アイドル像の変化に見る、『映画』体験の変化


「映画体験、『刺激』強めはお好き?」では、年齢制限とは別に、作品が観客へ与える心理的負荷を事前に知る仕組みが必要ではないか、と書いた。

2026年の今、そもそもなぜ、これほど刺激の強い作品が増えたように感じるのだろう。
今回は、映画そのものの変化について考えてみたい。


アイドルは、どういう存在?

かつてのアイドルは、手の届かない憧れの存在だった。
その扱いは別世界の生き物に近いのかもしれない。
現在は、お金を払えば会える、話せる、握手できる。

”アイドルが身近になった”と言えば、それまでだけれど、何をもって「アイドル」と呼ぶのか、その定義と商品の形が変わったことは事実。
アイドルという存在全体に向けられていた憧れが、「会う」「話す」「握手する」といった個別の体験として商品化された。

映画にも、これと似た変化が起きていると思っています。

映画の今昔

かつて映画を観ることは、始まりから終わりまで、一本の物語を丸ごと体験することだった。

映画雑誌や新聞で新作映画をチェックし、気になる作品の前売り券を早々に手に入れ、満を持して映画館を訪れる。

そして現在。
自宅でソファに寝そべりながら、見たい映画を指先で選んで再生する。
アイドルと同様、とても身近な体験となっている。

そしてその体験の仕方そのものも変化してきた。

物語を楽しむことももちろんできるけれど、「刺激」の部分だけの別売りも始まったと思っている。

  • 恐怖を感じたい

  • 感動して泣きたい

  • 胸糞の悪さを味わいたい

  • 衝撃を受けたい

  • スカッとしたい

といった特定の感情や刺激が、作品の中心商品になっている。

映画という一つの体験から、刺激の強い部分だけが切り出され、「パーツ売り」されるようになったのではないでしょうか。

それは、今までの「映画」というジャンルをある意味超えて、別のコンテンツになってきている証拠な気がします。

アイドルに起きた定義と商品の形の変化が、映画にも起こっているのです。


分岐点としての『ダークナイト』

この映画を例に持ってきたのは、私の推論。

本当のところは違うのかもしれないけれど、私が『ダークナイト』を観て衝撃を受けたのは、ヒーローを葛藤を抱えたひとりの人間として描き、悪役も単なるドス黒さの象徴ではなく、ひとりの人格として描いたこと。
その結果、ヒーローもののスタイルを取りながら、人間対人間のヒューマンドラマに仕上がっていたことだった。

善悪を単純に分けず、その境界を曖昧にしたままでも、ヒーロー映画を成立させられると示したこと。
人間の話なので、泥臭い面も弱い面も曝け出すヒーロー。
この「ドス黒さ」は、悪役だけが纏うものでなく、映画の世界観全体が背負い、観客は、その世界観と、物語の結末に酔いしれた。

この分水嶺のような映画の登場から、映画作りそのもののトレンドが急変したと考えています。

また同時に、トレンドの名の下に、誤った解釈の映画も登場するという現象も起こりました。

「ドス黒いのが受けるんだ」

その後に広がったのは、その複雑な物語構造ではなく、「人間のどす黒さを描けば、リアルで格好いい」という表面的な解釈。

ストーリーを重厚にするためのギミックは、刺激の部分だけが切り取られ、広まっていったように感じます。


そして「刺激」は、売りやすいパーツになった

今のトレンドの代表例が、人間のどす黒さや、救いのない現実を題材にした映画。

闇を描くこと自体が問題なのではなくて、闇が、物語を支える一要素ではなく、それだけで売れる商品になったこと。

もちろん、映画の物語の力によって現実の苦しさを描くことで、孤独から救われる人もいる。

けれど、その闇が物語の中で消化されることなく、ただ刺激として提示され、観客は鑑賞後そのまま放置される。

観客を嫌な気分にさせたまま、作品は先に立ち去ってしまう。

そうした映画体験の『パーツ売り』が始まった。


映画が映画であるための責任とは何か

物語の責任とは、必ずハッピーエンドにすることじゃない。
善悪を決着させることでも、分かりやすい希望を与えることでもない。

作品が生み出した苦しさや問いを、最後まで引き受けること。
観客を揺さぶったなら、その感情をどこかへ運ぶこと。
答えではなくても、道筋や可能性を示すことはできる。

それをやらない映像まで、同じ「映画」として括られることに、強い違和感を覚えた。

映画に求めるものが変わった

もしかすると、映画が変質したというより、観客が映画に求めるものが変わっただけなのかもしれない。

”一本の物語に身を委ねることより、限られた時間で確実な刺激を得ること。”

映画は、物語を体験するものから、感情を購入するサービスへ近づいている。

それもまた、現代における映画の一つの形なのだろう。

ただし、同じ「映画」という名前で売られているため、物語全体を求める観客と、刺激を求める観客が、鑑賞前に区別できない。

ドス黒い世界観の映画をなくしてほしいわけではない。
それらはすでに、多くの人が求める人気商品でもある。

ただ、特定の刺激を味わうためのコンテンツと、一本の物語に身を委ねる映画が、同じ「映画」という棚に並んでいる。

その見分けが、今のところ、できない。

パーツとしての感情を買うものと、物語全体を体験するもの。
そろそろ、それぞれに別の名前があってもいいのではないか。

そんなことを考える、今日この頃です。


了。
片付かぬ机上で、途方に暮れて。

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私の活動が気になった方がいらっしゃったら、こちらの連載もぜひチェックしてみてください。
Open Script Labo『ある映画作りの記録』
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