【小説】あなたといた道、母が見た空 第四章 ①
【第一章はこちら】
真夏の太陽が、桜をじりじりと焦がそうとする。陽光を遮るものは、周囲にはない。この、コンビニの建物に入らない限りは。
他の客は太陽の攻撃から逃れるようにさっさと店内に入っていくのだが、桜だけは、ドアの向こうに踏み出せずにいた。入り口近くに前屈みに立って、中をこそこそ覗いている。こちらの姿を見られずに、中を確認したいのだ。
(いない、よね……?)
その人物がいないことを期待して、そろりと視線を動かす。だが、その期待は外れた。
いないことを期待した人物――多岐川咲翔は、静かにレジに立っていた。
(今日は早い時間の日だった……!)
先日聞いたところによると、平日の朝から夕方までは、この近所の会社の食堂で働き、コンビニバイトに入るのは夕方以降だという。だが食堂でのバイトがない日は、コンビニの方に昼間から入っているとのことだった。
平日はだいたい同じスケジュールなのだろうが、世の中にはイレギュラーもある。咲翔のバイトのシフト事情まで把握できるはずもなく、こうして毎日こそこそする羽目になっている。
寄り道せずにまっすぐ帰ればいいだけだが――部活で疲れた身体は、家との中間地点に位置するこのコンビニの辺りでエネルギーを欲するのだ。
別のコンビニに行けばいいのではないか――残念ながら、学校と家との間に存在するコンビニは、この店だけなのだ。
では、諦めて咲翔に会計してもらうことになれればいい――それも、難しい。
先日、咲翔に対して少し素っ気ない態度をとってしまった。しかも、彼にとっては理不尽な感情を抱いてしまった。彼にそれをぶつけるまではいかなかったものの、罪悪感と苛立ちは混ざり合い、まだ桜の中で燻っている。何もない風を装うなんて器用な真似は、桜にはできないのだった。
よって、こうして不審者のように、咲翔の存在を確認してから入るしかないのだ。昨日はもう一人の店員が会計をしてくれたのだが、今は咲翔しかいない。
(他の人がレジに入るまで、もうちょっと待ってみよう……)
桜は入り口から離れ、店の裏へ回った。レジからは見えないし、何よりも桜の心のオアシスがあるのだ。
裏には業務用のゴミ箱があり、その周囲には小さな姿がいくつも見える。白、黒、茶、三毛……様々な色の毛並みを揺らす、猫たちだ。
「はぁ……可愛い!」
以前からこの場所で野良猫を見かけることは多かった。だが最近は特に多い。急に集合場所が変更になったのだろうか。
どんな事情があるにせよ、桜にとっては嬉しい変化だ。悠々と日影に陣取る猫たちに、桜は吸い寄せられるように近づいていく。
(こっちは日影だから……猫ちゃんに触らなかったら大丈夫。大丈夫……)
誰に対してかわからない言い訳を脳内で呟きながら、桜は一歩ずつ、進んでいった。猫たちの視線が集まる。桜の歩みと同時に、猫たちもそろりと腰を浮かせる。
(あと一歩くらいなら……)
そう思いながら、一歩踏み出そうとした、その時――
「やめとき」
後ろから、ぐっと腕を引かれた。
桜は振り返り、ぎょっとした。そこにいたのは、どうにかして避けようとしていた、多岐川咲翔その人だった。その視線は、矢のように鋭く感じた。
咲翔は、桜の腕を掴んだまま告げる。
「触ったらあかんよ。猫アレルギーなんやろ?」
「ご、ごめんなさ……はい?」
咲翔が首を傾げている。桜もまた、目をパチパチ瞬かせる。
「『娘は猫アレルギー』って、おばちゃん言うてはったけど……違った?」
「いえ、違わないです。アレルギーです」
「ほな、それ以上は近寄らん方がええよ。猫も警戒してるみたいやし」
よく見ると、猫たちの毛が逆立ってきている。怒気を向けられて、桜は思わず竦んだ。
咲翔は数歩離れて、猫たちに背を向けて屈んだ。そしてポケットから何かを取り出していた。
レトルトパウチのような袋をいくつも開けて、小さな紙皿に中身を移していく。
「はい」
そう言って、桜に向けて皿を差し出した。こんもり盛られたものは、魚の切り身を柔らかく炊いたもののようで、美味しそうだった。だけどおそらく、桜に食べさせようとしているのではない。
「猫の餌。あげて」
「わ、私がですか?」
「……やめとく?」
「いえ、あげます」
咲翔から皿を受け取ると、桜はもう一度そろりと近づいた。今度は無理に距離を詰めることはせず、ただ猫たちの集まりやすそうなところに踏み込んだ。
それ以上は近づかず、そっと皿を置いた。皿を置くと同時に、咲翔の立ち位置まで下がる。
すると距離を取ったからか、猫たちは警戒を解き、ゆらりと立ち上がった。一歩、また一歩と皿に近づいていく。そして――
「食べた!」
一匹が一口食べると、堰を切ったように猫たちが押し寄せてきた。我先にと、皿に顔を突っ込む。山盛りになっていた猫の餌は、あっという間に姿を消してしまったのだった。
用事は済んだとばかりに散り散りになっていく猫たちを見送り、桜は咲翔に向けて深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「え? 何が?」
咲翔は、本当に何もわからないという顔をしていた。
「え、餌……とか?」
「ああ、うん」
まだよくわからないという顔をしながら、咲翔はくるりと踵を返す。
「じゃあ、戻るわ」
そう言って、咲翔は店内に戻っていく。
(なんか……風のように速いな)
余計なことを挟まず、素早く餌をあげて去って行く咲翔を、桜は心の中でそう表した。
急な突風に煽られたように、気付けば桜は、店内へと足を踏み入れていたのだった。
期間限定のアイスを買いに来たからだ。そう、強く念じながら。
******
前回からきっちり七日後の日曜日が、またやってきた。その日の夕方5時頃に、インターホンがなるのを、父は心待ちにしている。
そんな様子を見ると、桜の胸もなんだかざわつくのだった。
「お邪魔します」
相変わらず遠慮がちな声音で、咲翔は言う。もう何度も会ったし、葬儀を一緒に乗り切った仲と言えるのに、距離感は会った頃から変わらないようだ。
「どうぞどうぞ。上がって」
父の方は、どんどん距離を詰めていくようだが。
麦茶を取りにキッチンに行った父に代わって、桜がリビングまで先導する。すると「あの」と、また遠慮の塊のような声が聞こえた。
振り返ると、咲翔はビニール袋を差し出していた。ぎっしり詰まっているらしく、重そうだ。
「これ、手土産にどうぞ」
「あ、どうも。ありがとうございます」
どうしてそんなに腰が引けているのか。首を傾げながら、袋を受け取る。
「あ! アイス……期間限定のやつだ!」
コンビニの、それも今の時期しか売っていないので、桜はあのコンビニに行ったら必ず買うようにしていた。それが、袋いっぱいに詰まっている。
「こ、こんなにもらっちゃってもいいんですか……?」
「はい。この前、買ってはったから、好きなんかなって思って……」
あの時レジにいたのは咲翔ではないのに、見られていたのだろうか。ちょっと恥ずかしかったが、目の前のお宝にはかなわない。
「ありがとうございます!」
「いえ。いつも、ごちそうになってるんで……」
「あれはお父さんが無理矢理誘ってるんだから、気にしなくてもいいですよ」
「そういうわけには……」
「じゃあ、お持たせになるけど、このアイス、皆で食べましょう! ね、お父さん?」
桜がキッチンに向けて尋ねると、明るい声が返ってきた。
「おお、いいね。話はアイスで一息ついてからにしようか」
「え? でも……」
自分まで食べていいのか、と咲翔の顔には書かれている。
桜は都合良く父と母の真似をして、咲翔を強引に座らせた。
同時に父が麦茶のポットとスプーンを三本持ってリビングに戻ってきた。入れ替わるように、桜が人数分のアイスを置いて、残りを冷凍庫にしまう。庫内がいっぱいになってしまった……。
(お金貯めようとしてるはずなのに、申し訳ないな)
頂いたアイスは、これから大事に食べようと心に誓い、桜はテーブルにつく。
父と咲翔、二人の勧めで、桜が最初にアイスの蓋を開けた。鮮やかなピンク色が視界に飛び込んでくる。夏季限定『完熟苺』味だ。いつも売っているストロベリーアイスとはひと味違う、濃厚な苺のうま味を味わえるのだ。こころなしか、果肉が普段のものより大きい。
パクッと一口、口に入れただけで、甘酸っぱさが広がるようだった。
「ん~美味しい!」
思わず、そう叫んでしまった。するとテーブルの両端からクスクス笑う声が聞こえてくる。
「桜、良かったねぇ。これ毎日食べてたもんねぇ」
「美味しいなら、良かったです」
笑われるのは不服で、桜は思わず二人を睨みつけた。すると咲翔は萎縮してしまったが、父は笑うのをやめようとしない。
「昔から苺が好きだもんねぇ」
「……悪い?」
「いや、全然。昔、知り合いの苺畑で苺狩りさせてもらった時もあったねぇ。苺狩りの後、山盛りの苺をお皿に盛ってもらったけど、ほとんど一人で食べちゃったっけ。その話、咲翔くんに聞かせてもいい?」
「や、やめてよ!」
いいかと聞くわりに、ほとんど話してしまっている……。慌てて咲翔に視線を向けると、なんだか申し訳なさそうな顔をしていた。
「えぇと……その話、聞きました。その……おばちゃんから……」
「お母さんから⁉」
「はい。すみません……」
桜の顔が、みるみる間に苺よりも赤くなる。父はそれを見てニコニコ笑うばかりだ。
「やっぱりあの人、家族の話もしてたんだねぇ」
「はい。食事に行ったら、これは家族が好きそうだから作ってあげたいって、よく言ってはりました」
「……そうかい。他には、どんな話をしたの?」
「旦那さんがお酒好きやとか、あとは娘さんが剣道強いとか……」
桜はピクンと反応して、顔を上げる。急に真顔を向けたからか、咲翔は身を固くしていた。
「剣道の話、したんだ……」
「はい。そういえば七月と八月に試合があるって言ってはりました。その……どう、やったんですか?」
無邪気で、柔らかい笑みだった。そんな顔で尋ねられたら、答えないわけにいかない。桜は数秒かけて言葉を選んで、そろりと口を開いた。
「出てない」
「え?」
「七月の試合……出てない。怪我したから」
咲翔が、返答に困っている。次の言葉を選びあぐねて、口をパクパクさせていた。
「じ、じゃあ……八月の試合は?」
「それも出てない……色々あったから」
「色々?」
「……お葬式、とか」
今度は、息を呑む声がした。咲翔はきっと、そんな反応をするだろうと思った。だから、言いたくなかった。『自分のせいなのか』と、自責の念で溢れかえった表情なんて、見たくない。
それよりも――
「試合には出られなかったけど、稽古はきちんと続けてたから、次の機会はあるよ。昇段審査だってあるし。ね?」
息苦しい空気を振り払うかのように、父は言った。桜はそれに、全力で首を縦に振った。咲翔の表情が少しでも軽くなればと、そう思った。
「まぁほら……我が家の事情はだいたいそんなもんだからさ……今度は咲翔くんたちの方を聞かせてよ。北海道に行ってから、どんなこと、したんだい?」
「え、あぁ……そうですね」
咲翔は、すぅっと息を吸って、ふわりと天井を見上げた。
「あの日は――」
◇◇◇
「やっと、着いた……!」
鹿児島空港から飛行機に乗ること約一時間。羽田に到着し、別の飛行機に乗り換えてからまた一時間。待ち時間も含めて約五時間。
咲翔は、ようやく北海道の大地に降り立つことができた。
「さすが北海道。涼しいねぇ」
そう言って、梶さんは二の腕をさすっていた。色々と言いたいことがあるが飲み込んでいる咲翔は、呆れたように一言だけ返す。
「そりゃそうでしょ……梶さん、ノースリーブやないですか」
昨日までよりも確実に気温の低い場所に行くのに、どうしてそんな軽装備なのか……それも北海道に行くと言い出した本人が。
「いやぁ他の服、洗濯できてなくて」
「ほな、早めにホテル入って、洗濯しますか? コインランドリーのあるホテルなんですよね?」
「洗濯はするけど、すぐには入らないよ。えみくん、ここをどこだと思ってんの?」
「……北海道です」
「そう。海の幸も山の幸もたっくさんあるんだよ。一通り堪能しなきゃ失礼でしょ」
「失礼て、誰にですか……」
「皆に! ほら、行こう。まずはレンタカー!」
そう言うと、梶さんは咲翔の腕をぐいぐい引っ張っていく。レンタカー会社の送迎車に乗り、もう三度目になるレンタカーの手続きに向かった。
沖縄での手続き時は梶さんがメインだったが、鹿児島からは咲翔が率先して手続きを行っている。どうせ自分が運転するのだからと。ただ、何かあった時のためにと、梶さんも免許証を提示している。
今回も一応、二人分の免許証を提示すると、受付の人は「それがいい」と言った。
「もし函館や富良野などまで行かれるようでしたら長時間のドライブになるので、交代で運転されることをお勧めします」
もっともな提案だった。横で梶さんもうんうんと頷いている。
そんな二人に、咲翔はきっぱりと言った。
「いえ、僕一人で運転します。何があっても」
かなり怪訝な顔をされたが……これも、自らの命のためなのだ。
鍵を受け取り、荷物を積み込み、助手席と運転席にそれぞれ乗り込む。昨日までとは違う車種に乗り、違う臭いを感じる。
(今日からは、また別の旅や)
すぅっと気持ちが切り替わっていく。
見送ってくれる店員さんにミラー越しに会釈を返し、咲翔はアクセルを踏んだ。
北海道の旅の、出発だ――!
******
新千歳空港、その近隣のレンタカー会社から車で約一時間半。豊かな木々を目にしながら順調に車は走り続け、そして札幌の、喧噪の林へと足を踏み入れる。
時刻は十七時半過ぎ。ちょうど通勤ラッシュもあって、人の行き来がピークに達する頃だ。
札幌市内は観光に心躍らせる人と、家に帰ろうとする人で混雑している。梶さんと咲翔は、まずホテルまで行ってチェックインを済ませ、車を預けて、札幌の街に繰り出そうとしていた。
梶さんの手には、付箋だらけの観光雑誌(北海道編)がある。札幌までのドライブ中、穴が空くほどチェックを重ねていたものだ。果たして今、梶さんの頭の中にはどんなプランが浮かんでいるのか。
(いや、行きたいところは浮かんではるやろうけど、プランなんてないかも……)
不安を覚えながら動向を見ていると、梶さんは急にくるりと振り返った。
「えみくん! 北海道に着いての第一食目は、何にしますか⁉」
なぜかインタビュー形式で尋ねられ、咲翔はたじろいだ。
「……梶さんが食べたいもので……」
「ダメダメ! 私が決めたら、目についたもの全部って言っちゃうから。どれか一つ、えみくんが選んで」
「そう言われましても……」
ホテルの玄関から一歩外に立つ。そこからぐるりと周囲を見回すだけで、様々な看板が目に留まる。寿司、ラーメン、カフェ、カニ鍋、スープカレー、海鮮居酒屋、地ビールのバー……。なるほど、梶さんが目移りして決められない気持ちもわかる。
だが、胃袋は各々一つしかないのだ。
咲翔は、梶さんから雑誌を受け取り、近隣の地図のページを開く。そして付箋のページと地図のページを何度も行ったり来たりした。
(梶さんが行きたそうな店と現在地、それに空腹加減から考えると、どこがええか……)
咲翔の頭の中では様々な看板がぐるぐる渦巻いている。果たして今、この時、何を選ぶのが正解なのか……うんうん唸っていると、横から肩をぽんと叩かれた。
梶さんは、穏やかな笑みを浮かべてニッコリ微笑む。
「大丈夫。明日もこの辺を観光するから。思いつきでいいんだよ?」
「思いつき……ていうても……」
自分の選択によって、梶さんがガッカリすることがあってはならない。雇用主なのだから。そう思ってのことだったのだが……梶さんはしばし考え込んだ後、咲翔に問い始めた。
「じゃあ……えみくんは今、あっさり系がいいか、ガッツリ系がいいか?」
「わかりませんけど、腹はけっこう空いてます」
「では濃い味がいいか、薄味がいいか?」
「えっと……今日は濃い味でもいけそうな気はします」
「肉がいいか、魚がいいか?」
「ど、どっちでも……」
「よし、決まり! 行こう!」
そう言うや否や、梶さんは咲翔の腕をガッシリ掴んで歩き出した。いつの間にか観光雑誌を咲翔の手から取り戻して、地図を確認している。その歩みに迷いはない。
「ど、どこ行かはるんですか?」
「えみくんのご希望どおり、『ガッツリ』で『濃い味』で『肉』の店!」
そう言って、梶さんが歩いた先は……
「ジンギスカン、美味しい~!」
たっぷりの野菜が羊肉の脂とうま味を吸収して、かぐわしい香りを放つ。タレの甘辛い香りも相まって、テーブルはものの数分で食欲を刺激する臭いで充満された。せっせと焼いているのは、もちろん咲翔の方だった。
ジュウジュウと激しい音を聞いて香ばしい煙を浴びていると、咲翔もまたぎゅうっとお腹が鳴った。胃袋が、臨戦態勢に入っている。
「えみくん、焼くの交代するから、食べて」
「いえ、お気になさらず……」
「ご飯は食べたい時が食べ時だよ! ほら、食べた食べた!」
梶さんはそう言うとトングを奪い取り、咲翔の取り皿に次から次へと肉や野菜を載せていく。
申し訳なく思いつつも、目の前にごちそうが積まれてしまうと、もう我慢がきかなかった。
「……い、いただきます!」
タレのしたたる野菜と肉を、まとめて頬張る。口の中に甘辛いタレが広がり、しんなり焼けた野菜を優しく喉の奥へと運んでいく。肉は、肉汁とタレがからまって、熱さと旨味が重なり合う。
口の中で、美味しさがどんどん加速していく。
たまらず白ご飯を一口食べ、そしてまた野菜と肉の同時攻撃を始める。
「お……美味しいです!」
美味しい肉料理は、沖縄でも鹿児島でも食べた。アグー豚のソテー、黒豚のとんかつ、豚骨ラーメンと様々だ。でも、やはりジンギスカン……焼き肉はひと味違う。
「羊肉は久しぶりに食べましたけど、やっぱり、なんやさっぱりしてて食べやすいですね」
「ジンギスカン、食べたことあるんだ? 大阪に有名なお店でもあるの?」
「いえ。うちの近所の焼肉屋が何でも出してる店で……一回だけ祖父に連れて行ってもろたんです。あれも、美味しかった……」
味と共に、祖父に連れて行ってもらった日の思い出が、瞼に浮かぶ。
「柔らかくて、ジューシーで、それでいてこってりしていなくて、ほんのり甘くて……牛肉も豚肉もあったのに、僕、羊ばっかりおかわりしてました」
目の前の、タレがたっぷりからんだ肉の香りに刺激されて、思わず目元がじんわり緩んだ。咲翔は肉とご飯を口いっぱいに頬張って、目元に浮かんだものと一緒に飲み込んだ。
梶さんが入れてくれた取り皿の肉がなくなったので、奉行役を交代しようと手を伸ばす。だけど、それよりも速く、咲翔の取り皿にひょいっと新しい肉が投入される。ほくほく湯気を立てていて、早く食べろと急かされているようだ。
見ると、梶さんがいい焼き加減のものを次々咲翔の皿に入れようとしていた。
「ほい、食べて」
「い、いえ充分食べましたから。今度は梶さんが食べてください」
再度、トングを奪おうと手を伸ばすも、さらりと躱されてしまう。
「焼くのは交代制でいいやないですか」
「私は食べるより、肉を育てる方が好きなの。育てた肉を誰かに食べてもらう方が好きなの。OK?」
そんな人間が存在するのだろうか……咲翔はそう思ったが、こう言い出したら聞かないのが梶さんだ。ここは向こうから「食べたい」と言い出すのを待つしかない。
咲翔は諦めて、先に満腹にさせてもらうことにした。満腹だと言ったら交代するかもしれないからだ。
「ほな……いただきます」
「どうぞどうぞ」
にぃっと口角を上げて、梶さんは笑う。その笑みは、どこかで見た気がしていた。
「じいちゃん……?」
「うん?」
ぽつりと、口を突いて出てしまった。尋ね返す梶さんに、なんと返事をすればいいかわからなくなった。よりによって、女性に「じいちゃん」なんて言ってしまったのだ。
「あ、あの……すみません。ただの独り言なんで……」
「謝ることないよ。そんなにおじいさんのこと、思い出すんだ?」
梶さんが、鉄板の上の肉を返す度、肉汁がジュワッと威勢良く跳ねる。湯気の向こうに、それを楽しそうに見つめる祖父の顔が浮かんで見えた。
「はい……思い出します。家族で焼き肉に行ったのって、祖父と行ったその一回くらいなんで」
「一回だけ? あの……失礼だけど、お父さんとお母さんは?」
「ちゃんといてますよ。でもなんていうか、タイミングが合わんで、僕は一緒に行ったことないんです」
「はぁ……タイミングかぁ。兄弟っているの?」
「兄が一人。僕とは全然違って、ハキハキしてて、頭もいい、リーダー気質の人ですよ」
「ふぅん」
梶さんが、怪訝な面持ちをしている。妙な気遣いをさせているようだ。
「あの……僕は、昔身体が弱くて……いうても風邪引きやすいとか、それくらいでしたけど。でも家族で出かけようとした時に限って熱出すもんやから、いつも祖父が面倒見てくれてたんです。僕がいつも家族を困らせてたっていうか……」
「子どもは大抵、熱を出すもんよ。困らせてた、なんて考える必要ないから」
いつもの朗らかな空気と違い、ぴしゃりと厳しい声音が飛んできた。咲翔は、目を瞬かせることしかできなかった。
「桜……うちの子もね、小さい頃はよく熱出してた。もしかしたら他の子よりも頻繁だったかもしれない。でも剣道を始めて、変わった。みるみる丈夫になっていったし、上達していった。きっかけがあれば、人は変われるんだって、あの子を見て思ったよ」
梶さんの瞳が、どこかぼんやりとして、じんわりと滲んでいた。
咲翔にはわかった。梶さんは今、ここにいない人に思いを馳せている。そのことに気付かないふりをして、また一口、ご飯と肉を一度に口に放り込む。
「剣道……ですか。奇遇ですね、僕も昔は剣道やってました」
「そうなんだ?」
梶さんは煙を払うフリをしながら、目元を拭っていた。
「はい。祖父が勧めてくれて……身体を鍛えるんやていうて」
「え、そうなの? それで、どうなの? 強い? 今もやってるの?」
咲翔は、苦い笑みを浮かべて、首を横に振った。
「小学生の頃にやめました。僕には、ちょっと……向いてなくて」
「そんなに、強くなかったの?」
「……幼稚園の年長から始めて、小学校六年生まで続けて、一回も勝てませんでした」
「あら、まぁ……」
さすがの梶さんも、言葉に詰まっている。こういう気遣わしげな顔はしてほしくない。だからといって、どう話題を変えようか考えても、咄嗟に良い案は浮かばない。
困って視線を彷徨わせていると、また、一枚肉が放り込まれた。
「えみくんの話って、どこかに必ずおじいさんが出てくるよね」
「え、そうですか?」
梶さんはにやっと笑って「気付いてなかったの?」と言う。そして野菜もひっくり返して、しんなり焼けたキャベツを咲翔の取り皿に入れた。
「沖縄でも鹿児島でも『祖父が』って言ってたよ。よっぽど素敵な方だったんだなって思ってたんだけど、なるほど、納得した。そんな風に寄り添ってくれた人だから、そのお祖父さんが好きなものや勧めてくれたものを好きになったんだね」
「そう……でしょうか」
「そうだよ」
ジュウジュウと上がる音に紛れて、梶さんははっきりと言い切った。だが、咲翔は拳をぎゅっと握りしめて、首を横に振った。
「そんなことは、ないです。だって僕は……途中で投げ出しましたから」
「投げ出した? 何を?」
「剣道……続けろって、皆言うてたのに」
「……お祖父さんは、剣道やめることを何て言ってたの?」
「『そうか』って、ただそれだけです」
中学からはやらないと、祖父にはっきりと言った。家族には言えなかった。反対されるとわかっていたし、それに逆らえないということもわかっていた。祖父なら、思ったことを言える。祖父だけには……そう思っていた。
だが辞める意思を伝えると、祖父は悲しそうな面持ちで頷いたのだった。
「ガッカリさせてしもたなぁって……他のことで挽回しようと思ったんですけど、僕はどうも不器用で、何やってもうまいこといかへんで……」
「そう? 運転は上手いじゃない」
「そういうことでは.……」
「褒め言葉は素直に受けとっときなさい」
そう言って、焼けた肉を怒濤のごとく咲翔の取り皿によこした。
「も、もう充分です! かなり食べましたから、梶さんが食べて下さい」
咲翔は今度こそトングを奪おうとするが、また、さっと逃げられてしまった。梶さんは、なにやら物言いたげに、じっと咲翔を見ている。
「『おばちゃん』」
「は?」
「鹿児島でさ、確か一回だけ私のこと『おばちゃん』て呼んだよね?」
「……あ!」
記憶を掘り返すと、確かに、そう呼んだ。桜島でおばちゃんに懐いた女性から引き離すためだったとはいえ、雇用主に対してとんでもなく失礼なことを言ってしまった。
「そ、その節は……本当に申し訳ございませんでした」
咲翔は居住まいを正し、畳に手を突いて、深く頭を下げた。それを見た梶さんは……なぜだかキョトンとしていた。
「え、なんで謝るの?」
「それは……大変失礼なことを言ってしまい……」
「なんで? 私は嬉しかったのに?」
「……へ?」
咲翔が驚いて顔を上げると、怒りなど微塵も感じない晴れやかな笑顔の梶さんがいた。
「だって『叔母と甥』設定なのに、ずっと『梶さん』呼びだったから。他人行儀だなって思ってたの」
「それは、だって……」
そういう設定とはいえ、それが適用されるのは困った時だけだ。まさかずっと甥のふりをし続けるわけにもいかない。二人はあくまで、雇用関係なのだから。
「やっと『おばちゃん』て呼んでくれて、仲良くなれたんだと思ったのに……一回きりなんだもんね。ガッカリしちゃって……」
梶さんは、よよよ、と泣き崩れるふりをしている。絶対に泣いていないと思うのだが、それでも無条件に困ってしまう。
「あの、じゃあ僕はどうすれば……」
咲翔がそう尋ねると、梶さんは俯いたまま呟いた。
「これから先、ずっと『おばちゃん』呼びしてくれるなら……泣き止むかも」
「えええぇ、それは……」
「やっぱり呼んでくれないんだ。えみくんは私に、未来永劫、心を開いてくれないんだ……ああ、悲しい……」
「わ、わかりました!『おばちゃん』、泣き止んで肉食べて下さい!」
「もう一声。敬語もやめてみて」
「それはさすがに勘弁して下さい……!」
咲翔の懇願を聞き、梶さんはうーんと唸っていた。そして顔を上げると……。
「仕方ない。『おばちゃん』呼びで勘弁してやるか」
そう言って、イタズラが成功した子どものように嬉しそうに笑う。
(この人……やっぱり鬼や……!)
わかっていたこととはいえ、してやられて悔しい。咲翔は、取り皿に残っていた肉を豪快に口に放り込んだ。
その様子を、梶さん改め『おばちゃん』は、むふふと笑いながら見ていた。
「じゃあさ、えみくん。明日、おばちゃんとどこ行くのか、計画立てようか」
「そうですね。そうしましょう」
ごくんと飲み込んでから、咲翔は頷いた。
ちょうど、この広大な北海道を無計画に走り回るのだけは遠慮したいと思っていたところでもある。とはいえ、おばちゃんの希望が第一だ。咲翔は鉄板に目を光らせながら、おばちゃんの言葉を待った。
「明日は……お買い物にいきまーす」
「もうお土産買うんですか?」
「それもあるけど、服を追加で買おうと思ってね」
そういえば、空港に到着した時に、寒そうに肌をさすっていた。聞けば沖縄旅行しか計画していなかったらしいので、さすがに北海道用の装備はないということか。それは咲翔も同じだが。
「札幌は広いし、安い店もいい店も、いっぱいあるでしょ。明日いくつか回りましょうか」
「うん、そうしよう。ついでにえみくんも、何か買い足すものがあれば言ってね」
「僕はいいです。半袖で充分ですし、寒かったら重ね着します。それより、そろそろ洗濯せんと着替えが……」
鹿児島に移ってから、泊まったホテルにはどこもランドリーコーナーが無かった。そのため、着替えが乏しくなってきているのだ。
「ああ、そうだね。じゃあホテルに帰ったらランドリーに行こう……良かったら、洗ってあげようか?」
「はぁ⁉ 結構です!」
「二人合わせてやる方が効率的だと思うけどなぁ。お互い、そんなに量もないし」
「いやいやいや……下着もあるんですから」
「私が何年主婦やってると思ってんの? 旦那さんので見慣れてるから平気よ?」
「僕が平気やないんです!」
いつになく大きな声で叫んでしまった。他のお客さんまでが驚いて振り向いている。周囲の視線を一手に浴びて、咲翔は縮こまってしまう。
そんな咲翔に、おばちゃんは、肉を一枚そっと差し出した。
「ごめんごめん。娘も別々にしたがってるくらいなんだから、えみくんが平気なわけないよね」
「いえ、そんな……」
「まぁ、ランドリーコーナーには一緒に行こうよ。で、一つしか空いてなかったら、諦めて一緒に洗う。そうじゃなかったら別々で……それでいい?」
「はい……すみません」
「やだ。なんで謝るの?」
おばちゃんはからっと笑う。そして笑った口と同じく、大きく口を開けて、豪快に肉と野菜とご飯をもりもり食べていくのだった。
咲翔は、その勢いに負けないように次々肉を焼いていく。そしておばちゃんの食いっぷりにまた食欲を刺激されて、自分もまた、ぱくぱく食べる。
それを、繰り返していた。
******
札幌は、見るべき場所も食べるべきものも多すぎる――とは、おばちゃんの言葉だ。おばちゃんとの話し合いによって、彼女の行きたいところは札幌にかなり集中していることがよくわかった。
よって、札幌は少しずつ楽しむことに決定した。具体的には、各所への移動に時間がかかるものの、そのほとんどを札幌が中継している。よって、時間のかかる移動の間にちょこちょこ札幌を楽しんじゃおう作戦に決定したのだった。
というわけで、昨夜は札幌でジンギスカンと夜の街並みを堪能したので、今日は小樽を堪能する予定だ。
その出発地点として、おばちゃんが選んだのは……。
「ここが、小樽運河……!」
中央橋に立って、古めかしい姿に目を輝かせる。
青空と、建物の白い壁と、壁を覆う緑のツタ、それらの色が絵画のように並び立っている。
その風景を、川の水面が鏡になって、水面にもう一つの街並みを作っていた。静かに揺らめく街の姿の中を、船が一艘スイスイと進み、水面の街並みを割っていく。小樽港や運河を周遊するクルーズ船だ。船頭が何か面白いことを言ったらしく、どっと笑い声が起こっていた。
船が去ると、街並みは何事も無かったかのように、自然とあるべき姿を象る。
「クルーズ、申し込めば良かったかなぁ?」
「他にも回りたいところがあるんやし、いいやないですか」
「うーん……そっか。次に家族と来たら、その時こそは予約して乗る」
「それがええと思います」
おばちゃんは楽しそうな声を響かせて進んでいくクルーズ船を惜しそうに見るも、くるりと踵を返して歩き出す。
地上の街並みもまた、川沿いに並ぶガス灯をはじめ、レトロでノスタルジックな空気が漂っていた。
そんな空気を多くの人が好んでいるのだとわかる。橋を下りた街並みも明治期の面影を残す風合いだ。その色合いを強く残したまま、街並みは多種多様なお土産が揃うショップで占められている。
ステンドグラスや絵画が並ぶ美術館、明治期に銀行だった資料館、北海道で初めての線路の跡地……その先には、オルゴール館、硝子工房、レトロ喫茶等など、枚挙にいとまが無いとはこのことだ。
硝子工房などはショップだけでなく、体験教室もあるらしいのだが……要予約だった。またも入れなかったおばちゃんは、ちょっと落ち込みながらショップに並ぶ美しい硝子の工芸品を眺めていた。
「あの……だから早めに計画立てて、予約を入れたらどうかと思うんですけど……」
「わかってる。わかってるんだけど、私って『思い立ったが吉日』がモットーなのね」
それは実によくわかる。頷きそうになるのを、咲翔はなんとか堪えた。
「でも、あれですね……鹿児島でも沖縄でも硝子の工芸品は見ましたけど、やっぱりどれも違いますね。それも工房によっても違いますし」
「そうだね。琉球硝子は海を閉じ込めたみたいな透明感だったし、鹿児島の薩摩切子はジュエリーみたいだと思ったけど、小樽の硝子はこう……温かそうだよね」
「わかります。なんかこう……夜に歩いてたら家の灯りが窓からぼんやり見えてるみたいで、安心するいうか……」
「そうそう」
実はさっきも別の硝子ショップに行き、既にキャンドルスタンドと硝子の招き猫を購入済みだ。別の店に入ってみたらまた趣が違ったので、あれこれと見て回っている。
「それぞれ雰囲気も違うことやし、小樽硝子のグラスも買っていったらどうです? 気分によって変えたらいいやないですか」
「そうだねぇ。それも面白そう……でもそろそろ娘が怒りそうだしなぁ」
「怒る? なんて怒るんですか?」
「『こんなにコップばっかりいっぱい買ってどうすんの! 飲むの三人だけでしょ!』って……それでなくても昨日怒られちゃったから。『お土産のお菓子とか、多すぎていい加減食べきれない。一旦帰って食べきってから別の場所に旅立って。それか大食いの助っ人をよこして』だって」
「……なかなか、厳しいですね」
「まぁ、試合が近いからナーバスなのかもしれないけど……」
そう言うと、やはり怒られると思うのか、きれいな三色セットのグラスを元の位置に戻した。
「だから招き猫でご機嫌をとろうとしてはるんですね」
「よくわかったね」
鹿児島で猫神社のグッズを買い漁っていた様子から、すぐに見当がついた。会ったことのないおばちゃんの娘さんの人物像も、徐々に見えてきた。
「あ、これにする! 猫だ!」
そう言って指さしたのは、またしても猫。猫が日向ぼっこをする姿を象った箸置きだ。ごろんと寝転ぶ姿が一つ一つ違って、どの猫も愛らしい。
「気分によって、誰がどれ選んでもいいようにしようっと」
ウキウキした声で三つ選び、おばちゃんは会計へと駆けていった。
確かに、これなら今まで買っていない種類のおみやげだ。たぶん許してくれる……いや喜んでもらえるだろう。
(いや、今度は『何匹猫飼うの!』……とか怒られへんやろか)
咲翔の中に別の心配が芽生えた。
そんな咲翔とは対称的に、るんるん気分で店を出るおばちゃんは、ドアをくぐったところで「あ!」と声を挙げた。
「えみくん、あそこも行こう!」
「あそこ? ああ、あそこ……」
その建物は真っ白な石造建築だった。レンガ造りの建物も風情があっていいが、こちらも歴史を感じさせる趣だった。
そこは、オルゴールの店だ。広い間口から覗く店内には、多種多様なオルゴールのボックスが並んでいる。木製のもの、アクリル製の透明なもの、宝石箱になっているもの、色々……そして店内には、静かな音がずっと鳴り響いている。大きな音ではない。だけどクリスタルガラスを合わせたような固く、澄み渡った音だ。櫛歯がピンを弾いて生まれる小さな音が、他のオルゴールと呼応して、店中の音を震わせている。
「どの曲もきれいだね」
よく聞くと、色々な曲が混ざっているのだとわかる。だが不思議と不協和音にならず、共鳴している。
「きれいな音は、何と混ざってもきれいなんやなぁ」
「そうだねぇ」
咲翔の呟きに、おばちゃんはぽつりと答えてくれた。
オルゴールの囁きを邪魔しないように小声でいるのか、おばちゃんは「あ!」と驚く声も小声になっていた。声を出す代わりに、咲翔の袖をつんつん引っ張る。
「えみくん、これ、お願いしよう」
おばちゃんが指さしたのは『手作りオルゴール体験』の文字だ。
「でも、要予約なんじゃ……?」
「いやいや、ここ見て」
おばちゃんが、皿に下を指さすと、そこには書いてあった。「少人数はいつでもどうぞ」と。おばちゃんと咲翔、二人だけなら確かに『少人数』だろう。
先ほど自分で言っていたとおり、思い立ったが吉日とばかりに、おばちゃんは店員さんのもとへ駆けていき、早速交渉していた。
二人だけだということと、今は団体客の予約も入っていないということで、二つ返事でOKをもらえていた。
「……ちょっと待ってください。僕も作るんですか?」
「当たり前じゃない」
「僕……オルゴールの『お』の字も触れたことないですよ?」
「そんなわけないでしょ~。えみくん、面白いこと言うねぇ」
「いやいや、ホンマに……」
家族の誰も、オルゴールに興味を持っていなかったため、十年以上オルゴールというものを見ていなかった。確か十年ほど前に、お土産でもらったものを過って壊してしまったのが最後だ。
「僕、オルゴールに思い入れもロマンも感じてない人間やのに、どうしたら……」
「いいじゃない。きれいな箱を開けたら、きれいな音楽が流れる。そう考えとけば」
それだけ言うと、おばちゃんはさっさと自分のメニューを選び始めた。どうも様々なものをセミオーダーし、自分で組み上げていくようだ。
最初に選ぶのはオルゴールの曲だ。そもそもオルゴールの種類がいくつもあって、違いが分からない。説明を聞こうか悩んだが、短時間で理解できる自信がなかったので、一番シンプルそうなものから曲を探す。
(あ、この曲……おじいちゃんが好きな曲や)
咲翔が生まれるよりも前に放送していた、北海道が舞台の国民的ドラマのテーマ曲だ。咲翔はなんとなく、その曲名から目が離せなかった。
(もう、これにしよう)
次はオルゴールを入れる箱。木製のものもあればアクリルボックスもある。よくわからないので、一番安いものにした。
次はオプションとしてボックスにつける装飾を選ぶ。咲翔は、何度目を瞬かせても、どうすればいいのか、まるで見当が付かなかった……。なんだか可愛らしい花や星のパーツや、動物のモチーフ、それにガラスの砂なんかも置いてある。
正直なところ、どれもピンとこない。咲翔がパーツの皿を前にしてうんうん唸っていると、ふわりとおばちゃんが覗き込んだ。
「どしたの? 呪われたみたいな顔して?」
「違います。でも……似たような感じかもしれません」
キレイの基準がわからないのに、キレイな箱に仕上げなければいけない。それはもはや、呪いに等しいと、おばちゃんの言葉で気付いてしまった。
(こんなんで呪いて……)
こんなことまで『呪い』と呼んでしまう自分が情けなくて、咲翔は更に頭を抱えた。それを見たおばちゃんが、からからと笑う。
「大袈裟だなぁ。こんな可愛いものが呪うわけないでしょ」
「でも、これほどどうしていいかわからんもんやとは思わへんかったので……」
「なるほど……まぁそういうこともあるか」
咲翔に返答しつつ、おばちゃんの手元は着実にパーツを取り付けていく。花のパーツを全体に散りばめて、蓋部分にはニコニコ微笑む猫がちょこんと座っている。誰に宛てたものか、一目で分かる。
「……あ、そうか」
「何か思いついた?」
「自分がいいと思うものより、あげたい人を決めたらいいのかと思って……」
「いいじゃない。それすごく素敵だよ。誰にあげたい?」
「それが……思いついたのが、その……」
咲翔がもごもご言っていると、おばちゃんは、その先に潜む言葉を察したようだ。
「亡くなったおじいさんが思いついたんだ?」
咲翔は、おずおずと頷いた。こんなことを家族に言ったら、きっと「いい加減に立ち直れ」とでも言われそうだ。この場に家族がいなかったことを心底喜んだが、その代わり、今はおばちゃんがいる。
軽く事情を説明したとはいえ、眉をひそめられるのではないか。そう危惧した、その時――
「いいんじゃないの? えみくんのおじいさん、どんなものがお好みだったの?」
「……え?」
咲翔の顔を覗き込む表情には、同情も哀れみもない。あるのは、どんなものを作れば喜ばれるかという好奇心だ。
咲翔はすぐに答えることはできず、考えを巡らせた。
「えっと、おじいちゃんは……時代劇が好きでした」
「ほぅほぅ」
「歴史系のドラマとか、史跡巡りの番組をいつも録画して、繰り返し見てました」
「うんうん」
「だから、部屋の中は本が多くて……でも骨董品とかはなくて、部屋は質素でした」
「そうかぁ……じゃあ好きなお花とか、あしらいとか、そういうのはなかったんだ?」
「うーん……新撰組の土方歳三が好きでしたから、三つ巴の紋のついた手ぬぐいをあげたら喜んでました」
咲翔の言葉を受けて、おばちゃんは並んだパーツをぐるりと見回す。だが……
「三つ巴は、ないね」
「はい……」
そんなニッチな模様をオルゴールに刻む人は、まずいないだろう。おばちゃんは「他には?」と尋ねるが、咲翔には、他の好みは思い浮かばなかった。
「変に可愛らしいものつけたら、嫌がりそうで……」
「まぁ、そうだろうね。う~ん、じゃあ……オプションで、箱に書いてもらったら?」
「え?」
そう言うと、おばちゃんは壁に貼ってある料金表を指さした。確かに『お好きな文字、イラストをお入れします』と書かれている。
「さっき言ってた『三つ巴』って描ける?」
咲翔が言われるがまま手元にあった紙に丸に左三つ巴の紋を描くと、おばちゃんはそれを係の人に渡してしまった。
「はい。少々お待ちくださいね」
にこやかに立ち去る店員さんを、咲翔は止められない。おばちゃんのことも、だ。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。なんかカッコいいオルゴールになりそうね」
(オルゴールに家紋を刻む人なんて、おるんかな……?)
そう思い、首を傾げていると、横からおばちゃんがツンツンとつついてきた。
「私のはできたよ。聞いてくれる?」
そう言うと、おばちゃんは自分が作ったオルゴールの蓋を開けた。
聞こえてきたのは、ピアノのような軽やかで穏やかな旋律。一つ一つの音が、花びらをゆったりと運ぶ一陣の風のようで、心地のいい曲だった。
咲翔も聞き覚えのあるその曲は……
「『桜』ですね。有名なアーティストが歌ってたJ-POPの曲ですよね」
「その通り。娘の名前なんだよね」
「『桜』ちゃん、ですか」
「そう。私が『椿』だから、娘も何かお花の名前にしようって決めてたの。息子だったら……」
淀みなく話していたおばちゃんの言葉が、ぴたりと止んだ。
「どうかしたんですか?」
「あ~ううん、息子だったら花の名前にするのは難しいかなって話してたから、娘で良かったなって話」
「ああ、そうですね。でも『葵』とか『藤』とかやったら使えそうですけど」
「うん。それに花じゃないけど『咲』って字もいいなって、言ってたの」
咲翔が瞬きをすると、おばちゃんは柔らかく微笑んだ。
「『咲翔』って、いい名前だね」
そう言って、おばちゃんはオルゴールの蓋を閉じた。まっすぐな視線がどうしてもくすぐったくて、咲翔は視線を逸らせた。
「僕は……名前負けって、よく言われます」
「そんな勝ち負け、誰が決めてるの?」
そう言われて、咲翔は言葉に詰まった。返答に困っただけじゃない。かつて、同じ事を言われた記憶が、甦ったのだった。
『そんなくだらない勝ち負け、誰が決めたんだ? 何が基準なんだ? 負けたら悪いのか?』
祖父は、そう言った。剣道の試合で皆が勝つ中、一人だけ負けた咲翔を、誰もが白い目で見た。仲間も、家族も。泣きはらして帰った咲翔に、祖父だけがそう言ってくれた。悔しい気持ちと恥ずかしい気持ちを受け止めて、謂れのない罵り文句に憤ってくれた。
刻まれた傷はそう簡単には消えなかったが、祖父が言ってくれた言葉は、同じくらい深く、咲翔の心に刻まれていた。
そのときの祖父と同じ言葉を、おばちゃんがくれた。時を越えて渡された言葉に、咲翔はしばし困惑していた。その時――
「お待たせしました。こちらでいかがでしょうか?」
先ほどの店員さんが、オルゴールを手にして戻って来た。ボックスには、確かに『丸に左三つ巴』の紋が刻まれている。お辞儀とともにそろりと受け取り、蓋を開けてみる。
ピンと高い音が聞こえてきた。
昔、祖父と一緒に見ていたドラマのテーマ曲が、クリスタルのように澄んだ甲高い音になって、雪のように繊細で柔らかな旋律を刻む。
「すごいねぇ。きれいな音……」
おばちゃんが感嘆のため息を漏らし、拍手している。
よく考えたら、歴史上の偉人の家紋を入れておいて、曲はドラマのテーマ曲というのは、なんともあべこべなものだ。
だが、おばちゃんは褒めてくれる。祖父も、もしかして……と思ってしまうのだった。
「はい。すごく、キレイです」
おばちゃんの賞賛の言葉が向いているのがオルゴールだけではないように、咲翔は感じていた。
そこに込めた祖父への気持ち、その思い出すべてを「きれい」と言って貰えた。そう、感じたのだった。
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