【小説】あなたといた道、母が見た空 第三章 ①
【第一章はこちら】
「ありがとうございました!」
熱気の冷めやらぬ道場に、若く猛々しい声が響く。
剣道部員たちは整列し、上座に礼をして、面を取った。息を切らせて、上気した面持ちがいくつも面の奥から現れる。
桜も、その一人だった。
ほんの数日ぶりだというのに、この瞬間の快感を、桜はとても懐かしく感じていた。
胴と垂を外し、顔を洗いに行くと、涼を求める行列ができていた。これもまたいつもの光景で、わけもなく安心したのだった。
だけど、順番待ちをする桜に向けられる視線は、どれもこれも気遣わしげな色が滲んでいる。
(稽古の間なら容赦なく向かってきてくれるのに……)
部活に復帰しても、この調子だ。桜は、ため息を噛み殺し、この居心地の悪さにひたすら耐えていた。
「桜! おつかれ!」
そう言って背中をぽんと叩いたのは、仁美だ。
「おつかれ」
そう返事をすると、にこっと快活に微笑んでくれる。
仁美の声を聞いた部員たちは、桜から視線を外した。ようやく、居心地の悪さから解放されたのだった。
あの日も、同じだった。
母が倒れたと顧問から告げられて、桜はしばし動けなかった。そこを叱咤して、背中を押してくれたのは仁美だった。
翌日の夜には顧問と一緒に通夜に来てくれた。告別式にも。
慣れない弔問客や親類が並ぶ中、仁美の顔が見えただけで、どれほど気が休まったことか。
「今日、めちゃくちゃ暑いね。帰りにコンビニ寄っていこ」
「うん」
いつも通りに接してくれる。『いつも通り』をやってくれる。それが、桜にとって何よりもありがたいのだった。
日常は、それまでとほとんど何も変わらないはずだった。
母はひと月も家を空け、既に父と桜の二人暮らしに馴染んでいた。二人で家事をして、ご飯を食べるのが当たり前だった。
今更、それを寂しいとは思わない。
そのはずなのに、胸の内でひゅうひゅうと隙間風が吹いているような感覚は、なくならない。あの日、母を見送ってからずっと塞がらない隙間だ。
コンビニの自動ドアが、桜たちを迎え入れる。カランコロンと電子音が鳴ると、店員が元気よく「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。
仁美はいつも、店に入るとすぐにアイスのコーナーに駆け寄っていく。桜はそれを追いかけながら、自分は何を食べようか、なんて考えていた。
だが、その考えは吹き飛んだ。
視界の端、レジに立つ人物を見て、桜は思わずぴたりと立ち止まった。
「……多岐川さん?」
数日前に『とてもお世話になった』多岐川咲翔その人が、いた。コンビニの店員のユニフォームを着て、レジを打っている。桜に気付き、軽く会釈をしてきた。
桜は咄嗟に顔を背け、そそくさとレジから見えない場所まで歩いて行った。
(なんで、あの人がここに?)
確か、次に会うのはあの日から一週間後……あと数日後のはずだ。もうこんな近所で会ってしまうとは。
とにかくレジから離れて背を向けていると、背中をツンツンとつつかれる。
「ひゃい⁉」
「桜、どしたの?」
振り返ると、仁美のきょとんとした顔が目に入った。片手には、いつも買うソーダのアイスバーが握られている。
「あ、決まった? レジ、行ってきなよ」
「桜はなに買うの?」
「私は……いいや。あははは」
いつもなら一緒にアイスを買って、店内のイートインコーナーでおしゃべりしていくのだが……今日は一刻も早く、この店から去りたかった。
ぐいぐい背中を押し出す桜を怪訝な目で見ながらも、仁美はレジに向かった。その先で、あの人の視線が自分に向いているような気がしてならない。桜は棒立ちになって、必死に咲翔に背中を向けた。
「桜、おまたせ」
仁美が戻ってくると、桜はその腕をぐいぐい引いて、店から出ようとした。
「え? どこ行くの? あっちでまったりしようよ」
「き、今日はちょっと早く帰らないと……そうだ。家に来てまったりしよ。ね?」
「え、桜の家? いいの?」
仁美の視線が、気遣わしげになる。さすがに、葬儀直後の家に上がることは遠慮しているようだ。
「いいの、いいの。ちょっと散らかってるけど、寄ってって」
「うーん、桜がそう言うなら……お邪魔しよっかな」
ちょっと首を傾げつつも、仁美は頷いた。今は、その方がありがたい。
桜はコンビニを出るまで、不自然なくらいにレジから目を逸らして歩いた。なんで自分が不審者のような動きをしているのか……そう思ったのは、店を出て数分後だった。
葬儀の日から一週間後の日曜日――その人は、約束通りやって来た。
夕方と呼べる時間なのに、まだ日差しも気温も高い中、多岐川咲翔は玄関に大きな影を作っていた。
桜はなんだか気まずいまま、会釈をして出迎えた。先日、コンビニで見かけて、逃げるように立ち去ったのが尾を引いている。咲翔の方も、どこか困った風な顔だ。
「おお、咲翔くん。よく来たね。さあ上がって」
そんな空気など吹き飛ばすように、父が朗らかに笑った。先にキッチンへ行って麦茶を用意している。リビングまで案内するのは桜の役目になった。
桜の背後をついてくる咲翔の足取りは、相変わらずゆっくりとした、遠慮がちなものだ。母の葬儀に、親族扱いで出席したくらいなのに。
すべてから距離をとろうとする彼の姿勢に、桜はどこか、安心感を覚えていた。だからこそ、今のこの沈黙が苦しくて、尋ねた。
「あの……バイト、始めたんですか?」
「はい」
咲翔は短く答える。その答えでは不十分だったと悟ったようで、咲翔は言葉を付け足すのだった。
「おじさん……に、ウィークリーマンションをお世話して頂いて……少しでも、お返しできるように昼間はバイトしてます」
そんなことまでしていたのか、と驚いたが、表には出さずに、再び尋ねた。
「そうなんですね。今日は、お休みですか?」
「さっきまで入ってました。今日はシフトをずらしてもらって……」
そうなんですか、と返す。そうとしか、返しようがない。
父の考えが、ますますわからない。本来なら、咲翔はもう大阪に帰っているだろうに。ウィークリーマンションまで世話して関東に留め置いて、いったい何をさせようというんだろう。
そんな疑問は、テーブルに麦茶を並べる父の笑顔に封殺された。ご丁寧に、テーブルの中央にお菓子の載った大皿を置く。
「食べてね。といっても、咲翔くんは食べたことあるかな? 鹿児島土産なんだけど?」
大皿に載っているのは一口サイズの薩摩芋タルト、ひんやりしたカスタード蒸しケーキ、鳥の形の小さなサブレなどなど。父が数日前にお取り寄せしていたものだ。
父はウキウキした様子で、皿の上と咲翔を交互に見ている。
「全部、うちの奥さんがお土産で送ってくれたものなんだ。美味しかったから、また頼んじゃったよ」
「そう、なんですか……僕は、お土産のお菓子は食べてなくて……」
「そうかい。じゃあいっぱい食べて。この蒸しケーキ、そのまま食べても美味しいんだけど、冷凍してから食べるのも美味しいってネットに書かれててね。試してみたんだ」
「じゃあ……いただきます」
咲翔が、真っ白な袋を一つ手に取る。中からも、白い生地の蒸しケーキが出てくる。ひんやりしてるそれは、まるで雪のようだ。咲翔はそろりと、口に運んで一口かじった。
「……ああ、ホンマや。美味しいです」
「そうだろう、そうだろう。昨日、発見したんだよ」
ふわりと、咲翔の頬が緩む。それを見た父もまた、緩やかに息をついた。
(ほんと、何考えてるんだろう……?)
そう思いながら、桜は麦茶を一口飲む。
「桜も食べて。どれも美味しかったよ」
「……別に、いらない」
鹿児島から送られてきたお土産のお菓子は、どれも父が食べてしまった。桜は口にしていないのだった。
沖縄の土産菓子が残っていたということに加えて、そもそもご当地のお菓子はそれほど好きではない。
それとは別に、なんとなく喜んで食べて感想を言って……ということをしたくなかった。どうしてかは、桜自身もわかっていないが。
「でも、おばちゃんがこれを食べたら、きっと感激しはったと思います」
咲翔はそう言って、残りの蒸しケーキを一気に口に放り込んだ。
桜はその言葉にも、なんだかわからないひっかかりを感じてしまった。だが父はそうではない。咲翔に喜んでもらえて気分がいいらしく、にこにこして尋ねた。
「咲翔くん、鹿児島ではどんなところに行ったの? 何をしたの? また、聞かせてくれるかな?」
父は蒸しケーキを食べ終わって、薩摩芋タルトを手にして尋ねる。
咲翔は「はい」と呟き、しばし瞑目した。そして目を開くと、遠い場所を眺めるような視線を桜たちに向けた。
「あの日、那覇空港から鹿児島空港に着いて、それから――」
◇◇◇
飛行機に乗ること約一時間、咲翔と梶さんは、沖縄から鹿児島へと、渡ってきた。大阪から沖縄に来たときも同じくらいの時間だった。鹿児島との距離の方が格段に近いはずなのに、不思議なものだと、咲翔は思う。
梶さんは、今回は元気だ。沖縄到着直後はゾンビのような顔色をしていたが、今回は揺れもなく、快適な空の旅だったようだ。
ついでに言えば、空港の外も快晴。あの台風の日のような悪夢は、縁遠そうだ。
「よし、じゃあえみくん。レンタカーを受け取りに行くよ!」
いつの間にか、レンタカーもホテルも予約済みらしい。梶さんという人の行動力には驚くばかりだが……慎重さも持ち合わせてくれたら、と思うときもある。例えば、今……。
「あの……まさかとは思いますすけど、ここから先、ノープランやないですよね?」
梶さんは、有名な旅雑誌の鹿児島版を穴があくほど見ている。鹿児島についた空港のロビーで。
疑いの眼を向ける咲翔に、梶さんは無邪気な笑みを向ける。
「やだなぁ、えみくん……」
梶さんは、旅行雑誌をパラパラめくりながら、答えた。
「こんなにいっぱい目玉スポットがあるんだよ? 簡単に決められるわけないじゃない」
つまりは、無計画ということか。
咲翔は頭を抱えながら、大きなため息が出そうになるのを、なんとか堪えた。
「……まぁ、いいですよ。どうせ沖縄でも、その日の朝に指示もらってたんですし」
「うん。沖縄でも柔軟に考えてたんだよ」
『柔軟に』……なんて便利な言葉だろうか。そう思いつつ、咲翔は別の場所をスマホで調べていた。
「とりあえず、レンタカーの事務所行きましょか。手続きあいてる間に、プラン練ってください」
「OK! ちなみにえみくんは、行きたいところはある?」
「僕は、別に……梶さんが行きたいところに、ひたすら運転していくだけです」
昨日の夜に、いきなり鹿児島に渡ると言われたのだ。行きたい場所なんて思い浮かぶはずもない。
困った末に出た結論は『梶さんに任せる』以外にはなかった。
梶さんは少しだけ残念そうな顔をすると、雑誌に視線を戻した。
咲翔は、ながら歩きをする梶さんの分まで含めて、二人分の荷物を持つ。梶さんは、自分の荷物を見ようともしない。
(今、僕が荷物を持ち逃げしたら、とか考えへんのかな……?)
そう思って梶さんを見つめていると、何かに気づいたように彼女は振り返った。
『疑い』なんて微塵も含まない視線に、咲翔は苦笑した。こういうのを『毒気を抜かれる』というのか。
(まぁ、ええか)
荷物を持ち逃げして窃盗犯になるより、運転手としてともに旅を満喫する方が、どう考えたってお得だ。
これまでは雑誌やテレビでしか見たことのなかった場所に、いくつも訪れるのだろうから。
レンタカーの鍵を受け取った咲翔に、梶さんが「ここ!」と満面の笑みで指定した。
それは『霧島神宮』。空港から一時間ほどの場所にある。
駐車場から出て、二の鳥居が参拝客を出迎えてくれる。そこをくぐると、休息所や社務所や記念写真のパネルがあり、大きな階段が見える。
その階段を越えた先に見える姿に、咲翔は息を呑んだ。
荘厳ーーその言葉が、最初に思い浮かんだ。
大きくて、広くて、艶やかでありつつ、神秘的な佇まい。
惚ける咲翔の横で、梶さんが旅行雑誌の案内文を読み上げる。
「天孫降臨神話の主役であるニニギノミコトを主祭神として、六世紀に創建された神社……なんだって」
つまり、一五〇〇年以上の年月を見守ってきたということか。想像もつかない年数に、咲翔はうなり声をあげた。
梶さんは、さらに読み進める。
「参道の先には薩摩藩第二十一代藩主・島津吉高の寄進によって三〇〇年以上前に建立された朱色の社殿が……えみくん!」
梶さんの熱い視線が、咲翔に注がれる。咲翔は黙って頷いた。
今回は意見が……いや、意志が一致した。
梶さんに引っ張られるまでもなく、咲翔は軽やかな足取りで進んでいった。
少し急勾配の階段は、まるで緑のアーケードのようだった。
豊かな木々に囲まれ、緑のアーチになっているそこは、真夏だというのにひんやり涼しい。懸命に階段を上る参拝客の背中を押しているかのようだ。
そのアーチを抜けた先に、拝殿が姿を表す。柱の朱色が鮮やかで、周囲の緑とのコントラストが映える。だが、朱色だけではない。柱や天井のありとあらゆる装飾が、極彩色で彩られている。
神社というものは質素な建物という印象だったが、この一帯は、絢爛と呼べる。
外観だけでこれだけ鮮やかならば、中はいったいどうなっているのか。咲翔の胸は高鳴った。だが――。
「予約制かぁ……仕方ないね」
拝殿内部は国宝に指定されており、特別拝観が可能なのだが、要予約なのだ。今日、突然訪問を決めた咲翔たちは、諦めるほかない。
「ごめんね、計画性なくて……ガッカリしてる?」
「いえ、そこまでは……」
咲翔は笑ってそう言ったが、本当は、かなりガッカリしている。このままあの絢爛で神秘的な空間に自分も入れるのだと期待した分、想像以上にショックが大きかった。
「元気出して。また来ようよ。ね?」
梶さんの励ましに「はい」と答えるも、やはり元気な声を出せなかった。
(いかんいかん。僕が落ち込んでたら、せっかく梶さんが楽しんではるのに水差してまう)
咲翔はそう思って、無理に笑顔を作った。
すると、梶さんは再び旅行雑誌を見ていた。そして何か閃いたような顔で言う。
「霧島の七不思議のうち四つまでが、この霧島神宮で見られるんだって」
「……七不思議?」
思わずぴくんと眉が跳ねる。その様子を、梶さんは見逃さなかった。
「なに、えみくん……もしかしてお化けも怖い?」
「こ、怖ないです」
焦って首をぶんぶん横に振るも、無駄だった。怯えた声で聞き返してしまった時に、すべて、悟られてしまっていた。
視線を逸らす咲翔の首根っこを、梶さんががっしりと掴む。
「行こうか」
「僕は……遠慮します」
「遠慮しないで」
どこにこんな力があったのか、と思うほどに、梶さんの腕は揺るがない。
「そ、それより、あっちに坂本龍馬夫婦の新婚旅行パネルがありましたよ。梶さん、写真撮らんでいいんですか?」
階段前にあった、記念写真のパネルのことだ。霧島神宮は坂本龍馬・お龍夫妻が新婚旅行に訪れた場所ということで、設置されているらしい。ちなみに、日本初の新婚旅行に当たるとか。
そんなことを聞けば梶さんはぐぐっと乗り気になるかと思ったのだが……。
「ぐるっと見て回ったら、最後に撮るかな」
梶さんはそう言って、スタスタ歩いて行ってしまう。
「そう言わんと……梶さん、ああいうのん好きでしょ?」
「まぁそうだけど、夫婦のパネルだからねぇ。うちの旦那さん以外と一緒に撮るのはちょっとね」
意外な発言を聞いてしまった。てっきりオモシロ写真を撮るためなら、通りがかりの知らない人とでもパネルに顔を出すものと思っていた。
「見えた! あれだ、あれ!」
緩い階段を下った先に、岩が二つ、見えた。階段の両サイドに門番のように立っている。向かって右にある岩を指して、梶さんは案内文を読み上げる。
「『風穴』……いつも弱い風が吹き出ていることから七不思議とされた……だって」
「風ですか?」
木々に覆われて、日差しが和らいで涼しいものの、風は特にない。
「うん。今は別に吹き出てないんだって」
「……そ、そうなんですか」
大きく威圧感のある佇まいから、冥界への門とでも謳われているのかと思いきや……本当に『不思議』な岩だった。ちょっとホッとした咲翔だった。
梶さんは、次に左にある岩の説明を読んでいる。
「『亀石』……亀そっくりの自然石。神様との約束を破った亀が石にされたと言われている……だって」
こちらはその名の通りだった。確かに、遠目から見ても大きな亀かと見間違えた。苔むした岩は、千年の時を刻んだ亀の甲羅と言われても納得できる気がした。
「神様との約束を破ったって、どんな約束してたんだろうね?」
「さぁ……」
咲翔の脳裏に、ぼんやりと祖父の顔が浮かんだ。
(約束……全然守れてへん……)
遠い日の記憶が、頭によぎる。あの頃は楽しくて、嬉しくて、咲翔は笑う以外の表情を知らなかった。だけど、いつの頃からか、どうやって笑えばいいのか、わからなくなったのだった。
形式的な笑顔を『作る』ことはできる。でも、胸の奥から湧き起こるようなことはない。きっと、咲翔の『笑顔』の成分は枯渇してしまったんだろう。そう思うようにしている。
ふいに目を逸らすと、梶さんがサッと前方を指さした。
「次はあっち。御手洗川だって」
「……川ですか?」
木々のアーチを抜けると、サラサラと清らかな流れが目に入る。濁りの一切ない小川は、先ほど見た拝殿と同じくらい神聖な空気を感じた。梶さんは、ここでも雑誌の案内文を読んでいる。
「えーとね……『天の真名井』の水が混じっていると伝えられる……だって。『テンノマナイ』って何だろうね?」
「『あまのまない』やないですか? 天孫降臨のとき、降り立った地に水が無かったから、天村雲命が高天原に戻って、わざわざ天真名井から汲んできた水を移したっていう伝説があるんです。宮崎県の高千穂地方の話なんですけど、ここにもあるんですね」
「ああ、だからか!」
梶さんはぽんと手を打った。
「この小川ね、今はこうして川なんだけど、十一月以降になると涸れちゃうんだって」
「そうなんですか?」
とても涸れるような川には見えない。咲翔が目を丸くして見ていると、梶さんは更に続けた。
「でもね……五月になると毎年、突然、水が湧くんだって。魚も一緒に」
「五月になると、突然?」
「そう。なるほど、これは確かに不思議だねぇ。『天の真名井』っていうのも案外、本当かもね」
辛口のお酒に舌鼓を打つ人のように、梶さんは唸る。
咲翔は澄み切った水面に、そっと手を入れてみた。
「そうか……涸れるけど、また湧いてくる……か」
冷たい。真夏の暑さなど忘れてしまいそうになるほど、冷たい。
そっと掬い、口に含んでみる。手で感じるよりも、更に冷たい。口の中で、触れた箇所から冷やされて、そして、浄化されていくようだった。
「ホンマですね。高天原の水……かもしれませんね」
さっきまで頭を占めていた、重苦しい記憶が、この清らかな小川に流されていく。
(……今は、考えんでもいいよな)
そう、振り払える自分に、気付いた。
振り返ると、梶さんはまた雑誌を見ている。次に行くところを探しているのだろう。
「梶さん、次はどこに行くんですか? 確か、霧島神宮の中に、まだ一箇所、七不思議スポットがあるんですよね?」
「うん、そう。だけど、さっきの拝殿の中なんだ。だから今日は見るのは無理みたい」
「そうなんですか」
ここまで見た三つがいわゆるホラーな不思議ではなかったので、それならば最後まで付きえると思っていたのに。少し、残念に思った。
「ちなみに、その四つめの七不思議って、どういう話なんですか?」
「えーとね……『夜中の神楽』。深夜に社殿の奥で神楽が高く鳴り響いたという逸話があるんだって」
「……え?」
咲翔の背に、一筋、ひやりと汗が走った。
「今でも時々、深夜に神楽の音が聞こえるとか聞こえないとか……だって」
「現役の怖い話やないですか……」
「うん、そうだね。でも大丈夫、夜中の話だから。昼間しか入れない私たちは、聞こうと思っても聞けないって」
カラカラと笑う梶さんに対して、咲翔の顔色は急速に青ざめた。決して、小川の水に冷やされたからではない。
「僕、車に戻ってます」
咲翔は梶さんを置いて、スタスタ歩いて行く。
「待って待って。お守り、買いに行こうよ。御利益あるから、ね?」
梶さんは、そう言って咲翔の腕をがっしり掴んで離さない。仕方なく、咲翔は着いていくことにした。できるだけ早足で、拝殿を視界に入れないように目を逸らして、授与所に向かったのだった。
「えみくん。この霧島で外せないものがもう一つあります。それは何でしょう?」
「……温泉、ですか?」
「ピンポーン!」
上機嫌な梶さんの声を聞きながら、咲翔は先ほど買ったお土産の袋を後部座席に入れた。お守りなど小さいものがほとんどなので、それほどかさばらないが……なんだか神の御利益と考えると、威圧感を感じる。
「今日は、温泉旅館に予約してるんですよね? そこの温泉に入るんですか?」
「そこも入るけど、もっと色々、巡ろうよ」
そう言って、梶さんは「じゃーん」と効果音付きで、木製らしい札を取り出す。二枚、持っている。
「なんですか、これ?」
「入湯霧札(にゅうとうきりふだ)だって。これを使うと、霧島神宮温泉郷にある温泉に、三箇所まで入れるの」
梶さんは札の一枚を咲翔に渡した。
「ああ、入浴料がちょっとお得になるやつですね。えーと対象の温泉は……」
咲翔は、手早くスマホで検索し、この入湯霧札の対象となっている温泉をピックアップした。そこから、梶さんが三箇所、指定する。
一箇所目と二箇所目は、どちらも霧島神宮からほど近い場所にあった。車だと五分ほどで着く。温泉宿というより、昔ながらの銭湯といった風情だった。
梶さんがどれくらいの時間で出てくるか読めなかったので、咲翔は少し浸かると、すぐにあがることにした。結果として、二箇所とも堪能した梶さんに、おおいに待たされることになった。
次は待つまい、と心に決めた咲翔だった。
そして残り一箇所――梶さんが指定したのは、大きな敷地に浴場も宿泊地もレストランも併設された施設だった。白と黒が基調となったすっきりした、おしゃれな外観だ。事前情報によると、天然泥パックができて、美肌効果があるとして人気なのだとか。梶さんがワクワクしているのは、これが理由だろうか。
(絶対、長くなるな……)
咲翔は、この温泉はじっくり堪能すると決めた。
脱衣所から浴場に入る。広さはそれほどはない。だが客が少ないため、それほど窮屈には感じなかった。
浴場から外に出て露天風呂に浸かると、半透明な白い温泉が咲翔の体を包み込んでいく。
「ふぅ……」
思わず、そんな声が漏れ出た。
先ほどの御手洗川の澄んだ冷たさとは真逆の、すべてを白く覆い尽くす温かさだ。
内側で凝り固まっていたものが、じんわりと、ほぐれていくようだった。
梶さんのおかげで宿には困らなかったので、毎日風呂にも入っていた。だけど、この解放感はどうだろう。屋外だからとか、昼間の入浴だからとか、そういったことを差し引いても、得も言われぬ快感だ。
風呂に浸かることがこれほど心地よいと思ったことなんて、今まで一度もない。なぜそう感じるのかも、わからない。
これも、温泉の効能だろうか。
「はぁぁ……気持ちええやなぁ」
まだこの温もりにくるまっていたい。咲翔は、そんな欲求に身を委ねることにしたのだった。
かれこれ何分ほど浸かっていたのか、わからない。気付いたら他の客がいなくなっていたことを考えれば、けっこう長湯してしまったのではないだろうか。
そう思って咲翔は急いで温泉から上がった。男湯の入り口から女湯の近くを見ても、梶さんの姿は見えない。
(良かった。まだ上がってはらへんわ……)
ホッと息をついたのも束の間……視界の端から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「よいしょ! わぁ、揺れるね~じゃあもう一回!」
男湯と女湯に通じる廊下は、中庭に面している。広い芝生があり、隅には東屋とブランコがある。東屋では若い夫婦らしき男女がゆったりしている。そしてブランコに小さな女の子が乗っており、それを押してあげているのは……梶さんだった。
梶さんがブランコを押す度、女の子はキャッキャと喜んでいる。
「あの……何してはるんですか?」
「あ、えみくん。おかえり」
梶さんがそう言うと、笑っていた女の子はきょとんとしていた。いきなり現れた咲翔にびっくりしているようだ。東屋にいた夫婦が慌てて駆け寄ってきた。
「すみません。うちの子が遊んでもらってただけなんです」
「そうそう。ほんとすみません……」
お礼と謝罪を同時に述べる夫婦に、梶さんは優しく手を振った。
「とんでもない。うちの娘の小さい時を思い出しちゃって、つい遊んでもらっちゃった」
女の子は、梶さんにぎゅっと抱きついている。短時間で、すっかり懐かれたようだ。だけど梶さんは嫌がる様子はなく、嬉しそうに女の子の肩を抱き返した。
「楽しかったね!」
「ね!」
女の子は嬉し恥ずかしという様子で頷く。夫婦は、微笑ましい様子で二人を見つめていた。
「娘さんがいらっしゃるんですね。もう大きいんですか?」
「高校生です。部活ばっかりで全然かまってくれないの」
苦笑いする梶さんだったが、「でもね」と続けた。
「試合の前とか、不安なのかな……チラチラこっち見るの。私が『がんばれ』って言うと、どっか行っちゃうんだけどね」
「娘さん……安心しはるんでしょうね」
咲翔は、ぽつりと呟いた。頭の中で、会ったこともない梶さんの娘を思い浮かべていた。
きっと、この梶さんがあれこれ構ってくるから、子ども扱いされているようで、ちょっと反発してしまっているのだ。だけどそれは、愛情を注がれることが日常になっているから。
美味しいご飯と温かい風呂に入るのは日常の一部で、時折面倒くさいと思ってしまうこともある。だけど、必要な時もある。
温泉のように、日常の中の『特別』がほしいときが、あるのだ。
咲翔の言葉を聞いた梶さんは、なんだか恥ずかしそうにニヤニヤ笑っていた。
「ええ……そうかなぁ?」
咲翔は頷く。まぁ、その娘さんは、だいぶ素直じゃないようだと思うが。
二人のやりとりを見ていた夫婦は、にこやかでありつつ、首を傾げていた。
「あの……息子さんじゃないんですか?」
「え?」
夫婦は、梶さんと咲翔を指して、尋ねている。
確かに、今の咲翔の言葉は他人行儀だ。温泉に一緒に来ているのに、梶さんの娘のことを知らないというのは、不自然ではないか。
咄嗟にそう思ったのだが、言われてからでは、うまい言い訳が思いつかない。咲翔があたふたしていると、梶さんはすべてを覆い隠す笑みで、答えた。
「甥っ子なんです。普段は別々に住んでるから、うちの娘のツンデレ具合も知らなくて……ね?」
咲翔は、慌ててぶんぶん頷いた。
「はぁ……叔母さんと甥っ子の二人で旅行ですか? 珍しいですね」
(しまった。それも変か……!)
そう思ったが、咲翔の表情に表れる前に、梶さんが再び笑顔で覆い隠す。
「うちの旦那さんと、この子のお父さんが、温泉は嫌だって言うから別行動してるんですよ。アクティビティの方がいいんだって。元気よね~」
「ああ、確かに近くにありましたね。楽しそうなところ!」
そのまま夫婦の関心は、ここからほど近いレジャースポットに移った。夫婦と女の子に笑顔で別れを告げ、梶さんと咲翔は、レンタカーへと戻ったのだった。
「危なかった……」
シートベルトを締めながら、咲翔はどっと息を吐き出した。助手席では、梶さんが暢気な声で答える。
「えみくん、狼狽えすぎ。別にバレたっていいじゃない。通報されるわけじゃなし」
「それはそうですけど……」
咲翔は成人しているし、一応社会人と呼べる。見知らぬ女性と同行していようと、犯罪になるわけではない。
だけど、見咎める人はいる。
先ほどの夫婦も、あのまま他人同士で旅行していると話し続ければ、眉をひそめていただろう。
咲翔はあの時、世間体という重圧を思い出してしまった。梶さんは何一つ気にしていないようだが。
「立ち話で身分証明書や戸籍謄本を見せろなんて言われるわけじゃなし。ていうか『友達』で充分じゃない?」
友達と言うより、雇用関係なのだが。
咲翔がさっきの夫婦の立場だったとして、梶さんと二十代の男が『友達』と言われて、信じるだろうか。信じずに、なんと思うだろうか。
そう考えたら、頭に靄がかかって重くのしかかってくるようだった。
「だから『叔母と甥』って言ったんじゃない。これ、けっこういい関係だと思わない? 近すぎず、遠すぎずって感じ?」
梶さんのドヤ顔が、バックミラーに映り込む。振り向くと、咲翔に向けて拳を突き出している。
なんなのか分からなかったが、どうやら拳を付き合わせるフィスト・バンプを要求しているらしい。
咲翔は、しばし首を捻って、うなり声を上げて、散々悩んだが……おずおずと、拳をこつんと突き合わせた。満足げな梶さんの声が隣から聞こえる。
梶さんと咲翔の『叔母と甥の旅』という設定が誕生した瞬間だった。
翌朝、朝食で合流した梶さんは、なんだかほかほか、つるつるしていた。
「……朝風呂ですか?」
「わかる?」
梶さんは女優のようなポーズをとる。朝風呂に入ったか、聞いただけなのだが……。咲翔は一応の笑顔を返して、モーニングビュッフェに向かった。
だが、梶さんの気持ちもわかる。
咲翔も昨日、四度目の温泉を堪能した。展望露天風呂だったこともあり、壮大な景色と、空気に触れる解放感と、一日の疲れをほぐしてくれる温もりと……あらゆる効能に蕩けてしまった。
(朝も入れるんやったら、行っとけば良かった……)
そんなことを思うほどに。
だけど朝食が終わればチェックアウトが迫る。今は確認すべきことがあるのだった。
「今日はどこに行って、どこに泊まるんですか?」
これは、沖縄にいた頃からの日課になっていた。
ある程度、順路を決めておかないと、この梶さんという人は距離も時間も考えず、あちこち回ろうとするのだ。
沖縄ではある程度計画があったようだが、鹿児島に来てからは別だ。なにせ前日に旅行延長を決めたくらいなのだから。
だが、肝心の梶さんは予定を尋ねられて、ちょっと不服そうだ。
「そんな細々と決めなくてもいいんじゃない? 日本の端から端まで行くんじゃないんだからさ。ある程度思いつきでも……」
「……ホテルのチェックインの時間もあるやないですか。それを考えて逆算せなあかんこともあるんです」
「そうかぁ……うーん、そうねぇ」
咲翔に言われて、梶さんはようやく考えてくれる気になったようだ。といっても、旅行雑誌を取り出したので、どうやらこれから考えるようだが。
「とりあえず、今日泊まるのは、ここ」
梶さんはスマホの、予約サイトの画面を見せてくれた。咲翔は手早くメモ帳アプリにホテル情報を記録する。
それから今のホテルからのルートを検索し、だいたいの移動時間を算出する。
「一時間半ほどですね。じゃあ、早めに着いて、昼はこの近くで……」
「あ、ちょっと待った!」
流れるように予定を埋めようとした咲翔の手を、梶さんはがっしりと止めた。そして、もはや必携アイテムとなった旅行雑誌を取り出して、ページを開く。
「ホテルに着くまでの間に、ここに行こう。お昼も、ここで」
梶さんがそう言って指さしたのは『名勝仙巌園』。薩摩藩主・島津家が構えた別邸跡だ。
その案内文を見て、咲翔の胸はちょっぴり高鳴った。
「わかりました。行きましょう」
そう答えると、梶さんは満足げに笑っていた。
だが、咲翔はそれよりも具体的な想像を広げるのに忙しかった。自然と、朝食を食べる箸も、いつもより快適に進むのだった。
青と緑で視界が埋め尽くされる――咲翔はその庭園を見て、そう思った。
どこまでも広がる快晴の空、彼方にそびえる桜島、そして木々と玉砂利と空を映す池によって美しく整えられた庭園……すべてが一望でき、一枚の大きな絵画のようだった。
平日だというのに、その庭園には人が多く行き来している。その誰もが、この壮大な景色を見て、一度は感嘆のため息をもらすのだった。
隣に立つ梶さんも同じように感激していた。
「いやもう……『すごい』としか言えないね」
「はい……」
かくいう咲翔も、言葉をなくしているうちの一人だった。
梶さんは旅行雑誌やリーフレットをいくつも並行して見ている。
「えーと……桜島が景観として溶け込む配置になるように、庭園を造ったんだって。『借景(しゃっけい)」』という技法を利用している……だって」
「ああ……『借景』ですか。これが……」
「えみくん、知ってるの?」
咲翔はこっくり頷く。雄大な桜島を眺めつつ、懐かしい情景を重ねて思い浮かべた。
「うちの祖父が教えてくれたんです。こういう、庭園の外の風景を、庭の景観の一部として取り入れる造園技法を『借景』ていうそうです。僕も実際に見たのは初めてですけど」
「へぇ……あんな立派な山が見えるんなら、そりゃあ取り入れたくもなるよねぇ」
「確かに」
梶さんはカメラのフレームのように両手で四角を描き、画角を見ている。この庭園のどこから見ても、その優雅で雄大な様は変わらないのだった。
「島津家のお殿様もすごいよね。こんな景色を独り占めしてたなんて、ちょっとズルいんじゃない?」
「島津家がそれだけ力を持っていたってことですよ。ズルいっていうか、さすがやなって僕は思います」
「そっか、そうだね。『さすが』だね」
「はい。『さすが』です」
咲翔は庭園の隅から、見渡せる限りの景色をぐるりと見た。
かつて、この別邸を建てた島津家の殿様たちも、同じ景色を見たのだろうか。咲翔は、そんな思いを馳せた。
『仙巌園』の見所は、その御庭だけではない。敷地内には江戸時代から明治時代にかけての史跡が数多く遺されている。
先ほどの御庭を擁する御殿もまた、咲翔にとっては感慨深いものだった。代々の当主が過ごした御居間は、お勤めを果たす場であり、同時に寛ぐ場でもあったようだ。荘厳でありながら壮観だった。
中庭の方は、桜島の景色と一体化した御庭とは違い、八卦を取り入れた池が見る者を安らげる風情がある。
謁見の間は海外の要人をもてなしただけあって西洋風の調度品と和の内装が美しく調和した空間だった。
ここで歴史がいくつ動いたのだろうと思うと、咲翔は鼓動がどんどん速くなっていった。
だが御殿とは違う印象の史跡もあった。今度はぽつんとした小さな空間だ。小さな鳥居をくぐった先に、小さな石碑があり、鳥居の前にたくさんの絵馬が飾ってある。
梶さんは、先ほどまでの堂々たる佇まいとは違う印象の空間に、首を傾げた。
「えーと……猫神社(ねこがみしゃ)?」
雑誌には、そう書いてあった。
「もしかして、江戸時代よりずっと前の当主が建てたんとちがいますか?」
「うーん、島津家十七代義弘って書いてある。慶長の役に出陣した際、猫を七匹連れていき、その瞳孔の開き具合で時刻をはかった……?」
「ああ、やっぱり。その時の猫を祀ったんですね」
「……えみくん、この説明文が何のことか、わかるの?」
ちんぷんかんぷんな様子の梶さんに、咲翔は頷いて見せた。
「まぁ……猫の瞳孔で時刻を云々の話は知ってたので。これも、祖父がよく聞かせてくれてたんです」
「博学なおじいさまだねぇ……それを覚えてるえみくんも」
「島津家は戦国時代もそうですけど、幕末でも有名ですから。祖父は昔から歴史好きで、僕は祖父の影響で歴史小説やドラマや映画見て、ちょっとかじっただけです」
「それでもすごいじゃない。そっか、幕末とか好きなんだ……私、今の今まで全然知らなかったよ?」
梶さんは先ほどの御庭を見た時と同じくらい感嘆のため息をもらす。咲翔は、どんな顔をすればいいかわからなくなった。
「え、えーと……なんや猫好きの人が、ようけ来はるらしいですね」
「うん、そう書いてる。ペットのお守りもあるんだって。あと猫グッズもたくさんあるって」
梶さんの目が輝きだした。これは、他の史跡を巡るより先に売店に行った方がいいだろうか。咲翔はそう考えたが、梶さんが先に立ってぐいぐい引っ張り歩き出した。
「お土産買うのが楽しみだねぇ。じゃあ、次行こう、次!」
咲翔は、おもわずきょとんとしてしまった。
「猫グッズ買わないんですか?」
「あっちの建物にお土産屋さんが色々入ってたでしょ? 後でまとめて買えるんだから、今は見て回るのが優先でしょ」
「そ、そうですか……」
確かに、お土産を買い出したら止まらないだろうし、大荷物を抱えながら史跡を巡るのはかなりの労力だ。
梶さんという人も、意外と行き当たりばったりではないのかもしれない。
そう思ったが、三十分後には訂正したくなったのだった。
猫神社から歩き回って、反射炉へ行き、鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)へ行き、尚古集成館まで行くと、さっきのあれがもう一度みたいと言い出して、仙巌園内をもう一周することになったのだった……。
両棒餅(じゃんぼもち)の喫茶店で一息つけるまでに、この仙巌園をいったい何周したことか。明日からガイドを請け負えるのではないかと思えるくらいだった。
足はすでに棒になりそう……いや、なっている。
手元には、二本の竹串に刺さった丸い餅が三本と、セットで注文した緑茶がある。
甘辛い醤油たれのかかった餅をぱくっと一口でほおばり、ようやく寛ぐことができたのだった。
「梶さん……もうちょっと、計画的に回りませんか?」
咲翔がそう言うも、梶さんはどこ吹く風といった調子で両棒餅をもぐもぐ食べている。二本目だ。
「いいじゃない。疲れた分だけ、甘いものが美味しく食べられるし」
「これは美味しいですけど……」
「美味しいけど、おなかいっぱいにしちゃダメよ。お昼は、あっちのお蕎麦屋さんに行くんだから」
早々に三つ食べ終えたくせに、どの口が言っているのか。
咲翔が眉をひそめる間にも、梶さんはセットで注文したお茶を飲み干し、口元を拭き、手を合わせていた。
そして、咲翔がお茶まで飲み終えるのをじっと待っていた。
「あ、すみません。今、飲みます」
「慌てなくていいよ。お茶とお菓子はゆっくりいただくものでしょ」
そう言う梶さんは、穏やかな笑みで咲翔を見つめていた。
そんな目で誰かから見つめられるのは、久々の気がしていた。別に邪険にされ続け得たわけでもないし、無視されたわけでもない。だけど見つめられただけで温もりを感じる視線なんて、しばらく感じていない。
そう思い、気づいた。
(そうか。自分が誰のことも見てへんかったんか)
柔らかく温かい餅を、ぱくっともう一つ、頬張る。
(うん、美味しい)
その甘いたれと触感を堪能しつつ、梶さんの顔をチラリと見る。
なんだかウキウキと肩を揺らしている。
ものすごく何かを待ち望んでいる顔に見えた。
(あかん。昼に食べる蕎麦が楽しみな体勢に入ってる……!)
相手の顔を見たからこそ、咲翔は気づいた。
そして、急いで残り一つの餅を緑茶で流し込んで、ごちそうさまをしたのだった。
両棒餅に引き続いての蕎麦ランチ、そして名物のかき氷・しろくまを一気に食しては、どんな胃袋も悲鳴を上げる……そう思っていた。
だが、世の中には咲翔の想像を遙かに越える強靱な胃袋の持ち主がいたようだ。
もちろん、梶さんである。
「ようあれだけ食べられますね……」
「せっかくの美味しいご飯なんだから、全部味わわないと損じゃない」
損得については理解できるが、胃袋の容量の話でもある。咲翔は、これ以上の会話の継続をあきらめた。
「ねえ、それより娘に送る猫グッズ、どっちがいいと思う?」
梶さんはランチを食べた店と同じ建物内にある、土産処であれこれ見て回っている。咲翔は重い胃袋を抱えながら、なんとかそれに付き従っているのだった。
やはり、さっきの猫神社のことが気になっていたらしい。一通り見た後、猫グッズの売場でうんうん唸っている。ついに三つに絞ったのか、猫がじゃれ合う絵が描かれたハンドタオルと、付箋と、仙巌園で売られているお土産がプリントされた手ぬぐいとの三つを並べて持っていた。
「娘さんて、高校生でしたよね? なんで手ぬぐいなんですか?」
「部活で使うかと思って」
「部活て何なんです?」
「剣道! 今日もやってんじゃないかな」
「はぁ……あの面の下に付ける手ぬぐいにこれをってことですか?」
「そう。可愛いでしょ?」
咲翔もそこを否定するつもりはない。だが、なんとなく頷けないのだった。
「僕はなんとなく、剣道で使うには可愛すぎる気がします……」
「え、そう?」
「可愛いから、使うのが躊躇われるっていうか……」
「あ、そうか。それはあるかも」
梶さんははっとして、そろりと手ぬぐいを戻した。
「もういっそハンドタオルも付箋も両方買ってあげよう。それと猫が描かれてるお守りと……」
梶さんの両手が猫グッズで埋まっていく。
「なんや、娘さんのお土産が猫ばっかりですね」
「あの子、猫好きだからね」
「そうなんですか?」
「そうなの。でも猫アレルギーでね……」
「金属にも弱いんでしたよね。猫もダメなんですか? 好きやのに?」
「好きなのに、撫でることもできないのよ。だから猫グッズに目がないの」
そう言って、また次の猫グッズに手を伸ばす。
猫グッズというだけなら、きっとどこででもたくさん手に入る。だけど、この猫を祀った島津家との繋がりのある猫グッズは、ここでしか手に入らない。
じっくりと選定する梶さんに、咲翔は言った。
「もう、ここにあるもの全種類買ってあげたらどうです? そうそう手に入りませんし」
普通の主婦になら言わないことだが、梶さんは今、大金を持っている。それを使って思う存分楽しもうとしているのだ。だったら、家族を喜ばせるお土産にだって、盛大に使ってもいいだろう。
咲翔の言葉に、梶さんは晴れやかな表情を浮かべる。
「そっか……うん、そうだね。パーッと全部いっちゃおう」
そう言うと、本当にすべての品を手に取るのだった。両手どころか、腕でも足りなくなっていく。すかさず咲翔がカゴを持ってきて、どうにか落とさずにすむのだった。会計の金額に咲翔の目玉が飛び出そうになったのは、言うまでもない。
「そういえば、娘さんのお土産はこれでいいとして、旦那さんのお土産はいいんですか?」
「旦那さんのは、あっちのお店にしようって決めてるの」
そう言って指さしたのは、薩摩切子や屋久杉の工芸品が並ぶ店だ。並んでいる品の一つ一つが洗練されて美しく、店というよりギャラリーのようだった。
足を踏み入れると、澄んだ光に包まれた気がした。
店の窓からは、先ほど心震えた桜島の姿を臨むことができるのだ。晴れ渡る空から光が差し込み、窓際に並ぶ薩摩切子越しに、赤、青、黄色と、色とりどりの影を描き出す。まるで、ステンドグラスのように。
梶さんは大小様々な薩摩切子のグラスの中から、小さなグラスを二つ、手に取った。
「これにする。晩酌用に」
手にしたのは、赤と青のペアになったビアグラスだ。どちらも深い色合いと、刻まれた文様がきらびやかだ。ここにビールを注いだら黄金色と交わって輝き、清酒を注いだら万華鏡のように煌めきそうだ。
「気分によって酒の種類も変えたらええんちゃいます? あっちの店に酒もぎょうさんありましたよ」
「ほんと? じゃあ後でそっちも行こう!」
梶さんはビアグラスを手に取って、レジに駆けていった。
その背を見送っていると、視界に紫紺色の切子グラスが入ってきた。
冷酒グラスだ。側面には二重矢来の紋様が、底には菊の文様が刻まれている。どの角度から見ても繊細かつ艶やかだ。ここに冷酒を入れてちょいと一杯ひっかける姿を、咲翔は何度も目にした。
(おじいちゃん、こんなん持ってたな)
沖縄でも同じような酒器を見て懐かしく思ったが、こちらの方が、祖父のものに似ている気がする。
今はもう割れてしまって、捨てられてしまったが。
ため息を飲み込み、じっとその冷酒グラスを見つめていると、肩をぽんと叩かれる。
「えみくん、どした?」
梶さんだ。箱に入れてきれいに包装してもらったものが入った紙袋を、大事そうに抱えている。
「あ、会計終わったんですか?」
「うん……そのグラス、ほしいの?」
「え、あ……いえ」
じっと見ていたのなら、そう思われても仕方ない。懐かしく思ったのは、確かだが……。
「ちょっと、昔、似たようなんを見たなぁって思っただけです」
「……おじいさんが持ってたとか?」
梶さんは、こういう時はいやに勘が鋭い。咲翔は、否定するタイミングを失った。
「まぁ……そうです」
「沖縄でもこういうの、見てたよね……やっぱり私、お金出そうか?」
「いえ、いいです、そんなん……」
運転手ということで、既に宿泊費や食費や日用品の費用を出してもらっている。おまけに自由に使えるお金も必要だろうと、多少の金額も貰っている。これ以上甘えるわけにはいかない。
「ホンマにいいんです。前にも言いましたけど、一緒に飲む人もおらんし、酒も弱いですし」
「……いいの?」
「いいです。それより、さっきのグラスで飲む酒、見に行きましょ。ね?」
いつもと違い、咲翔が梶さんの背中をぐいぐい押して、次の店へと向かった。あのグラスのことを、できるだけ視界に入れないようにしながら。
昨日、その雄大な佇まいに感動すら覚えた桜島。元は名前の通り独立した島だったが、大正三年の大噴火で噴き出した溶岩により、大隈半島と繋がり、陸続きになったのだとか。 『桜島』という名は、現在では地域名でもあり、今もなお灰を降らし続けている活火山そのものの名でもある。
その堂々たる山の姿が、今、咲翔の前にぐんぐん迫ってくる。
「近くで見ると更に迫力あるねぇ。これからあそこに行くんだねぇ」
梶さんがフェリーの手すりから身を乗り出して、そう叫ぶ。
「……あの、あんまり乗り出さんといてください。危ないです」
「大丈夫だってば」
咲翔はさっきから、梶さんが鹿児島湾にぽちゃんと落ちてしまわないか、気が気じゃなかった。桜島よりも、ずっと。
今日は、鹿児島タウンのホテルから車で出発し、僅か数分で下りることとなった。そして乗り換えたのは、フェリー。桜島に渡るためだ。
鹿児島タウン側からは陸続きになっていないため、こうしてフェリーに乗るのだ。一日に約一三〇便、なんと二十四時間運航しているらしい。
梶さんの調べによると、およそ十五分程度で桜島まで渡れるのだとか。だからだろうか、梶さんは桜島に感動していたかと思ったら、急にそわそわしだした。
「急がなきゃ! えみくん、行こう」
「ど、どこへです?」
「船の中にあったじゃない。うどん屋さん!」
「うどん屋さん? 今ですか?」
今はまだ午前十時過ぎだ。昼食というには少しばかり早いのだが……。
「桜島フェリーに乗ったら絶対食べなきゃって書いてあったの。乗船時間は十五分しかないんだよ。早く食べないと」
梶さんは何かにせき立てられるように咲翔を引っ張っていく。
現在の腹具合は、満腹とまではいかないが、空腹とはほど遠い。急いで何かを食べる必要はないと思っていたのだが……。
「あ、美味しいですね」
「でしょ? どこ調べても、このうどんは食べた方がいいって書いてたの。大正解だったね!」
想像していたよりも小ぶりな器に、店主が手早く麺とつゆと具を載せてくれる。提供時間はわずか三〇秒と、もっぱらの噂だ。
うどんをすすると、載っているネギと揚げ玉がくっついてきて、柔らかい食感にコリッとした食感が混ざる。さつま揚げもつゆと一緒に食べると甘くてしっとりして、食べ応えがある。
咲翔は桜島到着までに食べきれるのかと案じていたが、杞憂だった。箸が止まらず、あっという間に食べ終わり、それと同時に到着となった。
「お昼ごはん時になると列ができるっていうから早めに来たんだよねぇ」
ご満悦な様子で梶さんは言う。そうは言っても、一緒に乗船していた人影はまばらだ。今日は平日だし、昼間なので、それほどの行列はできなかったのではないか。
そう考えた時、咲翔は気付いた。
(帰りの船で食べてもよかったんやないか……?)
そう思ったが……美味しかったし、まぁいいかと思い直したのだった。
「あ、えみくん。下りる前に、これ着けてね」
「何ですか、これ?」
渡されたのは、マスクとサングラス、そして長袖のパーカーだった。
「念のため、ね」
何が、とは尋ねる猶予はなかった。
<次のお話はこちら>
<前のお話はこちら>
#創作大賞2025
#オールカテゴリ部門
#小説
#長編小説
#あなたといた道 、母が見た空
#現代ヒューマンドラマ
#ロードノベル
#家族の物語
#喪失と再生
#旅の思い出
