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【小説】あなたといた道、母が見た空 第四章 ③

【第一章はこちら】

 今日のお詫びのつもりだったんだろうか。おばちゃんが連れてきてくれた店は、某グルメガイドでも高評価を受けた寿司の名店だった。
 事前に予約をしていたおかげで、個室に通してもらうことができた。
 咲翔は勝手に回転寿司を想像していたことが申し訳なくなったのだった……。しかも回らないお寿司は初めてで身を固くしていたが、そんな緊張は、最初の一貫を食べて変わった。
「溶ける……!」
 口の中で、中トロが溶けていきそうだった。それに伴って、緊張で凝り固まっていた身体までが柔らかく蕩けていくようだった。
「美味しいものって、なんかこう……ほぐされるよね」
「ほぐされますね……」
 咲翔はおばちゃんの言葉に、深く頷いた。
 頼んだのは十二貫のお任せコース。今は、そのうち六貫がのった皿を前にしている。咲翔もおばちゃんも、回らないお寿司を食べるのは初めてだった。提供される鮨ネタは、回転寿司とはひと味違う。
 咲翔はおそるおそる、次の一貫に手を伸ばした。確かヒラメだと説明を受けた。
「う、うまい……!」
 グルメリポーターのように達者な表現ができればいいのだが、生憎、咲翔にはそんな技術はない。ただ、思ったまま、『美味しい』と言う以外にできなかった。
 それ以外に、何も言えない美味しさだった。
「ヒラメって、煮付けでしか食べたことないです」
「私も。こんなにするっと食べられるんだね……あ、ウニもすごい……!」
「ホンマや。やわらか! なんやウニが溶け出してシャリを包んでるみたいですよ」
「えみくん、これも食べて。ホタテ!」
「こっちもすごいですよ。えーと……牡丹海老!」
「イカも! イカも食べて」
 感嘆の声が止まらない二人だったが、ちゃんと小声で叫んでいる。なにより、食べる手が止まらないので、そうそう喋れないのだ。
 皿の上がきれいになくなるまで、数分とかからなかったように思えた。もっとしみじみ味わって食べるものだろうが、信じられないような美味を前にしては悠長に構えていられないのであった。
「あぁ……もう食べちゃった」
「これで半分ですよね? 後半の皿を出してもらうまで、もうちょっとかかりそうですね」
「……ちょっと時間ができたってことかな?」
「そうですね」
 残念なような、じっくり余韻を味わえるような……相反する思いの中、咲翔はひとまずお茶をすすった。小休止にはちょうどよい渋みが、全身に沁みていくようだ。
 そんな咲翔とは対称的に、おばちゃんはなんだかもじもじし始めた。これもまた、いつもの彼女らしくない態度だ。
「あの……何か隠し事でもあるんですか?」
「え、いや……その~あはは」
「……その、持ってきてはる大きい包みのことですか?」
「あはは……バレてたか」
 おばちゃんが咄嗟に背後に隠したものに、咲翔の視線も引き寄せられる。三十センチ四方ほどの箱だ。気にするなと言う方が無理だろう。
 おばちゃんがホテルでスーツケースからそれを取り出した時は何かと思ったのだが……咲翔は、その包み紙に見覚えがあった。
 先日まで滞在していた鹿児島で立ち寄った土産物店のものだ。お土産はすべて家に郵送していたものとばかり思っていたが、まさかこんなにかさばるものを持ち歩いていたとは、知らなかった。
「それ、何か聞いてもいいですか?」
 さすがに知らない振りを続けることは難しく、咲翔は、尋ねてみた。おばちゃんは、眉根を寄せて唸っている。
 だが急に咲翔の方を向くと、難しい表情のまま、尋ねてきた。
「えみくん……嬉しいかもしれない話と、微妙だけどもしかしたら嬉しいかもしれない話……どっちから聞きたい?」
「なんですか、それ……?」
 どっちも『かもしれない』の域を出ていない。つまり嬉しくないかもしれないということか。
「嬉しいかどうかはえみくんの受け取り方次第だからさ」
「……なんとなく、何のことかわかります。どっちでもいいですけど……ほな、微妙な方からお願いします」
 咲翔がそう言うと、おばちゃんはいつになく、居住まいを正した。ごほんと咳払いまでしている。
「じゃあ、えみくん……北海道の旅は、この函館で最後です」
 すとん、と胸の中で何かが落ちていくような感覚に陥った。 
 おそらくそう言われるのだろうと予感していた。だが『最後』という言葉が、これほど重くのしかかってくるとは思わなかった。ほんの一瞬でも、その言葉を聞きたくないと思っていることに、咲翔は自分自身で気付いたのだった。
 だが、もう傷つくばかりではない。咲翔は深呼吸をして、まっすぐにおばちゃんを見つめ返した。
「函館以外にも、北海道はいっぱい面白いところあると思いますよ。いいんですか?」
「とりあえず、今回はいいかな。北海道って広すぎるし。このまま行きたいところ全部を回ろうとしたら、北海道から出られなくなっちゃいそうでしょ?」
 ほんの少し湿っぽい言い方をするおばちゃんの様子に、咲翔は確信した。
「……で、次はどこに行かはるんです?」
 咲翔がそう言うと、おばちゃんはニタリと、イタズラ小僧のように笑った。
「バレたか」
「そうそう何回も同じ手は喰いませんよ。もう、次を決めてはるんでしょ?」
 咲翔もまた、ニタリと笑って返した。だがおばちゃんは、微笑みながら首を横に振った。
「それがね、決めてないの」
「は⁉ でも今日が最後なんでしょ?」
「最後だけど、次どこに行くかは、えみくんに聞いて決めようと思って」
「つまり……明日の宿とか飛行機とか車とかは何も決まってないってことですか? それは……ヤバいんとちゃいますか?」
「そうだよねぇ。急いで決めないと」
 おばちゃんは、優雅にお茶をすすっている。一人、胸のつかえがとれたとでも言わんばかりだ。
「いやいやいや、下手すると野宿ですよ? だいいち、僕がどこも行きたくないって言ったらどないするんですか?」
「その時はお家に帰る」
 咲翔はぐっと押し黙る。そう、おばちゃんは困ったら帰ればいいだけだ。咲翔とは違う。
(帰る……家に帰る……? 自分の家に?)
 我知らず、拳を握りしめていた。手のひらに急に滲んできた汗を感じて、咲翔は自分の気持ちを理解した。
(まだ、帰りたくない)
 ならば、旅を続けるしかない。だがその行き先は、咲翔に委ねられている。どこへ行きたいわけでもない咲翔に。
 どこでもいいから行き先を口にしようとするも、唇が乾いて、うまく言葉を紡げない。言葉にならないあえぎ声ばかり続ける咲翔に、おばちゃんはふわりと微笑んだ。
「じゃあ、ちょっと時間おいて考えようか。その間に、もう一つの話をしよう」
 おばちゃんはそう言うと、後ろに置いていた包みを咲翔に差し出した。なんだか重そうな音がする。
「これは、今までお世話になったお礼です。受け取って」
「え⁉ そ、そんなん受け取れません」
 急遽決まって契約書を交わしたわけではないとはいえ、咲翔はおばちゃんに雇用されているのだ。多少の融通の利く現金に、衣食住の保証をしてもらっている。これ以上、何かをもらうのは過剰というものだ。
 咲翔は包みを押し返そうとしたが、おばちゃんはそれを断固として拒否している。
「雇用主の言うことが聞けないの?」
「雇用主やから受け取れないんです。もう充分良くしてもらってます」
「いいじゃない。ケチ!」
「これのどこが『ケチ』なんですか!」
 何かをねだって断られた後に『ケチ』と言われるならわかるが、受け取ろうとしないから『ケチ』呼ばわりされるとは……咲翔には、まったく理解できなかった。
「私があげたいからあげるの。黙って言うことききなさい」
「どこのパワハラ上司なんですか……」
「パワハラ上等。ほら、いいから開けてみなさい。上司命令!」
 あまりの強引さに、咲翔は仕方なく包みを受け取り、包装紙に手をかけた。
(まさか爆弾入ってるんとちゃうやろな……?)
 あり得ないとわかっていても、ついそんな考えがよぎってしまう。
 おばちゃんの期待に満ちた視線を受けながら、ゆっくり丁寧に包装紙を剥がしていく。中から出てきたのは、白い木箱だ。しっかりと結わえられている紺のリボンがよく映える。
 リボンをゆっくりとほどき、白い蓋に手をかける。カタン、と音がして、蓋は外れた。箱の中には、緩衝材でしっかりと包まれたものが二つ、収まっていた。
 白い緩衝材越しでも、その輝きはうっすら見える。咲翔は手に取って、包んでいる緩衝材を剥がした。
「これ、あの時の……?」
 おばちゃんは、ニッコリ笑って頷いた。
 もう一つの緩衝材も剥がして、並べてみた。それは、薩摩切子の冷酒グラスだ。側面には二重矢来の紋様が、底には菊の文様が刻まれている。あの日、仙巌園の土産物店で見たものだった。片方は紫紺色、もう片方は深紅色。どちらも天井の灯りを受けて、くっきりとした輝きを返している。
「なんで……?」
「えみくん、じーっと見てたからさ」
「いやでも、僕はいいって……」
「おじいさんのこと、思い出すのは嫌?」
 咲翔は、思わず言葉に詰まった。核心を突かれた気がした。
 お土産がいらないんじゃない。このグラスを再び手元に置くのが、怖かった。そう思っていることに、気付いてしまった。
 祖父のことを思い出してしまうから。
「僕は……」
「余計なことだったら、ごめんね。でも……お土産を色々見てるけど、えみくんはこういうグラスを真剣に見てることが多いから。この薩摩切子は、特に熱心に見てた。きっと、思い入れがあるんだろうなって思ってね」
「思い入れ……」
 ある。思い入れなら、ある。祖父の持っていたものと似たグラスだというだけで思い出せるほど、たくさん。
 紫紺色と無色透明な輝きが交差する彫りに、そっと手を当てる。鋭く冷たい、そして、その先端の感触が、妙に心地いい。昔、このギザギザした部分を触って、祖父に怒られた。だけどキレイだと言うと、日の光にかざして、一緒にじっくり眺めてくれた。
――綺麗なものを『綺麗だ』と言える感性を、大事にしなさい
 祖父は、そう言っていた。
「綺麗ですね」
 声が、震えていた。咲翔のことをじっと見つめていたおばちゃんは、腰を浮かせていた。
「えみくん、大丈夫? 嫌だったら、これは私がもらうから……無理はしないでね?」
 気遣わしげな声に、咲翔の胸の内は温かく染まっていく。咲翔は小さく首を横に振った。
「大丈夫です。嬉しかったんです……このグラス、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
「ほ、本当に?」
 心配そうに尋ねるおばちゃんに、咲翔は頷きを返した。『嬉しいかもしれない』どころじゃない贈り物に、肩を震わせて頭を下げる。するとおばちゃんは、ほっとしたように息をついた。
「ああ良かったぁ……余計なお世話だったらどうしようかと思った」
「そんなん、言うわけないでしょ」
「わからないよ。私、えみくんの傷口に直接触ってるようなものだからね……薬を塗ってるつもりでも、塩をぐりぐり塗っちゃってるかもしれないじゃない?」
「……大丈夫です。薬です」
 潤んでいた目元を拭い、咲翔はまっすぐに前を向いた。
「いいんですよね……僕、時々おじいちゃんのこと思い出しても、いいですよね?」
「当たり前じゃない。忘れて欲しい人なんて、いないよ」
 おばちゃんは気っ風の良い物言いで、さらりと答えた。
 我知らず、咲翔の手に力が籠もった。俯きながら、ぐっと息を呑み、おそるおそる言葉を紡ぎ出す。
「……祖父が亡くなったのが、僕のせいでも……?」 
 咲翔はそう告げて、ゆっくりと顔を上げた。おそるおそる、おばちゃんの顔をのぞき見る。
 おばちゃんは、目を見開いたまま、言葉をなくしていた。
(やっぱり、そんな顔になるよな……)
 予想はしていた。それでも、この人には、こんな目で見られたくはなかった。笑って「大丈夫」と言って欲しかった……。
「すみません、変なこと言うて……忘れてください」
「……えみくん、それ本気で言ってる?」
「はい?」 
 おばちゃんの声は、いつになく鋭い。咲翔が顔を上げると、視線までが、鋭く咲翔を射貫こうとしていた。いつものにこやかな様子はすっかり鳴りを潜めている。
 こんなおばちゃんは、初めて見た。
「あの……本気って、何がです?」
「なんでおじいさんが亡くなったのが、えみくんのせいなの?」
「それは……」
 詳細まで口にする勇気が出ず、口ごもっていると、更に鋭利な視線が飛んできた。
「それは、とってもおじいさん不孝だよ」
「不孝……そ、そうですよね……」
 咲翔がまた俯きかけると、おばちゃんは力強く、首を横に振る。
「そうじゃない。えみくんが考えてることは、絶対に違う。私が言いたいのは、えみくんが……孫がそうやって自分のことを責めてることが、不孝だって言ってるの」
「な、なんでですか?」
「だってそうじゃない。おじいさんにしてみたら、孫がそんな風に落ち込んでる姿を見るのは辛いよ。その原因を作ったのが自分だったら、なおさら。おじいさんに、そんな思いをさせるの?」
 今度は、咲翔が目を瞠る番だった。
 自分がこうやって沈んでいたことが、祖父を悲しませる。そんなこと、考えてもみなかった。
「あの、でも……僕は、あの日……!」
 そこから先を口にしようとして、また、声が出せなくなった。行き場をなくした言葉が声にならず、手のひらにこもっていく。ぎゅっと握りしめた拳を見て、おばちゃんはふわりと笑った。
「無理に言おうとしなくていいよ。言いたくなったら、いつでも言って。私は、ちゃんと聞く。約束する」
 深く頷くおばちゃんを見て、咲翔の緊迫して麻痺していた喉が、静かに解けていった。
「だけど、自分のせいだなんて言うのは、なしにしよう。おじいさんが悲しむから」
「祖父が悲しむから……?」
「そう。わかった?」
 力の籠もった声に、咲翔は思わず頷いた。いつものように圧をかけられているというのに、いつもとは違う。身体の中で凝り固まっていたものが、すぅっと解けていくようだった。
 力が抜けてしばしポカンとしていると、襖の向こうから声が聞こえた。
「失礼します」
 静かに襖が開くと、仲居さんがお辞儀とともに入ってきた。大きなお盆には、先ほどと同じような皿が二枚並んでいた。
「こちら、握りの二の皿でございます」
 最初の皿と交換で置かれた皿には、おまかせコースの残り六貫が載っている。仲居さんの説明によると、金目鯛、イクラ軍艦、毛ガニ、ニシン、マグロの漬け、穴子とのことだ。
「おぉ……なんか眩いね」
「そうですね……」
 豪華絢爛な並びに、言葉が出ない。おばちゃんも咲翔も、ごくりと喉を鳴らす。
「……じゃあさ、えみくん。おじいさんの楽しい話をしながら、これをいただこう」
「楽しい話、ですか?」
 おばちゃんはにこやかなまま、首を縦に振った。 
「そう。どうせなら、いい話をしようよ。素敵な人だったみたいだしさ。私も、もっとお話聞きたいな」
「でも、どんな話をすれば?」
「そうだなぁ……歴史がお好きだったんだよね? 好きな偉人とかは? 何時代がお好きだった?」
 おばちゃんの口から、次から次へとポンポン質問が飛び出る。一つ一つ受け取るので精一杯だったが、咲翔はそれらの問いに答えたかった。答えるのが嬉しい質問ばかり、おばちゃんは投げかけてくれる。
「祖父は……色んな偉人をよく知ってて……島津家も新撰組も、好きでした。あとは……伊達政宗も、いっぱい資料を持ってました」
「ああ、あの眼帯の人?」
「そうです。独眼竜って言われてて……」
「おじいさんの好きなもの、ちゃんとえみくんが継いでくれてるんだね」
 そう言うと、おばちゃんはスマホで何やら調べだした。
「……伊達政宗って仙台の人?」
「はい。生まれは出羽国やから……山形県ですかね。江戸時代に入って、仙台藩の藩主になったので、今でも仙台のイメージが強いです……何してはるんです?」
 おばちゃんは、咲翔の説明を聞きながら、なにやらスマホの操作をしている。その真剣な眼差しに、咲翔は何か嫌な予感を感じた。
 咲翔の怪訝な顔に、おばちゃんは不気味なほどのにこやかな顔で答えた。
「じゃーん」
 そう言って、スマホ画面を咲翔に見せる。画面には『新千歳空港→仙台空港』の文字が躍っていた。ついでに『予約完了』という文字も。
「えーと……その心は?」
「見たとおりだよ。次の行き先が仙台に決まりましたっていう……」
「……僕に決めさせてくれるんやなかったんですか……」
「え、行きたくない?」
 なんともズルい尋ね方だ。祖父のお気に入りの武将であり、咲翔自身も気になっていた武将。その元所領……歴史が深く、今でもかの英雄を祀り、霊廟や銅像まである場所……行きたくないわけがない。
 咲翔は、深いため息を吐き出しながら、ぐったりと項垂れて、答えた。
「……行きたいです」
「あ~もっと行きたそうな顔じゃないと連れてってあげないよ」
「行きたいです! 連れて行ってください、お願いします!」
「よし!」
 自棄気味に言った声を力強いととらえたのか、おばちゃんはニカッと笑って頷いた。そして、右の拳を差し出す。
 咲翔はおずおずと左の拳を差し出し、コツンとおばちゃんの拳にぶつける。
 音はしなかったが、確かに二人の拳がぶつかり、『了承』の意が交わされたのだった。
 どちらからともなく、笑いがこぼれる。笑い声とともに、祖父の話が再開した。どんな人物が好きか、どんなエピソードが好きか、どんな風に語っていたか……話せば話すほど、祖父の思い出が蘇った。
 明日には、楽しく語らった仙台へ向かう。またしても四時間半もの道のりが待ち構えているのだが……そんなことも構わないと思えるほどに、咲翔の心は弾んでいた。
 確かに、悲しい思い出よりも、楽しい思い出を語る方がいいようだ。そう、思えるほどに。
 その後、咲翔はホテルに帰って現実に引き戻される。おばちゃんとダブルベッドの相部屋だという事実に直面したのだ。
 罪悪感、倫理観、社会常識……様々なものが頭の中に巡った結果、咲翔は駐車していた車の中で夜を明かすのだった。
(なんでリゾートホテルに来て、車中泊してるんやろ……)
 文句を言う立場ではないとわかっているが、それでも、なんだか釈然としない思いを抱えたまま、夜は更けていった……。

◇◇◇

「……と、まぁそんな感じの旅でした」
 咲翔の顔は、ちょっとげっそりしていた。過去の話だというのに、思い出しただけで苦労が甦ったようだ。
 楽しそうな雰囲気で終わるかと思いきや、またしてもとんでもない苦労をかけて終わった話で、桜は少し恐縮してしまった。それに対し、父は……。
「いやぁ、車中泊なんて……なんか申し訳ないね。ちゃんと眠れた?」
「それは、まぁ……」
 どう見ても、あまり眠れなかったような表情だ。それに、父の人懐こい笑みに、いつもなら苦笑いだけでも返しているというのに、今は目を逸らしていた。
(何かいつもと違う……?)
 咲翔の表情に、母の強引さに対する呆れや諦観以外の感情が垣間見えた気がした。その正体までは、わからないけれど。
 父は気付いていないようだ。相変わらず、ニコニコして咲翔に続きを尋ねている。
「それで次の日は大丈夫だった? 四時間半の運転でしょ? 眠かったんじゃない?」
「はぁ……いえ、帰りはそれほどは……どんな道か、わかってましたし」
「そう? でも本当に、毎度毎度、苦労をかけて申し訳ない」
 父は深々と頭を下げる。桜も一緒に頭を下げようかと思った。
 それに対し、咲翔は驚き、立ち上がって父にお辞儀を返していた。
「と、とんでもない! こちらこそ、お世話になりっぱなしで……」
 咲翔の言葉に、桜はちぐはぐな感覚を覚えて、気付いたら噴き出していた。
「どう考えても、お世話になってたのはうちのお母さんじゃない。なんで多岐川さんが謝るの?」
「いや、でも……」
 咲翔は、桜と父を交互に見て、抵抗を諦めたようだ。椅子に座り直し、俯き加減で再び語る。
「おばちゃんにもらったグラス……ありがたかったんです。それまでずっと、祖父のことを考えるのも、ホンマはあかんことやと思ってました。周りも、そんなようなことを言うてて……」
「え、なんで? 悪いわけないじゃない」
 それは、息をするように口を突いて出た言葉だった。自然に零れ出たその言葉を、咲翔はポカンとして聞いていた。そして、くすっと笑うのだった。
「えっと……私、変なこと言いましたか?」
「ううん。違う、笑てごめん。でも、なんや……おばちゃんと似てるなぁって思て」
「お母さんと……?」
 今度は桜がポカンとする番だった。目を何度も瞬かせて尋ね返すと、咲翔は深く頷いた。
「おばちゃんも、同じように言うてくれました。僕が祖父のことを思い出してまうのが……それほど好きでいることが、悪いわけがないって……詳しい事情は聞かんけど、それは絶対に変わらへんて……言うてくれたんです」
 咲翔は、テーブルの上に置いた手のひらを静かに組み直した。指先を弄んでいる様は、その言葉を言われた時を思い浮かべているようだ。
 父もまた、咲翔にそう言った母の姿が想像できるのだろう。一人頷き、咲翔に尋ねた。
「そのグラスって、今はどうしてるの?」
「持ち歩いて割れてもあかんので、実家に預けました。戻ったら、それで一杯やろうと思ってます」
「一杯? イケる口?」
 父が片手をくいっと傾けると、咲翔は渋い笑みを返した。
「いえ、酒は弱いんです。すみません」
「そうかぁ……そういえば、そう言ってたね。まぁ、あの薩摩切子なら何を入れても絵になるだろうしね」
「はい。楽しみにしてます」
「うん……そうだ、じゃあ今、使おうか」
「へ⁉」
 桜と咲翔、両方から素っ頓狂な声が上がった。
 だけど驚く二人には構わず、父はいそいそと台所に向かった。食器棚の奥を探り、グラスを取り出す。旅先から送られてきた、薩摩切子のビアグラスだ。
 母が旅から帰ってきたら晩酌をすると言って、父が大事にしまっていたのを覚えている。
「それ……今使うの? 多岐川さんと?」
「うん。ビールじゃなくてお茶か、ジュースでも……」
 棘の一切ない声でそう言うと、父は冷蔵庫を開けた。だが、咲翔の声がそれを留めた。
「と、とんでもない! 僕なんかが使っていいものやないです」
「なんで? グラスって、飲み物を飲むためにあるんだよ?」
「そうですけど、そうやなくて……!」
 もどかしそうに考え込む咲翔の肩を、父はぽんぽんと優しく叩いた。
「うちの奥さんが使うはずだったから……そう言いたいんだろう?」
「は、はい……」
「だからこそ、咲翔くんに使ってほしいんだよ。このグラスがうちに来ることになった証人だからね」
 そう言って、父はグラスとジュースを運んできた。父と咲翔の前に薩摩切子のグラスを、桜の前にはいつも使っているガラスコップを並べる。
「ごめんな。二つしかないから、桜はこれで」
 桜は我知らず、憮然としてしまっていたのだと悟った。気遣わしげな父の声が聞こえて、すぐに咲翔が慌てて立ち上がった。
「あ、じゃあ僕がこっちのコップを……」
「私の分はいいよ。二人で飲んだら?」
 コップを入れ替えようとする咲翔を押しとどめるために、そんなことを言ってしまった。出会った時と同じくらい、剣呑な声音だった自覚がある。
 良くないことだと、わかっている。ここで咲翔を疎かに扱うのは、父や母の意に反することだと、わかっている。けれど、また、止められなくなりそうだった。
(これじゃまるで、多岐川さんの方が家族みたいじゃない……!)
 そう、思ってしまった。どうにか胸の内に押しとどめてはいるが、何か言うと、口を突いてそんな子供じみた考えが漏れ出てしまいそうで、怖かった。
 桜は立ち上がり、リビングを出ようとした。だが、その背中に声がかけられる。
「僕が帰ります」
 桜は、振り返ることはできなかった。だけど背後で、咲翔が手早く帰り支度をしている様子は窺えた。
「明日も朝が早いので、これで失礼します。お二人はどうか、その……ゆっくり話の続きをしてください」
 咲翔は、まるで口上のようにそう言うと、お辞儀をしてリビングから駆けていった。父も桜も、止める間もなかった。
 立ち尽くしていると、父が桜の肩を叩いた。さっきの咲翔に対するものとは違う、少し強い感触だった。
「桜が、お見送りしてきなさい」
 有無を言わせぬ響きだった。
 その言葉の意味はわかる。桜は頷き、玄関へと向かった。
 咲翔は、ちょうどドアをくぐったところだった。
「多岐川さん」
 閉じかけたドアを開けて外へ出て、どうにか咲翔を呼び止める。咲翔はなんとも言えない渋い顔で振り返った。
「あの……長居して、すみませんでした」
 咲翔はまた、そう言って深々と頭を下げた。
 違う、そうじゃない。桜はそう思うが、うまく言葉が紡ぎ出せない。また咲翔に余計な自責の念を抱かせては申し訳ない。
 そう思うのだが、同時に、別の気持ちも湧き起こっていた。「こちらこそ、いつもすみません」と、そう言うつもりだったのだが……桜の口からは、別の言葉が零れ出た。
「母を、どう思っていたんですか?」
「……え?」
 顔を上げた咲翔は、不思議そうに何度も瞬きを繰り返していた。
「さっきの……ホテルの話、なんか変だなって……」
「変、ですか?」
「だって、お母さんがいくらなんでも車中泊なんてさせるはずないと思うから」
 咲翔の目が、一瞬、大きく見開かれたのを桜は見逃さなかった。やっぱり、と思ってしまう。
「もし本当は同じ部屋にいたんなら、どうして隠すのかなって……何か、やましいことがあるとか……?」
「ないです。やましいことなんて一切、誓って、ありません」
 桜の声に重ねるように、咲翔は言う。真剣な眼差しだった。だからこそ、訝る気持ちが抑えられない。
「本当に?」
「ホンマですよ。そんなことがあったら、おじさんのお世話になるなんて、できません」
「でも……じゃあ、なんであんなに気まずそうに話してたんですか? お父さんに言えないようなことがあったんじゃ……」
「やめぇや!」
 叫び声が、空気を震わせた。桜までが思わず震えて、そして竦んだ。
 咲翔は拳を握りしめて、桜をじっと見つめている。その瞳に浮かぶのは、怒りだった。
「あんたの言う『やましいこと』って何やねん? そんなことがあったって、言ってほしいんか? そんなことが本当に起こってほしかったんか?」
「そ、そんなことは……」
 ない、と言いたかった。だけど言えずに口ごもってしまった。
「娘やったら、母親がそんなことする人かどうか、わかるやろ」
 その言葉は、胸を抉るようだった。咲翔の視線が更に鋭く尖り、黙り込む桜に突き刺さった。
「……僕のことはどう思ってもかまわへんけど、おばちゃん……自分の母親のことは、ちゃんと信じてあげてほしい。そうやないと……」
 咲翔は、その先の言葉を口にしなかった。うまく言葉にならないというように、飲み込んでしまった。
 桜も、どう言葉を返せばいいのか、まるでわからなかった。
 自分の浅はかさに気付いてしまった。そして、咲翔がどれほどの想いを母に抱いてくれているのかも、わかってしまった。
 桜にとって、それらはあまりにも大きくて、重くて、とても抱えきれない。竦んで立ち尽くす以外、できなかった。
 桜と咲翔、どちらもが何を言えばいいのかわからずにいると、背後でドアが開いた。
「二人とも、大声で話すなら家に入りなさい」
 ふんわりと、父が言った。その瞬間、桜と咲翔の間に走っていた緊張が緩む。
 桜がはたと呼吸することを思い出したのと同時に、咲翔が居住まいを正し、お辞儀をした。
「す、すみません! 失礼します!」
 そう言って、慌てて踵を返す咲翔に、父が声を投げかけた。
「咲翔くん、また来週ね」
 にっこり笑って言う父に、咲翔はもう一度、頭を下げていた。
 そして今度こそ、くるりと背を向けて、走り去っていった。父だけが、その背にひらひらと手を振っている。
(見送るのも、ちゃんとできなかった……)
 桜がそう気付いた時には、咲翔の姿は暗闇に溶けて、見えなくなっていた。
「お母さんと咲翔くんの間には、『そういうこと』はないよ」
 父のそんな言葉に、桜の心臓が跳ね上がった。おそるおそる振り返ると、父のいやに優しい笑みが待ち受けていた。
「あの……お父さん……さっきの話は……」
「わかってる。好奇心とか、そういういい加減な気持ちで聞いたんじゃないってことはね。だからお父さんが答えるよ。二人は、やましいことなんて、なかった」
 父はきっぱりと、そう言い切った。
「……なんで、その場にいなかったお父さんがそんなこと言えるの?」
「知ってるから」
「『知ってる』?」
 普通、こういう場合に言うのは『わかっている』や『信じている』だろうに。妙な言い回しに首を傾げる桜を見て、父は微笑みを崩さなかった。
「お母さんから聞いたからね。朝起きたら、えみくんがいなくなったって、そりゃあもう心配してたよ」
「心配……」
 そうだった。父によれば、母は沖縄で出会った時からずっと、咲翔のことを気にかけて、心配していた。引きずり回す様子を聞いているととてもそうは思えないが、母なりの気遣いの結果なのかもしれない。
 それは、理解できるのだが……。
「そっか。旅の間、ずっとあの人のことが心配だったから……だから帰らなかったんだね」
「……桜?」
 どうしようもない、重苦しい感情が渦巻く。もやもやして、だけどそれが何なのかわからない。
 咲翔と出会ってからずっと、この何かわからないモノが胸の内にいた。その正体が、ようやく見えそうな気がしたが、桜は目を背けた。今はまだ、知りたくない。
 ふと、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
 メッセージアプリを起動し、そこに並ぶ見知った名前の中から、一つを選んだ。数週間前を境に、会話が途絶えた人物……『お母さん』。
 母との会話は、相手側からのメッセージで途切れていた。
『頑張れ。絶対、見に行くから』
 母らしくない、絵文字も何もないシンプルなメッセージ。だけど、確かに桜に向けて送られたメッセージだ。
 このメッセージを送る時は、母はあの人よりも、桜の心配をしていただろうか。そう思いたい自分に、気付いてしまった。
「お母さんは……私たちのこと、心配してるのかな。帰りたいって、思ってたのかな」
「桜? なんで、そんなことを?」
「……なんでもない。ごめん、もう寝る」
 桜は短く言い放ち、父の脇を抜けて家に入った。逃げるように自分の部屋に戻り、布団に潜り込んだ。
 父も、母の記憶も、咲翔の話も、何もかもを閉ざすように。

<次のお話はこちら>

<前のお話はこちら>

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