見出し画像

木ノ下歌舞伎 『糸井版 摂州合邦辻』(配信)

国際交流基金のYoutubeチャネルで観られるのは知っていたが、少し予習が必要かな…と勝手に思ってしまい手が出せずにいた本作。予習も済み、ようやく履修ができたので記録に残しておこう。

2015年に初演、2020年に再演、最近だと2023年にも再再演が行われたようだが、映像は2020年の再演時@ロームシアター京都のもの。

木ノ下歌舞伎と私

昨年『三人吉三』を拝見して以来、過去のもの含めて木ノ下歌舞伎をもっと観たい!とは思うのだが、映像で観られるものは恐らくこれが唯一?だろうか。

※いつかの再演(旗揚げ10周年企画「木ノ下“大”歌舞伎」では5公演6演目やっていたようなので、2027年の20周年企画に期待)に備え、『桜姫東文章』をシネマ歌舞伎で観てみたり、友人から『黒塚』のDVDを借りたり(その内に観ます)、5月は『娘道成寺』を観に行く予定を立てたり…している。

(今年の瀬戸内では、何を演るのだろうか…)

『三人吉三』は通しでやると10時間程度、それが6時間に圧縮されているから短い!と主張されていた木ノ下氏もまだ記憶に新しいが、この『摂州合邦辻』は通しでやると6時間くらいかかるらしく、それが今回は2時間50分程度に収まっている。短い!

糸井版?

この 『糸井版 摂州合邦辻』は、芝居と音楽が融合した作風を、妙―ジカル(妙なミュージカル)と称し、独自の音楽劇を創作している糸井幸之介​氏とタッグを組んだもの。元が人形浄瑠璃の演目のため音楽劇であるから、これを糸井版の音楽劇に仕立てた、ということのようだ。これは、2015年に初演・2017年にレクリエーション版が上演された『心中天の網島』からのコラボレーションの継続で、スタッフではmanzo(音楽)、島次郎(舞台美術)らスタッフも再集結。役者陣も木ノ下歌舞伎、糸井作品常連メンバーが揃っている。

ちなみに、糸井氏による“妙ージカル”を上演するための団体、FUKAIPRODUCE 羽衣は2024年7月に解散(散開)。主宰のお二人のコメントは希望と切なさが交じっていて味わい深い。

尚、過去作品はオンラインストアで販売されており、U-NEXTで3本(『女装、男装、冬支度』『プラトニック・ボディ・スクラム』『おねしょのように』)配信、観劇三昧でもたくさん観られる(偉すぎる)。

しかも、『スモール アニマル キッス キッス』は、今なら国際交流基金のYoutubeチャネルで無料で観られる(公開終了が記載されていないので、とりあえず数年は大丈夫でしょう)。※配信スケジュールがいつも分からなくなって焦るので、リンクもここに置いておきます。


あと、manzo氏といえば自分的にはこの2曲。

テレビアニメ『げんしけん』(第一期)主題歌「マイペース大王」

※オタク系青春漫画の金字塔『げんしけん』。現代視覚文化研究会の日常を描いたこの漫画は、青春を描く、というスコープの埒外にあった若者に光を当てた点において画期的だったように思う。

テレビアニメ『天体戦士サンレッド』主題歌「溝ノ口太陽族」

※「続・溝ノ口太陽族」の本人演奏動画も発見。ここにある高揚感は、『糸井版 摂州合邦辻』にも写し込まれている。何という人選。どういう経緯で声がかかったのだろうか?

役者陣

役者陣にも触れていこう。玉手御前には内田慈氏。『連続ドラマW 災』の3話も良かった。※この『災』は毎回、役者の"演技を見せる"ことに強くこだわりがあってすごく良い。

俊徳丸を演じる土屋神葉氏は、土屋太鳳の弟とのこと。

他にも出演者の皆さん素晴らしくて、自分にとっては新しい役者さんを知れる喜びがあった。出演者インタビューをひとつずつ見るのも楽しいです。

谷山知宏氏の存在感・声質が荒川良々にそっくりで、息子さん?かと思って調べたがそんなことはなさそうだった。(…似てません?)

通し狂言

木ノ下歌舞伎のありがたい所は、通し狂言によって物語の構造全体を明らかにし、それによって物語が本来持っていたスケールや宇宙観、その演目が初演された当時の風俗、戯作者の真の意図までを、当世風の表現をバイパスに現代の観客とつなぐことである。

今回も上下段6場の『摂州合邦辻』を、ほぼ(5/6)やってくれている。上巻からは、事件の発端(鮑貝の盃で毒を飲ます場面)ともなる住吉社の段、俊徳丸が癩病となり、玉手御前vs羽曳野となる高安館の段。続く、次郎丸の企みが露見する龍田越の段はカットされており、それによって次郎丸が憎めない奴(母親想いで、それが生母を失った俊徳丸との対比)になっていたのも良かった。ちなみに、次郎丸を演じた永島敬三氏は、役柄の理解についてこのように話している。

初日に先生からレクチャーで、人間には「生老病死」という四つの苦しみがあるという話があったんです。その中で、病は俊徳丸、老いが合邦や高安、次郎丸は「生(しょう)」の部分を背負うのだと。ただ生まれただけ、その時点で苦しんでいく運命があるという。そこを担っていく役なんじゃないかなと思います。

https://kinoshita-kabuki.org/2020/11/03/7617

そして下巻では、家を出た俊徳丸を探すくだりとなる四天王寺南門の段万代池の段が統合されていたように思われる。むしろ元の歌舞伎ではそれぞれどれくらいの尺で演じられていたのだろう?(このあたりは、補綴台本を今度購入して比較したい)。そして、合邦庵室の段があり、玉手御前が亡くなった後のエピソードまで演じられる形だ。

なぜ『摂州合邦辻』だったのか

木ノ下氏による解説も見ていこう。

同時に『摂州合邦辻』には、現在の歌舞伎や文楽の上演では見えてこない要素もたくさんあります。たとえば月と太陽のモチーフだったり、当時でいうところの“現代”の街並みに物語が回収される、ある種の都市起源説話のような構造だったり。そういった現在の上演では見過ごされがちな部分に、糸井さんの歌を通して光を当てられるのではないかと思いました。

https://kinoshita-kabuki.org/2020/11/01/7583

現在の上演形式じゃあ伝わらないだろ!と言うところに着目して、演目を選びをされているのは毎回共通しているのかも?

その点でいうと、初演は糸井さんが「家族の話」を紡いでくださったことがポイントになりました。たとえば合邦夫婦と玉手御前という合邦一家の話があり、高安家の話があり、俊徳丸と次郎丸という腹違いの兄弟の物語がある。浅香・入平の主従関係、玉手・羽曳野の上下関係にも疑似家族のような性質があって、いろんなレベルの〈家族〉が重なってドラマが繋がったんです。糸井さんとは早くから作品について話し合っていましたが、〈家族〉というキーワードは、糸井さんが書かれた台本と、稽古場の演出から見えてきたものでした。

https://kinoshita-kabuki.org/2020/11/01/7583

この「家族の話」は本当に構造として素晴らしかった部分。稽古場の演出から見えてきたというが、原作の菅専助・若竹笛躬はどの程度意識的だったのだろう。当時の感覚では家族が中心で、むしろ当たり前過ぎて強調されていなかった…ということもあるだろうか。

再演時のポイント

この記事によれば初演は2時間15分。再演時には40分程度、長くなっている。では、その要素は何か?

この演目は18世紀末、文楽が同時代演劇としての力を失っていく中で生まれたヒット作ですが、当時は大坂の街が舞台の小さな話――心中ものを含め、都市にまつわる三面記事的な物語など――も少なくなかった中で、この作品は「血を飲めば難病が治る」とか、人間の論理を超える物語として登場した。ひとことで言えば、これは神話を現代化する試みだったと思うのです。ただし、それは現代人には理解しづらかったり、単純に辻褄が合わないように思えたりもしますから、初演ではこのスケール感、ダイナミックさをどう扱うかが課題でした。玉手御前の内面で整理がついていても、現代人が納得するかどうかは別。また逆に、観客の皆さんが納得できるように根拠を詰めすぎても、今度は小さい話にまとまってしまいます。『摂州合邦辻』ならではのスケールを大切にするため、ある局面では、思い切って理屈を抜きにする必要もありました。決してお客さんを置いてきぼりにはしないけれど、『摂州合邦辻』特有の論理にもきっちり巻き込まれてもらう、その匙加減が難題でしたね。(/…)

木ノ下的な再演のキーポイントは、先ほど触れたような〈神話性〉でした。糸井さんのおかげで、初演では『摂州合邦辻』を〈家族〉というキーワードから読み解くことができましたし、冒頭の歌で示されるように現代の人々の何気ない営みをそこに重ねることで、古典と現代を呼応させることもできた。太陽や月、それらを包み込む宇宙へ劇世界を飛躍させることにも成功していたと思うんです。けれど、まだ現代のお客さんを『摂州合邦辻』の世界へ完全に引きずり込むところまでは行き切らなかった気もしていて、それは演目がはらむ〈神話性〉の見えづらさにも理由があったと思います。この物語のルーツというか、典拠は遠くインドの神話にあると言われていて、日本では「しんとく丸伝説」として古くから知られていました。それらの神話や伝説を江戸後期の感覚で現代化したのが『摂州合邦辻』ですから、神話的感覚っていうものがとても大事なんですね。現代人が納得しづらいストーリーなのもここに原因があって、ところどころに人間の理解を越えた“神話的飛躍”があるからです。

https://kinoshita-kabuki.org/2020/11/01/7583

具体的にどの箇所が新たに書き加えられたのかは正確には分からないが、演出含めて神話性をたしかに感じた。これは、語りにおける時間軸を行ったり来たりする時間軸の操作、さらには人間の一生を超えた時間軸のスケールも影響しているように思う。

たとえば俊徳丸の母が亡くなった後に、俊徳丸の幼少時のエピソードが挟まれる(動画だと上演開始から50分程度経った所)。沈む夕陽を見ながら寂しくなる俊徳丸に対して、「お母さんも寂しくなるわ。だって、お母さんのお母さんを思い出すもの」と語る場面などにも顕著である。この瞬間、俊徳丸と母親との間の関係性の歴史が縦軸に積み重なり、母親の母親…とさらに先まで見通せるようになるだけでなく、手前側には観劇をしている自分がいる今にまでつながってくる感覚があった。

※80分あたりに出てくる、頭の中で死んだ母親や旦那と話している編み物の達人おばあちゃん(地球も月も太陽もコロコロ)も恐らくは再演時の追加要素だろう。

また、社会に蔓延する、身分や病などの差別・被差別の問題も押さえ直したかった。しんとく丸の物語を誰よりも大切にしてきたのは、名もない庶民や被差別的な階級に身を置いていた人たちですから。神話・被差別というテーマから〈家族〉という小さな社会を見せることで、初演よりも物語の幅を広げ、お客さんに新たな視点を持っていただけたらいいなと思いました。そこで、今回は台本を構成から再検討し、必要なところを補い、糸井さんに台本の書き下ろしと新曲をお願いしています。

https://kinoshita-kabuki.org/2020/11/01/7583

台本を構成から変えて、新曲まで追加されている。頭が下がります。

頭が下がるといえば、そもそも、この演目の持つ神話性を歌舞伎と現代劇のハイブリットで、しかもミュージカル形式で伝えようとしているわけで、本当に信じられない荒業である。趣向を聞くだけで難易度が高い。演じる役者の方々、実現された方々は本当にお疲れ様でした。軽々しくは言えないが、次回も是非期待したいところです。

いいなと思ったら応援しよう!