068.誰が読むかもわからない『Vision』を、僕はなぜ毎年描き続けるのだろう?
Catalyski Vision-2026の話を少しだけ
先週1/23にCatalyskiは3周年を迎えました。それにあわせて、毎年恒例の『Catalyski Vision』を今年も公開しました。
これは、Catalyskiとして、あるいは三上浩紀として、「今年は何を大切にして、どんな姿勢で一年を過ごすのか」を言葉にしたものです。もともとは会社員時代、自分のチームに向けて年始に「今年の目標予算」と「重点的に取り組むテーマ」を共有するための資料をつくっていたのが始まりでした。それがいつの間にか習慣になり、独立した今も続けています。
この時期にビジョンを出しているので、「今年の方針発表ですね」、「事業ドメインのアップデートするんですね」と面白がってくださる方もいます。
また、そもそも「Catalyski(三上)って何屋さんなの?」という方にとっては、「へぇ、そんなことやってるんですね」と知ってもらう機会にもなっています。
たしかに、それも間違いではありません。
でも、少なくとも僕にとってこのVisionは、対外的な宣言文というより、自分自身の時間の使い方を定義している行為に近い。
今日は、そのもう一段奥の話を少しだけしてみようと思います。

僕は、未来を当てにいこうとしていない
Visionを書く、と言うと「将来こうなりたい」、「この通りに進みたい」みたいな話に聞こえるかもしれません。
でも正直に言うと、この通りになるなんて、最初からあまり期待していません。アナリストじゃないですからね。むしろ、思い通りにならないことの方が多いし、想定外のことは、だいたい起きます。
じゃあ、なんで毎年こんなものを書いているのか?
それは、「未来を固定するため」ではなく、未来に反応できる自分でいるためです。
「3年後にどうなっていたいか」
「売上はいくらで、どの事業が柱で・・・」
そういったことを、きっちり決めにいくわけというより、むしろやっているのは、その逆かもしれません。
屈伸運動みたいなもの
Visionを書く行為を、最近はこんなふうに捉えています。
未来の風景を、いったん仮で置いてみる。
「2026年って、どんな一年だったら納得できるだろう?」
「来年の今ごろ、こんな感じだったら悪くないな」
そんな、ぼんやりしたイメージで十分です。
そこから、「じゃあ、この一年をどう過ごすことになるだろうか」をゆるやかに逆算していく。でもこれは、いわゆるバックキャスティングというより、未来の風景を仮置きして、そこに向かう自分の姿勢を整える作業に近い。
ゴールに向かって一直線に走るというより、屈伸運動に似ています。しゃがんで、伸びて、いつでも跳べるようにしておく。どこに跳ぶかは、そのとき決めればいい。でも、屈伸していないと、想定外のチャンスが来たときに、反応できない。
僕にとってVision 2026は、そのための"準備運動"みたいなものです。
それって、本当に役に立つの?という話
ここまで読むと、「それ、哲学としてはわかるけど、実際どうなの?」と思う人もいるかもしれません。
なので、ひとつ具体例を出します。
2025年、福島県磐梯町とウィザスさんの包括連携協定をお手伝いしました。これは、最初から狙っていた案件ではありません。
でも、「地域」「教育」「外国人材」「事業共創」・・・といういくつかのテーマで、僕自身がずっと"屈伸"を続けていたからこそ、「その話、やれます」と反射的に飛びつくことができた。
つまりこれは、運良く巡ってきたチャンスというより、反応できる身体をつくっていた結果だと思っています。屈伸運動とは、チャンスを探す力ではなく、偶発的なチャンス(後々、セレンディピティになるかもしれないような出来事)に反応できる状態を保つことなのだと、この事例を通して改めて実感しました。
セレンディピティを語るなら、やらない理由はない
もう重々ご存知とは思うけぢ、ここ数年、僕は「セレンディピティ(偶発的な出逢い/思いがけない幸運)」という言葉を使って、偶然や運について、生煮えの考察をずっと考えたり書いたりしています。
今回「初めて僕のnoteを読むよ」という方は、以下のリンクから過去の投稿も読み返せますので、是非興味のありそうなものを見てもらえたら嬉しいです。
その中で、「運は待つものじゃなくて、後から意味づけされて、行動によって育っていくものだ」という話もよくしています。運がいい人には、共通する思考や行動の"癖"がある・・・なんて、そんな話をしている以上、自分自身が、その生き方をしていなかったら、ちょっと変ですよね?(地味に、そういうプレッシャーをかけて生きています💦)
『Vision』を描く行為は、「こうありたい」という理想像を描いているというよりは、今の自分が、セレンディピティ的に生きようとしている途中経過を示しているのかもしれません。
この3年、僕のやってることが、非効率に見えたり、一貫性がないように見えたりする人もいて、そういう他者からすると、遠回りに見える動きも多いし、「結局、何屋さんなんですか?」と聞かれることばかりです。
(一時期、「『アンチ・アイデンティティ』宣言だぁ〜!」とか言って、ミケランジェロとか、ダヴィンチを引き合いに出して、僕も自分を固定しないと方々で語っていましたが、9割型きょとんとされましたねぇ。)
でも、あとから振り返ると、この一見非効率に見えていた"点と点"は、だいたい、ちゃんとつながっている。だから今年も、一直線に進まない前提で、書いています。それが、バイソシエーターを名乗る僕なりの生き様でもあります。
バイソシエーターという役割も、実はここにつながっている
僕は「バイソシエーター(点と点をつなぐ人)」と自己紹介をします。でも、これ、肩書きというより、動き方の定義に近い。
たとえば、札幌の水族館『AOAO SAPPORO』を運営する青々さんと、熊本で古民家カフェなどを展開するWillさん。エリアも業態もまったく違う。一見、何の共通点もなさそうです。
でも、両者に共通していたのは、「人が育つ組織をどうつくるか」という問いでした。AOAOで得た視点がWillに還元され、Willで磨かれた実践がAOAOに跳ね返る・・・みたいなことが多々あります。
これは偶然ではなく、異なる軌道を惑っていた点と点を結び続けてきた結果だと思っています。バイソシエーターとは、異なる軌道を結び、そこに新しい重力を生む役割なのかもしれませんね。
2026年のテーマは『惑』
今年のテーマに選んだ漢字は『惑』です。
迷う/惑う。
あまりポジティブな言葉ではないかもしれません。
でも、孔子の「不惑」という言葉は、「迷わなくなる」という意味ではなく、"迷いを理由に、自分の可能性に境界線を引かなくなること"だったという説があります。これについて詳しく知りたい方は、過去の投稿をどうぞ。
それを知ったとき、「ああ、今の自分はここにいるな」と思いました。
『惑星 ( planet ) 』の語源は、ギリシャ語の『さまよう者 ( planetes ) 』。「惑星」は、地上から見ると不規則に動いて見えます。でも宇宙では、重力に従って、ちゃんと軌道を描いている。
Catalyskiの動きも、きっと似ています。
寄り道もするし、逆行もする。一直線ではない。でも、無秩序でもない。自分たちなりの価値基準と引力に従って、軌道を描いている。
『惑』とは、不確実な世界で生きるための、合理的な戦略原理なのだと思うのです。
これは、組織だけの話ではありません
ここまで読んで、「それは会社・組織の話でしょ?」と思った人もいるかもしれません。でもね、これは個人にも、そのまま当てはまる話です。
会社がVisionを持つことで、外からの偶然に反応しやすくなるのと同じように、個人にも、個人なりの"仮置きのVision"があったほうがいい。
それは、「こうなりたい自分」を決めるためではなく、想定外の話が来たときに、跳べる自分でいるための準備です。Visionとは、未来をコントロールするための計画ではなく、誰かの偶然に引っかかるためのフックになるのかもしれません。
僕の場合は、『 Catalyski = 三上浩紀 』なだけでね😀
『sonder』という感覚と、Visionを書く理由
僕が自分の人生を生きているのと同じように、この文章を読むあなたにも、あなたが主人公の人生があります。そして、僕が運を掴みにいくように、あなたもまた、あなたなりの運を掴みにいっている。
このように、行き交う見知らぬ誰もが、自分と同じように複雑で豊かな人生の物語を持っていることに気付く、という心理的瞬間を表す造語として『sonder』という言葉がある。(なんか当たり前のことのように思うでしょ?でも、これ、意外と「盲点」なんです。)
だから『Vision 2026』は、「こうすべきだ」という指針でも、「一緒にやろう」というマニフェストでもありません。ただ、「僕はいま、こういう姿勢で世界に立っている」という現在地の共有です。
もしこれが、誰かの感度に引っかかって、「それなら、少し話してみたい」、「その文脈、関われるかもしれない」・・・そう思ってもらえたらもちろん嬉しいです。誰に届くかは、わからない。届かないかもしれない。でも、どこかで、誰かの行動や選択に、ほんの1ミリの傾きを与えるかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、自分のやりたいことを記してみたのです。
このVisionは、僕の現在地を示す一枚の地図のようなもの。
あなたも、あなた自身の地図を持っている。もしその2枚を重ねたとき、思いがけない交差点が見つかるとしたら。その交差点こそが、新しいセレンディピティの始まりなのかもしれません。
"種をまいている"、という感覚に近い
このnoteも、Vision 2026も、今すぐ成果を回収するためのものではありません。むしろ、どこで何が起きるかわからない状態を引き受けるための行為です。
惑星が、どこへ向かうかわからない旅を続けるからこそ、その軌道上に、思考や関心の種をまいておく。このVisionも、このnoteも、僕という「惑星」が通過した軌道上にまかれた、未来の種です。
芽が出るかどうかは、正直わからない。でも、まかないと、何も起きない。だから今年も、書きました。
さいごに
Catalyski Vision 2026は、未来を決めるための計画書ではありません。これは、「惑う」ことを前提にした旅のための、準備運動の記録です。
もしこの文章が、あなたの人生の地図と、どこかで交わるなら、そのときは、また別の場所で話しましょう。
2026年も、惑いながら、でもちゃんと前に進んでいきます。
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このnoteの理解をさらに深めたい人へ
このnote記事についてパーソナリティーが解説する音声配信も、セットで提供しています。
記事をただ読み上げるのではなく、あらすじや、評論、時に記事に書いていないことを補足しながら解説してくれていますので、この投稿を読むだけでなく、音声配信の視聴の両方をしていただくと、さらに理解が深まる・・・そんな構成になっています。
是非こちらも併せてお楽しみください。(所々日本語がおかしいのもご愛嬌)
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