【小説】あなたといた道、母が見た空 第五章 ①
【第一章はこちら】
夏休みも、残り一週間ほど。予備校の玄関から出た途端、桜は夜の冷気にそろりと肌を撫でられた。
何も羽織るものを持っていない桜は、そっと両腕をさする。
(油断した……早く帰ろう)
時計は既に夜の九時を回っている。普段なら、こんな時間に外出なんてしないのだが、この一週間ほどは別だった。
駅前にある予備校の夏期講習に通うためだ。参加した講習は一週間のみ、夕方から夜の時間帯に行われる。授業を受けて、先生に質問したり、友達と話をしていると、いつの間にか九時を過ぎてしまうのだった。
この時間なら、さすがに父も帰宅しているので、心配をかけているに違いない。急いで駐輪場に向かい、自転車に乗ろうと思ったその時、スマートフォンにメッセージが届いた。
『ごめん。帰り遅くなる。ご飯はてきとうに食べて』
なんだか母親みたいな文面だ。不可思議な気持ちをこらえつつ、「了解」と返信する。
さて、家に帰っても一人。お腹が空いた。ご飯の用意はない。なんだか肌寒い。となると、目的地が変わる。
(よし、コンビニ寄って帰ろう)
自然とそう考えつくのだが、同時に、別のことも思い浮かんだ。
(多岐川さん……今日、シフト入ってるのかな?)
多岐川咲翔とは、先日の別れ際に重い空気が流れたままになっている。顔を合わせるのは非常に気まずい。できれば顔を合わせたくないのだが、予備校から家までの道中にあるコンビニはあの一軒だけ。回り道もしたくはない。
(仕方ない……! 昼間もお仕事なんだし、こんな遅くまでいないと思おう!)
桜は祈りながら、自転車を漕ぎ出した。
だが、その祈りは届かなかった。
「いらっしゃいませ」
桜はドア前に着いた瞬間、咲翔はそう言った。手には大きなケース(番重というらしいと後で聞いた)をいくつも重ねている。絶賛お仕事中のようだ。
「は……あ、あの……」
咄嗟に何て言えばいいのかわからず、口をパクパクさせていると、中から咲翔を呼ぶ声が聞こえた。咲翔は忙しなくケースを片付けて、中に戻って行った。
ドアの前には桜が一人、ぽつんと残されている。
中に入ろうか、迷いながら立ち尽くしていると、後ろから来た人がチラチラと桜に視線を送る。桜が先に入るのか、気にしているようだ。
「すみません」
桜は急いで店内に滑り込んだ。店内は、それほど混み合ってはいない。イートインコーナーも今は空っぽだ。
いつもとは違う静けさに、少しだけ戸惑っていると、レジに立っていた咲翔と目が合った。咲翔は何も言わず、こちらを見ている。
(この前のこと、怒ってる……よね)
思えば母にも、咲翔にも、とても失礼な疑惑をかけてしまったのだ。咲翔が怒るのも当然と言えた。そして桜は、そのことをまだ謝罪できていない。
(ちょうど会えたし、謝ろう。でも今お仕事中だし……でも今、目の前にいるのにスルーするのも……)
お弁当を選んで買うだけのつもりだったのに、気付けば立ち往生してしまっていた。すると、桜の頭上から影が差した。
気付くと、悩みの種である咲翔その人が、目の前に立っていた。
「何かお探しですか?」
「は……い、いえ大丈夫です! すぐに出ます!」
桜は、慌てて踵を返す。だが、腕を強く引かれて進めなかった。咲翔が、しっかりと桜の腕を掴んでいた。
「な、なんですか……?」
「何か、買わへんの?」
「あ……か、買います」
お見通しのようだ。再び商品棚へと向かうと、咲翔はあっさりとレジに戻って行った。
知り合いだし、売り上げに貢献しろということなのかとも思ったが、違うのだろうか。
(というか、たぶんそんなこと言う人じゃないか……)
これまで見てきた咲翔の慎ましい言動や佇まいと、がめついような印象はほど遠い。首を傾げつつ、桜は手早く晩ご飯を手に取り、レジに向かった。
待ち構えられていると足が強ばるのだが、咲翔一人しかレジにいない。仕方なく、彼の元に並ぶのだった。
先客も早々に店から出た今、店内には咲翔と桜の二人だけだ。ピッ――と、無機質な音が静かな店内に響く。
「718円です」
咲翔の声もまた、いつも以上に大きく響いている気がする。
「あ!」
カゴの中身を改めて見て、桜は声を挙げた。咲翔もまた、驚いている。
いつの間にか手に取っていたのは、『海老とトマトの冷製クリームパスタ』と『ミックスサラダ』の二つ。
「温かいもの買おうと思ってたのに……」
「……別のんに変える?」
「い、いえ大丈夫です。このままで……ごめんなさい」
気遣わしげな咲翔に、桜は首を横に振った。もう、読み込んでしまったのだから仕方ない。むしろ気遣いをしてくれて、ありがたくも落ち着かない。
会計を済ませると、さっさと立ち去ろうとしたが、またも阻まれてしまった。
「これ、どうぞ」
咲翔はそう言って、紙コップを差し出した。入り口近くに置いてあるセルフ方式のコーヒーだ。
「これは買ってないですよ?」
「うん。まぁ……奢りです」
「な、なんで?」
桜が問うと、咲翔はチラリと店の奥にかかっている時計に視線を向けた。
「もう遅いし、一人で帰るんは危ないよ。僕、あと三十分くらいで上がりやから、送ってくわ」
「え⁉ そ、そんなの悪いですよ。一人でも別に……」
そう言って、コーヒーを突き返そうとするも、咲翔は引き下がらない。もう一度コーヒーを差し出して、イートインコーナーを指さした。
「ええから。これ飲んで、あそこで待っといて」
その後は、イートインコーナーまで追いやられてしまった。仕方なく、スツールに腰掛け、無理矢理もたされたコーヒーを一口飲む。
「あったかい……」
そういえば、ほんの少しの暖を取るために、ここに立ち寄ったのだった。
桜がレジに行ってから、咲翔はコーヒーマシンまで移動していない。ということは、元々用意していたのだろうか。
こうして桜をイートインコーナーに誘導するために、何も買わないのか尋ねたのだろうか。
都合良く考えすぎかもしれない。だけど、もしそうならと考えると、胸の内が、ぽかぽか温かくなってくるのがわかった。
これは、きっと温かいコーヒーのせいに違いない。そう思い、桜はもう一口、コーヒーを飲んだ。
******
「お待たせしました」
約束通り、三十分ほどして、咲翔は桜の元にやってきた。店の制服ではなく私服に着替え、手には商品の弁当が入った袋をさげている。
「行こか」
桜は荷物と一緒に、まだ中身の残っているコップを手に持ち、咲翔に従って歩いた。
人通りのない住宅街に、二人分の足音と、自転車のカラカラという音が響き渡る。さっきと変わらず、何を話せばいいのか、分からない。
チラリと咲翔を見ると、前を向いたまま、桜に一瞥もくれない。
(ああ、やっぱり……迷惑かけちゃってるな……)
謝ることがまた増えた。桜の頭と胸が、重くなってくる。
だがそこに、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「あの……この前は、すみませんでした」
「へ⁉」
謝るつもりが、なぜか謝られた。何を以て謝るのかまったく分からず、桜は咲翔の方を窺った。
「いきなり怒鳴ってしもて……ホンマに、申し訳ない」
「あれは……私こそ、ごめんなさい」
お互いに、同時に頭を下げる。今度は、頭を上げるタイミングがわからない。思い切って顔を上げると、咲翔もまた同じ瞬間に挙げていた。至近距離で、視線がバッチリと対峙する。
桜が思わず距離を取ると、咲翔は困ったように俯いてしまった。そして、ぽつりと呟いた。
「あの……おばちゃんのことは、ホンマにやましいことなんて、ないから」
「……はい」
父に言われたからだけではない。桜自身、落ち着いて今までの様子を見ていれば、わかった。咲翔が母に対してどのような思いを向けていたのか。
「ただ、その……あの日のことはちょっと、おじさんには言いづらいことがあったのも事実で……」
「え⁉」
やっぱり何か隠していたらしい。だが、やましいことはないと言う。どういうことなのか、気付けば桜は問い詰めるように咲翔に迫っていた。
咲翔は、観念したように語り出した。
「あの日……僕はホンマに車で寝るって言うたんよ。同じ部屋でっていうのは……ね。でもおばちゃんは全然聞いてくれへんくて、上司命令や言うて、ベッドをシェアしなさいって言われて……夜中に、その……」
急に、咲翔が言い淀んだ。ここが『言いづらいこと』なのか。咲翔はため息と共に、吐き出すように告げた。
「おばちゃん……寝相がすごくて……夜中、おばちゃんの足とか手とかが飛んできてん。正直、怖くなって……自分の分の毛布とスマートフォンだけ掴んで部屋から出たんよ。で、仕方なく車で寝た……こういう事情です」
ため息交じりにそう言う咲翔を責めることなど、桜にはできなかった。
「痣とか……大丈夫でした?」
「ちょっとだけ……次の日、おばちゃんにそれだけは言うといた。今後、絶対に別の部屋になるようにしてください、とか」
「そうですね……ははは」
「ホンマに、一瞬、死ぬかと思ったわ……ははは」
二人分の乾いた笑いが、街灯に吸い込まれていく。なんともいたたまれない気持ちになった桜は、自転車を押したまま、頭を下げた。
「うちの母がご迷惑をおかけして申し訳ありません……!」
「いやいや、そんな……こちらこそ、お世話になったのに何もできんで……」
桜は、頭を下げたまま首を横に振った。
「あと……この前、失礼なことを言って、本当にごめんなさい! 色々と、ごめんなさい!」
咲翔が言葉を飲み込む声が聞こえた。謝られて、困っている。困らせて申し訳ないが、言わなければいけない謝罪なのだ。
「……僕に謝るようなことは、一個もないよ。あったとしても、おばちゃんに受けた恩で全部チャラや。むしろ、お釣り返さなあかんくらいや」
「多岐川さんは、返してくれてる……と思う。もう充分すぎるくらい」
「そうかな?」
「うん」
頷いて、真っ直ぐに咲翔を見つめた。心からそう思っていると、伝えるために。
咲翔は、戸惑った面持ちでその視線を受け止めていた。
「そうなら、ええんやけど……」
「そうです」
もう一度、しっかりと言い放つ。咲翔が次席の念に逃げないように。母が感じていた感謝の念を、きちんと受け入れてくれるように。
咲翔は、静かに息をついて、頷いた。
「うん……ありがとう」
そう言う咲翔の顔に浮かんでいたのは戸惑いでも苦笑いでもなく、照れくさそうな笑みだった。そして照れ隠しとでも言うように、くるりと話題を変えた。
「そういえば、今日はえらい遅いけど、何の用事やったん?」
本当に無理矢理な話題転換だ。ちょっと呆れつつ、桜はその話題に載ることにした。
「夏期講習です。今週一週間だけですけど」
「二学期に入ったら、週一回とか通うん?」
「それはまだ、どうしようか考えてて……どこの塾に通うかのお試しも兼ねて通ってたんです。来週は別の予備校に行きます」
「すごいな。優等生や」
からかうような言葉に、桜は少し眉をひそめて答えた。
「単なるタイミングだけの問題です。受験も近いし。今まで塾とか通ってなかったし……それに、えり好みできるだけの資金も出来たし?」
「……ああ、そうやね」
母が当選した宝くじは、家族で三等分した。桜一人でも、実は一億相当の預金があるのだ。誰にも言っていないが。
使い途は各々に任せるというのが、家族で決めたことだ。成人するまでは父が桜の預金も管理することになってはいるが、基本的に使い途を伝えればそのまま承諾されることが多い。そして、桜が最初に思いついた大金の使い途が、予備校行脚だった。
「友達がいるところとか、評判がいいところとか、合格実績が多いところとか……色々な基準で体験入学させてもらったり、短期の講習に通って、一番合うところを選ぼうと思って。いずれは大学も自分の預金から出すつもり。たぶん、資金面で言えばどんな私学もいけるだろうから。あとは私の勉強次第……と思って」
そこまで一気に語ると、隣からため息のような声が聞こえた。
「えらいなぁ……」
「何がですか? 別にえらくない。たまたまお金の問題はクリアできたから、他の問題に取りかかってるだけで……」
「僕やったら、そこまでしっかり考えられへんよ。たぶん、そんな大金持ってるのが怖くて、親にずっと管理任せたままにしてたと思う。高校生やのに、しっかりしてるなぁ……」
咲翔の唸るような賞賛の声が、桜の胸にしみてくる。まさかこんなに褒められるとは思ってもみなかった。
「ど、どうも……」
「……僕とは、大違いや」
「え?」
尋ね返すと、咲翔は「なんでもない」と言って口をつぐんでしまった。何を言おうとしていたのか追求したくなったが、それより先に、見慣れた家の前に到着した。表札には『梶』とある。家中の灯りが消えており、温度の消えた様子だ。
「ほな、ここで」
「あの……どうせなら、ご飯食べていきませんか? 父も、会いたいでしょうし」
咲翔は静かに首を横に振る。
「ありがたいけど、それは今度の日曜にする。家に入り。すぐに鍵閉めるんやで」
「……はい」
咲翔は、微笑みながら手を振った。桜がドアの向こうに消えるまで、ずっと。リビングに行って窓の外をのぞき見ると、咲翔が歩き去る姿が見えた。その顔には柔らかな笑みが、浮かんでいた。
「いい人、だなぁ」
母が気にかけていた理由が、理解できる。父も、親切にするわけだ。優しく接してくれる分、こちらも優しくしたくなるような人だ。
だから、だろうか。
「だからお母さん……帰ろうとしなかったのかな」
ぽつりと、声が漏れる。誰もいないリビングには、大きすぎる声が響いた。
桜はスマートフォンを取り出し、母との会話画面を開いた。そこに書かれている言葉を、じっと見つめる。
そのメッセージは、考えてはいけないことを考えないように封じるための、お守りのようになっていた。
スマートフォンをぎゅっと強く握りしめ、深呼吸をして、桜はテーブルに向かった。先ほど買った晩ご飯をテーブルに広げる。その横には、咲翔がくれたコーヒーのコップを置いた。もう冷めてしまったけれど、まだ残っているのだ。
******
日曜日は、再びやってきた。
「やあ、咲翔くん、いらっしゃい」
「お邪魔します」
予備校帰りに送り届けてもらってから、二日後のことだ。咲翔は相変わらず恭しく挨拶をして、玄関をくぐった。
リビングで待っていた桜は、どう出迎えればいいのか、わからない。
(この前けっこう仲良く話したし、友達みたいな感じでもいいのかな? でも年上だし、私よりお父さんのお客さんだし……なによりお母さんがお世話になった人だし……でも他人行儀過ぎるのも……)
色々な考えが堂々巡りをしている。先日とは別の意味で、どんな顔をすればいいのだろうか。そう思っていると……。
「あの、お邪魔します」
「はい⁉ あ、はい、どうも!」
驚いて二歩も三歩も後退ると、咲翔はゆるく眉を下げた。なんだか悲しそうだ。
悪いことをした。そう思った桜は、父の代わりにお茶を淹れて、お菓子を用意した。リビングで、また父が楽しそうに咲翔にあれこれと追求する声が聞こえてくる。
「そういえば、函館では車中泊だったんだよね? 大丈夫? さすがに夜は冷えたんじゃない? というか、なんで部屋で寝なかったの?」
ピクリと、咲翔が動きを止めた。一瞬、視線を逸らしていた。
母の寝相にぼこぼこにされたからだなんて、言いにくいのだろう。リビングには、なんとも苦い沈黙が落ちた。そんな中、父だけが一人カラカラと笑った。
「ごめんねぇ。どうせうちの人が強引に何か言ったから、車まで退散したんでしょ? 本当に、悪いことしたねぇ……」
『言った』どころか『した』のだが……そこまで言う度胸は咲翔にはあるまい。この空気を破れるのは、もはや桜しかいない。
「はい。コーヒーと、お菓子。お父さんがこの前お取り寄せしてたお菓子だよね?」
「そうそう。あの人が仙台土産で送ってくれたものなんだ。美味しかったから、また買っちゃったよ」
テーブルの真ん中に、大皿を置く。その上には、個包装になっているどら焼きが所狭しと並んでいる。咲翔は会釈をしながら、一つ、手に取った。
「……あ、美味しいですね」
「でしょ?」
咲翔は口元を抑えながらも、その綻んだ表情を抑えきれずにいた。それを見た父は、自慢げに笑う。父のこんなドヤ顔を見るのは、珍しい。
「なんか、あんこがもっちりしてますね。普通のどら焼きとちょっと違う……」
「そうなんだよ。なんでも、あんこに葛粉を使ってるらしくてね。独特の食感が美味しいって評判らしいんだよ。食べてみると、評判も納得だよね」
父に同意なのか、咲翔はぶんぶん首を縦に振っている。父は満足げに微笑み、桜にも一つ差し出した。
「ほら、美味しいって。桜も食べたら?」
「……いい」
桜は、そっと差し出されたどら焼きを押し返した。手を引っ込める父は、呆れ顔であり、どこか悲しそうだった。だがそれ以上追求することはせず、視線を咲翔に戻した。
「いつも同じ質問になっちゃってるけどさ、仙台ではどんなもの、食べたの? 何が美味しかった?」
尋ねられた咲翔は、どら焼きを一つ、ぐっと飲み込んでから、苦笑いを浮かべていた。
「それが……あんまり食べてないんです」
「えぇ⁉」
無意識に殴る蹴るの暴行を加えていたというのに、更に食事まで満足にさせなかったのか。桜の目に、仄かに怒りが宿った。
それはすぐに咲翔に伝わったらしく、慌てて手を首を横に振っていた。
「ちゃいます。おばちゃんに無体な扱いを受けたんやなくて……その……体調崩してしもて……」
「あぁ、そう言ってたねぇ……せっかくの仙台なのにね」
父の表情が、急に沈んだ面持ちへと変わる。だが、咲翔の表情は苦いものではあるが、暗くはない。
「いいえ、悪いもんではなかったですよ」
「ホントに? 熱出てたりしたんじゃないの?」
「はい、出ました。そやけど……今となっては、あの時熱が出て良かったんやて、思います」
「……詳しく、聞いてもいいかな?」
「はい。あの日は、朝から肌寒かったです……」
その時の寒さを思い出すように、咲翔は目を瞑り、二の腕をさすった。
◇◇◇
「えみくん、ほんとにごめん」
ホテルの朝食の席で、おばちゃんが頭を下げる。咲翔は、テーブルをはさんだ向かい側で、それを憮然として見下ろす。
「……ここ、ちょっと痣なってるんですけど」
「いやもう、まことに、申し訳ない!」
こんな時しか強く出られる時はない。咲翔はここぞとばかりに、昨夜、したたかに打ちのめされた腕を見せつけた。痣が見えやすいように、わざと上着を脱いでいる。そのせいだろうか、なんだかいつも以上にひんやりしていた。
「……はぁ、こういうことがないように、今後は絶対に別々の部屋にしましょう。どうしても一部屋しか無理でも、せめてツインでお願いします」
「はい、しかと承りました」
本来なら、咲翔がこんなことを言える立場ではない。なにせ相手は雇用主なのだから。しかし、昨夜は咲翔にとって死活問題だったのだ。雇用主の寝相にまで付き従うわけにはいかない。
おばちゃんは、いつになくしょんぼりしている。さすがに強く言いすぎたか、もしくは咲翔の痣を見て罪悪感に苛まれているか。どちらにせよ、咲翔はちょっとだけ溜飲を下げているのだった。
そう思っていると、おばちゃんは溜め込んでいた空気を一気に吐き出していた。
「はぁ…良かったぁ……」
そう言う様は、本当に安堵しているようだった。咲翔は、思わず眉間にシワを寄せた。
「何が良かったんですか。全然良うないですよ」
咲翔はもう一度、痣を示して見せた。おばちゃんは申し訳なさそうに眉を下げつつ、おずおずと口を開いた。
「あの……ね、朝起きたら、えみくんがいなかったから、心配したんだよね。その……帰っちゃったなら、まだいいんだけど……失踪……とかだったらどうしようって」
「失踪? 僕がですか?」
おばちゃんは気まずい顔で頷いた。どうやら本当のようだ。
「そんなアホな……失踪て、これ以上どこへ行くんです? こんな……知ってる人も場所も何もないところで?」
「うん、そうだよね。考えすぎだった、ごめん」
素直に謝られると、それ以上追求できなくなる。咲翔がぐっと押し黙ると、おばちゃんはいつもの笑顔を向けてくるのだった。
「ほんと、お騒がせしてごめん! これ、お礼! いっぱい食べて」
そう言って、咲翔の皿にモーニングビュッフェのメニューをもりもり載せていくのだった。咲翔の皿に大盛りの量を移しても、おばちゃんの皿はまだ豊富に載っている。いったいどれだけ載せていたんだか。
「あの……僕は大食いとちゃうので、そんなに載せてもろても食べられません」
「失礼ね。私が大食らいみたいじゃない」
「大食らいやないですか」
昨晩、寿司を食べに行った席で、コースメニュー以外に単品の寿司をいくら頼んだのか、もう忘れたらしい。金額もさながら、次から次へと積み上がっていく皿の数に、咲翔は目玉が飛び出るかと思ったものだ。
おばちゃんはどうも、自分の胃袋が標準サイズだと思っているらしく、咲翔の指摘に驚いていた。
「そうかぁ……えみくんは、こんなに食べられないのか……じゃあこの後、朝市に繰り出そうと思ってたんだけど」
朝市……様々な店が軒を連ね、海産物や農家からの直売品が売られている市場だ。海産物や野菜を買うだけでなく、それらを使った海鮮丼も有名であり、観光客もそうでない客も合わせて賑わっていると聞く。
咲翔も、函館に来たからには一度は行ってみたいと思ってはいたのだが……朝食を済ませた直後に行くのは、ちょっと違うとも思う。
「……朝市で、何しはるんですか? 今食べてるのは、朝食やないんですか?」
「移動してる間にお腹すかない?」
「あの……いくらなんでも燃費悪すぎでしょ」
今いるホテルから、件の朝市まで、車でおよそ十五分ほど。お腹が空く距離ではない。
呆れる気持ちを抑えられない。だがしかし、なんと言っても、おばちゃんは雇用主。彼女が行きたいと言うなら、黙って運転するのみ。
普段なら、そうしていたのだが……。
「あの……今日はこれから新千歳空港に戻らなあかんのですよね? もう飛行機の予約、してはるんでしょ?」
「うん、夕方の便だよ」
「これからまた移動に四時間ほどかかるんですから、この後観光するのはちょっと……」
「ダメ?」
「まぁ、ちょっと今回は……ほら、昨日言うてはったやないですか。行きたいところ全部を回ろうとしたら、北海道から出られなくなるって。次回の楽しみにしといたらええんちゃいますか?」
「次回の……う~ん、そうか。そうねぇ……わかった、そうする」
素直に頷いてくれたおばちゃんを見て、咲翔は胸をなで下ろした。同時に思った。
(我ながら、おばちゃん使いが上手くなった気がするな……)
こうして、北海道最後の日は、寄り道をせずに空港までたどり着くことができた。
札幌、小樽、函館の日々を詰め込んだお土産は郵送し、おばちゃんと咲翔の二人は飛行機で一路仙台へ向かう。
無事に、北の大地に別れを告げることができたのだった。
******
「……なんや寒ないですか?」
仙台空港を出てからの、咲翔の第一声だ。だが、おばちゃんはけろっとした声で答える。
「そう? むしろ暑くない?」
北海道が少しひんやりしていたので、おばちゃんはそれに合わせた服装をしていた。着ていたカーディガンを早速脱いでいる。
一方の咲翔はと言うと、むしろもう一枚着たいと思っていた。
「おかしいな……飛行機の中が寒かったんかな?」
「そう? 暑くはないけど、寒くもなかったと思うけど?」
自分とは違う感覚に違和感を覚えたが、咲翔はぼんやりする頭で、まぁそんなものかと片付けた。
咲翔は今日、四時間以上の運転に、一時間ほどのフライトが続いた。窮屈に座っている時間が長かったせいか、身体も重い。
(さすがに疲れたな……)
その思いが、ため息になって漏れていた。
隣に立つおばちゃんにも聞こえてしまったようで、気遣わしげに咲翔の顔を覗き込むのだった。
「大丈夫? 具合悪い?」
「ちょっと疲れただけです。夕飯食べて寝たら回復しますよ」
努めてにこやかに返したが、おばちゃんはまだ心配そうに眉根を寄せていた。
「本当に平気? なんなら、この後の運転は私が……」
「大丈夫です! 運転は僕にやらせてください、絶対に!」
咲翔はおばちゃんの心配の声に被せて叫んだ。
それに対し、おばちゃんは「わかった」と言って、黙り込んだ。ちょっと憮然としている。
申し訳ないと思うものの、命にはかえられない。そう思い、レンタカー会社の送迎車を待つのだった。
******
音が聞こえる。聞き慣れた、甲高い音だ。
それが目覚ましのアラーム音だと気付くのに、咲翔はしばしの時間がかかった。
この音を止めるために手を伸ばす。その僅かな動きですら、なぜかひどく億劫だった。
(なんでやろ。身体が重い、だるい……)
その思いに、咲翔の意識は絡め捕られ、深く深く沈んでいった。アラームの音が、どんどん遠ざかるようだった。
そして、今度は違う音が聞こえた。アラームとは違う、すごく大きな音だ。だが、アラームと違って少し遠くから聞こえてくる。この聞き慣れない音は……
「玄関⁉」
音は、部屋の入り口から聞こえていた。しかも、何度も何度もけたたましく鳴り続ける。ホテルの職員なら、もっと遠慮がちに鳴らすだろう。こんな乱暴な鳴らし方をするのは、知る限り一人しかいない。
重い身体を引きずるように起き上がり、ずるずると入り口に向かう。おそるおそるドアを開けると……想像通りの人がいて、安心した。
「おばちゃん……どうしました?」
おばちゃんは、スマートフォンを片手に立っていた。息を呑んで、咲翔の顔をじっと睨みつけている。
自分は何をしたんだろうか。そう思ったのも束の間、おばちゃんの手が咲翔の額に伸びてきた。
「え⁉ あの、なんですか?」
「……熱あるじゃない」
「え?」
尋ね返す咲翔の声など聞かず、おばちゃんは部屋にずかずか入り、咲翔の腕を強引に引っ張った。そして咲翔をベッドに寝かせると、部屋の鍵を奪取してしまった。
「大人しく寝てて。体温計、借りてくる。病院も聞いた方がいいな。あと、朝ご飯は部屋に持ってきてもらうようにお願いするから。じゃあね!」
一気に捲し立てて、おばちゃんは出て行った。一息に言うものだから何を言っていたのか、さっぱりわからない。
だが、ふと手で顔に触れてみると、わかった。
「……熱い」
そして、身体はどこか寒気を覚えている。
「ホンマや……熱、出てる」
気付いてしまうと、身体は一層、重さを増した。スプリングに、沈み込んでいくように思えた。
(このまま、起き上がれんようになったら、どうしよう。誰がおばちゃんの運転手やるんや?……ああ、誰か別の人でも雇うか。あの人やったら、すぐに見つけそうやしな。もしかしたら、今頃、誰か手配してるかもしれん。頼むから自分で運転するのだけはやめてや、おばちゃん……)
声に出す必要がないと、意外と頭の中ではおしゃべりになるものだ。ぼんやりした頭でも、そんなことをつらつらと考えてしまった。
もう自分は用済みになるのではないか。
そんなことを考えてしまう度、おばちゃんの心配をすることで、考えを振り払った。
だけど気を強く持つには、あまりにも苦しい。重い。熱くて寒い。辛い。
眠ってしまえれば楽だろうが、苦しくて眠れない。
(ああ……このままホテルで病死死体発見てことになったら、どないしよ……)
馬鹿馬鹿しいとわかっているが、考えずにいられない。吐息ともため息ともつかない息を吐き出すと、なぜか、額が急にひやっとした。
「うわ⁉」
驚いて目を開けると、そこにはおばちゃんがいた。咲翔の声に、驚いている。
「ごめん、起こした?」
「いえ……」
声になっていたかどうか、わからない。おばちゃんは気にせず、袋をガサガサ漁っていた。
「急いでたからテキトーに買ってきちゃった。あ、体温計は借りてきたから、測ってね」
そう言って、体温計を渡される。言われるがまま、電源を入れた。
「お粥が美味しそうだったから、持ってきてもらったよ。熱測ったら、食べよう。飲み物とかも、ここに置いとくね。残りは冷蔵庫に入れとく。あとは……ああ、そうだ。病院だ。ちょっと電話してくる」
そう言うと、買い物してきたらしい袋を置いて、部屋から出て行った。
嵐のような、めまぐるしさだ。
「えぇと……飲み物……? お粥? 体温……あ、三十八度二分……もっと上がるかもなぁ」
ぼんやりと独り言を呟いていると、勢いよくドアが開いた。そしてバタバタとおばちゃんが駆け寄ってくる。
「えみくん、体温計は?……三十八度二分です。はい、はい……わかりました」
誰かと電話中のようだ。何度も頷いていたかと思うと、着信を切って、咲翔のそばに寄ってくる。
「病院、予約したよ。発熱外来に来てほしいって」
「病院……ですか」
「予約まで時間あるから、ゆっくりできるよ。でも今のうちに準備しないとだから、悪いけど、鞄の中、見るね」
「はい……」
そう言うと、おばちゃんはペットボトルを枕元に置いて、咲翔の鞄を引っ張り出した。
ごそごそいう音と、おばちゃんの声が交互に聞こえる。気付くと、部屋に備え付けの机の上には着替えと保険証が置かれていた。
(手際ええな)
さすがは主婦だ。咲翔はこの時、初めてそう思った。そして、ふと気付いた。
「あれ? おばちゃん……観光はええんですか?」
そう尋ねると、おばちゃんは振り返った。きょとんとしていた顔が、みるみる怪訝なものへと変わっていく。
「観光? 病人置いて、ひとりで? 行くと思う?」
「いや、でも……旅行中やし……」
咲翔がおずおずとそう言うと、おばちゃんは、深いためいきをついた。そして、腰に手を当てて、大きく息を吸い込んで……
「誰が行くか‼ 馬鹿なこと言ってないで寝てなさい‼」
「は、はいぃぃ!」
叱られてしまった。初めて、雷を落とされてしまった……。
熱よりも、その衝撃で、咲翔は布団に潜り込んでしまった。
******
眠りについた咲翔が叩き起こされたのは一時間後。あっという間に服に着替えるよう言われ、保険証と共に連れ出された。
向かった先は病院だ。そこで受けた診断結果は……
「いやぁ、ただの風邪で良かった」
「ホンマに……」
おばちゃんも咲翔も胸をなで下ろした。疲労が溜まっていたのだろうと、医師から言われた。そこで今日と明日は絶対安静という厳命が下った。
咲翔以上におばちゃんが粛々とその命を受け、ホテルに帰るとすぐに咲翔をベッドに放り込んだのだった。
咲翔も、安心したからか、ホテルのベッドの寝心地が増した気がしていた。
もしもインフルエンザなどだったら、ホテルに閉じこもらなければいけないところだった。ちなみにおばちゃんは、その場合の宿泊についても、既にホテルと交渉済みだった。
「明日の朝ご飯は、私の分も一緒に部屋まで持ってきてもらうようにお願いしたから。日中の掃除も遠慮しとこう。服は洗濯しとく。悪いけど私のとごちゃ混ぜで洗うよ」
「はい……ありがとうございます」
おばちゃんは朝と同じく、テキパキ動き、咲翔の洗濯物をまとめていた。ベッドサイドには、昼食に用意してくれたおにぎりとゼリー飲料が置いてある。薬を飲むために少し食べただけで、残してしまっていた。
「どれどれ?……やっぱりまだ熱高いなぁ。冷却シート交換するね」
体温計ではまく、手のひらで簡単に熱を測ると、新しい冷却シートを貼ってくれる。額から急激に冷やされて気持ちいい。
「冷たいです……」
「うん、そりゃ良かった。じゃあ私は洗濯してくるから、寝ててね。何かあったら連絡して」
そう言うと、おばちゃんは洗濯物を抱えて部屋から出て行った。あの慌ただしさ……やはり嵐のようだと、咲翔は思った。
(いや……初めて会うた日の、台風みたいや)
誰もいない部屋で、ひとり笑う。
(こんなに誰かに世話焼いてもろたん、いつぶりやろ……?)
目を閉じて、深く息をつく。額の冷却シートが、心地いい。
誰かに心配してもらうのが、こんなに嬉しいだなんて、忘れていた。ずっと世話を焼く立場だったからだろうか。
『世話を焼く』……それも違う気がした。
祖父は、ちっとも手のかからない病人だった。ベッドから離れる際は介助が必要だったが、それ以外は他人に世話をかけようとしなかった。むしろ独りで静かに過ごすことを好んでいた。
(介護も、それほど苦になるようなもんとちゃうかったしなぁ……)
よく聞く介護の苦労を経験したとは思っていない。片時も目を離せないなんてことはなかったし、夜も眠れないような状態ではなかった。
祖父のために買い物をしてきた咲翔に、いつも謝罪と礼を言っていた。家族の誰よりも、咲翔にお礼を言ってくれた。
その一言があれば、明日もまた頑張ろうと思えた。自分は何かの役に立てているのだと思えた。
両親や兄が自分に向ける視線とは違う、温かな目を向けてくれた。いつも、どんなときも、祖父だけが。
(皆が怒ってるときも、おじいちゃんだけは怒らんかった。剣道やめた時とか……)
あの時の、祖父の瞳が忘れられない。
きっと続けてほしいと思っていたに違いない。祖父の目は悲しそうに目尻が下がっていた。だけど「やめるな」とは一言も口にしなかった。ただ優しく頭を撫でてくれた。そして両親たちを諭してくれた。
咲翔は嬉しかったが、祖父は悲しかったかもしれない。咲翔の気持ちを優先してくれた。その結果、悲しませてしまった。それが今も胸の奥にしこりとして残っている。
今のように何もすることがないと、疼いて顔を出すのだ。そして咲翔の罪悪感をこれでもかといたぶる。
(剣道やめた時だけとちゃう。その後も、ことあるごとに庇ってくれた。その度に悲しませてしもて……なんてひどい孫なんや。おまけに、あんな……!)
胸をかきむしりたい衝動に駆られた。それでも収まらなくて、気付けばひゅっと息を呑んでいた。空気を吸い込んだまま、次の呼吸ができなくなる。心臓を鷲づかみにされたような苦しみに襲われた――その時。
「えみくん!」
「はっ⁉」
誰かが咲翔を激しく揺さぶった。ベッドサイドに立つおばちゃんを見て、咲翔はようやく、さっきまでのことが夢だったのだと気付いた。
夢と呼ぶにはいやにハッキリしていて、現実と呼ぶには曖昧すぎる。眠っていたというより、現実と夢の境界を彷徨っていたような感覚だ。
だが、今はまぎれもなく現実だ。おばちゃんが心配そうな面持ちでペットボトルを差し出している。
「大丈夫? うなされてたよ?」
「はい……大丈夫です」
重だるさをこらえて起き上がり、ペットボトルに口をつける。水ではなくスポーツドリンクにしてくれたらしい。仄かな酸味と甘みが、水と共にあっという間に身体の中に染み渡っていく。
「うわ、すごい汗。ほら、タオルと着替え」
おばちゃんが手渡してくれたタオルは温かくてふかふかだった。乾燥機から出したばかりなのだろう。平時の元気を保てない今、このふかふかの感触は『癒やし』に思えた。
「あー……気持ちいい」
「え? タオルが?」
咲翔は無言で頷き、タオルを握りしめたままベッドに倒れ込んだ。特に意味はないが、この感触にずっと顔をうずめていたい気分だった。
「まぁ、好きにしたらいいけど……なんか赤ちゃんみたいね」
「へ?」
なにやら不本意な言葉が聞こえた。おばちゃんを見上げると、思った通り、ニヤニヤしている。
「いやぁ、娘が赤ちゃんの頃、お気に入りのタオルを握って離さないことがあったなぁって思って」
咲翔は思わずタオルを手放した。
「あ、大丈夫。赤ちゃんにはよくあることらしいから」
「僕は赤ちゃんとちゃいます……」
「でもやってることが赤ちゃんぽいから」
「……枕に敷こうと思ってたんです。汗かくので」
言い訳めいたことを言って、タオルを枕に敷き、頭を乗せた。おばちゃんはまだニヤニヤしていたが、もうこれを貫くしかない。
「ごめんごめん。こんなにお世話になっといて赤ちゃん扱いはないよね」
「……いえ」
お世話になっているのは咲翔の方だ。おばちゃんにそうまで言ってもらうことなど、していない。
だが、おばちゃんは本当にそう思っているようだ。
「タオルと着替え、ここに置いとくね。あと冷却シートも。じゃ、私はちょっと出かけてくるから」
「……どこ行かはるんですか?」
「ん~? 内緒」
なんだか優雅な笑みを浮かべて、おばちゃんは部屋を後にした。この部屋の鍵を持って行ってしまったところをみると、咲翔は寝ているしかないらしい。
(まぁ、今は動き回る元気もないしな)
頭の下に敷いていても、やはりふかふかのタオルの感触は心地いい。咲翔はそのまま、頭を預けることにした。
「それにしても、赤ちゃんて……」
悔しいやら恥ずかしいやら……他意はないのだろうから、逆にたちが悪い。だけど……と、咲翔の胸に浮かんだ。
(あれこれ命令まがいの口出ししてガミガミ言われるより、赤ちゃんみたいや言うて親切にしてくれるおばちゃんの方が、ちゃんと大人扱いしてくれてる気ぃするんは、なんでやろ……?)
本当にどうしてか、わからない。それは今、思考力が半減しているからなのか、それとも本当に理解できないからか、わからなかった。ただ、ぼんやりする頭でも、一つだけ確かだと思うのは――おばちゃんは、信頼できる――それだけだった。
(とりあえず、寝とくか)
一刻も早く体調を戻して、ドライブを可能にすることこそ使命。そう思うことにした。
決意が固まると、不思議と瞼が役目を果たそうとしているように思えた。急激に重くなり、瞳を覆っていき、やがてしっかりと閉じた。
すると帳が下りるように、意識もまた落ちていくのだった。
******
肌がヒヤリとする。冷たいものが当たっている。驚くよりも、今は心地よさが勝っている。
そういえば昔、熱を出したとき、冷却シートではなく氷嚢を充ててもらったことがあった。氷や水滴の感触が気になったものの、やんわりとした冷たさに、苦しみが和らいだことを覚えている。
今の冷たさも、それに近い。もっと感じていたい。
だが、すぐに別の感触がした。柔らかくて、優しくて、そして冷たい。この感触は氷嚢ではない。人の手だ。
冷たくなった、人の手だ――
「冷たい!」
咄嗟にその手を掴み、跳ね起きていた。
手は、おばちゃんのものだった。急に起きた咲翔を見て目を瞬かせている。
「あ……すみません」
「こっちこそ、ごめんね。びっくりさせたね」
ふと窓の外が視界に入る。外は既に暗く、夜景が眩かった。随分長く寝入っていたようだ。
おばちゃんの手は、咲翔の額に伸びていた。寝ている間に熱を測ってくれていたんだろう。その手のひらは濡れていて、よく見るとサイドテーブルにはテイクアウトしたらしい飲み物のカップが置かれている。
「これなら冷たくて甘いから、ちょっとでも飲みやすいかなと思って買ってきたの。飲んでみる?」
「……何ですか。それ?」
見たことのないパッケージで、何のメニューなのか見当も付かない。おまけにおばちゃんはニンマリ笑うばかり。
「まあまあ、飲んでみなさいな」
怪しいことこの上ない。だが毒ではないだろうし、病人にドッキリを仕掛けるような無体はしないだろうと信じて、ストローに口をつけた。
「甘いですね。これは……シェイクですか?」
「ピンポーン。その名もずんだシェイク!」
「ずんだ……ずんだ餅の?」
おばちゃんは得意満面で頷く。
「発見したときは、もう嬉しくてさ。飲みやすそうで、身体にも良さそう! これしかないでしょ?」
「そうですね……すごく美味いです」
シェイクはするすると口の中を流れていく。甘みと冷たい感触が、違和感なく胃まで運ばれていく。水だけでは癒やせなかった乾きを、潤していくようだ。もう一口、もう一口と次々欲しくなる。カップの中身をあっという間に干してしまった。
「ごちそうさまです」
「どういたしまして。他にもスープとか、おにぎりとか買ってきたけど、食べる?」
「……もう少ししたら、いただきます」
「了解。プリンとかゼリーとか、他に食べられそうなものあったら、言ってね」
「……すみません」
「えみくん、前にも言ったでしょ?『すみません』じゃなくて……?」
「ありがとうございます」
「よろしい」
どちらからともなく笑いが起こっていた。
そういえば、この旅が始まってから、なんだか笑うことが増えた。もしかしたら、ここ数年分の笑った回数よりも、ここひと月で笑った回数の方が多いかもしれない。
(こんな風に笑っていて、ええんやろか……)
今までの咲翔なら、その考えに至ると思考停止していた。だが、今は違う。
『それは、とってもおじいさん不孝だよ』
そう、言ってくれたから。
「あ、えみくん。テレビで時代劇の再放送してるって。見る?」
言うが早いか、おばちゃんは部屋のテレビをつけていた。映像も音声も古ぼけた、咲翔が生まれる前に放送されていた時代劇が映る。昔、祖父と一緒に何度も見たタイトルだ。
思い出した。祖父に剣道を勧められたときは、嬉しかった。テレビで見る殺陣が、自分にもできるのだと思って胸が躍ったものだ。
殺陣だけではない。時代劇のヒーローの立ち振る舞い、ちょっとした所作……それらすべてが威風堂々とした佇まいで、憧れた。
「おぉ……かっこいいねぇ」
ベッドサイドに座るおばちゃんが、感嘆の声を挙げる。
「はい。かっこいいですね」
こんなやりとりを、どこかで経験した。これも、昔の話だ。咲翔がテレビに向かって歓声を上げ、祖父が優しく頷いて、頭を撫でてくれた。
(だけど、あの手は、もう……!)
「えみくん、どした?」
おばちゃんが、タオルを差し出している。頬を伝う何かをおばちゃんが拭いてくれて、初めて、咲翔は自分が泣いているのだとわかった。
「あれ……? なんで?」
「ホントにどした? まだ泣くシーンじゃないみたいよ?」
「そうなんですけど……別のこと思い出して、どうしても……!」
涙が溢れて止まらない。
テレビからは悪代官と商人の密談が聞こえてくる。その声と、あまりにも不釣り合いな嗚咽が部屋中に響く。
自分でもどうしてこんなことになっているのか、わからない。ただ、気付けば止まらなくなっていた。そんな咲翔の背中を、おばちゃんの手が優しく撫でた。手のひらから、温もりが背中全体に伝わる。
「落ち着いて……おじいさんのこと、思い出しちゃった?」
咲翔はコクリと頷く。それ以上の声が、出せない。
おばちゃんは「そっか」と静かに言うと、ただ優しく背中を撫でてくれた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「おばちゃんは、自分を責めたらあかんて言うてくれたけど……やっぱり、僕のせいやから……」
気付けば、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
おばちゃんは一瞬だけ、その手を見て、静かに咲翔の瞳に視線を向けた。
「……なんで、そう思うの?」
この人は、聞いてくれる。咲翔がどんなことを語っても、受け止めてくれる。
大丈夫だ。
咲翔は、一度大きく息を吸い、吐き出し、そしてぐっと唇を噛みしめた。
「僕が気付かないとあかんかった……それやのに、気付けなかったんです」
おばちゃんは、軽く首を傾げた。話が飛躍しすぎていたと気付いた咲翔は、どこから話すべきか、思案した。
「えぇと……もっと昔の話からでも、いいですか?」
「もちろん」
咲翔はしばし考えた。どこまで話したか。どこから話していないか。
「えっと……祖父は、昔から僕のことを一番、面倒みてくれた人でした。熱出したときも、怪我したときも、学校行事でも……忙しい両親の代わりに、ずっと」
「うん。素敵なおじいさまだね」
おばちゃんは、しっかりと頷いてそう言う。心から同意してくれているのだと、信じられた。
「僕は……昔から気ぃ弱くて、色んなことが中途半端で……勉強も運動も、悪いわけやないけど、すごく良いわけでもない。剣道なんか、十年近く続けとったのに試合では一回も勝ててませんでした。家族は……情けないって笑ってました」
「……うん」
おばちゃんの顔が、一瞬だけ曇った。咲翔はそそくさと次の話に移った。
「どうしても自信が持てなくて、怖くて……辞めたいって言いました。初めて家族に反抗らしきことをした時かもしれないです」
「ご家族は、なんて?」
「『逃げるな』『今辞めるなんてもったいない』『これからぐんと強くなるから』……まぁお決まりの言葉を、ね……そやけど僕は、もう嫌で仕方なくて……そうしたら、祖父が間に入って、説得してくれました。『咲翔のやりたいことを、咲翔以外が決めるんか?』って言ってくれて……」
ふわりと、おばちゃんの顔がほころんだ。
「それからも、僕はあまり成果が振るわないことが続きました。受験とか、部活の結果とか、色々と……でもその度に、祖父は言うてくれました。『活躍して目立つことだけが成果やない』って。『積み重ねたことが道になる。無駄なことなんて一つもない』『積み重ねてる咲翔は、えらい子や』って……」
「うん、そっか……」
「はい。自分に自信が持てた試しはないですけど、祖父の前でだけは、息ができた……そんな気がします。そやけど、やっぱり中途半端なんは変わらへんままで……」
おばちゃんが眉をひそめる。咲翔に緊張が走ったのを、読み取っていたようだ。
「……就職しまして、僕は内勤の部署を希望してたんですけど、なんでか営業に回されまして……」
「営業……うわぁ」
「ホンマに、『うわぁ』って感じで……昔ながらの体育会系気質いうか……僕なんかには、到底ついていけんところでした。受注は取れへんし、上司にはしょっちゅう説教されるし、反省文と日誌で半日潰れるし、なので残業ばっかり続くし……それでも、成績は上がるわけもなくて、またどやされて……その連続です。正直、限界でした」
ちらりとおばちゃんを窺い見ると、まっすぐな視線が届いた。咲翔は息を呑んで、言葉を紡いだ。
「そんなとき、祖父が倒れたんです。幸い命に別状はなかったんですが、障害が残って……介護が必要になったんです。僕はそれを理由に、会社を辞めました」
「……そっか」
「聞かないんですか? 家族や祖父が、なんて言うたか?」
ずるい問いだった。おばちゃんに主導権を預けているようで、自分のほしい話へと誘導してしまっている。
それがわかるはずなのに、おばちゃんは尋ねた。
「なんて言われたの?」
「……『辛抱が足りん』て、両親からも、兄からも……」
あの人たちにとっては、そうなのだろう。努力すれば必ず報われると信じている人たちだ。結果が出ないのは、努力が足りないだけ――いつもそう言われてきた。結果が出る前に尻尾を巻いて逃げ出すのは卑怯者だとすら言われた。
「おじいさんは? 庇ってくれたの?」
咲翔は、静かに首を横に振った。
「祖父は……悲しそうでした。自分のために、孫がたった一年で会社を辞めたことを、申し訳なさそうに……『ごめんな咲翔』って、いつも……」
肩で息をしながら、それでも咲翔はまだ言うべき言葉が残っていた。それを口にする勇気が、この期に及んでも、まだ出ない。
ゆっくりと深呼吸をする背中に、おばちゃんがそっと手を添えてくれた。
「……なにも謝ることなんか、なかったんです。僕はただ逃げたかっただけなんです。その口実に、祖父の病気を利用した……あれだけ祖父の後ろに隠れてきたのに、まだ祖父を盾にしようとして、なんて卑怯なんや……!」
「……これくらいにして、一旦休まない?」
おばちゃんは、否定も肯定もしなかった。ただ痛ましい表情で、咲翔の背中をなで続けている。
だが、咲翔はまだ休むわけにはいかなかった。まだ、話していないことがある。
「祖父の介護も、家事も、それほど苦じゃなかったんです。今までの生活に比べたら、ずっと自分に向いてるって思えました。ただそれでも、年中ずっと家にいて、家族以外の誰ともほぼ会わん生活が続くと、どうしても鬱々としてしまってました。ただでさえ、たった一年で仕事を辞めたことで罪悪感があって……そんな時、同窓会の知らせが来たんです」
おばちゃんは、うんうんと先を促した。いい話を期待しているのだろうが……申し訳ないが、その期待には添えないのだった。
「ちょっと気分転換になるかと思って行ってみたんですが……ダメでした。昔は同じクラスで同じスタートラインに立ってたはずの同級生が、夢を徐々に実現してきてるようなキラキラした姿を目の当たりにしただけでした。焦りとか、疎外感とか、嫉妬すら……色んな感情が湧いて、とにかく自分だけが何もできてへんて気付いてしもて……気付いたら、そういうもん一切合切、酒で誤魔化してました」
「でも、えみくん……お酒は苦手なんだよね?」
「はい。だからもうベロベロになってしもて……情けないことに、同級生に送ってもらいました。足下もおぼつかない状態で……帰ったら、祖父が玄関で座ったまま待ち構えてました」
「え? おじいさんが?」
おばちゃんが目を丸くする。当時の咲翔の驚きは、それ以上だったことを思い出す。
「ものすごく怒られました。『人様の手を借りなあかんほど酔い潰れるとは何事や』って……祖父にそんなに怒られたんは久しぶりで、びっくりしましたし、怖かった。そやけど酒も入ってたし、なんやもう、色んなたがが外れてしもてて……つい、言い返してしもたんです」
「なんて?」
「『人の手を借りな用も足されへん人間に、言われたくないわ』って……ホンマ、最低ですよね」
おばちゃんは、長い息を吐き出していた。言葉に困っているようだった。
「……それで、どうしたの?」
「どうもしません。それで、お互い部屋に戻ったんです。僕はさっさと寝ようと思ったんですけど、夜中、祖父がトイレに行く介助があったんで、仕方なく寝室に行きました。でも祖父もよく寝てたみたいで、全然起きなかったんです。だからそのまま、部屋に戻りました。朝になったら……祖父は、冷たくなってました」
おばちゃんが息を呑む気配がした。その顔を見る勇気がなくて、咲翔は俯いたまま、続けた。
「救急車と警察が来て、色々と調べていきました。夜中のうちに発作が起こったんやろうって……たぶん僕が起こしに行ったときには、既に……」
おばちゃんが、もう一度深く息を吐き出す声が聞こえた。その声すら、咲翔の胸を抉るような響きがした。
「……僕のせいなんです。僕があの時に気付いていれば……救急車を呼んでいれば……!」
「そんな風に思っちゃダメだよ」
「でも、そうでしょう? 僕以外、気づける人間はいなかったんです。僕が気づかなあかんかった。それやのに……一番、肝心な時に僕は……!」
おばちゃんの手が、ふと背中から離れた。人の温もりが消えると、一気に冷たくなった気がした。
おばちゃんは、どう言葉をかけていいか、困っている様子だった。それでも、慎重に言葉を選ぼうとしてくれている。
「……家族の誰かに、そう言われたの?」
咲翔は、首を横に振った。
「誰も、何も言いません。でも、どう考えたって僕のせいでしょう。家族は気ぃ遣って言わないでいてくれたみたいですけど、それ以降、ずっと距離を置かれていたのを知ってます」
「そう……かな」
「そうです。現に、その後の遺品整理で、僕は何一つ触らせてもらえませんでした。『お前は何もせんでいい』と言うばっかりで、祖父の部屋に近づけもしませんでした……僕なんか、信用できなかったんでしょうね」
「そう……なのかなぁ?」
おばちゃんは首を更に捻って、唸るようにして言った。
「……四十九日で、色んな処理が一段落ついたって言うてました。そうしたら、親戚のおじさんが僕に言うたんです。『いつまでも迷惑かけとらんと働け』て。『一年も休んだんやからじゅうぶんやろ』て……」
「そんな……」
「なんや、色んなことが弾け散ったみたいな感覚がしました。気がついたらその場から逃げ出してて……もう誰にも会いたくないて思ったんです。それで、絶対に知り合いのおらん場所に行こうと思って、気付いたら沖縄行きの飛行機に乗ってました」
「それが、あの日?」
「はい。あの日です」
あの、台風の吹き荒れる日だ。咲翔は飛行機に乗って全財産を使い、おばちゃんは飛行機に酔って元気をなくしていた。
あの時、ほんの少し違う考えをしていたら、今この時はなかったかもしれない。
咲翔にとっては、それは間違いなく僥倖だった。おばちゃんにとっては、果たして良いことなのか悪いことか、どちらだろうか。そう思い、おばちゃんを窺い見る。
おばちゃんは、柔らかな笑みを湛えていた。目尻が、ほんの少し滲んでいるように見える。
「そっか……それで沖縄か」
「……何か変ですか?」
咲翔が尋ねると、おばちゃんは首を横に振った。
「これも、何かのお導きだったのかなって思ってね」
「……『お導き』?」
「何でもない」
おばちゃんはさっと目尻を拭うと、立ち上がった。
「話してくれてありがとうね。辛いこと吐き出したら、疲れたでしょ? そうでなくても具合悪いんだから……もう休んだら?」
「さっきまで寝てましたけど?」
「いいから」
おばちゃんはそう言って、咲翔に横になるよう促した。少し強引なくらいだ。無理矢理寝かされ、布団をかけられると、おばちゃんはさっさと踵を返してしまう。
「私ちょっと……自分の部屋に戻るね。何かあったら連絡して。じゃあ、おやすみ」
それだけ早口で言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
(呆れたんやろか……でも、そんな感じではなかったような……)
咲翔が話し終えるまで、おばちゃんはじっと耳を傾けてくれた。終始、穏やかな面持ちでいたように見えた。咲翔の話に呆れたり、嫌悪した様子はなかった……と思われる。
なにより、ぽつりと零した言葉……
『これも、何かのお導きだったのかなって思ってね』
この言葉が、突き放すような言葉には聞こえなかった。だが、真意もわからない。
(後で、聞いてみよう)
そう考えて、また咲翔は気付いた。
おばちゃんがまたこの部屋に来てくれると、当然のように考えている自分に驚いた。
所属していた会社でも、家族の間ですら、何かミスをすれば後がないという焦燥感に駆られていた気がする。
(なるほど。何かの『お導き』か……ホンマに、そうなんかもしれへんな)
神仏など信じていない咲翔だったが、本当に、誰かが巡り合わせてくれたご縁なのかもしれない。
こんなにも、胸のつかえをすべて吐き出せる相手ができるとは、これまで思ってもみなかったのだから。
(……はよ治さんと)
そう思い、咲翔は布団に深く潜り込んだ。
<次のお話はこちら>
<前のお話はこちら>
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