【小説】あなたといた道、母が見た空 第四章 ②
【第一章はこちら】
旅はきちんと計画立てて臨もう。咲翔はそう決心し、おばちゃんにもそのように進言していた。
とはいえ、やはりおばちゃんの希望が第一。彼女の胸一つで目的地が決まるのは変わらない。
札幌を起点に色々回るということで、昨日は小樽を目一杯楽しんだ。さて今日はどこへ行くんだろうと思っていたのだが……まさか、こんなことを言われるとは予想だにしなかった。
「五稜郭に行こう」
それが、朝食の席で下された宣下だった。昔聞いた、京都への観光を促す宣伝文句のようだ。
「……ホンマに? 函館ですよ?」
「あ、無理?」
こう聞くということは、地図やガイドをあまり見ずに言い出したということか。
咲翔は、だいたいの時間を割り出すため、一旦カーナビでめぼしい観光地との距離や時間を確認していた。今居るホテルから、函館・五稜郭までは概ね四時間半。決して一日で行けないわけではないところが、悩ましい。
「えーと……行けますけど、けっこう遠いです。移動時間がかなり長いですけど、いいですか?」
「私はもちろん大丈夫」
そこでおばちゃんの表情が曇るようなら別の場所に誘導もできたのに……咲翔は自分の表情の方が曇ることを何とか堪えた。
「今日中には札幌には戻れませんけど、大丈夫ですか?」
「まだ延泊の申し込みしてなかったから大丈夫。じゃあ函館で宿とろうか」
「着くの、たぶん夕方頃ですよ?」
「五稜郭公園は十九時まで入れるみたいだし、いいんじゃない? 函館の美味しいお店も調べとかないと!」
やんわり諦めさせようと言った言葉が、どんどん次の行動へと繋がってしまう。どうも、おばちゃんの決意は固いらしい。
朝一番から、咲翔はがっくり項垂れた。
「さすがに長時間の運転になるんで、途中ちょこちょこ休憩させてもらっていいですか?」
「それなら、途中で私が交代しようか?」
「それは結構です!」
おばちゃんにハンドルを握らせる方が、心臓に悪い。自らの寿命のためにも、咲翔は強い口調で言い切ったのだった。
******
北海道は、広い。そんなことは地図やカーナビの時間計算を見て、充分に理解していたはずだった。だが、知識と認識は違うらしい。咲翔はこの旅で、今まさしく実感し、知識を認識に変換させようとしていた。
「ここって……高速道路ですよね?」
札幌を旅立ってはや二時間ほど経つ。札幌の市街を出てすぐに高速道路に乗り、順調に車を走らせていた。大阪の高速道路ほどではないにしろ、二車線であり、咲翔たちの前後には常に数台が走っていた。
窓から見える景色は都会の建物で占められており、大阪にいた頃や鹿児島で見た景色とそう変わらない様子に安心していた。
最初の一時間ほどは。
しばらく走ったあたりから、なんだか様子が変わってきた。車の数が減り、いつの間にか咲翔たちの前後にいた車が、今では一台も居なくなっている。次に建物の数が減り、ふとした瞬間に見上げる空が、随分と広くなった。それにより、とてつもなく静かになっていた。
「高速道路って、こんな静かでしたっけ?」
「さ、さぁ……そういうこともあるんじゃない? 北海道だし」
それもそうだ。なにせ、北海道は広いのだ。少しぐらい人通りの少ない場所があったって、何もおかしくない。そうは思ったが……。
「あの……ホンマに高速道路ですか? 車と一台もすれ違わへんて、おかしないですか?」
「……いや、高速道路みたいだよ。カーナビによると、だけど」
おばちゃんが、カーナビと旅行雑誌の付録の地図とを見比べて頷く。間違いはないらしい。
「ホンマに? このカーナビ、位置観測ズレてません?」
「大丈夫だって。えみくん心配しすぎ」
おばちゃんは、ケタケタ笑う。だが咲翔の不安は増すばかりだ。
昼間なのに鬱蒼とした木々が、高速道路の壁の向こう側に林立している。それにより、道路までが薄暗い。そして目の前は真っ黒な道路ばかりがどこまでも延々と続いている。
(どうしよう……このまま迷ったら……)
そう思うと、背筋を冷たい汗が伝った。
だが次の瞬間、おばちゃんの「あ!」という大きな声が響いた。
「えみくん、良かった! サービスエリアだよ。休憩できるよ」
「ほ、ホンマですか⁉」
おばちゃんの呼びかけに、咲翔は思わず前のめりになってしまった。
運転ばかり、もう二時間半も続いている。さすがに一旦休憩を挟みたいところだった。おばちゃんの声は、一条の光となって咲翔の心に差し込んだ。まさしく天の声だった。
ほどなくして、分かれ道が見えた。一本道から抜けた先には、広大な駐車場と大きな建物があった。山ばかり見てきたこれまでが嘘のような、文明の存在証明が見えた。
「良かった……ちゃんと現実やった……!」
思わず漏れ出た言葉が、これだ。咲翔は自分でも驚いていた。
「大袈裟だなぁ、えみくん。関西にもサービスエリアはいっぱいあるでしょ?」
「いや、安心感が違います……だってちゃんと車があるし、人がいてるし……」
「それはまぁ……そうだね」
大袈裟でも何でもなく、咲翔は、もしや廃道にでも迷い込んだのかと思った。
だが、ここには他の車も停まっているし、寛いでいる人たちもいる。ちゃんとした文明施設だとわかる。
「うん、お疲れ様。ほら、下りて。何か食べよ」
「そうですね……」
それまで感じていた孤独感から一気に解き放たれて、咲翔は力が抜けた。だが、まだ旅の途中だ。深呼吸をして、咲翔は車から降りた。
同じように感じる人ばかりなのか、エリア内にいる人たちは皆、のびのびしていた。長居道中、窮屈だったのだろう。
その分を取り戻すように美味しいものを食べ、笑っている。隣を歩くおばちゃんも、その一人だ。
「ご飯も食べたいけどさ、まずはソフトクリーム、いっとこうよ」
「普通、食事の後に食べません?」
「糖分補給!」
そう言って、咲翔の腕をがっちり掴んで引っ張っていくのだったが……
「何あれ?」
おばちゃんの足がぴたりと止まった。その視線を追っていくと、建物の中のショップにぶつかる。店の前に飾ってある、看板に。
「バームクーヘン? チョココーティングしてるって書いてますね」
「ホワイトチョコがかかって雪みたい。きれいだし、美味しそう!」
おばちゃんの目が、新雪のようにキラキラ輝き出す。完全に興味が移ったのだと分かった。
「こっちにしよう! お土産用にも買って……あ、他にも色々お土産が売ってる。あれもこれも、面白そう……」
バームクーヘンが買える店に、おばちゃんがふらふら吸い寄せられていく。その腕を、今度は咲翔ががっちりと掴む。
「後でゆっくり見ましょう。まずは、食事にしませんか? バームクーヘンは『おやつ』ということで……」
「OK、おやつね。よし、じゃあフードコート行こう! 帆立とか黄金豚とか美味しそうなキーワードはいくつか見たんだよね~」
機嫌が直ったようで、おばちゃんはうきうきして食券の券売機へと駆けていった。
なぜ、おばちゃんのテンションまで気にかける必要があったのか……咲翔は一瞬考えたが、すべては旅の無事のためという一言で済ませた。
機嫌によってお金を出さなくなるなんてことはないだろうが……それでも、なぜか咲翔はおばちゃんに楽しんでいてもらいたいのだ。
「おーい、えみくんも選んで! どれも美味しそうだよ」
「はい!」
おばちゃんの言う通り、券売機に並ぶメニューはどれもこれも垂涎もので、選ぶなどできそうにないのだった。
「黄金豚の生姜焼き定食? 帆立天ぷらうどん? カツ乗せ室蘭ラーメン? どれも豪華すぎません? ホンマにフードコートですか?」
「さすが北海道……大盤振る舞いだねぇ。私はこの黄金豚のジンギスカン丼にする」
「……一昨日、ジンギスカン食べませんでした?」
「あれは羊、これは豚。そして単品じゃなくて『丼』! ほら、全然違うじゃない」
「そ、そうですか……えーと、じゃあ僕は……醤油ラーメンで」
「えええぇ~」
なぜか、隣から抗議の声が響く。あれこれ言われる前にボタンを押すことにした。
「いいやないですか。醤油ラーメンが好きなんです」
「まぁそれは同意見だけど。でも、それだけで足りるの?」
「あんまり腹一杯になりすぎると眠くなるんで」
「あ~そっか。うちの旦那さんもそう言ってたなぁ」
どうやら、納得してくれたらしい。食券を出して、実際にメニューを受け取ると、さらに満足してくれたようだ。
「けっこうボリュームあるね」
「でしょ。充分です」
二人揃って「いただきます」と言い、箸をとった。
「う~ん、ジューシー! 甘辛がいい感じ……! ご飯が進む!」
「僕も、ラーメンも美味いですけど、チャーシューも美味いです」
札幌や小樽でもラーメンは食べたのだが、おばちゃんに合わせて味噌味ばかりだったので、少し物足りなかったのだ。ようやく、一番好きな味に再会できた。
「えみくんも醤油が一番いいんだね」
「『も』って……おばちゃんもですか?」
「うん。どれも好きだけど、醤油が一番好き」
「その割に色んな味を試してはりましたね……」
「だって旅だもの。旅先の味は一期一会だよ? 楽しまなきゃ」
「ほな、帆立は食べんでよかったんですか?」
咲翔がそう言うと、おばちゃんは少しだけ悩ましい面持ちになった。
「それ……黄金豚か帆立か、どっちにするか迷ったんだよね。迷った末に、帆立は札幌に帰るときに食べる。今は豚って決めたの」
『迷った』と言うが、咲翔の体感時間でいうと、その時間は僅か二秒ほどだった。咲翔の『迷った』とは大きく違うらしい。
「僕もおばちゃんほどの決断力がほしいです……」
「それはどうかなぁ。ときどき旦那さんに『迷いなさ過ぎだよ』って言われるし」
会ったことはないが、おばちゃんの旦那さんに激しく同意した。心の中で、だが。
「そういえば、旦那さんとは長距離のドライブとか、しはるんですか?」
「最近はしないよ。昔、旅行に行った時にそう言ってたの。私の運転は怖いから、自分が全部運転するって言って聞かなくてね」
それも、心の中で同意した。だが頷くわけにはいかないので、話を続けた。
「えーと……その時は、どこに旅行に行かはったんですか?」
「その時? その時は、ね……」
なにやら言い淀んでいる。行き先を覚えていないのだろうか。それとも、言いたくないのだろうか。
「あの……別に無理に言わんでも……」
「うん? 沖縄だったけど?」
えらくサラッと言うので、咲翔は言葉に詰まった。単に、行き先を忘れていただけか……。
「はぁ……新婚旅行とか、ですか?」
「うーん、そんな感じかな」
そんな感じとはどんな感じか。尋ねようとしたら、おばちゃんは大きな口でご飯をぱくっと頬張った。まぁ、何かしらの記念の旅行というところなんだろう。
「でもそれやったら、旦那さんと一緒に来はったら良かったんちゃいます?」
「うーん……旦那さん、仕事休めないって言ってたし。私と違って、そんなに旅行好きでもないから」
「はぁ、なるほど……」
納得しそうになった。それでも違和感は感じていた。この押しの強い人が、旦那さんを置いて一人で思い出の地に来るとは。仕事が休めないなら、休みを取れる時期まで待ちそうなものだ。
「……この時期でないと、あかんかったんですか?」
咲翔がそう尋ねると、おばちゃんは一瞬、目を瞠っていた。そしてゆっくりと咀嚼して、考えこみながら飲み込み、じっと咲翔を見つめる。
「どうしたの、えみくん。なんか今日はグイグイ来るね」
「へ?」
ニヤリと笑った顔が、どこかいつもと違って見えた。いつもと違い、優しさを感じない。
「うーん、答えてもいいんだけど……そうだなぁ。えみくんが、あの時沖縄に来てた理由を教えてくれるなら、いいよ」
「……あ……」
喉の奥がきゅっと絞まり、妙な声が漏れた。
そして、思い出した。おばちゃんは沖縄で、聞かずにいてくれた。詳しいことまで打ち明けなければいけないかと思ったその時に、ふわりと身を引いてくれたのだ。
咲翔の、話したくない気持ちを察してくれた。
(同じ、なんやな……)
ならば、咲翔も同じようにしなければ。そう思い、黙って麺をすすった。しばらくして、おばちゃんもまた、食べることを再開した。
二人が食べ終わったのは、ほぼ同時だった。咲翔がどんな顔をして会話を始めればいいか迷っていると、おばちゃんがふわりと声をあげた。
「えみくん」
「はい」
釘を刺されるのかと思った。不用意に踏み込むなと。だが、発した声に続いたのは、いつもの太陽のような笑顔だった。
「バームクーヘンも買うけど、ソフトクリームも食べようよ」
その言葉を聞いて、咲翔の胸はすぅっと軽くなった。勝手に抱いていた罪悪感から、解放された。
「はい……食べたいです」
その時に思った。自分は、この人には一生、敵いそうにないと……。
******
「……あの、確認してもいいですか?」
「うん、なに?」
「ここって……令和の日本ですよね?」
「うん、そうだよ?」
「ホンマに?」
「ほんまほんま」
「……ホンマにそうですか? 異世界やなくて?」
咲翔のそんな問いに対して、おばちゃんから返ってきたのは、乾いた笑いだった。どうやら気持ちは察してくれているらしい。
有珠山のサービスエリアを出て、はや三〇分ほど……まったくと言っていいほど、景色が変わらないのだった。
「今、どこ走ってるんでしたっけ?」
「えーと、地図上は……長万部かな?」
「北海道ですよね?」
「そうだよ、安心して」
おばちゃんが宥めるように言う。だが咲翔は、安心できなかった。自分が車ごと異空間に迷いこんだと思えてならないのだった。
思えば、先ほどのサービスエリアでも不思議なことを言われた。世間話の一つとして「函館まで行く」と言うと、店員は「無事にたどり着けるといいですね」と不気味なほどに温かな笑みを向けた。そうなると、「道中お気をつけて」なんていう言葉までが怪しく思えてくる。
(もうあかん……僕はなんかに取り憑かれて、どっか別の世界に連れ込まれたんや……ああ、おばちゃんに申し訳ない……)
延々と、山と木々と道ばかり見続けて、そしてそんな中をすれ違う車も後続車もなく、たった一台で走り続けて……咲翔の心はやんわりとすり減っていた。おかしな考えだと気付かないほどに。
おばちゃんが心配そうな顔で見ていることにも気付いていなかった。だが急に、切羽詰まった声が聞こえた。
「えみくん! スピード!」
「へ?……あ!」
咄嗟にブレーキを踏み込む。バックミラーを確認し、追突しそうな車がいないことも確認した。スピードメーターを確認すると、『0』を指している。停車状態だ。高速道路のど真ん中……それも非常駐車帯でもない場所で、一台だけポツンと停まっている。
さっきまで感じていた孤独が、今この瞬間だけは、幸運だったと言わざるを得ない。
「良かった、この道で……」
「いやぁ、本当にね。それにしても珍しいね、えみくんがあんなにスピード出すなんて」
おばちゃんにそう言われて、改めて背筋を冷たい汗が伝った。スピードメーターを見た瞬間、針は115kmを指していた。ぎょっとしたのは言うまでもない。
咲翔は優良ドライバーである自覚がある。違反なんて、今まで一度もない。交通量の多い大阪にいたときですら出来ていたことなのに、まさかこんなに交通量の少ない(どころじゃない)場所で、あんなに大胆なスピードを出していたとは……。
「危なかった……オービスにひっかかったら、一発で免停でした……」
「免許停止は困るね。私が運転しなくちゃいけなくなるところだった」
「それは絶対ダメです!」
「そんな喰い気味に言わなくてもいいじゃない」
おばちゃんはちょっと不服そうに抗議してくる。声をかけてくれて感謝はしているが、運転席だけは譲れないのだ。命のために。
「……すみません。そういえば昔、こういう人気のない道ほどスピード出しすぎて、違反したり事故起こしたりする人が多いって、祖父が言うてました……」
深呼吸をして冷や汗を拭う咲翔を見て、おばちゃんは抗議の声を鎮めた。
「ずっと変わり映えしない風景だったし、かえって疲れるよね。やっぱり運転、交わろうか?」
「結構です」
強く固辞して、咲翔はアクセルを踏んだ。今度は、おばちゃんからの抗議は聞こえない。代わりに、クスクス笑う声が聞こえる。
「もうちょっと行ったらパーキングエリアがあるらしいから、休憩できそうだよ」
「良かったです。またソフトクリームでも食べます?」
「お、いいね。さっき助けてあげたし、奢ってよ」
「もちろん」
咲翔の財布の中は、おばちゃんから支給されているので『奢る』というのはおかしな言い方だが……咲翔から贈る気持ちが大事なのだと、わかるようになった。
問題は、次に寄ったパーキングエリアでは、ソフトクリームが売っていなかったことだ。それどころか売店もなく、自動販売機があるくらいだった。給油スタンドも、ない。
「さっきのサービスエリアで給油しといてホンマに良かった……」
給油メーターが半分ほどだったので、入れるかどうか迷っていたのだ。あの時の判断は間違いではなかった。
「こんな調子やと、この先どこで給油できるかわかりませんでしたね」
「ん~? 別にこの先だってサービスエリアはあるし、どっかで入れられたんじゃない? 高速道路を下りたら見つかるかもしれないし、ギリギリセーフで目的地まで行けたかも」
「あのですね……ギリギリやったら困るんですよ。それどころか、こんな高速のど真ん中でアウトやったらどうするんですか」
「その時は、その時」
絶対に『その時』を想像できていない……。咲翔はそう確信していた。
さっきスピードのことを指摘してくれたことは何度でも感謝するが、こう暢気な発言を繰り返されると、忘れそうになる。
カーナビの計算によると、目的地である五稜郭まであと約二時間半とのこと。咲翔の口からは、もはやため息以外、出なかった。
「まぁまぁ、絶望しなさんな、若者よ。ほら、美味しいもの食べよう」
おばちゃんは、後部座席に置いていた袋をガサガサ漁って、箱を引っ張り出した。そこに書かれていたのは真っ白な姿と『雪化粧バーム』の名前だ。
「ほら、これ食べて、元気出そう」
年輪を思わせる層が幾重にも連なるスポンジに、真っ白なチョコレートがかかっている。甘い香りに、更に甘い香りが加わってふんわり鼻孔を突いてくる。
おばちゃんが薄めに切り分けて渡してくれた一切れを、咲翔はぱくっと大きな口でかじった。
「甘!」
予想していたとはいえ、甘い。だが変わり映えしない景色に疲弊していた咲翔の脳には、ちょうどいい心地の甘さだ。たまらなくて、ついもう一口かじってしまう。あっという間に食べ終えると、おばちゃんはもう一切れ、差し出した。
「良かった。喜んでくれて」
「……ありがとうございます」
なんだか気恥ずかしくて、お礼の言葉も小声になってしまった。おばちゃんはニヤニヤ笑いながら、自分も口に運んでいた。
「うん、美味しいねぇ」
「ご家族も、喜ばはるんとちゃいますか?」
「そう思って、ちゃんと家族の分も買っといた。後でホテルから郵送してもらう」
「……北海道だけで何回も郵送することになりそうですね」
「仕方ないよ。広いし、美味しいもの多いし、選びきれないんだから」
コロコロと鈴を転がすようなおばちゃんの声は、澄み切った空に響いた。空というか……パーキングエリア内に、響き渡った。
「……人、いないね」
「いませんね」
「さっきのサービスエリアって、もっといたよね?」
「いましたね」
そう言うと、お互いにもう一口、ぱくっとかじった。会話が消えると、広いエリア内はしんと静まりかえる。小鳥のさえずりが、どこか遠くから聞こえてくる。
「ねえ、えみくん。しりとりしない?」
「……やめときません?」
「いや、なんか話さないと怖いじゃない」
「しりとりは会話やなくて、ただの言葉の応酬でしょ。そんな無意味なやりとりしてたら、余計に怖なるだけですやん」
「じゃあ何か話してよ」
「なんでですか。怖いんやったらおばちゃんが話してくださいよ」
「え~……じゃあ今日泊まるホテルがいつもより安い理由とか……?」
「やめてください! やっぱり聞きたないです!」
咲翔が慌てて耳を塞いだ、その時――駐車場の隅で音がした。
何者かが、ガサガサと植え込みを揺らしている。
「ひっ……何かいる?」
おばちゃんが青ざめる。咲翔は、それに加えて声も出せずにいた。
怖い話には怖いものが引き寄せられるというが、まさか……そう思った時だった。植え込みの中から、ひょこっと顔を出した者がいた。
「……狐?」
テレビや図鑑などで見た、狐だ。悠々と歩く様は、まるでこのエリアの主だと名乗っているかのようだった。
狐は、悠然と歩きながら、じっとこちらを見つめている。視線で射貫く、と言う方が正しいだろうか。
「敬え」と言うなら、もう充分に敬意を抱いているのだが……どうも、そうではないらしいと気付いた。
「あ、餌がほしいのかな?」
咲翔もおばちゃんも、同時にそう気付いた。狐の視線は、一直線に手元のバームクーヘンに注がれていた。
「いや、あげたいのはやまやまだけど、これはねぇ……狐の身体には良くないし」
「いやいや、あげたらダメですよ。野生動物にあげるなって、観光雑誌にも書いてましたよ」
「いやいやいや、あの顔を見てよ。どう見ても『お腹空いてるから何かちょうだい』じゃない?」
「いやいやいやいや、どう見ても『食い物よこさんのやったらお前らを餌にするぞ』って顔ですよ」
「えみくんの方が面白いね。座布団一枚!」
「いりませんから、そろそろ行きましょう」
咲翔は慌てて残っていたバームクーヘンを口に押し込み、立ち上がった。食べきれなかった分を箱に戻し、しっかりと蓋を閉めて、そそくさと歩き出す。
狐たちがピクンと反応するも、気付かないフリをして車まで走った。
「飲み物ありますね? トイレ大丈夫ですね?」
「オールオッケー!」
「よし、じゃあ出発します。迷いの森に来てしもたみたいやから、早よ脱出せんと……」
「えみくん、それも面白いね。座布団五枚あげよう」
「はいはい、ありがとうございます」
おばちゃんをあしらいつつ、咲翔はアクセルを踏み込んだ。幸い、狐たちが追ってくることはなかった……。
「追いかけてくるわけないじゃない。狐だって無駄な体力は使わないよ」
「そらそうでしょうけど……」
咲翔の心臓は、大きく跳ね回っていた。本当に餌にされるかと思った。まともに目が合ってしまった時、睨み返すような度胸は持ち合わせていなかった。熊じゃないだけ幸運だったと言えよう。
深く息をつく咲翔の肩を、おばちゃんはポンと優しく叩く。そして……
「えみくん、今度こそ、しりとりしない? ここからまた同じような景色が続くみたいだからさ」
「いや、余計なこと考えてたら事故りますんで」
「ちょっとだけ……ね?
「勘弁してください」
こんな状況で暇を持て余すおばちゃんを、咲翔は心底から尊敬した……。
(おばちゃんのような度胸がほしい……)
心から、そう思ったのだった。
「はぁ……ホンマにしりとりは勘弁してください。そんなに暇なんやったら、オービスがないか見張っといてくれませんか?」
「オービス? ああ、速度監視してる機械?」
「はい。道路脇とか柱の上とかについてるやつです。時々、パトカーにくっついてるのもありますけど」
「へぇぇ……何それ、レアキャラみたいな?」
「……まぁ、そうですね」
「オッケー! そのレアオービス探すね」
おばちゃんは、嬉々として誰も走っていない道路を監視しだした。オービスに目を輝かせる人も、相当レアだろう。
「あの……移動式より固定型の方が多いんで、そっちを見つけてもらえた方がありがたいんですけど?」
「大丈夫。そっちも探すから」
一瞬、不安がよぎる。だが、ここまで目を光らせているのだから、何かしらは異常を感知してくれるだろう。そう思い、咲翔は前方に集中することにした。
そこから先、高速道路上ですれ違った車の数は、片手で足りるほど。一時間ほど走って、ようやく高速道路を下りて、車は更に走り続けた。
「す、す、す……えーと……『すいか』て言いましたっけ?」
「言った気もするけど……覚えてないし、いいや。か、か……『亀』!」
「『め』……めいど」
「それは確実にさっきも言ったよ。えみくん、メイド喫茶でも行きたいの?」
「ちゃいますよ。さっきのはおばちゃんが『執事』って言うてはったから『メイド』って思いついたんです。それで今のは『冥土の土産』の『冥土』です。死後の世界です」
「縁起悪いなぁ……明るく行こうよ」
「一時間もしりとり続けてたら、ええ加減ネタ切れですよ……」
結局、おばちゃんのしりとりに付き合う羽目になっていた。咲翔の方も、何か会話をしていないと眠気に負けそうになっていたのだ。
こんな感じで、二人だけなのでルールも審議もユルユルのグダグダになっているが……眠気覚ましにはなっていた。とりあえず審議の結果、セーフとなったので、咲翔はほっと息をつく。
そして、ふと周囲を見回してみた。
「おぉ……なんや風景変わってきましたね」
「本当だ。建物が増えたねぇ。なんか都会っぽい」
先ほどまでは木々か畑に視界を占領されていたが、ほんの数分のうちに、急に様変わりしていた。建物が道路脇に並び続けている。それも民家だけでなく、大手チェーンの店舗なども見える。
そうこうしているうちに、カーナビにもとある文字が見えた。
「あ!『五稜郭』が……カーナビの画面に映りましたよ」
もうここから近いらしい。画面の隅に、目的地の姿がちらりと映り込んだ。
「やったね、えみくん! ついにたどり着いたんだよ、私たち!」
「旅の終着点なんですね、ここが……良かった……!」
思えば遠くまできたものだ。よく聞くフレーズだが、今日は心から、そう呟きたい。本当に、遠かったのだから……。
目的地に近づくほど、建物の数が増えていく。咲翔の想像とは違った雰囲気の街並みだ。
咲翔は、もっと自然に囲まれた場所にぽつんと史跡として存在するのかと思っていた。だが、実際には街中で、それも住宅地の中にある大きな公園といった佇まいだった。
近くの駐車場に車を停めて、入り口の橋を渡る。古めかしい木製の橋で、大きな池の上にかかっている。池ではなく堀なのは承知しているが、大きすぎて堀だという実感が湧かないのだった。
「すごいねぇ……この橋、幕末からあるんだって。補強工事とかはされてるみたいだけど」「へぇ……僕ら、幕末の人らと同じ場所を歩いてるってことですか?」
「そうなるねぇ。いや~ロマンだねぇ」
おばちゃんの感嘆の声とともに、足下からギシギシと音が聞こえる。ふと視線を上げると、森のような豊かな緑が目の前に広がっている。
(このきしみ音を、土方歳三や榎本武揚も聞いてたんか。同じように、見上げてたんか……)
改修されているとのことだったので、きっと同じ音・光景ではないだろうが、それでも感慨深い。教科書やフィクションでしか知らなかった人物たちと同じ場所を歩いているのだ。
咲翔の口からも、思わず感嘆のため息が漏れた。
「えみくん、感激してる?」
「そりゃあ、まぁ……」
「良かった」
おばちゃんはニンマリと、含みのある笑みを浮かべた。まるで図られていたかのような……そう思った時、ふと思い出した。
そういえば昨日、オルゴール制作の時に新撰組云々の話をした。
(そうや。おじいちゃんの話の流れで……もしかして、それで……?)
前を歩くおばちゃんは、楽しそうに橋や堀、石垣の写真を撮っている。今、咲翔の考えたことを問うてみても、きっと「私が行きたかったんだよ」と言うだろう。だけど、それでも言わずにはおれなかった。
「ありがとう、ございます……!」
深く頭を下げる咲翔に、おばちゃんはきょとんとした顔で振り返る。
「何が?」
こう言うと思っていた。だから、咲翔はすぐに頭を上げて言った。
「なんでもないです。行きましょか」
咲翔はおばちゃんが持っていた旅行雑誌をするりと奪い取って、追い抜いて歩いた。
******
五稜郭は、言わずと知れた箱館戦争における旧幕府軍の拠点だった場所だ。星形に設計された城塞で、敵がどこから攻めてきても反撃できるようになっているらしい。
拠点となった函館奉行所は明治時代に解体され、現在の五稜郭は緑豊かな公園として、市民の憩いの場となっている。
一の橋、二の橋と続けて渡ると、とても一望できないような大きな公園に足を踏み入れることになる。青々とした木々と芝に囲まれて、整えられた道に沿って歩く。柔らかな日差しが時折降りかかり、風が優しく頬を撫ぜる。息を吸うだけで、胸がすぅっと澄んでいくようだった。
「ここって、戦争の跡地なんだよね?」
「そのはずなんですけど……」
おばちゃんが尋ねたくなるのもわかる。血なまぐさい気配など、少しも感じない場所なのだから。いくら百五十年近く前の出来事とはいえ、こんなにも変貌を遂げるものなのかと疑いたくなる。
石垣を越えて開けた場所に出ると、そこはもう咲翔の家の近くの自然公園と何も変わらない雰囲気だった。近所の人が気軽にやってきて、のんびり座ったり、ゆったり歩き回ったり、観光客がカメラを向けたり……賑やかであり、和やかだった。
それでも、歩いた先に木造の階段や石垣、古い建物が見えると思わず目を瞠ってしまう。箱館戦争の『生き残り』なのだとわかる。
「あの建物は……兵糧を入れてた倉みたいです」
「そんなのが残ってるんだね。あ、でもその隣には休憩所があるね」
木造の古めかしい建物の隣に、それとよく似せた比較的新しい建物がある。お土産を売っているらしく、人の流れがそちらに向かっている。
「あ、その近くには大砲がある。なんか古いものと新しいものがごちゃまぜだねぇ」
「これは……箱館戦争で使ってた大砲みたいですね……触ったらダメですよ」
「わかってます~」
子どもに釘を刺すように言ってしまったせいか、おばちゃんはちょっとむすっとしてしまった。だがくるりと後ろを向くと、また目を大きく開いて驚いていた。
「えみくん、見て。あの建物……!」
おばちゃんの声につられて振り返ると、咲翔にも見えた。木々の影の間からでもその大きさがわかる、その佇まいが。
「あれが、函館奉行所……⁉」
赤い屋根と、その入り口が印象的だ。大きくせり出した木造の板張り。これがいわゆる奉行所のお白洲というものか。ということは、咲翔は今、裁かれる罪人と同じ場所に立っていると言うことだろうか。足下でジャリジャリという音が聞こえると、なんだか落ち着かない気分になった。
「えみくん、中に入れるみたいよ。行こう」
「入っていいんですか⁉」
よく見ると、お白洲だと思っていたそこは入り口で、中で人が行き来している。
咲翔は入り口に置いてある袋を一枚とって靴を入れ、そろりと中に進んでいった。入ってすぐ、受付があった。既におばちゃんが二人分の入館申し込みをしている。
鹿児島の『仙巌園』でも驚いたが、まさかこんな歴史上の大事件の現場に足を運べるだなんて、思ってもみなかった。いくら再現された建物だとはいえ、だ。
リーフレットに従って、まずは玄関近くの部屋でガイダンスを受ける。数分で終わると、すぐ隣の部屋へと移る。時代劇などで見た和室そのままが再現されていた。灯りは当時の行灯に似せたもので、LEDライトとは違うぼんやりとした明度が、いかにも当時らしい風に気を醸し出していた。畳の和室が四間続き、そこを抜けると板張りの廊下に出た。その先にも小部屋がいくつか並び、中庭に面した廊下を抜けていく。
廊下を抜けた先はかつて奉行所の役人の執務室だった部屋だ。歴史資料が並んでおり、箱館戦争の経緯や、五稜郭や函館奉行所の仕組みなどが丁寧に解説されていた。
(おじいちゃん、これ見たら喜んだやろなぁ……)
そう思わずにいられない、歴史の宝庫だった。
その後は同心の詰め所だった場所が続いていた。映像にて、この建物の復元の様子を解説したもの、実際に使われている木材などの解説を見られた。どうも当時は使われていたが今では手に入らないような、貴重な木材を使用しているらしい。
「どこの世界も職人や研究者って人たちは、すごいねぇ……」
おばちゃんが唸るように言う。咲翔も、心底から頷いた。
この建物は二〇一〇年……百年以上経ってから再現されたものではあるが、できうる限り当時の空気に近づけた場所にこうして立つことができた。
大阪にいただけでは決してできない体験であると、咲翔は震えるような思いで実感していた。
気付けば咲翔は、隣に立つおばちゃんに向き直り、頭を下げていた。
「おばちゃん、ありがとうございました」
「へ⁉ なに? なんのお礼?」
「ここに連れてきてくれたことのお礼です」
おばちゃんは、まだ首を傾げている。
「連れてきてくれたのはえみくんでしょ? 私は何もしてないよ?」
「行こうって言ってくれたことが、ありがたいんです」
「う~ん、どういたしまして?」
そう言いつつも、まだ「でもえみくんのおかげなんだけどなぁ」なんて言っている。
(こういう時は素直にドヤ顔したらええのに)
そう思っていると、おばちゃんはうんうん唸ることをやめて、顔を上げた。
「よくわかんないけど、じゃあおばちゃんにお礼してくれる?」
「もちろん。何したらええですか?」
「ここから近いところで、ソフトクリーム奢って」
また、それだ。パーキングエリアで食べそびれた分も含めて、もう待ちきれないのだろうか。
「わかりました。どこのソフトですか?」
そういえば、奉行所の建物の前に休憩所があった。そこでソフトクリームも売っているようだった……のだが、おばちゃんは休憩所を通り過ぎて。咲翔の腕をぐいぐい引っ張って歩いて行く。そしてあっという間に一の橋を渡って、五稜郭公園を出てしまった。
かと言って車に戻るでもなく、向かった先は……。
「か、勘弁してください‼ 高いところは……それだけは……‼」
咲翔が悲鳴をあげる場所、それは……五稜郭公園を一望できる、五稜郭タワーだった。
「大丈夫、大丈夫。落ちないって」
「そんなこと心配してるんやないです……!」
どうもおばちゃんには、高所恐怖症というものが理解できないようだ。三六〇度パノラマで五稜郭どころか津軽海峡までをぐるりと一望できてしまう展望台の手すりに寄っていって、咲翔を手招きしている。咲翔は、何としても中央の柱から離れようとしなかった。
「いいじゃん、当時の人たちは五稜郭をこんな角度で見下ろすなんてできなかったんだよ。今なら五稜郭を完璧に攻め落とせるんじゃない?」
「五稜郭を陥落させたいなんて思てませんから!」
「じゃあホラ、ジオラマ見てなよ。これなら大丈夫でしょ?」
展望台には、二五〇分の一の五稜郭が再現されている。確かにこれなら上から見ている状態でも怖くはないのだが……そのジオラマは、窓ガラスのすぐ側に置かれているので、ちょっと顔を上げると地上九〇メートルであることを思い出さざるをえない光景が目に入ってしまう。
ちらりと振り返ると、おばちゃんはあちこち移動して、色々な景色の写真を撮りまくっている。咲翔は諦めて、ジオラマだけに意識を集中させた。
(外は見えへん。外は見えへん。外は見えへん……!)
「えみくん」
「ひっ⁉」
肩をポンと叩かれる。同時に顔を上げてしまい、見事な函館の街並みが視界いっぱいに広がってしまった。
「ひぃぃぃぃ! や、やめてください! 怖いんです!」
「ごめん、ごめん。一通り撮り終わったから、行こう」
「あ……降りるんですか?」
「うん、下りるよ。下の階にね」
「……え?」
現在いるのは、五稜郭タワー展望台二階、地上約九〇メートルの高さの場所。一階は、階段を下りた先……地上約八六メートルの、同じく全方位ガラス張りのフロアだ。
「これこれ。どうせソフトクリーム食べるんなら、これ食べてみたいって思ってたの」
「はぁ……」
震えながら財布をしまい、咲翔は吐息のような声を零した。
おばちゃんが美味しそうに食べている、水色と白が連なったソフトクリームをげっそりした表情で見つめた。展望台一階に売っている『新撰組ソフトミックス』だ。かの新撰組のトレードマークになっている浅葱のダンダラ模様にかけたソフトクリームだ。
「函館に来た頃はもう浅葱の羽織は着てなかったはずやのに……」
咲翔はぼそぼそとそんなことを呟く。普段ならそんなことはどうでもいいと思っていたのだが、今の状況では、そのどうでもいい知識を吐き出すしか恐怖を紛らわせる方法がないのだ。
「いいじゃん。浅葱色の部分、ラムネ味で美味しいよ。えみくんも食べる?」
「けっこうです……」
咲翔はぎゅっと目をつぶった。もはやどこを見ても『高いところからの景色』にしかならないので、視界すべてが恐怖の対象でしかないのだ。
「えみくん、念のために聞くけど……あっちに強化ガラスの床があってね、地上まで見えるんだけど……」
「絶対、近づきません!」
「だよねぇ」
おばちゃんが苦笑いをする声が聞こえた。そのまま、隣に誰かが立つ気配を感じた。おばちゃんだろうか。
「……行かないんですか? その、教化ガラスの床……」
「行かないよ。さすがに私も怖いし」
じゃあなんで聞いたのか……問いたいが、話題に上げたくない気持ちの方が勝った。
隣からは、静かにソフトクリームを食べる音が聞こえてくる。あれだけはしゃいでいた人が急に静かになり、なんだか不気味さを感じてしまった。
(ああ、でも沖縄で疲れたって言って急に静かになったこともあったしなぁ)
おばちゃんと言う人は、エネルギーの限界ギリギリまで全力で動き、急に節電モードに入るのかもしれない。そう思っていると……
「あの~えみくん」
なんだか遠慮がちな声が聞こえた。おばちゃんの声だが、彼女らしくない声音だ。
「な、なんでしょう?」
「晩ご飯……何食べたい?」
及び腰で尋ね返す咲翔に、更に及び腰での問いが返ってきた。いよいよもって怪しい。なにか企みでもあるのか、もしくはやましいことでもあるのかと、疑ってしまう。
「な、なんでも……宿の近くやったら、何があるんですか?」
「えーとね……美味しいお寿司のお店か、海鮮居酒屋さんか、ラーメンか、またはジンギスカンか……」
「じ、じゃあ海鮮系で……寿司か居酒屋か、どっちがいいですか?」
「う~ん……じ、じゃあお寿司にしよっか」
おばちゃんは、珍しく遠慮がちに言った。いつもなら、食べたい気持ちが勝って、生き生きと宣言するのに。挙動不審と言える態度に、後ろめたさを感じ取った。
(やっぱり……なんややましいことがあるな……?)
「じゃあ、とりあえず宿に移動しましょか」
咲翔がそう言うと、おばちゃんは眉根を寄せたまま、こっくり頷いた。いつもと違って覇気を感じないので、調子が狂う。
(珍しいこともあるもんやな)
決して悩みのない人だと思っているわけではないが、ここまで歯切れが悪いことは珍しい。いったい、何を抱えているのか。
首を傾げながら、咲翔たちは五稜郭タワーを下りた。
約四~五時間の旅から解放された喜びを感じていたが、再び車に戻る。次の目的地はカーナビの予測では約十五分だ。実際に走っていると、市街地で車の量も増え、帰宅時間も重なったこともあり、宿泊予定の旅館に到着したのはそれから三十分後だった。
その間、おばちゃんはずっと物憂げだった。食べたいものが決まらないといった悩みとは別のように思えて不思議だったのだが……その表情の理由が、旅館に到着してようやくわかった。
「一部屋しかとれんかったんですか……⁉」
おばちゃんは申し訳なさそうに、こっくりと頷いた。
「しかもちゃんとツインの部屋をとったつもりが、操作ミスでダブルベッドの部屋になっとったと……」
おばちゃんは、頷きながら、項垂れてしまった。
「もうほんと、ごめん……」
こんなにも落ち込むおばちゃんを、初めて見た。
(だから何か言いにくそうやったんか……)
おそらく気付いたのは、五稜郭タワーなのだろう。あの時から何か様子がおかしかった。そんなに直前に気付いたら、変更はきかないし、別の宿を予約することもできないだろう。咲翔に謝罪と言い訳をするしか、道がなかったわけだ。
だが頭を下げられると咲翔だって困る。旅の宿や食事について、ほぼすべてを任せっきりにしていたのだから、文句を言う権利なんてない。それに困るのは咲翔よりもおばちゃんの方ではないかと思うのだが……そのおばちゃんの方から謝られては、何も言えない。
「あの……まぁ僕は何とかなりますから、おばちゃんは気にせんとゆっくりしてください」
「『気にせんと』って……どういう風に? えみくん、まさか部屋に入らない気?」
「いや、まぁ色々あるやないですか。同じ部屋でも床で寝るとか……」
「私一人ベッドで寝て、旅の相棒を床で寝かせるなんてあり得ないでしょ!」
「ほな別の宿でも探します。ビジネスホテルとか、あるんちゃいます?」
「それも考えたんだけどね……近場のは全部埋まっちゃってて……」
八方塞がりということらしい。
「えーと……ほな、ベッドの端っこで寝て、絶対におばちゃんの邪魔せんようにします。着替えとかは……交代でって感じでどうですか?」
「えみくんがいいなら……」
「いや、僕よりおばちゃんの方が気にしてください」
「……わかった、気にする。それで、許してくれる?」
「許すも許さんもないですよ」
「良かった……! じゃあ、荷物置きに行こう! それで、お寿司行こう!」
飛び跳ねそうな勢いで、おばちゃんは駆け出した。さっきまで重そうだったスーツケースまで、急に羽が生えたように軽やかに動き出すのだった。
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