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【小説】あなたといた道、母が見た空 第三章 ②

【第一章はこちら】

 船を降りると、海の景色から山の景色へと変わる。
 そして時折、視界がかすむ。これが降灰というものかと咲翔は実感した。渡されたサングラスやマスクは、降灰対策だったのだ。
(いつ用意したんやろ……?)
 解けない疑問に首を傾げつつ、咲翔はいつもの如く、梶さんに引っ張られていく。そして、あらゆる観光スポットを回ってくれる桜島の周遊バスに乗りこむのだった。
「……周遊バスで回るんやったら、レンタカーごと乗船しても良かったんやないですか?」
「車で回れば私たちしかいないけど、周遊バスだと同志がいっぱいいるじゃない? たまには大勢で楽しむのもいいでしょ」
 桜島のフェリーは車も運んでくれる。いつものようなドライブも可能だったのだが……二人旅は物足りなかったということだろうか。
「あ! 違うよ! えみくんに不満があるとか、二人だけじゃ物足りないとか、そんなんじゃないからね、絶対に!」
「はぁ……」
「色々回るんだから、色々な楽しみ方をしようよ。ね?」
「はぁ……そうですか?」
 言われてみれば、いつも梶さん御用達の旅行雑誌やネットの情報を元に見て回っている。そこに、梶さんと咲翔の二人以外の視点は入っていない。
 そして宣言通り、梶さんは既に隣の席の人に声をかけて情報交換を開始している。
(『楽しむ』って、ああいうことやねんなぁ)
 窓際に座る咲翔には、他の乗客と会話するのは難しい。大人しく窓に身を預け、景色を眺めることにした。
――と思ったら、十分もしないうちに梶さんに「下りるよ!」と引っ張られた……。
「もう下りるんですか?」
「周遊バスなんだよ? おすすめスポットにこまめに停まるんだから、すぐ下りるよ。ほらほら」
 レンタカーで回るよりも慌ただしい……いや、レンタカーで回っていても同じか。
「……はいはい。どこでもお供します」 
 咲翔は苦笑いしながら、梶さんの腕力に身を委ねた。途中、桜島について解説したパネルやジオラマ、お土産もある施設を通り過ぎてしまった。咲翔が意外に思っていると、梶さんは公園にやってきた。そこは、ただの公園ではない。
「足湯ですか」
 遠くに桜島火山を臨みつつ、足下から上る湯気に心地よいため息をつく。赤褐色のお湯に包まれて、足の凝りがほぐれていくようだった。
「えみくん、ずっと運転しっぱなしじゃない? こう、ちょこちょこ癒やしスポットを挟まないとね」
「一昨日の温泉でも充分、癒やされましたよ?」
 あんなにゆったりと身体を休めたのは久しぶりだった。本心からそう言ったのだが、隣で梶さんはなんだかニヤニヤしている。
「そんなこと言っていいのかなぁ? この鹿児島にはまだいいスポットがあるんだよ? 今日、これから巡るんだよ?」
 梶さんは、悪だくみをしているやんちゃ坊主のような顔をしている。
 一応、朝に本日の予定は聞いているので、梶さんのいう『いいスポット』がどこかは、わかるのだが……わからないという体でいた方が良さそうだ。
「……楽しみにしてます」
「え⁉ 本当?」
「……なんでびっくりしはるんですか?」
「だってえみくん、初めて『楽しみにしてる』なんて言ってくれたじゃない」
「初めてですか?」
「初めてだよ」
 そうだっただろうか、と咲翔は思考を巡らせる。確かに、そうだったかもしれない。というよりも『楽しみだ』と思ったのが、初めてかもしれない。
 この梶さんなら、よくわからなくても楽しい場所に連れて行ってくれるのではないか。そう思うようになっていた。
「……ホンマに、楽しみにしてますよ」
「え~二回も言ってもらっちゃった」
 梶さんは照れくさそうに笑う。だけど咲翔の本心なので、否定せずに見守った。
「それじゃ、そろそろ行こうか。バスが出発しちゃう」
 照れ隠しのように咲翔を急き立て、足湯から上がった。
 咲翔は、初めて優位に立ったようで、ほんのちょっとだけ気分が良くなった。
 そんな梶さんと咲翔を乗せて、周遊バスは再び桜島を巡った。各スポット間の移動時間は五分程度。それほどの近距離に、見所になる場所が多く存在するのだ。
 道の駅、かつて大正時代の大噴火で埋没した小島の跡地、鹿児島出身のミュージシャンが野外ライブを行った伝説の広場……そこから二〇分ほど走った先には、現在、桜島で一般人が行ける最も高い場所である観測所があった。昨日、感激した桜島火山を、最も近くで見られる場所だ。当然、梶さんは最高到達点までぐんぐん進んだ。
 その標高は三七三メートル。登山というほどではないが、少し勾配のある道を進む。登り切ると、桜島火山の山肌がはっきりと視界に映った。その荒々しくも猛々しい様を直に目にすると、咲翔の全身が震えた。
「はぁ……大きいなぁ……」
 こういう時に、この感動を伝えるための語彙力がほしいと、強く思った。
「いやぁ、すっごいねぇ。ほんと、大きいねぇ!」
 語彙力を求めたが……隣で梶さんが言っている感嘆の言葉を聞いていると、小難しい言葉は必要ないのかもしれないとも思うのだった。
 今も小規模の噴火が続く桜島火山のうち、灰を降らせ続けているのは、二つある火口のうちの一つ、南岳だ。今、目にしている北岳は、約五〇〇〇年前に活動を休止しているらしい。
 どちらの火口でも、大規模な噴火が起きてしまったら、と不安に思うこともある。それでも、こうして近くに来てみると、不安よりもその力強さに感銘を受けてしまう。
 静かに感慨にふけっていると……梶さんの大きな声が聞こえた。
「あ! 見つけた!」
 振り返ると、梶さんは展望台に上るまでの階段の下を見ていた。もはや、山は見ていない……。
「何を見つけたんですか?」
「あれあれ」
 そう言って梶さんが指さした先にあったものは……地面に描かれた、大きなハート模様だった。
「ハートですか?」
「そう。この周辺の石垣にね、ハート型の石が七つ埋まってるんだって。全部見つけると……」
「……見つけると?」
「幸せになれるんだって」
 ごくりと息を呑んでしまった割には、想像通りの結果が待っていた。そんなことはもちろん言えないのだが。
 とりあえず今、確実なことは……梶さんの『お手伝い』をしなければならないことだ。
「えーと……他には、そのハートの石はいくつ見つけてはるんですか?」
「さっき見つけたのが一つ目。他にどんなところにあるんだろうねぇ?」
 そう言ってキョロキョロと周囲を見回す梶さん。咲翔はもう一度、桜島火山に視線を向け、その雄志を目に焼き付けた。そして、くるりと梶さんに振り返る。
「案外、足下に埋まってるかもしれませんよ。気をつけて歩きましょう」
 そう言って、ひとまず階段を下りた。すると……。
「あ! あったあった!」
 梶さんは目を大きく見開いて足下を指さす。すると、階段を下りてすぐの石畳の中に一つだけ、ハートの石が埋まっていた。石垣に気を取られていては見落としがちな場所だ。
「さっきのんといい、この石畳といい……けっこう巧妙に隠されてますね」
「まぁ、探す方も簡単に見つけちゃったらつまんないしねぇ」
 必死に探してもう一つ見つけたことで、俄然燃えてきたらしい。梶さんの目が、完全にハンターのそれに変わった。
 咲翔もまた、梶さんが転ばないように気を配りつつ、周囲に注意を払うことも忘れなかった。すると……
「あ! 石垣!」
 梶さんが指さした先は、通路の壁になっている石垣だ。菱形の石が並ぶ中、一つだけハートが混ざっている。
 これで三つめだ。
「あと四つかぁ……難しいねぇ」
 梶さんはまた、周囲を見回す。展望所内には、他の観光客もいる。皆それぞれキョロキョロしている。おそらく目的は同じなのだろう。時には視界の端から「あった!」と声が聞こえる。
 その声に吸い寄せられていけば『見つけた』ことにはならないだろうかと思い、咲翔は声の主が遠ざかるのを待った。
 だが、なんだか隣にいた人の気配が消えた気がした。
 まさかと思い振り返ると……梶さんは、ハートを見つけたらしき声の主の元ヘ駆け寄っていた。
「どこで見つけたんですか? あ、本当だ! こんなところにあった!」
 大喜びで、四つめを写真に収めている。
「それもアリなんか……?」
 完全に自力でなくてもいいのかと、咲翔はちょっと脱力した……。だが、止まっている暇はなかった。石垣の近くで、梶さんが「こっちこっち!」と言って咲翔を呼んでいる。
 早く参上しなければ……。咲翔はできるだけ駆け足で近寄った。
 案の定、他にもハートの石を探す人はたくさんいるらしい。梶さんは今、声をかけた三〇代くらいの夫婦と情報を交換して、四つめと五つめの場所を入手していた。代わりに、自分が先ほど見つけた石の場所を教えてあげていた。
 すると、更に他の観光客もやってきた。ここで情報交換が行われていると察したようだ。やってきた若いカップルは五つまでは見つけたらしいが、残りが見つからず途方にくれていたらしい。
「入り口の方にあるらしいよ。あと、階段のところ!」
「ホントですか! どっちも見落としてた!」
「え⁉ そんな大きなハートがあるんですか?」
 そんな会話をしているうち、いつの間にか更に人がわらわら集まってきた。展望台でハート探しをしていた人たちが全員集合しているんじゃないだろうか。
 今や七つの石の場所すべてを(情報だけ)網羅した梶さんが、観光ガイドのように場所を示していく。梶さんから指示を受けた人たちが四方八方に散っていき、あちこちで「見つけた!」と歓喜の声を上げた。
「おばちゃん、ありがとう! おかげで全部見つかった~」
 そう、最後の一人が声をかけてくれて、ようやく梶さんは咲翔を振り返った。
「お待たせ! 行こうか」
「え、どこへですか?」
「どこって……ハートの石を探しに」
 梶さんが手にするスマホ画面には、メモ帳アプリが開いている。きっちり、七つの石の場所が整理してメモされている。 
「場所わかるんなら、早く行けばよかったんやないですか?」
「え~みんな知りたがってたし、いいじゃない」
「……人に聞いて見つけても、その『幸せになれる』っていうのは有効なんですか?」
 咲翔が尋ねると、梶さんはきょとんとしていた。
「……ああ、本当だ。そうだね、ダメだったかな」
 なぜ、今更気付くのか。だが、いけなかったかもしれないと言う割には、けろっとしている。
「まぁいいじゃない。楽しかったし……あ、見つけた! これだ!」
 そう言うと、ベンチのすぐ側の石を指さした。屋根が付いている場所だから、影になる時もあるかもしれない。
「えーと、あとは……」
 ハートの石の写真が、四枚になった。梶さんはスマホ画面とにらめっこしながら、咲翔を次の場所へと引っ張っていく。他の人は探し終えた場所なのか、観光客は見当たらなかった。
「見つけにくいけど、端っこにひっそり……あった!」
 路肩の石畳に、よく見たらハート型になっている石があった。梶さんはすかさず激写し、満足そうに鼻を鳴らした。
「これで五つめ……あと二つ!」
 梶さんがニタリと笑い、また咲翔を引っ張っていく。最後は、今まで探していなかった場所……入り口付近だ。先ほど梶さんから情報を得た人たちが集まっている。皆、無事に見つけられたのだろう。口々に、七つ見つける困難さを語っている。
 そんな人たちを尻目に、梶さんは先ほど自分が見落とした場所をもう一度じろじろと見回した。咲翔もそれに倣う。
「あ、石垣にあった! なんで見落としてたの、私⁉」
 梶さんの叫び通り、よく見るとけっこうわかりやすいハート型の石が埋まっている。悔しそうに嘆く梶さんだったが、すぐに立ち直った。まだ、終わりではないのだ。
「よし、最後の一個! これは足下にあるんだって」
「下ですか」
 メモを見ると、近くのベンチの足下だと書かれている。足下、足下……と呟きながら、梶さんと二人して、屈んで探し回った。
「あれぇ? ないよ?」
 メモには確かに、ベンチのそばと書いてある。だが咲翔も見回したところ、それらしい石は見当たらない。咲翔は『ベンチの側』『近く』ということを頭に置いて、もう一度、周辺とベンチそのものを、じっと眺める。
「うーん……もう一回聞いてこようかな」
「待って下さい。ありました!」
 走って行きそうな梶さんを、咲翔は大きな声で呼び止める。驚いて、咲翔の側で屈む梶さんに、咲翔は指さして伝えた。
「ここです。ベンチの……下!」
 ベンチの座席部分の真下を指さす。座席によって影に覆われているが、微かにその輪郭が見える。確かに、小さなハート型だ。
「おお! これで七つだ! えみくん、すごい!」
 梶さんはぴょんと飛び跳ねるように喜んでいる。咲翔は照れくさくて、目を逸らしながら、会釈を返した。
「すごいなんて……他の六つを見つけたんは、梶さんやないですか」
「それでもすごい! ありがとう!」
 梶さんは咲翔にもう一度屈むように言うと、大型犬にするように頭をわしゃわしゃともみくちゃにするのだった。
「や、やめてください。前が見えへんやないですか」
「大丈夫! 愛情表現だよ、愛情表現!」
「ありがたいですけど愛情過多です……!」
 咲翔と梶さんの二人で騒いでいると、また、他の人たちがわらわら集まってきた。
「おばちゃんも全部見つけたの?」
「見つけたよぉ。みんなのおかげ! ありがとう!」
 さっき梶さんに場所を聞きに来たカップルだ。梶さんはニコニコして、ハート石を撮影した写真を見せている。するとカップルの方も、自分たちの写真を見せた。同じものを写した写真なのだが、なぜかそれぞれのコレクションを見せ合っているようにきゃっきゃと盛り上がっている。
 その後、カップルの男性の方がすすっと咲翔に近寄ってきた。
「なんか盛り上がってますね」
「はぁ……そうですね」
 置いてけぼりにされた同士と思っているんだろうか。苦笑いを向けてきたので、咲翔も苦笑いを返す。
「息子さん……ですか?」
「……あ、えぇと……」
 しまった、と思ったが、一旦間が空いてしまうと、うまく返せなくなってしまった。一昨日、設定を決めたはずなのに。こういう会話は間が空けば空くほど妙な空気になるのに。
 咲翔が必死に言葉を探していると、すぅっと自然に梶さんが割って入った。
「違う違う。これ、うちの甥っ子。イケメンでしょ~」
「うぇ⁉?」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。だがカップルが気にしたのは、別のことだった。
「へぇ~叔母さんと甥? 珍しい組み合わせですね」
「でしょ。超仲良しなの! ね?」
 梶さんは、ニッコリと咲翔を振り返る。答えを強要する笑顔だ。
「えっと……はい」
「そうなんだ……いいですね」
 彼氏の方は、なんだか同情的な視線を向けてくる。たぶん『叔母さんに強引に連れ回されてる甥』だと思ったんだろう。あながち間違いでもないが。
「へ~ホント、一緒に旅行できる仲良しっていいなぁ。おばちゃん、もっと聞かせてよ」 
「いいよ~なんでも語ってあげちゃう」
 女二人寄ればかしましい、なんて言うが……本当だった。
 梶さんとカップルの彼女さんは、周遊バスに戻っても隣同士で座り、それはそれは楽しそうに語り合っていた。話題は先ほどのハート石に始まり、周遊バスで巡った場所の数々、そして梶さんと咲翔の関係……いかに仲良しかについて、だった。もちろん、最後の話題については七割がねつ造だった。
(この人……ホンマにすごいな)
 咲翔は心底そう思ったのだった……。
 そこから一転、肝が冷えそうになったのは、周遊バスが桜島港に到着したときだった。
「ねえねえ、おばちゃん。一緒に桜島をもう一周しようよ。一日周遊切符、あるんでしょ?」
 カップルの彼女さんのお誘いだった。バスの中でのおしゃべりがよっぽど楽しかったらしい……。梶さんもかなり楽しんでいたようだから、承諾してしまうのではと考えた。
 だが急ごしらえのねつ造話がどこまで続けられるのか。ヒヤヒヤする時間は、もうおしまいにしたかった咲翔は、冷や汗を堪えて、叫んだ。
「おばちゃん! 今日はこの後、行くところがあるんやろ? 時間なくなるで!」
 梶さんは、誰より驚いた顔をしていた。咲翔がそんな主張をするとは思っていなかったのだろうか。だがぽかんとしていたのも一瞬のこと。すぐに頷いたのだった。
「うん、そうね。えみくん、ありがと」
 そう言うと、梶さんはカップルに手を振って、気持ちよくお別れした。そしてくるりと踵を返して、咲翔を引き連れて再びフェリーに乗り込んだ。
 時刻は正午過ぎ。ちょうど昼食時で、往路で食べたうどんをもう一度食べようとした。すると長い行列ができていて、梶さんは泣く泣く諦めていた。
 仕方なく海をぼんやり眺めることにした梶さんに、咲翔は、先ほどの話題を切り出した。
「あの……すみません。無理矢理あんなこと言うて……」
「無理矢理? 何か言った?」
「桜島をもう一周するっていうのを止めてしもたから……」
 咲翔がぼそぼそ言うと、梶さんは「ああ!」と大きな声で思い出していた。
「いいのいいの。あれは私も断ろうと思ってたから」
「そうなんですか?」
 てっきり「いいね!」と言って付いていくものと思っていた……。
「だって、あれ以上はさすがに嘘つくのが忍びないもん。思い出ねつ造も限界だったし……あの子には悪いことしちゃったなぁ」
 あれだけ楽しく話していたことの半分以上が嘘なのだから、梶さんも罪悪感を覚えていたようだ。適度なところで切り上げられて、良かったということだろうか。
 その疑問には、梶さんが頷きで答えてくれた。
「もう一周してたら次の予定に間に合わなくなってたしね。えみくん、グッジョブ!」
 梶さんがまた咲翔の頭を掻き回そうとしてきたので、咲翔はすんでのところでかわした。だが梶さんは諦めていない。どうやら愛情表現として定着させようとしているようだが、毎度髪をぐしゃぐしゃにされてはたまらない。
 咲翔はデッキの上で逃げ回り、梶さんはそれを追いかける……十五分ほどの航行の間、そんな追いかけっこは続いた。到着を知らせるアナウンスが、子どもみたいな遊びをやめるように言われているかのように、響き渡った。
「着いたら、またレンタカーですよね? 次は……指宿?」
「その通り! レッツゴー!」
 梶さんは、まだ会場だというのに元気いっぱいに指宿の方を指さした。落ちたりしないか、咲翔はまたハラハラする羽目になった……。


 鹿児島市に戻り、そこから南へ車で約一時間半。梶さんと咲翔が到着したのは、指宿だ。
 朝から梶さんよりご指名を受けていた場所に、咲翔は車を向けた。その場所とは……
「いやー熱いねぇ! 砂蒸し風呂!」
 首から下がすべて砂に埋まった状態で、梶さんは元気に叫ぶ。この人の元気のバロメーターには、四肢の自由は関係ないらしい。
 かく言う咲翔も、梶さんの横で、頭以外はすべて砂に埋まっている。昔、拷問を受けているイラストで見たような格好だ。まさか自分が同じ目に遭うとは思ってもみなかった。
 あの時は、砂に埋まっているだけでいったい何が苦行なんだと思っていたものだが、なるほど埋まってみるとわかった。とにかく蒸し暑いのだ。
「あと何分ですか?」
「さぁ? 係の人が声かけてくれるでしょ」
 梶さんは、汗をダラダラ流しながら言う。
「あの……しんどくないんですか?」
「しんどいよ。塩釜焼きにされてる魚ってこんな気分なのかな?」
「……似てますけど、あっちは割らなあかんほど固いですし……ちょっと違うんやないですか?」
「そっか。今ハンマーで割られたら大変なことになるねぇ」
 熱でぼんやりする頭で、うっかりハンマーで潰される想像をした。せっかく温まったのに、なんだか背中がひんやりしてしまった。
「怖い妄想言うん、やめてくださいよ……」
「ごめんごめん」
 梶さんは素直に謝ってくれるものの、咲翔の頭の中は、一気に妄想で埋められていった。自分が魚になって、塩釜焼きのようにパカッと割られて食べられてしまうような……そんな妄想だ。
(夢に出たらどうしよう……)
 なんとか妄想を振り払おうとしたところで、係の人が時間を知らせてくれた。切り替えの早い梶さんはさっと立ち上がっている。
 一方の咲翔は、思いのほか砂が重くて、起き上がるのに手間取った。
「大丈夫? えみくん立てる?」
 かろうじて手を出したところに、梶さんが手を差し出してくれた。掴み返すと、一気に引き上げてくれる。
 パラパラと落ちていく砂を払いながら、咲翔は立ち上がった。
「当たり前だけど、砂まみれだねぇ」
「きれいに落とさんと、レンタカーやホテルに迷惑かかりますね。気ぃつけんと……」
「ただ砂を落とすんじゃなくて、この後温泉につかってゆっくりするんでしょ。じゃあ、ごゆっくり~」
 そう言うと、梶さんは鼻歌交じりに女風呂の方へ行ってしまった。砂風呂を出た後は、男女に分かれた浴場に入る。
 咲翔は、浴場の前でサンダルを脱ぐ。レンタルしていた浴衣も返却すると、浴場に向かった。入り口近くのかけ湯場で軽く流し、流し場のシャワーの前に座る。
 人気の浴場のようで、混雑していた。
 すぐ隣に、見知らぬ人が裸で座っているかと思うと、なんだか落ち着かない。さっさと洗って湯船につかろう。そう思って、全身ひととおりにシャワーを浴び、砂が残っていないかを確認して立ち上がろうとした。すると……
「まだ残ってるぞ」
 隣から、ドスのきいた声がした。おそるおそる横を窺い見ると、年配の男性が、首元をさすっている。
 自分の流し台の鏡を振り返り、男性がさすっていた箇所を見た。すると、砂が残っているのが見えた。
「そこ、流し忘れることが多いんだ。気をつけた方がいい」
「あ、ありがとうございます……」
 男性は「うん」とだけ言って、浴槽の方に行ってしまった。
 咲翔は、少し動悸がしていた。怒られたわけでも、責められたわけでもない。ただ温泉に入る前のマナーとして、見落としを指摘してもらっただけだ。
(あかん。いつまでも、こんなんじゃ……)
 深呼吸をしながら首元を洗い流し、もう一度全身にシャワーを浴びて、立ち上がった。
 今度こそ、大丈夫。
 浴槽に行くと、ちょうど人が出て行ったところなのか、人影はまばらだった。だが、その少ない人影の中に、先ほどの男性がいた。
 向こうも咲翔に気付いたようで、軽く手を振る。咲翔は会釈を返す。そして離れた場所からそっと入り、深く座り込んだ。
「ふぅ……」
 落ち着く――霧島の温泉でも同じことを感じた。絞りきったスポンジが再び水を含んでいくような感覚だ。心地よい温もりが、体中に沁み込んでくる。
(今まで知らんかったけど、温泉て気持ちええもんなんやな)
 心地よく感じるのは、疲労のためだけではないかもしれない。ほぐれていく思考の中で、咲翔はそう思った。
 その時、なにやら水をかき分ける音が聞こえてきた。
「おう」
 自分に声をかけているんだろうか。おそるおそる声の方を振り返ると、先ほどの年配の男性がいた。至近距離で。
「は、はい⁉」
 心臓が跳ね上がって、それ以上を言えずにいた。
「す、すみません……まだ何か、忘れてることがありましたか?」
「ああ、いや、ちがうよ」
 男性は、咲翔の隣に腰を落とした。そして咲翔と同じように「ふぅ」と寛いだ声を出す。かと思うと、くるりと咲翔の方を向いた。
「怖がらせて悪かったな」
「いえ、そんな……」
 ばつの悪そうな顔で、男性がそう言う。咲翔は、目を瞬かせていた。
「ぼ、僕が色んなことにビクビクしすぎっていうか……さっきのも、僕が忘れてただけなんで、そんな……」
「いや、俺はどうも声や顔が厳ついらしくてな。会社でも家でもそうだ。注意されてたのに、つい、あんな言い方をして怖がらせて……本当に、ごめんな」
 肩を竦めて小さくなる男性を、咲翔はただ見つめるしかできなかった。
「さっき、怖がってたろう? 申し訳なかったと思ってな」
「あ……いえ、僕こそ、すみません。びくついて……」
「あんたが謝ることじゃねえよ。いきなり声をかけた俺が悪かった。ただ、うちの会社に入ってきた新人と同じくらいに見えて、つい……な」
 咲翔は24歳。会社員を続けていたとしても、まだ二年目。新入社員に見えても仕方がない。
「あの……その新人さんも、ちょっとビクビクしてはるんですか?」 
「うん、そうだな。俺以外の人間とは割と打ち解けてるんだが、俺が声をかけるといつも……だな」
 会ったことはないが、その『新人さん』に少し共感した。咲翔も同じような境遇にいたから。
 社会には色々な人がいる。声の小さい人、大きい人。物怖じせずに言える人、言えない人。何があっても堂々としていられる人、そうじゃない人。そして、親切心が伝わりやすい人と、伝わりにくい人。
 きっとこの男性と『新人さん』は対極にいるのだ。それは偶然であって、誰のせいでもない。
「大きい声が、必ずしも悪いわけやないですよ。言われる方が悪いこともあるんですから……」
 思ってもみない返事だったのか。男性は、不思議そうな面持ちで咲翔を見つめ返す。
「間違ってたり、結果が出せんかったら、指摘を受けるのは当たり前やないですか。怖がってばかりもいられませんよ」
「……ちなみに、あんたは何て言われたんだ?」
「えぇと……『何やっとんねん』とか『なんでできへんねん』とか『あかん奴や』とか……」
 咲翔が言うと、男性は思い切り眉間にしわを寄せて言った。
「それはお前……指摘じゃねえよ。ただの罵倒だろ」
「え?」
「『何やっとんねん』の後は? 具体的な解決策は?」
「いえ、ただダメな点を挙げていって……」
「俺から言わせればそいつの方が『何やっとんねん』だよ。悪口言うだけなら誰でもできんだよ。ミスをカバーしたり、同じミスしないように考えてやるのが上司や先輩ってもんだろうが。腹が立つ……ちょっとそいつ、今すぐここに連れてきてくれ。説教してやる」
 男性は、今にも怒鳴り込みそうな剣幕で言う。なぜか咲翔の方が慌てて止めた。
「む、無理です……もうその会社は辞めましたし」
「そうか……まぁ、その方がいいな。それで今は? いい職場に転職できたか?」『転職』――やはり、人はすぐにその言葉に結びつける。咲翔は少し言い淀んで、首を横に振った。
「いえ、一年くらいは介護や家のことを……」 
「そうかぁ……」
 男性は、なんだかガッカリした顔をする。転職していなかったからか、いい報告をできなかったからか……。いずれにせよ、これ以上、この男性を楽しませる会話はできそうになかった。
「あ、あの……おじさん……は、どちらから来られたんですか? ご家族と旅行ですか?」
「東京からの一人旅だ。あんたは?」
「えーと……連れが一人」
「ほぉ。家族か?」
「いえ……」
 桜島で会ったカップルには、梶さんがうまいこと言ってくれていたが、咲翔一人だと同じようにはいかない。設定は決めておいたのに、咄嗟にうまい言葉が出てこなかった。
 またしても咲翔が言い淀んで俯くと、男性は何かを察したように頷き、肩をぽんと叩いた。
「『訳あり』か」
「……は?」
「まぁ、人には色々事情があるよな、うん。野暮なこと聞いて悪かった」
 絶対に何か誤解している。訂正した方がいい誤解を。
「ち、ちゃいますよ? なんも後ろめたいことはないですからね? その……叔母と一緒に色々回ってるんです」
「……叔母?」
「叔母です」
 咲翔は断言した。だが、男性の咲翔を見る目はまだちょっと渋い。疑っているのか、『訳あり』じゃなくてガッカリしたのか……。
「……まぁ、けっこうキツい思いしたんだろうし、そこから旅行に行く気力が湧いたんなら、いいか。一緒に旅行に行ってくれるような人なら、いい人なんだろうしな」
 その言葉には、咲翔自身、驚くほど素直に頷いていた。
「それは……はい」
 旅行なんてものではなかった。ただ、逃げただけだ。だけど、いつの間にか旅に変わっていた。あの人のおかげで。
「はい……すごく、いい人です。おばちゃんは……」
 尻すぼみになってしまった声も、男性はしっかりと聞き取ってくれたようだった。にこやかに、頷いている。
「いいねえ。俺の嫁さんなんか、旅行に誘っても『面倒くさいから一人で行って』だぞ? 昔から出不精なもんでなぁ」
「あはは……うちの家族も似たようなもんですよ。大阪人やのに道頓堀も滅多に行きたがらへんし」
「そうか。じゃあその『おばちゃん』は親戚の中でも珍しい人なんだな。大事にしないとな」
「え……はい」
 しまった、と思った。話が弾んで、つい本当の血縁の話を持ち出してしまった。あやうく自分たちで作った設定を崩してしまうところだった。
(ああ……あの人みたいに、話うまくなりたいなぁ……)
 一旦、口をつぐんでしまった。余計な事を言わないように頭の中を整理しようとしたが……男性は、勢いを止めるつもりがないようだ。
「なんだ? 急に静かになったな。楽しい話なら、もっと聞かせてくれよ」
「え? いや、僕はそんな……」
「おばちゃんとどこに行ったんだ? 聞かせてくれよ」
「ええぇ……」
 その男性は、顔や声が厳ついだけではなく、押しも強い人だった。なるほど、その新人さんも怯えるはずだ……と咲翔は密かに合点がいった。絶対に口には出さないでいた。
 そして、先ほどの砂風呂以上に頭がぼんやりする中、沖縄での旅行の様子を語ることになったのだった。
  


「えみくん、どうしたの⁉」
 エントランスで合流した梶さんの第一声だ。茹で蛸のように真っ赤になってだらんとした様子を見れば、誰だってそう聞くだろう。
 だけど茹で蛸そのものの咲翔には返事をする余裕がない。代わりに、付き添ってくれた先ほどの男性が答えてくれた。
「すみません。つい長湯して……私が付き合わせてしまったせいです。申し訳ない」
 深々と頭を下げる男性に、梶さんはお辞儀を返している。
「彼の……叔母さん、ですか?」
「え?……あ、はい。そうです。叔母です」
 梶さんまで、設定を忘れていたようだ。幸い、男性は訝る様子を見せず、そのまま続けた。
「彼は……いい子ですね」
「……え?」
 素っ頓狂な声を挙げたのは咲翔だ。男性と梶さんは、なぜかニコニコしている。
「人の言うことを否定せずに、こちらの気持ちを汲んだ返事をしてくれる。おそらく、その素直さと温厚さのせいで傷ついたりもしたんでしょうが……旅行を楽しめるくらいに余裕ができたようで良かった……」
 男性は、咲翔のふらつく身体を支えながら、そう言った。先ほど会ったばかりの人だというのに、なんて温かな声音で咲翔を語るのだろう。
 そして、梶さんもまた男性の言葉に感激していた。瞳を目一杯開いてうんうん頷いている。
「そう! そうなんです! この子、本当にいい子でしょう⁉ やだ嬉しい! 私以外にもわかってくれる人ができて!」
 梶さんと男性は、理解者ができたと言って頷き合っている。話題の中心であるはずの咲翔が、訳が分からず茫然としていた。理解が追いつかないのは、湯あたりのせいだけではないはずだ。だがそう思っても、今はツッコむ余裕はない。
 戸惑っていると、男性は懐から一枚の紙を取り出した。
 名刺だ。瞬きしながら書かれている文字に目を滑らせていると、男性がしっかりとした声音で告げた。
「何か困ったことがあったら、連絡してくれ。もう、怖くないってわかってもらえただろう?」
「は、はい……」
「それじゃ、良い旅を」
 男性はそう言って、颯爽と立ち去った。その後ろ姿と、名刺に書かれた文字を交互に見つめる。
 東京にある会社のようだ。そして、その肩書きは――
『代表取締役社長』――そう書かれていた。
 咲翔も梶さんも、口をあんぐり開けて、言葉をなくしていた。
(新人さんがビクビクしてたのって、顔や声のせいではないんちゃうか……?)
 そう思うと、また頭がクラクラしてきたのだった。
「えみくん、大丈夫?」
 梶さんが咄嗟に支えてくれるも、咲翔は側にあった椅子に崩れ落ちてしまった。足下がおぼつかない。さきほどの男性がしばらく付き添ってくれていたのだが、梶さんも男性も長く待たせるのは申し訳ないと思い、無理にエントランスに戻ったのが良くなかった。
「すみません、もうちょっとだけ休んでいいですか?……ああ、でもホテルが……鹿児島市に戻らんと時間が……」
 時計を見ると、予定の出発時刻を過ぎてしまっていた。咲翔が長居していたせいだ。このままではホテルのチェックインに遅れてしまう。
(なんとか踏ん張るか? でも、けっこう長いこと運転せなあかんし……)
 安全か、時間厳守か……どちらを優先すべきか、ぼやけた脳では判断がつかなかった。すると、梶さんがおもむろに電話をかけた。
「あ、もしもし? 今日そちらに宿泊予定の梶です。すみません、道が混んでまして、チェックイン予定の19時から遅れます……はい、21時までには到着しますので……」
 すらすらと、流れるように話をつけて、梶さんは振り返った。そして、手を差し出した。
「ちょっと遅れても大丈夫。行こう」
「あ、はい……」
 咲翔がその手を握ろうとした。すると、梶さんは首を横に振った。
「ちがーう。鍵」
「かぎ?」
 咲翔は何度も目をぱちくりさせて、ようやく自分の持っている鍵と言えば一つしかないと思い至る。
「車の鍵……どうするんですか?」
 梶さんに車の鍵を手渡す。すると、梶さんはニヤリとイタズラ小僧のような笑みを見せた。
「鍵を持ってる人が運転するに決まってるじゃない」
「はぁ……じゃあ、お願いしま…………えぇ⁉」
 運転手は、咲翔のはずだ。それなのにどうして、と問おうとしたが、できなかった。
「また役割分担が~とか思ってるでしょ。そんなの状況によっていくらでも変わるの。今は、えみくんに運転させる方が危険。たぶん私が運転手やる方がいい。そうでしょ?」
「いや、まぁ……」
 確かに今の咲翔には、一時間半もの時間、運転する自信はない。だからといって、雇用主の梶さんに任せてしまうのは気が引けるというものだ。だがそんな考えすら、梶さんにはお見通しのようで……。
「あのねぇ、元々一人で運転して回るつもりだったんだよ? ちょっとくらい仕事が増えたって、想定内なんだから、いいじゃない。たぶん明日からも色々お願いするんだし」
「いや、でも……」
「どっちにしろ、そろそろ出発しないと今度こそ遅れちゃう。ほら、駐車場まで頑張れ!」
 梶さんは咲翔の両手をぐいぐい引っ張って歩こうとする。為す術なく車まで戻り、いつもと違って助手席に咲翔を座らせるのだった。
 咲翔には、無理矢理にでも運転席を奪う気力も体力もない。諦めてシートベルトを締めるのだった。
(まぁ、今回だけやし……)
 一時間半ほどのことだし、梶さんだって免許を持っているのだし……そう思って、大人しくシートに身を預けることにしたのだった。
 僅か十分後に心の底から後悔することになるのだが……この時の咲翔は、まだ知る由もない。


「梶さん……今後、運転は絶対に僕に任せてください」
 夕飯の席で、咲翔は神妙に告げた。言われた梶さんはポカンとしている。どうして咲翔がそんなことを言うのか、理解できないようだ。
 それはそうだろう。指宿から鹿児島市までの一時間半ほどの旅において、梶さん本人はとても気分良く運転していただけなのだから。
 だが、咲翔も同じ心地だったかというと、まったく違う。むしろ、生きた心地がしなかった。
 それはもう自由奔放で、豪快で、あるときは竜巻の如き、あるときは疾風の如き運転だった……。事故に遭わなかった……いや、事故を起こさなかったのは奇跡としか言いようがない。
 出発した時点で、まだほんのり上気したままだった咲翔の顔色は、目的地に着く頃にはすっかり青ざめていたものだった。
「いくら何でも運転が荒すぎるでしょ……よくあれで沖縄一周を一人でやろうと思いましたね」
「いつもは旦那さんがやらせないようにしてくるから、これは思い切り運転するチャンスだと思ってたんだけど……ダメかなぁ?」
「ダメです」
 きっと旦那さんは、梶さんの運転スキルを把握して、封印しようとしていたのだろう。いくら彼女の自由奔放さを尊重しているといえど、命には替えられない。
 そして梶さんには、少し反省してもらいたい。
 だが、まったく気にする様子もなく、相変わらずもりもり目の前の料理を平らげている。
豚料理は沖縄で堪能したので、さつま鶏を食べまくるということになったのだ。
「でもやっぱり豚も気になるから、冷凍できるものをお土産で家に送っとこう! 白くまも! 黒豚カレーも!」
「はいはい。どうぞお好きなように……」
 危険な目に遭わないなら、もう何をしてもいい。咲翔の心情は投げやりになっていた。少し荒い言い方をしてしまった。
 だけど梶さんは、ムッとするどころか、なんだか機嫌が良さそうだ。理由がわからない。
「……どうしたんですか? 酔ってます?」
 聞いたものの、テーブルに酒は並んでいない。ますます、わからない。
「だって、えみくん、さっき言ったじゃない。『今後、運転は絶対に僕に任せてください』って。嬉しいなぁって思って」
「……何がです?」
 正直なところ、もっと文句を言われるかと思っていた。こればかりは何を言われようと絶対に屈しない覚悟で言ったのに、なんだか拍子抜けすることを言われてしまった。
「この先もまだまだ旅行に付き合ってくれるんだなと思ってね。そろそろ帰りたがってるかなって、ちょっと心配だったから」
「帰りたいとは、別に……」
「本当? 私に遠慮する必要ならないからね?」
 梶さんのまん丸な瞳の中に、咲翔がいっぱいに映り込む。咲翔には、自分の情けない顔が見えた。
 言われてみれば、明日も明後日も、この旅の運転手を務めるつもりでいた。助手席には梶さんがいて、旅行雑誌をチェックしている。そんな姿が浮かぶ。
 家に戻る姿なんて、まったく想像していなかった。
 だけどこれは旅行であり、いずれ梶さんは家に戻る。そうなれば、咲翔だって戻るほかない。
 それが当然の結末なのに、『帰る』と考えると、なぜか咲翔の胸はぎゅっと締め付けられるのだった。
 こんなにも広い空の下に居るのに、息ができなくなってしまう。
 ようやく実感した。
(帰りたくないんや……)
 旅は楽しい。梶さんは優しいし、放っておけない。そしてそれ以上に、家から離れたい。息苦しい場所から離れて、楽しい場所にいたいと思うのは、罪なのだろうか。
 我知らず、咲翔は拳を握りしめていた。
 それを知ってか知らずか、梶さんはテーブルの向かいからぐっと腕を伸ばしてきた。そして……咲翔の頭をポンポンと叩いた。
「大丈夫。大丈夫」
 いつものようなぐしゃぐしゃに掻き回す手つきではない。小さな子どもを慰めるような優しい手つきだ。なんだか照れくさくて、その手のひらから逃れようとするも、梶さんは離してくれない。
「子どもやないんですから、やめてくださいよ」
「でも私の子どもくらいの年だし、いいじゃない」
 そう言って、咲翔を見つめる瞳は、いつもの活発さがうそのように、穏やかだ。凪いだ海のような静けさを目にして、咲翔の心に急速に不安が押し寄せた。
(もしかして、明日か明後日には帰ることにしたんやろうか?)
 勢い任せの梶さんのことだ。鹿児島への延長も突然なら、旅の終わりも突然であっても不思議ではない。
 そう考えると、胸の内が急に冷えていく。
「えみくん、どうしたの? 急になんか落ち込んでない?」
 梶さんと言う人は、咲翔の表情を読み取ることに本当に長けている。咲翔が胸の内に収めようとしていた思いを一瞬で見抜かれてしまった。
「……もしかして、鹿児島を回るんは、もうすぐ終わりですか?」
 梶さんは、驚いていた。そしてすぐに、頷いた。
「バレたか」
 そう告げる笑顔が、なんだか痛かった。
「そう、ですか……」
「鹿児島、もうちょっと回りたかった?」
 申し訳なさそうに眉を下げて、梶さんは問う。
 困らせてはいけない。自分は梶さんのサポートのために付いているのだ。梶さんが終わりだと言うなら終わる。それだけのことだ。
 だから、きれいな幕引きができるように言葉を選んだ。
「そうですね……知覧の周辺も行ってみたかったですし……桜島ももっとゆっくり見て回りたかったです。東側の大隈半島も行ってみたかったですね」
「そんなに、楽しんでたんだ」
「当たり前やないですか。でもまぁ、次の楽しみにとっときます。いつか一人旅で来ますよ」
「そっか……じゃあ、鹿児島にはまた来ることにして……次に行けるね」
「はい、次に……へ?」
「もうちょっといっぱい回った方がいいのかなって心配しちゃった。実はさ、もう飛行機の予約とっちゃってたから、どうしようかと……」
「飛行機⁉」
 咲翔のあげた素っ頓狂な声に、店にいた客が振り返る。だけど咲翔も、梶さんも、気にせず互いを見ていた。
「あの……飛行機っていうのは、家に帰る飛行機では……」
「違う違う。家族には、延長ってもう伝えてるし」
 どうして家族に伝えて、同行者である咲翔には伝えていないのか……。
「鹿児島に心残りあるようだったら次を全力で楽しめないじゃない? だからどうしようか一瞬悩んだけど……良かった! じゃあ明日からは、北海道を目一杯楽しもうね!」
「ほ、ほっかいどう⁉ それに明日⁉」
 何もかもが急すぎて、なにも理解できない。普通そういうことは同行者の意見も聞いて決めることではないだろうか。
 驚きと困惑と、そしてちょっぴりの不満が滲み出てしまっていたのだろう。梶さんは、不安そうに眉を下げて、再び尋ねる。
「やっぱり、これ以上はダメ?」
 そう聞かれると、言葉に詰まる。
 だって、気付いてしまったから。咲翔自身、この旅を楽しみにしていたことに。梶さんが目をキラキラさせて、今日はここへ行く、明日はあそこへ行くという話を聞くのは、ただの業務連絡を越えた会話になっていた。今日はいったい何が見られるんだろうと、思うようになっていた。
 それに心配でもある。自分が付いていなければ北海道でどんな爆走運転をしでかすか、わかったもんじゃない。無計画にあちこち走り回った挙げ句、宿無しなんて事態もあり得る。
 そんな混ざり合った思いが、咲翔の胸の内にこみ上げる。
『ダメ』なんて、まったく思えない自分がいる。
 逡巡は、一瞬だけのこと。すぐに咲翔は頷きとも項垂れともとれるように、下を向いて答えた。
「わかりました……お供しますよ」
 下を向いたのは、ほんの少しニヤけてしまった顔を絶対に見られないようにするためでも、あった。

◇◇◇

「いくらなんでも、うちのお母さん……ひどいんじゃ……?」
 咲翔から語られる話を聞いて、桜の口から、そんな言葉が零れ出た。咲翔の事情も確認せずに飛行機までとってしまうとは……強引にも程がある。
 だけどそれを語った当の咲翔は、なんだか微笑ましい面持ちだった。
「やっぱり、そう思いますよね」
「思うねぇ」
 父までが、嬉しそうにそう言う。
 何がそんなに楽しいのか、桜には理解できなかった。桜は今、時間をかけて他人の口から母の醜聞を聞かされている気分だというのに。
「あの……母がご迷惑をおかけして……」
 桜が言えることは、それだけだった。だが咲翔は、深々と頭を下げる桜を慌てて制する。
「そ、そんなん言わんといてください。僕は、そのおかげで、今ここにいられるんですから」
「それ、前にも言ってましたよね。どういう意味ですか?」
「え、あぁ……それは……」
 咲翔は、言葉を探しながら、声をすぼませていく。はっきりと名言するものの、その理由については語りたくないか、うまく説明できないか、どちらかのようだ。
じっと言葉を待っていると、なんだか急かしているようで心苦しくなってくる。そこへ、ふわりと明るい声が割り込んだ。
「まぁまぁ、いいじゃないの、難しいことはさ。それよりお腹空かないかい?」
 咲翔が困ると、父がすぐに割って入る。まるで過保護な父親のようだ。咲翔自身が戸惑っているのだから、相当だ。
(どうして、お父さんはあんなに優しくするの?) 
 旅の間、妻がお世話になった人だから。妻の死を看取ってくれた人だから。親子ぐらい年が離れているから。庇護欲がはたらいたから。
 様々、思い浮かぶが、何が正解かは父の笑顔の奥に秘められている。
 そしてなかば無理矢理、母から送られてきた鹿児島土産の黒豚カレーのレトルトパックを引っ張り出している。咲翔が押しに弱いとわかっていて、絶対に譲らないパターンだろう。
(皆、大事なことを隠して、無理矢理押し切ろうとするんだから……)
 桜は小さなため息をついて、二人の会話に割って入った。
「多岐川さん、明日もバイトあるんじゃないの? あんまり引き留めちゃ悪いよ」
 今度は桜が咲翔を救出する役割になっていた。なんだかあべこべな気がする。
 とはいえ、咲翔は助かったと言わんばかりに頷いていた。
「そ、そうなんです。明日も朝から夜まで一日中で……」
「え? 例のコンビニのバイト? 一日中シフトに入れる仕事なの?」
「あ、いえ……別のバイトもしてまして」
「なになに? 何のバイト?」
「えっと……社食の皿洗いを……」
 咲翔はなぜか、申し訳なさそうな顔で言う。どうも言いたくなかったことらしい。桜の援護射撃が思わぬ誤爆を生んでしまったようだ。ちょっと申し訳ないと思いつつ、これ以上の余計なことは言えなかった。
「すみません。コンビニのバイトの時に保証人になって頂いたのに、別のところでも……」
「いやいや、謝ることは何もないけど……社食? どういう経緯か聞いてもいい?」
 咲翔は迷った末に、一枚の紙を取り出した。名刺だ。そこに書かれているのは、どうもこの近所に社屋を構える会社のようだ。そして書かれている名は、その会社の代表取締役社長――。
「さっき話に出てきた、砂蒸し風呂で会った人と、こっちで偶然再会しまして。事情を話したら、ちょうどバイトを探してたって言うてくれはって……」
「……ああ、名刺くれた社長さん……え? この人が?」
 咲翔は、驚く父に、神妙に頷いた。きっと再会した時は、今の父以上に驚いたのだろう。
「事実は小説より奇なりって言いますけど……まさかと思いました」
「本当にねぇ」
「そういうわけで、明日も朝から夕方まではその会社でバイト予定なんです。その後は、コンビニに行きます」
「はぁ……働き者だねぇ。僕の若いときでも、そんなに働けなかったよ」
 父がそう言うと、咲翔はまた困ったように俯いてしまった。本当に、遠慮深いようだ。
「でも、今まだ19時くらいでしょ。ちょうど夕飯時だし、食べていってよ。それで、さっきのその社長さんの話、聞かせてよ……あ、北海道の話はまた来週、お願いね」
「は? いや、でも……これ以上ごちそうになるのは……」
「いいからいいから。ただのレトルトだから。味見、手伝ってよ。ね?」
 そう言うと、父は今度こそ咲翔を残して、キッチンに行ってしまった。置いてけぼりにされた咲翔は、帰るに帰れず、途方に暮れていた。援護射撃は、大失敗に終わってしまった……。
「あの……ごめんなさい。父にまで付き合わせちゃって……」
 もう一度、桜が深く頭を下げる。
 だけど咲翔はふわりと笑うばかりだった。
「謝らんといてください。僕は、嫌やなんて一つも思ってないんで……むしろ、楽しいっていうか」
「……楽しい?」
 咲翔は微笑みながら頷いた。
「おばちゃんも、おじさんも……強引やけど、言う通りにしてたらいつも楽しいことが待ってるんです。そやから、不思議と嫌やなんて思わへんのです」
「……いきなり台風の中、運転手させられたのに? 何の相談もなく、沖縄も鹿児島も引っ張り回されたのに? 九州から北海道まで勝手に連れて行かれたのに?」
「うん……それでも全部、楽しかったんです」
 咲翔の言葉に、迷いはなかった。
 その瞬間、箱根で父が言っていたことを思い出した。

――咲翔くんは、お母さんの旅の相棒だったんだから

 なんとなく、わかった。
 咲翔が誠実で善人でお人好しだから、連れ回したんじゃない。咲翔もまた、義務感を越えて一緒に旅を楽しんでいたから、相棒だったのだ。
 そう、気付いてしまった。
(でも『相棒』って、本当ならお父さんや私がなるはずじゃないの?)
 ふいに、認めたくない衝動が湧く。同時に、理性がそれをすげなく打ち砕く。
(だってあの時はまだ夏休み前で、お父さんも仕事が忙しくて……お母さんも一人で大丈夫なんて言ってたから……)
 だから母は、咲翔と出会ってしまったのだろうか。
(出会ってしまったって、なに? いい人なんだから、いいじゃない……!)
 咲翔と出会えたおかげで、母の旅は当初予定していたよりもずっと有意義なものになっていた。
 咲翔に感謝こそすれ、恨むなんて筋違いだ。わかっている。恨むつもりなんてない。ないけれど……どうしても、胸の内に重苦しい靄が立ちこめることを止められない。
 その重たい気持ちをどうにか抑えようと黙り込む桜を、咲翔は不安げに見つめていた。
「あの……どうかしましたか?」
「いえ、何も……」
「でも顔色が……」
「大丈夫です」
 ピシャリと、払いのけるように言い切る。咲翔は困惑したように口をつぐんでしまった。
 またやってしまった、と思いつつ、桜もまた、次の言葉を紡げずにいた。
「お待たせ。カレーできたよ。肉がゴロゴロしてて美味しそうだよ~」
 あっという間に、父が三人分のカレー皿を運んでくる。確かに、肉が塊で入っていて、スパイシーな香りも交わって美味しそうだ。つい、食べたくなってしまう。
「ごめん。今、食欲ないから後で食べる」
「え?」
 自分の分の皿にラップをかけると、桜は足早にリビングから立ち去ろうとした。そして、一度、ピタリと足を止めた。
「鹿児島に行ってたのって……いつくらいでしたっけ?」
 咲翔は数秒して、自分にかけられた問いだと気づき、首を捻った。
「えーと……7月の二週目くらいちゃうかな。その週末に北海道に……」
「そっか。やっぱりそれくらいか……」
 ぽつりと零し、今度こそ桜はリビングを後にする。父に呼びかけられても答えず、一気に部屋まで戻った。
 ライトを点けると、たくさんの猫グッズが出迎えてくれる。その中には、母が送ってくれた猫神社のグッズもある。
 送られてきた当初は、あまりの可愛さに悶絶したが……今は、少し複雑だ。可愛いけれど、憎らしく思えてきた。
「私が怪我して試合に出られなくなってた頃、あの人がお母さんと楽しく旅行してたんだ……」
 そんな思いが、口の端から零れ出てしまった。
 母には怪我のことは伝えなかったのだから、知らなくて当然だ。咲翔はしっかりと母を支えてくれたのだから、感謝するべきだ。
 わかっているけど、できない。
「自分で『いってらっしゃい』って言ったのに……!」
 どうしても、思ってしまう。
 母の側に、最後に寄り添っていたのが、一緒に旅を楽しんでいたのが、どうして自分じゃないのか、と。
 自分の身勝手な思いを、クッションをぎゅっと抱きしめて押さえ込む。
 玄関から人が出て行く気配を感じるまで、桜はそうして黙って時を過ごしたのだった。

<次のお話はこちら>

<前のお話はこちら>

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