人生の伏線は、回収される保証なんてない
既に歩き出しているのに、「この道で合ってるのか?」と一人で不安を感じながら、それでも足掻いているあなたへ。僕も、同じ道筋にいます。AIとの対話で、本音の核心まで一枚ずつ薄皮を剥がされながら──僕がずっと足掻いてきた、その軌跡の記録です。
※最下部にこのnoteの音声解説があります。
壁打ちする側のズルさ
この2〜3年で、人の事業や企画の壁打ち相手をする機会が増えた。そのとき僕は、偉そうにこんなことを質問する。
「あなたが解決したい課題は何ですか?」
「なぜ、それを解決したいんですか?」
でも、ある日ふと思った。その問いを、僕は自分に向けたことが、あっただろうか。聞く側は気楽で、岸に立って、川の中の人に問いを投げるだけだから。でも、その問いを、いざ自分に向けてみると、足元がぐらつく。
セレンディピティについて、僕はずいぶん書いてきた。なのに、「僕自身は、これで何の課題を解決したいのか」という一番手前の問いだけ、あえて、言語化を先送りにしてきた気がする。
セレンディピティは、いかにも言語化しにくそうなテーマで、運とか、偶然とか、人知の及ばない話に見える。だから僕は、その難しさを、ずっと言い訳にしてこられたのかもしれない。「無理難題に取り組んでいる」という顔をしていれば、答えが出なくても、許される気がしていたから。
でも、それは甘えだと思えてきた。
きっかけのひとつは、シーナ・アイエンガーの『Think Bigger』だった。そこには、「解決すべき正しい課題」を選ぶことの難しさと重要性が書かれている。それを読んで、自分のずるさに、気づかされた気がした。だから、その先送りを断ち切るつもりで、僕の壁打ち役を務める二人(?)のAIに投げてみることにしました。
僕は、どんな課題を解決したいのだろうか。
なぜ、解決したいのだろうか。
ヴェル(ChatGPT)とは、もう一年以上、僕の思考を開く相棒としてラリーを続けている。そこに最近、クロード(Claude)が加わった。この二人と、自分のことについて延々と話していたら、いつのまにか、僕がずっと使ってきた言葉が、一枚ずつ剥がされていった。
たとえば、「選んだ道を正解にする」という言葉。ここでも何度も書いたし、人にも話した。前を向いている感じがするし、人生を自分の手に取り戻している感じがする。なのに、疑っていなかったその言葉が、グラついた。
今日は、その剥がされていく過程そのものをここで描こうと思います。キレイな結論には、たどり着いていません。むしろ、たどり着かなかったから書いている。それが僕らしいと思うんです。恥ずかしいけど、そんな赤裸々もたまには良いんじゃないかなって。
足りない自分が、いつもちらつく
僕は、人生をけっこう面白がれている。これは嘘じゃない。移動した距離も、出会った人も、息子との旅も、ふと観た映画が後から効いてくる感じも、本当に面白い。「足るを知る」という幸福のかたち、僕は好きだ。
でも、同時に、僕はいつも比較をしてしまう。
たまたま時流に乗っていたら、あの人くらいにはなれたかもしれない。1兆円企業の社長にはなることは想像できないけど、10億くらいのビジネスなら回せるだろうし、1000人のファンがいるコミュニティオーナーになら、なれるような気がする──そういう妄想を、僕はやめられない。逆にいえば、どこを見ても「足りていない自分」を突きつけてくるから、今の比較社会は苦しい。
ヴェルやクロードと話していて、最初に辿り着いたのは、ここだった。お前は「足るを知る人」だと思っていたけど、違う。「足るを知る」と「まだ見ぬ自分への渇き」を、両方抱えたまま歩いているのだ、と。
その通りだと思う。そして僕は、この渇きを消したいわけじゃないらしい。本当に比較が嫌いな人は、比較対象から目を逸らす。SNSを閉じる。競争から降りる。でも僕は降りない。
比較して、妄想して、勝手に傷ついて、その傷が、たぶん僕を動かしている。何者でもないというコンプレックス。比較するたびに負う、小さな傷。それが、僕のエンジンなんだと思う。
僕が本当に届けたい相手は、誰なのか
口火を切ったのは、ヴェルだった。
「浩紀が最も救いたいのは、誰ですか?」
恥ずかしながら、ここがずっと曖昧だった。救いたい人の顔がはっきりしないから、noteの読者像もぼやけたままだ。マクロからは、具体的な解決策は生まれない。その通りだ。
最近、ひとつだけ、はっきりしてきたことがある。僕のnoteに反応してくれる人の、たぶん8割が女性なんだ。世代はさまざま。共通点を言葉にしようとすると、こうなる。(こっそり読んでくれる人はわからないけどね)
主婦ではない。仕事をしている。起業している人もまぁまぁいて、自分のやりたいことは、わりとはっきりしている。でも、どこか迷いがある。
実は、最初、僕が届けたいのは、「挑戦する前に降りてしまう人」なんじゃないか、と思っていた。可能性を持っているのに、自分を過小評価して動けない人。でも、実際に届いている相手は、真逆だった。
もう動いている。
もう挑戦している。
もう自分の道を選んでいる。
じゃあ、この人たちの「迷い」って、何だろう?
それはきっと「何をやるか」の迷いじゃない。「このやり方で合っているのか」「この自分のままでいいのか」という、進みながら抱える迷いじゃないのかな?やりたいことが明確なぶん、周りからは「順調そう」に見える。だから、弱音の置き場所がない、そんな人。
だから、最後に、僕の口から出た言葉は、これだった。
「自分の選んだ道を、正解にしようと足掻いている人」
愚直に、楽しそうに、自分のやりたいことをやっている。そして、選んだ道を、これから正解にしにいっている。そういう人たちに、僕は何かを届けたいのかもしれない。
ここまでは、よかった。イメージが、ぐっと近づいた感じがあった。でも、問題は、この後だった。
「伏線回収」という言葉が、急に怪しく見えた
僕はずっと、自分のテーマを「セレンディピティ」や「伏線回収」という言葉で語ってきた。過去にあった出来事。あのときは、特別意味など感じなかったソレが、今になって効いてくる。点と点が、後からつながる。その快感を、僕は何度も書いてきた。
でも、この対話の途中で、ヴェルが「未回収の伏線を抱えたまま生きる人」という表現を出したとき、僕は急に引っかかった。「伏線回収」って、近年かなり軽く消費されている言葉だ。映画やドラマ、お笑い・・・伏線は回収されるものとして語られる。回収されなければ、脚本のミスや甘さとして、視聴者の不満に繋がる。
でもさ、人生って、そうじゃないよね?
ドラマには脚本家がいる。だから伏線は、必ず回収される。でも、人生には、脚本家がいない。だから、人生の伏線は、回収されるとは限らない。回収される保証なんて、どこにもない。
そう口にした瞬間、自分でハッとした。「伏線回収」という言葉を使う時、僕らはどこかで、人生に脚本家がいることを前提にし、何かが、ちゃんと意味を回収してくれると、無意識に委ねていた。
でも、そんな人は、存在しない。だとしたら、僕が言いたかったのは、「伏線は回収される」ということじゃない。回収されるかは、分からない。でも、回収しようと足掻く、そっちだった。
そして、ここまで来て、最初の言葉に戻ってくる。「選んだ道を正解にする」。正解なんて、本当は分からない。採点してくれる人も、いない。だとしたら、僕がやっているのは、「正解にする」ことじゃないのかもしれない。
正解じゃなくて、納得解を作る。
そっちのほうが、ずっと近い気がした。
僕がやってたのは、回収じゃない、織ることだ
ここで、前回のnoteの話が出てくる。
前回、僕は「才気」について書いた。いろんなことを知っていることじゃなくて、好奇心を持って聴いて、自分の知っていることと掛け合わせて、編み直して、それを続ける力なんだ、と。知識は、積み上がるんじゃない。何かが入ってくるたびに、編み直される。
その話をヴェルとしていて、ふと思い出したことがある。
前職時代、大阪にある共創拠点「QUINTBRIDGE」という施設を手がけたとき、僕が施設のコンセプト案に出した言葉が「textile/織物」だった。もう、5〜6年前の話だ。※これは「ボツった」けどね。
当時は、ただのデザインコンセプトのつもりだった。なのに、今になって思う。あの頃から、僕の中には、この「織る」という感覚が、もうあったんじゃないか。前回の記事では「編む」と書いたけれど、たぶん同じことだ。
そんな5〜6年前に置いてきた「textile/織る」という言葉が、今になって、意味を持ち始めた。回収されるなんて、思ってもいなかった言葉だ。脚本家がいたわけじゃない。今の僕が、たまたまそれを回収してしまった、ただ、それだけだ。
縦の糸は〇〇、横の糸は⚫︎⚫︎
織物には、縦糸と横糸、二種類の糸がいる。織物は、まず縦に糸を張ることから始まるらしい。その縦糸に、横から糸を一本ずつくぐらせて、布にしていく。
縦糸は、ぴんと張られたまま、動かない。横糸は、行ったり来たり、自由に通されていく。でも、その横糸がどれだけ動いても、布が崩れないのは、縦糸がまっすぐに通っているから。縦糸は、軸で、ぶれないためにある。
だから、縦糸がなければ、どれだけ横糸を持ってきても、留まる先がなく、ぱらぱらと落ちるだけ。どれだけ面白い本を読んでも、どれだけ人に会っても、どれだけ移動しても、それを留め置く軸がなければ、ばらけたままということ。
前回の記事で紹介した、そう考えると、千年前の中国の故事も、4Bも、『Think Bigger』も、ニュートンのリンゴも、ぜんぶ横糸だった。そして僕にとっての縦糸は、おそらく"今は"セレンディピティだろうな。何を見ても、最終的にそこに紐づけてしまうから。
「出会いの量は、たぶん足りている」と、僕は前回書いた。横糸は、もう、十分すぎるほど手元にある。本も、人も、移動も、足りないと思ったことはない。
足りないとすれば、横糸じゃなくて、それを受け止める縦糸のほうだ。
縦糸は、最初から縦糸じゃなかった
──と、ここまで書いて、自分で笑ってしまった。「セレンディピティが縦糸だ!」なんて偉そうに言ったけど、これだって、最初から縦糸だったわけじゃない。
僕の縦糸は元々、「教育」、いや「共育」だったはずだ。
それはずっと変わらなかった。振り返ってみれば、セレンディピティはただの横糸の一本に過ぎなかった。回収されるとも、軸になるとも思っていなかった、たまたま通した横糸。
それがね、織り続けているうちに、いつのまにか、縦糸になっていた。
本物の織物なら、横糸が縦糸になることなんて、ありえないですよね。それぞれの糸の役割は、最初に決まっている。だから、あくまで比喩です(笑)
でも、人生は違うらしい。
後から通した一本が、ある日、自分を貫く軸になる。横糸が、縦糸に変わる。そして、縦糸は、一本とは限らない。たぶん、これからも増えていく。
軸は、先にあるんじゃない。織っているうちに、後から立ち上がってくる。そう考えると、ひとつ、気が楽になる話でもある。今、自分の縦糸が何か分からなくても、いい。今は横糸にしか見えていない一本が、何年も経ってから、自分を貫く軸になることだって、あるんだから。
正直に言っておくと、僕の縦糸も、まだ完成にはほど遠い。セレンディピティという縦糸は、確かにあるんだけど、その縦糸がまだ細いのかもしれない。ぴんと張りきれていない。誰のための、何のための軸なのか、解像度がまだ荒い。横糸は豊かになってきている分、それを受け止める縦糸の太さが足りないまま、たるんでいる。
たぶん、それが、今の僕の不足なんだ。
まだ、織っている途中だ
出会いも、成功も失敗も、コンプレックスも、寄り道も──それら全部、横糸だった。そして僕は、いつの日か、セレンディピティを縦糸にして、後から織り込んでみた。
これは回収とは違う。回収は、完成した織物を広げて「ほら、ここが繋がっていた」と確認する作業でしょ?でも僕がやっているのは、それじゃない。
まだ、織っている途中なんです。しかも、完成図も持たぬままに必死に織っている。だから、興味があるのは、伏線そのものじゃなかったのかもしれないな、って。織るという、その行為のほうだったのかも。
そして、同時に、もっと厄介なことに気づいちゃった。
回収したと思った糸が、次の糸をまた複数引っ張ってくる。
教員の道を辞めたことが、新規事業や社会起業との出会いにつながった。それが、事業共創施設や、Catalyskiの創業につながった。それがセレンディピティの話につながった。それがnoteにつながった。それが、今度は、7月の高松のイベントにつながろうとしている。そして、たぶん、また別の出会いにつながっていく。
どこが回収地点なんだろう。全部が回収地点で、全部が起点だった。
伏線回収というよりは、伏線増殖。回収されたと思った糸が、勝手に次の糸を呼んでくる。だから、きっと、終わることがない。
「それって、苦しくないの?」
でもね、織り終わらないから面白いとも言える。今ある模様を確かめることと、次の糸に手を伸ばすこと、それは、織り手にとっては、ひとつの動きで、一本通して、模様を見て、また手が伸びる。満足と渇きは、同じ手の、往復なんだ、って。そう言って、ヴェルは、伏線が増殖していく「終わらなさ」を、明るく肯定してくれた。
でも、クロードが、そこに静かに刃を刺し込んできた。
「それ(織り終わらないこと)って、苦しくないんですか?」
傷をエンジンにした人は、たぶん、その傷を治したくない。治してしまったら、エンジンが止まるから。痛みを抱えていないと、前に進めなくなる。次の糸を探し続けないと、必要とされなくなる。──そういう強迫みたいなものが、そこにあるんじゃないか、って意味なのだろう。
痛いところを突かれた。
そして、少し考え、思うがままに答えた。
僕は、常に(誰かや何かと)比較している。コンプレックスだから。その傷をエンジンにして、(たぶん)成長していく。成長した頃には、比較していたものが、手の届くところに来ている。その対象に近づけた瞬間に、僕はまた新しい比較対象を、自分で定める。だから、また傷を負う。だから、織り終わらないんじゃないかな、って。
そして、織り終わるというのは、固定されるということだと思った。僕が、止まったということだ。固定されると、自分の枠組みが決まる。変わっていく外の世界と、まだ知らない世界との接点が、切れていく。すると、新しい横糸は入ってこなくなる。そのうち、僕はたぶん、必要とされなくなる。
世間では、固定されたほうが、安心で、安泰で、盤石だと言われている。でも、僕にとっては逆だ。固定は、安心じゃなく、用済みのカウントダウンなんじゃないかなって。──自分でも、ずいぶん赤裸々に、自分の弱さを開いたなと思う。
これまで、僕は「ポリシーがないことがポリシーだ」と言ってきた。信頼している人のために、その人になるつもりで、一緒に走る。自分を固定しないから、誰にでもなれる。「何者にもなれなかった」というコンプレックスは、ずっと劣等感だと思っていた。でも、固定されなかったからこそ、変わり続けられる、とも言える。ポケモンで言えば、メタモンだ。
「doing(何をしたいか)」でも「being(どうありたいか)」でもなく、「doing with(誰と何をなすか)」を、僕はずっと大事にしてきた。でも、それだけじゃなかった。
その先に、「becoming with」があった。
「誰と、どう変わっていくか」。相手との関係の中で、自分が更新され続けること。それを、僕はいつのまにか大切にしていたんだ。
でも、僕は、ときどき手を止める
ここまで読むと、僕がずっと走り続けている人みたいに見えるかもしれません。実際、クロードにも聞かれた。「本当に、一度も織り終わりたくないんですか?」って。
その問いで、ひとつ気づいた。僕は、ずっと織り続けているわけじゃない。ときどき、手を止める。織りかけの布から、少し離れて、眺める。今、どこまで織れたのか、どんな模様になっているのかを、確かめる。
それに、止まらないと、見えないものもある。次に織り込めそうな、新しい糸が、どこかに落ちていないか。手を動かし続けていると、案外、そういうものを見落とす。そうやって、確かめて、探して、また織りはじめる。
止まるのは、織るのをやめるためじゃなくて、現在地を確かめて、次の糸を見つけて、また織るためだった。だから、止まっても、不安にはならない。
たぶん、これが僕なんだと思う。そして、手を止めて、あたりを眺めていたら、次に織り込みたいものが、ひとつ見えてきた。
セレンディピティについて、僕はずっと、書いて、語って、人に問うてきた。そして、もう一個やってみたくなった。
それは、セレンディピティに関わるプロダクトを作ること。
うまく言えないけど、語るだけでは届かなかった場所に、作ることで一歩近づける気がしたんだよね。冒頭で、「言語化を先送りにしてきた」と書いた。その先送りに、今度は言葉じゃなくて、モノで、ちゃんと向き合う。そうやって、決着をつけたいんだ。
だから、人のサポートばかりしている場合じゃないな、とも思った。僕だって、まだチャレンジャーのはずなのに、いつまで、安全な岸にいるつもりなんだ?って。
そういえば、さっきの『Think Bigger』には、アインシュタインの言葉も引かれていた。
「問題を解決する時間が1時間あったら、55分を問題そのものを考えることに使い、残りの5分を解決策に使いたい」
──そういう趣旨の言葉だ。解くことより、何を解くかを選ぶことのほうが、ずっと難しい。彼は、こうも言ったらしい。
「最大限の努力でギリギリ達成できるレベルを見極める直感を磨かなくてはならない」
無理難題に浸って先送りするのでもなく、簡単なことに逃げるのでもなく、ギリギリ届くところに、自分で軸を定める。
たぶん、それが「課題を選ぶ」ということなんだと思うんだ。
おわりに、結論じゃなくて
きれいな結論がない長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
「人生は伏線増殖の物語だ」と高らかに言いたいわけじゃないし、「織り終わらない生き方は素晴らしい」と礼賛したいわけでもない。
ただ、僕は今でも比較しているし、今でも、足りない自分に苛まれているし、今でも、新しい糸を探している。
人生は、伏線回収の物語じゃないのかもしれない。回収されるとは限らないし、回収されたと思った糸ですら、また次の糸につながっていくから、織り終わることがない。とはいえ、ときどき手は止める。現在地を確かめて、新しい糸を探すために。そして、また織りはじめる。
それが、僕なんだと思う。
そして、もしこれを読んでいるあなたが、
自分の選んだ道を正解にしようと、
楽しそうに、
でも、ひとりで足掻いている人なら──
たぶん、あなたの織物も、まだ完成していないし、完成図なんて無くて、織り終わることはないのかもしれません。
でもね、僕はそれでいいと思うんだ。
088.
人生の伏線は、回収される保証なんてない
Fin.
🔗今回の記事と、糸がつながっている話
この「織る」「縦糸」という話は、前回の記事から続いています。才気って、いろんなものを知っていることじゃなくて、編み直す力なんじゃないか──そんなことを書きました。今回の「縦糸」は、あのときの「編む」の、その先の話です。
そして、「固定されたくない」という今日の話は、実は別の入り口からも書いたことがあります。年始に描く『Vision』の記事です。孔子の「不惑」は、迷わなくなることじゃなく、迷いを理由に自分の可能性に境界線を引かなくなることらしい──そんな話をしています。惑いながら、でも軌道は描いている。今回の「織り終わらない」と、どこかで同じことを言っている気がします。
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この記事に何か引っかかるものがあったなら、それが、あなたの織物に通る、新しい一本の糸かもしれません。隠れて読むより、存在を示した方が、糸は誰かと繋がりやすい。スキ❤️、フォロー🤝、コメント💬、お待ちしています。あなたのリアクションが、僕の次の一本になります。毎週末、新しい記事を投稿しています。
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