだった。
昨日一日は熱は下がっていたものの、大事を取って安静にしているように厳命を下されたのだ……おばちゃんから。
もう平熱に戻っている今日も、外出はするが遠出はNGと言い渡された。結果、行く先としておばちゃんが指定したのは、駅前のモールだ。
「今日は、ショッピング! お土産を買うよ!」
「あの……観光初日ですよね?」
「細かいことは気にしない!」
おばちゃんは本当に細かいことは置いといて、さっさと鼻歌交じりに歩き始めた。
大きな駅に直結しているショッピングモールらしく、華やいだ空間だ。おしゃれなカフェや、スタイリッシュなファッションの店、大手のチェーン店と、彩り豊かな並びだ。
おばちゃんも、歩きながらきょろきょろしている。どの店に入ろうか迷っているに違いない。
咲翔にとっては、どの店も自分には分不相応に思えてならない。特に興味も持てず、ただおばちゃんについて歩くだけだった。
すると、おばちゃんは何かに目を留めたようだ。
「えみくん、ああいう服、着てみない?」
そう言っておばちゃんが指すのは、英国風のファッションが揃ったセレクトショップだ。シックなようでいて、パステルカラーのボーダーだったり、大きめのチェック柄だったりと、着る者を選びそうな……遊び心の潜む品が並んでいた。それも、お揃いのコーデを着た男女のトルソーを指さしている。
(これは……デジャヴや)
沖縄でのペアルックのことを思い出す。
咲翔はあのトルソーのような服装は自分に似合うとはつゆとも思えないし、さっさと逃げ出したい。だがおばちゃんの目はそう言っていない。『着てみてほしい』という心の叫びが可視化できる視線だった。
「勘弁してください……」
「なんで? 一着くらい、いいじゃない」
「あんなオシャレそうなん……僕が着たかてしょうがないでしょ」
「あー、またそういうこと言う。謙虚と卑屈は別物だよ?」
おばちゃんの眉根が、きゅっと真ん中に寄る。
「自分を卑下しすぎるのは良くないよ。えみくんの視野も狭まるし、なによりこんなに良い子に生んで育ててくれた親御さんたちに申し訳ないじゃない」
「……親に、ですか?」
別におかしなことは言っていない。その言葉に違和感をおぼえる咲翔の方がおかしいかもしれない。だけど、何かいつもと違う気がしたのだ。
「えみくん、どしたの? やっぱりまだ具合悪い?」
咲翔がぼーっとしているように見えたのか、おばちゃんが心配そうな顔で覗き込む。
「大丈夫です。あの……すみません、あのお店のんは好みやないだけなんです」
「そうなの? 似合いそうだけど……」
「……まあ別の機会にお願いします」
「そっか。まぁ、無理強いはやめとくか。あっちのお店に行ってもいい?」
「はい」
沖縄の時のように強引に引きずり込まれなくて良かったと、心から思う咲翔だった。
だが、次におばちゃんが引っ張って行ったのは……女性・男性と客層を問わず幅広いブランドの品を揃えている、コスメショップだった。
「ホンマに、勘弁してください……!」
この後も、咲翔は何度もこの言葉を叫ぶことになるのだった……。
******
ショッピングモール散策は、大変であり、楽しくもあった。
どちらかと言うとファッションに関する店がほとんどで、おばちゃんと咲翔が求めるようなご当地のお土産はほぼ見つからなかった。途中立ち寄った雑貨店で、おばちゃんが猫グッズを買い占める勢いだったくらいか。
あまり目的を達したとは言えなかったからか、おばちゃんは見るからに不完全燃焼だった。結局、一通り館内を回ると、まだ早い時間にホテルに引き返したのだった。
理由の一つには、病み上がりである咲翔の体調を気遣うためもあっただろうが。そんな半分観光、半分休憩の一日を過ごした翌日――この日は、おばちゃんが朝から張り切っていた。
咲翔は、もう何度目かわからない問いを口にした。
「あの……今日はまた、どないしはったんです?」
服装はいつもの通りだが、全身にみなぎる気迫が、完全に道場破りのそれだった。
おばちゃんは、胸を張って言う。
「だって今日は、戦に行くからね」
「戦?」
なんてものものしい言葉だろうか。この現代日本において『戦』とはいったい……。
「えみくんの戦だよ」
「僕のですか⁉」
「うん。だって、伊達政宗関連の場所に行ってみたいって言ってたでしょ」
それは『戦』ではなく『聖地巡礼』ではなかろうか。
「って、僕の戦はええんですよ。おばちゃんの行きたいところに行ったらええやないですか」
「うん。だから、えみくんが行きたい場所に行ってみたいなぁって」
「うぅ……!」
なんだか、こんな会話を以前にも交わした気がする。咲翔は、あの頃から成長していないのだと痛感した……。
「だってね、仙台に来ようって決めたのも、えみくんの話を聞いたからだよ? すごく行きたそうに見えたから、きっといいところなんだろうなぁって思うでしょ」
「いいところかどうかは……僕も初めて行きますし」
「いいね。じゃあ冒険だ!」
初めて行くところに不安を覚えるどころか、ワクワクできる精神がほしい。咲翔は心からそう思った。
ため息まじりであったが、2日ぶりに食べる洋食の朝食は、美味しかった。
******
朝食を終えると、早速出発だ。
おばちゃんはレンタカーではなく、バス停まで咲翔を引っ張って行った。なんでも仙台の観光地を巡る周遊バスがあるのだとか。昨日のうちに一日乗車券を買っていたらしい。
「一日バスに乗り放題だし、入場や買い物でも割引がきくらしいから」
と、ガイドブックを片手にギラギラした目で言う。
バス停には想像よりもたくさんの人がいた。よく考えると、世間は夏休みシーズンだ。学生は間違いなく長期休暇だし、社会人でも早めに休みに入る人もいる。
「これから、行く先々で混むようになるかもしれませんね」
「え? ああ……そうねぇ」
珍しく端切れの悪い返事だ。昨日から何か様子が変だ。そう思うも、バスに乗る人の波に飲まれ、それ以上聞くことはできなかった。
そのまま、バスは咲翔とおばちゃんを乗せて仙台タウンを走って行く。老舗から最新まで様々なショップが建ち並ぶ商店街に、有名な詩人の終の棲家だった旧宅、空襲と戦後の復興記録を保存している資料館など、窓から見るだけでも趣深い風景が見える。
そして、その次の停車駅で降りるよう、おばちゃんは指示する。
その停車駅とは『瑞宝殿前』。かの伊達政宗公が眠る霊屋だ。正確には、そこに続く道だが。
「あの奥にあるみたいよ」
石畳の道は、木々の奥へと続いている。ぽっかりと開いた穴が異界へと誘っているように見えた。
吸い寄せられるように、咲翔は歩き出す。同じようにバスを降りた人たちも、ぞろぞろと向かっていくのが見える。
穴が空いているように見えたが、歩いてみたら、穴と言うより森だった。大きな木々が直射日光を遮ってくれて涼やかだった。枝葉の間から届く木漏れ日と、木々の澄んだ香りに包まれて、咲翔の胸は清涼感で溢れていた。
だが、坂道は次第に傾斜がきつくなり、周りの人たちの足が鈍くなっていく。人の波の最後尾に近かった咲翔たちが、いつの間にか先頭になっていた。
「けっこうキツいね」
おばちゃんは軽く息をつきながら、そう言う。
「そうですね。ちょっと歩くペース落としますか?」
「ううん、大丈夫。それより元気になったで良かった」
そう笑ってくれるものの、ここから先は、笑ってもいられない。咲翔もおばちゃんも、目の前にある道に視線を向ける。
『瑞鳳殿』と書かれた大きな看板の向こうに続くもの、それは……先ほどまでの坂道よりもさらに傾斜の激しい、石段だった。
「……行きましょか」
「……うん」
お互いに視線を交わして、覚悟を決めて踏み出す。
最上段まで近づく頃には、二人とも息切れしてしまっていた。だが登り切った時、おばちゃんは視界に飛び込むものに刮目していた。
「おお! なんかきれいな建物! さすが伊達政宗さんだね!」
周囲の人も振り返る感嘆ぶり……だが、咲翔はそれを宥めた。
「違います……あれは観覧券売り場で、奥にあるのは資料館です」
咲翔は衆目から逃れるように、おばちゃんを脇に誘導する。二人分の観覧券を買い、足早におばちゃんのもとに戻ると、おばちゃんは興味深そうに周囲を見渡していた。
「あそこは資料館……じゃあ霊屋っていうのは?」
「あっちです……また坂上るのもしんどいですし、先に資料館行きますか?」
「そうしよっか」
頷き、森の奥へと進んでいく。木々の向こうには白い壁と黒い瓦屋根の建物が見えた。庭の木々の緑が、白と黒のコントラストと映えて、鮮やかだ。
中に入ると、様々な副葬品や資料が並んでいた。
「そうか……空襲で焼失したんですね。それで再建するために発掘を……」
「えみくん、あれ見て」
おばちゃんが、つんつん袖を引っ張る。つられて視線を向けると、咲翔は息を呑んだ。
そこには、人間の顔があった。胸像ほどの大きさの、リアルな人間の顔が。
「伊達政宗の復顔像……残ってた頭骨をもとに、四十代頃の顔貌を再現したって書いてます」
「つまり……伊達政宗って、こういう顔だったってことだよね」
よく日に焼けた肌の色に、くっきりとした目鼻立ち、頬はすっきりとしていて、きりりと引き締まった口元は凜々しい。昔の日本人というよりも、現代の人間に近い面立ちに見える。四十代の頃ということだが、いかにも鍛えられた、精悍な顔つきだった。
ただ一つ、右目が左目と比べて閉じかかっていた。
「頭骨の左右の眼窩高に2.5ミリの差を発見。右目は失明のせいで成長が止まっていたと考えられる……それで、この復顔像も右目があまり開いてないのかぁ」
「隻眼やったって、科学的にも証明されたんですね」
まさか伊達政宗公ゆかりの地で、伊達政宗公のご尊顔を拝することができるとは、思いも寄らなかった。
歴史と科学の融合に、ため息がこぼれる。
一箇所目で既に興奮を抑えきれなくなりそうだったが、どうにか堪えて、咲翔たちは資料館を後にした。
さきほど来た道とは逆の道へと進み、今度こそ、瑞鳳伝へと向かう。だが、その先で再び注目を浴びることになる。
「すっごいね! これが霊屋⁉」
何人もいた観光客が一斉におばちゃんを見る。だが、それは致し方ない。きっと全員が思ったであろうことを、おばちゃんが代弁してくれたからだ。
咲翔たちは、目の前にそびえる極彩色の霊屋に、思わず言葉を失ってしまっていた。黒漆による漆黒の柱と壁は、夜の闇に溶けてしまいそうだ。そこに塗られた金や朱や蒼が目にも鮮やかであり、極楽を思わせる。三人の天女が艶やかに羽衣を揺らすほか、鳳凰や麒麟も、まるで舞うように描かれている。
「ここ……お墓なんだよね? なんかお墓のイメージと全然違うね」
「正確には『お墓』と違いますけど……似たようなもんです」
「どう違うの?」
「えーと……『お墓』は埋葬した場所で、『霊屋』は霊廟の一部……『霊廟』は、特定の人を祀った場所……だったと思います。ご遺体のあるなしが違いって聞きました」
「じゃあここはご遺体は埋葬されてないの?」
「いえ、確か地下に埋葬されたって……」
「じゃあ、ここがお墓じゃないの?」
「……お墓であり霊廟っていうか……」
咲翔は自分で話していて、わからなくなってきた。おばちゃんと一緒に、首を傾げる。
「よくわからないけど……霊廟は『ここに眠ってる人すごい!』て強調するためにあるってこと?」
「たぶん、そうです」
「そっか、なるほど。それでこの豪華さなわけね」
おばちゃんはうんうんと満足げに頷いている。その説明で正しいのか確証はないが、おお
よそ間違いではないだろうし、なによりおばちゃんが納得している。とりあえずは、これでいいのだろう。
咲翔は、後でちゃんと調べとこうと思いながら、目の前の霊屋に手を合わせた。
同じように手を合わせていたおばちゃんは、顔を上げるとくるりと咲翔に向き直る。
「他にも霊屋があるんだよね? 行こう!」
敷地内には、他にも感仙殿と善応殿という霊屋がある。瑞鳳殿に勝るとも劣らぬ絢爛な様に、おばちゃんが何度も驚嘆していたのは、言うまでもない。
瑞鳳殿、感仙殿、善応殿と巡り、敷地をぐるりと一周すると、もとの坂道に戻ってきた。この階段に足をかけた一歩目から、おばちゃんの顔は輝きを増していくばかりだった。
「なんか一箇所目からすごかったねぇ」
「そうですね」
「……さて、次はどんなところかな」
期待に満ちた顔のおばちゃんは、軽やかな足取りで坂を下りていく。周遊バスの停留所には、既にバスが停まっていた。まるで二人を待っていたかのようだ。
******
「いやぁ、濃い一日だった」
咲翔の真正面で、おばちゃんが唸る。咲翔も、唸りたい気持ちは同じだった。
正直なところ、瑞鳳伝の坂道を上った時に、ここで体力が尽きるかと思っていた。だが、巡ってみると……そんなことはなかった。むしろ、みるみる気力が湧き起こり、削られた体力を補っていった。
博物館に仙台城跡に大崎八幡宮……伊達政宗公が残した軌跡に次々行きたくなって、そのすべてを回ることができた。
結果、おばちゃんも満足してくれたようだ。
夕食にと入った発酵食品がメインのカフェで、『塩辛とじゃがいものアヒージョ』と醤油バスクチーズケーキを前にして、おばちゃんはほくほく顔だ。
咲翔もまた、『鶏肉とハーブのトマトグラタン』を食べる前から、胸が満たされた気分だ。
「連れて行ってくれて、ありがとうございました。本やテレビでは知らなかったことばっかりでした」
「うんうん。本当にね。私も眼帯着けてる武将ってことくらいしか知らなかったよ。いやぁ、来てみるもんだねぇ」
ぱくっとじゃがいもを頬張り、おばちゃんは言う。咲翔も、うんうんと頷いた。
祖父の部屋で、祖父の集めた本を読んで、テレビ番組を見て、よく知った気になっていた。だが、甘かった。
「昔、祖父が言うてました。『知識とは、自ら踏み込まなければ手に入らない』って。あの時はよくわかってませんでしたけど、今日、実感しました。ホンマに、足を運ぶって楽しいですね」
「お? えみくんも旅行、楽しんできてるね」
「はい。それはずっと楽しいですよ。明日はどこでしたっけ? 松島でした?」
元々、この仙台での日程は四泊五日の予定だった。だが咲翔が熱を出し、そのうち二日が潰れてしまった。当初の予定は二日分スライドしているのだが、この後も順延していくのか……するのだろうと思って、咲翔は尋ねた。
だが、おばちゃんの返答は、なんだかあやふやな声だけだった。
「ああ……そうね、うん」
何か、困っている。この先どうしようか迷っている風ではない。
咲翔は、直感した。
何か決まっていることがある。だが、それをどう伝えるべきか迷っている。そんな様子だと。
そして、それはとても嫌な予感であることも、感じていた。急にトマトの甘みが口内を侵食していくような気がした。
「……何か、別の予定に変わったんですか?」
またホテルが予約できなかったとか、そんなことであってほしい。今度は六時間の長距離移動だとか、それくらいならもう驚かないから。
「あ……そうや。仙台タウンて、七夕まつりがあるんですよね? なんやものすごい長いこと続いてる、大きい七夕飾りがいっぱい並ぶお祭りでしょ? あれも見ていかはるんですか? 確か八月のはじめの方にあるんでしたっけ……」
仙台を巡っている中、目にした情報をとにかく並べ立てる。頷いてほしい。もしくは、そのお祭りに興味を移してほしい。その一心で、咲翔の口はいつになくスラスラ話し続ける。
だが、おばちゃんは静かにかぶりを振る。
「そのお祭りはすごく行ってみたいけど、今回は行かない。仙台は、今日でおしまいです」
いやに神妙な声で、おばちゃんはきっぱりと言う。どうしてか、咲翔の声は震えた。
「じゃあ……次は、どこに?」
聞きたくないと思っていた。だが、聞かないわけにはいかなかった。
おばちゃんもまた、決意を固めたように、拳に力を込めて語った。
「大阪」
咲翔は、息を呑んだまま声を出せなかった。どんな言葉を紡げばいいか、分からない。
最も聞きたくない言葉を聞いてしまった。
「……なんで、ですか?」
かろうじて出した声も、掠れて店のBGMに紛れてしまいそうだ。だけどおばちゃんは、ちゃんと聞き取っていた。
「……たぶん、薄々勘づいてるよね。じゃあ、ごまかしたってダメだよね」
小さくため息をついて、おばちゃんは居住まいを正す。
「えみくんが寝てる間にね、電話があったの。私、うっかり操作ミスして、えみくんへの電話に出ちゃった。ごめんね」
「……誰から、ですか?」
「えみくんの、お母さんから」
ずん、と胸に重しがのしかかったようだった。
「話したんですか? うちの母と?」
「うん。最初、えみくんの電話で話して、その後は私と連絡先交換して、そっちでね」
「じゃあ……昨日あたりから、おばちゃんとうちの母と、やりとりしてたってことですか? 僕の知らんところで?」
「……ごめん」
深々と頭を下げるおばちゃんに、咲翔は何も言えない。口を開くと、言ってはいけない言葉が出そうだ。
「お母さん、すごく心配してたよ。お父さんもお兄さんも。一旦、話してみても、いいんじゃないかな?」
「話すって、何をですか」
(あかん……)
刺々しい声になってしまった。これは、止めなければ。そう思うのに、口は止まらない。
「僕の話なんか聞く価値ないて思ってますよ、あの人らは。『心配』やなくて、『言うこと聞かせたい』の間違いでしょ」
「えみくん……」
「それとも……家事やる人間がいなくなったから、ええ加減困ってるってことですか? もう半月ですもんね。そら大変やろなぁ」
「えみくん」
「どっちにしろ、話なんて必要ないでしょ。僕を『家族』から弾いたのは向こうなんです。今更すり寄られたかて、いい迷惑ですよ」
「えみくん!」
おばちゃんの声が、咲翔の耳に突き刺さった。店の中はしんと静まりかえっている。おばちゃんの声に驚く人々の視線が痛い。
だが、おばちゃんは咲翔から視線を外そうとしなかった。
「やめなさい……そんなこと、言っちゃダメ」
「ダメって……僕は、何もしたらあかんのですか」
「そうじゃない」
テーブルの上で固く握りしめていた咲翔の拳を、おばちゃんの手のひらが柔らかく包み込む。
「えみくんが本当に思ってるのは、そんなことじゃないでしょ? 思ってもないことで、大事な人を悪く言っちゃダメ」
「大事な人て……」
おばちゃんが、誰のことを指しているのかはわかる。だが当の咲翔は『大事な人』なんて言われても、思い浮かばないのだ。
「僕には大事に思う人なんていませんよ。もう亡くなりました」
「うん。無理に大事にしなきゃって思う必要はない。えみくんは、大事な家族から傷つけられた……それは確かだから」
おばちゃんの手のひらに、ぐっと力がこもる。
家族が咲翔の心を抉ったのは、一度じゃない。子どもの頃からずっと、咲翔は彼らにとって『弱い末っ子』だった。ひ弱、軟弱、意志薄弱、中途半端……もっとしっかりしろと何度も言われた。反発心が芽生えたこともあったが、結局は庇ってくれた祖父の後ろに隠れてしまった。
そんな自分が嫌だった。
そんな自分を自覚させるあの人たちに会うことも、嫌だった。
「そうですよ。あの人らは僕のこと、否定しかせぇへん……おばちゃんも、それがわかってはるのに、なんで会えって言うんですか」
「会わないと後悔するから」
「誰が後悔するんですか? あの人らですか? 謝って満足したいとか?」
おばちゃんはしっかりと咲翔を見つめ、静かに頭を振った。
「違う。後悔するのは、えみくん」
「しませんよ、後悔なんて」
「するよ。このまま『家族』をやめたら、えみくんは後悔する。何年後か、何十年後かはわからないけど、絶対に」
「でも……」
本当は旅の道中、あの人たちの顔がよぎる瞬間が一度もなかった……なんてことはない。 だけど同時に、声もよぎるのだ。咲翔にかけられた声が。
――お前はホンマ、中途半端やなぁ
――そんなことで、この先どうするん? もっとキツいことなんか山ほどあるで?
――いつまでも家族に迷惑かけとらんと、ちゃんと働け
その言葉が、咲翔に真っ暗で重い檻になって、覆い被さる。
「僕は……あの人らにとって迷惑なんでしょ。一緒におらん方がいいんやと思います」
「えみくん、それは……」
「僕には、もう帰る場所なんてないんですよ」
それまで力強い視線を向けていたおばちゃんの瞳が小さく瞬き、ふわりと眉尻が下がったかと思うと、俯いてしまった。
何を、悲しませてしまったんだろうか。
「私ね」
俯いたままのおばちゃんから、唐突に声がする。
「もう一人、赤ちゃんがいたの」
「……え?」
咲翔の手に重ねられた手のひらから、熱が伝わる。
「娘以外にもう一人。お兄ちゃんがいたの……出産後は色々と身動きも取りづらくて大変だと思ったの。だから、まだお腹にいるあいだに沖縄の海を一緒に感じておこうと思って、旅行に行った。だけど……」
その先は、言葉に詰まって言えないようだった。咲翔もまた、尋ねなかった。
「……お医者さんに何回も確認したし、準備もしてたんだよ。それでもね、あの子は……遠くへ行っちゃった。全部、私のせい」
「そんな、おばちゃん……」
「それが二十五年前のこと」
咲翔はピタリと固まった。おばちゃんの手が、微かに震え始める。
「ずっと、あそこに行くのが怖かった。会いに行かなきゃって思ってたけど、行こうとする度に、あの時のことを思い出すの。痛くて、苦しくて、怖くて、悲しくて……神様に大事なものを取り上げられちゃったみたいで……」
「あの……それ以上は別に……」
咲翔は止めようとしたが、おばちゃんはそれでも、語り続けた。
「娘が産まれて、大きくなって……宝くじに当たった時に何をしようか考えて、最初に思いついたのがあそこへ行くことだった。『行け』って言われたような気がしたの。そしたら、いきなり会っちゃったの。あの日いなくなった子と、同い年くらいの男の子と……」
おばちゃんは顔を上げた。まっすぐに咲翔を見つめる瞳は、じわりと滲んでいる。その視線を逸らすことなど、咲翔にはできなかった。
「楽しかった……二十五年前にあの子がいなくなっちゃった場所で、あの子と同い年の男の子と一緒に色んな所に行って、同じ空気を吸って、お話しして……沖縄だけのつもりが、つい色んな場所に連れ回しちゃって。だって、すごくすごく……いい子だから」
おばちゃんの目から、ついにぽろりと一粒、零れ落ちた。咲翔はそっと手を抜いて、ハンカチを差し出す。
「あの……そんな、いい子やなんて……」
「いい子なの。えみくん自身がどう思おうと、私にとってはそうなの。このまま、ずっと一緒に旅してたい……ううん。うちに連れて帰っちゃいたいくらい」
「う、家に?」
おばちゃんは頷く。だが咲翔は、あまりの言葉に驚くのを通り越して、竦んでいた。
そして、その言葉を嬉しいと感じている自分に気付いていた。大阪の家より、行ったこともないおばちゃんの家に帰りたいと、思ってしまっていた。
だけど、それは現実にできる話じゃない。
「あの……それは……」
「わかってる。今はそれくらい、家族みたいに思ってるってこと」
『家族』……その言葉が、胸のうちでじわりと熱を持った。大阪の両親や兄には感じなかった温かさだ。
おばちゃんは、所在なく彷徨っている咲翔の手を取って、両手で包み込んだ。
「うん、決めた。えみくんはやっぱり、大阪のご家族とちゃんと話してみる方がいいと思う」
「そ、それは……そうですけど」
「それで、えみくんが納得できなかったり、今は一緒にいたくないって思うんなら……うちに来ちゃいなさい」
「……え?」
おばちゃんの言葉が、咄嗟に理解できなかった。何度も目を瞬かせる咲翔に、おばちゃんは深く頷いて見せて、もう一度はっきりと、告げた。
「うちの子に、なっちゃいな」
「おばちゃんの、うちに……?」
おばちゃんは頷く。きっと、何度でも頷いてくれる。
(ああ、ほんまに……この人にはかんわへんな……!)
咲翔の手を包むぬくもりが、力強さが、すべて咲翔の胸の内に流れ込むようだった。
力に変わっていく。
否定されて、拒まれて、逃げ出した。顔を合わせるのが怖かった。会ってまた非難を浴びれば、またどんどん自分が小さくなってしまう。
家族の中の居場所を今度こそなくしてしまう。
それが怖かったのだ。居場所があると言ってもらえて、ようやく気付けたのだ。
「わかりました。ちゃんと、自分の思ってること、話してみます」
おばちゃんの手を握り返して、咲翔は答えた。
「うん。頑張ろう」
その言葉に、また胸がいっぱいになった。『頑張れ』ではなく『頑張ろう』なのだ。
「あと、楽しみにしてるから」
「何をですか?」
「観光」
「……え? 観光もするんですか?」
「当たり前でしょ。だいたい、前に言ってたじゃない。『大阪に行くなら案内します』って」
そういえば、そんな会話をしたような気もする。
「いや、面白いところはいっぱいあるって言いましたけど、案内は他の人の方がいいって言いませんでした?」
「あ、うん。他の人にも頼んでるよ?」
「他の人って……誰です?」
おばちゃんは答えず、にっこりと笑った。その笑顔は、なんだか嫌な予感がするものだ。さっきまで浮かべていた涙がどこかへ消え失せている。
「ま、まさか……!」
「うん。えみくんのお母さんと、お父さんと、お兄さん。任せてくださいって言ってもらっちゃった」
(やられた……!)
珍しいおばちゃんの涙なんかにほだされるべきではなかった。胸の内におこっていたぬくもりが一気に冷めて、青ざめていく。
「あの……ほな、あの人らに全部お任せで。僕は失礼しますんで……」
そう言おうとしたが、おばちゃんの両手がぐぐっと伸びてきた。咲翔の両肩をがっしり掴んで、笑顔で圧倒しようとしている。
「ダメ。私と初対面の人たち、二人だけで旅させる気? えみくんがちゃんと間にいてくれなきゃ」
「僕とは初対面の時から二人旅してたやないですか」
「えみくんは特別」
(そんなむちゃくちゃな……!)
これほど迫力のある笑顔を、咲翔は知らない。おばちゃんは、とどめとばかりにきっぱりと、告げた。
「これは、決定事項です。文句は受け付けません」
「ううぅ……!」
咲翔は知っている。おばちゃんがこう言い出したら、てこでも動かないということを。
瑞鳳殿で見た天女様と見まがう瞬間もあったが、今は地獄の悪鬼と同一に見える。それでも、わかっていることは一つ……。この件に関して、咲翔には反論の権利など、一欠片もないのだ。
「わ、わかりました……」
「よろしい」
おばちゃんは、大きな口でじゃがいもをぱくっと頬張った。今の咲翔は、あのじゃがいもよりもずっと、小さい存在なのだと悟った……。
◇◇◇
話し終えると、咲翔はどこか遠慮がちに目を伏せた。
桜にはそれが、自分から目を逸らしているように見えた。胸の奥に棘のようなものが疼いたが、それを留めたのは、父の声だった。
「いやぁ、うちの人、相変わらず強引だね。ごめんね、びっくりしたでしょう?」
「いえ、その……びっくりするのは、その頃には慣れてました」
あれだけ思いつきに振り回されてきたのだから、それも頷ける話だ。非常に申し訳なく思う反面、その砕けた物言いに、やはり引っかかりを感じてしまう。
「あの……おばちゃんの言ってくれはったことは、ホンマにありがたいことやと思ってます。でも、だからといってホンマにこの家の人間になろうなんて思ってませんので。とてもそんなことは……」
咲翔の慎ましい性格上、こう言うだろうことはわかっていた。そして、父が次に言いそうなことも、わかる。
「なんで? いいじゃない、うちも『家族』になったって。うちの奥さんも、そう思ってるよ」
「そんな図々しいことは、できません」
咲翔は、深く頭を下げた。断っているというより、頼み込んでいるようだ。
「僕には、おばちゃんのことを母親のように思う資格なんてありません。僕で力になれることがあるなら、すぐにでも飛んできます。でも、それ以上は……」
桜は考えた。こんな風に、咲翔が必死に頭を下げている姿を見たら、母はどう思うだろう。
きっと怒るフリをして、咲翔の手を引いて、無理矢理にでも家族の輪に引き入れるだろう。「遠慮するの禁止!」なんて言って……。父も、きっと笑顔で受け入れる。そして桜は、両親が咲翔に優しくするのを黙って見ていなければならないだろう。
決して嫌ではない。咲翔が善人なのはじゅうぶん理解している。
桜は、ため息交じりにつぶやく。
「いいじゃん、別に。家族が他にもいたって」
父と咲翔が同時に振り返った。二人分の視線はなんだか居心地が悪くて、思わず視線を逸らす。
「別に……戸籍が変わるわけじゃないし。元の家族と縁を切るわけでもないし。家族って言えるくらい仲いい人がたくさんいるのは、いいこと……でしょ?」
ちょっとぶっきらぼうな言い方だっただろうか。そう思い、桜はそろりと二人を窺い見る。父も咲翔も、なんだか目を丸くしていた。
「……なに?」
「いや、桜がそんなこと言うとは思ってなくて……」
「悪いこと、言った?」
「全然。むしろ、すごくいいこと言ったよ。ねえ、咲翔くん?」
なんだか感激している父に問われ、咲翔は焦っていた。だが、ゆっくりと頷いていた。
「はい……あの……ありがとうございます」
「お礼言われるようなことじゃないし」
できるだけ無愛想にならないように気をつけながら、桜は答えた。咲翔の遠慮の塊のような吐息が、テーブル越しに聞こえてくる。
「じゃあ、ちょっと遅い時間だけど、これから皆で食事にでも行く?『家族』記念てことで」
「いや、それは……」
このままだと、父が咲翔を引っ張って、強引に連れて行ってしまう。そうなったら、桜もついていかなければならない。
そうなる前に、桜は立ち上がった。努めて笑顔で。
「ごめん。私、明日、練習試合で早く出ないといけないんだ」
桜がそう言うと、咲翔も何かに気付いたように父に言った。
「ぼ、僕も明日、早く出てこいって言われてるんです。なので今日は、その……」
「そうかぁ。じゃあ、しょうがないか」
しょんぼりして、父は言う。対して咲翔は申し訳なさと安堵が入り交じった表情をしていた。そして桜も、きっと同じ顔をしているだろう。
父は来週の予定を念押ししながら、咲翔を玄関へと送っていく。桜はリビングでそれを見送った。
これ以上、咲翔と一緒にいるのが苦しかった。
「私、最低だな……」
ようやく見えた。ずっと心にひっかかっていたモヤモヤの正体が。見えてしまった。
以前、咲翔に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
――あんたの言う『やましいこと』って何やねん? そんなことが本当に起こってほしかったんか?
そう、起こってほしかった。そうすれば、母と咲翔はただの『恋人』だと思っていられた。自分の知らないところで、知らない人が『家族』になっていたなんて、知らずにすんだ。
知らない人に母をとられたなんて、思わずにいられた。
『やましい』関係の方が良かったなんて、ひどいことを考えずに済んだのに。
咲翔はいい人で、お世話になった人。だから咲翔を恨んだり嫉妬するのは間違っている。
でも、父や母と同じように受け入れることは、できない。桜には、そんな余裕はない。
「お母さん……私も『家族』だよね?」
誰もいない虚空に向かって、一人問う。答えなんて、聞こえるはずがない。
答えを求めるように、桜はメッセージアプリを開く。
『頑張れ。絶対、見に行くから』
桜だけに向けられた、桜だけの母の言葉だ。
咲翔には、ひと月もの思い出がある。
桜には、この一文だけ。だけど、母が最後に想ってくれた証だ。
ぎゅっと、スマートフォンごと胸に抱きしめる。
唇が震え、目の奥から熱いものがこみ上げそうになる。その時――足音が近づいて来た。
「咲翔くん、送って来たよ。ご飯にしようか」
「うん」
桜は素早く立ち上がり、こみあげたものを拭い去る。父から顔を背けたまま、スマートフォンをテーブルに置いて、足早に台所へと向かうのだった。
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