【第4回】なぜ着物の配色を洋服にすると「垢抜けない」のか? 光と影の設計図
前回、東京の「地味な洗練」と大阪の「華やかな個性」のルーツを辿ってみましたが、私はこれまで別の「違和感」ももっていました。
それは、「京都の着倒れ」なんて言葉もあるくらい、あんなに素敵で洗練されている着物の配色が、なぜかそのまま洋装……
たとえばドレスやスーツになると、急に「あれ、なんかちょっと違う?」と、垢抜けない感じに見えてしまうことがある、という不思議。
お着物姿なら、どんなに鮮やかな色や複雑な柄を重ねても、息をのむほど上品に見えるのに。
その配色をそっくりそのまま洋服にコピーした瞬間に、なぜ魔法が解けたみたいにちぐはぐになってしまうのか。
この違和感の正体を探っていくと、どうやらそこには、日本という土地の「光」と、衣服の「設計思想」という、かなり根深い問題が隠れているようなんです。
「平面」のキャンバスと、「立体」の彫刻
まず、決定的に違うのが衣服としての「設計図」の書き方です。
着物というのは、「2D(平面)」の世界なんですよね。
反物という平らな布を、できるだけ裁断せずに直線的に組み合わせて、体に巻きつけるように着用する。
だから、着物という衣服にとって一番の主役は、その平らな面を彩る「柄」や「配色」になるわけです。
絵画を鑑賞するように、その色使いや模様の重なりを楽しむ。それが着物の美学の基本のようです。
対して、洋服は最初から「3D(立体)」として設計されています。
人間の体の凹凸に合わせてパターンを起こし、裁断し、立体的に縫い合わせる。
そうなると、洋服にとっての主役は「柄」ではなく、光が当たった時に生まれる「陰影(影)」になる。
洋服にワントーンのシンプルな配色が多いのは、そうしないと「布の重なりが作る影」という主役が目立たなくなってしまうからなのでしょう。
逆に、着物のあの複雑な配色をそのまま洋服に落とし込むと、せっかくの「立体の影」と「色の主張」が喧嘩してしまって、どこに目をやっていいかわからない、あの「垢抜けない感じ」に繋がってしまう。
衣服の構造そのものが、求めている美のバランスが全く別物だった、というわけです。
谷崎潤一郎が愛した「薄暗さ」というフィルター
そしてもう一つ、忘れてはいけないのが「光の質」の違いです。
伝統的な京都の着物の配色は、実は現代の私たちの生活環境……
つまり、蛍光灯の下や、ギラギラした太陽光が照りつけるアスファルトの上で美しく見えるようには作られていないようです。
あれは、日本の木造建築特有の「薄暗い室内」で、最も化けるように計算されているというんです。
文豪・谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で語ったように、障子を通り抜けてきた柔らかい間接光や、畳に反射したわずかな光。
その「影」が支配する空間の中でこそ、着物の絶妙な中間色や、金糸・銀糸の輝きが、妖艶に、そして上品に浮かび上がるように設計されている。
それを現代の直射日光の下に引っ張り出すと、繊細だったはずの色がくすんで見えたり、逆に不自然に浮いて見えたりする。
お着物が「奇跡の衣服」と呼ばれたりするのは、それが日本の気候、建築、そしてその土地の光に、完璧なまでにチューニングされているからに他ならないというわけなんです。
「黒」という、揺るぎない額縁
最後にもう一つ、私たちが忘れがちなのが、自分たちの「髪」と「瞳」の色です。
着物を着る時、私たちの顔の周りには「漆黒の髪」と「黒い瞳」という、非常に強力なパーツがあります。
京都のあの鮮やかで多色使いの配色は、この「黒」という額縁があるからこそ、全体がピシッと引き締まって見えるようにバランスが取られているんです。
でも、その配色を洋服のシルエットにそのまま移すとどうなるか。
肌の露出面積が変わったり、髪型のボリューム感が変わったりすることで、額縁としての「黒」のバランスが崩れてしまう。
額縁を失った絵画が急にまとまりを欠いて見えるのと、理屈は同じなのかもしれません。
オフィスが「明るすぎる」理由と、影を失った私たちの身体
ところで。
最近のオフィスやコンビニって、ちょっと明るすぎると感じることありませんか?
天井には隙間なく並んだLEDパネル。
隅々まで均一に、影一つ許さないほど煌々と照らされている。
なぜ、現代のワークスペースはここまで「白日の下」にさらされるようになったのか。
それはおそらく、現代の設計思想が「効率」と「管理」に全振りしているからじゃないかと思う。
影というのは、物を作る、情報を管理するといった立場からすれば「ノイズ」になり得る存在なんですよね。
何かが隠れているかもしれない、見えにくい、あるいは汚れに気づかない。
そういった不確定要素を排除するために、光を全方位から当てて影を排除する。
「すべてが見える」ことは、ミスを防ぎ、管理を容易にする。
でもその代わり、私たちはある大切なものを差し出した気がするんです。
それが、さっきお話しした「情景の奥行き」であり、ひいては「心の落ち着き」なのではないか。
実は、この「影のない均一な光」こそが、私たちが「着物が似合わなくなった」と感じる最大の犯人なんじゃないかな、と私は睨んでいます。
先述の『陰翳礼讃』で語られているように、伝統的な京都の着物の配色は、西洋のようなギラギラした太陽光の下ではなく、障子を通り抜けた柔らかい間接光や畳に反射するわずかな光の中で、最も化けるように作られている。
つまり、着物は「影があること」を前提に、その暗がりの中で妖艶に、上品に浮き上がるように設計されている。
そんな「影の住人」である着物を、現代のオフィスの、逃げ場のないLEDの下に連れて行ったらどうなるか。 せっかくの繊細な中間色は白飛びし、金糸の輝きは品を失い、まるで舞台裏のセットを直射日光の下で見せられているような、なんとも言えない「ちぐはぐさ」が生まれてしまう。 着物が似合わなくなったんじゃなくて、現代の光の環境が、着物の美しさを拒絶している。そう考えたほうが、しっくりきませんか?
面白いことに、「あそこ、落ち着くよね」って感じるカフェを思い出してみると・・・
たいてい、照明が少し落とされていて、テーブルの上のペンダントライトが一箇所だけを照らしているような、そんな場所が多い。
それって、実は私たちが無意識のうちにかつての日本家屋が持っていた「陰影」を求めている無意識の意識、なんじゃないかなとも思えます。
洋服は「3Dの彫刻」だから、強い光で影を作ってもそれはそれで美しい。でも、日本人の肌や、平面で構成された着物の美学は、もっと曖昧で、輪郭をぼかしてくれる「影」の助けを必要としている。
このあたりの話は、もしかしたら日本画と西洋の絵画におけるセオリーとか、好まれてきた写真表現なんかの視点から掘っても面白そう。
結局、私たちは何を着ているのか
こうして「お菓子」から「砂糖」の権威、そして「服」の設計思想まで辿ってきましたが、私たちが美しいと感じるものの裏側には、常にその時代の「制約」や「環境」との、しなやかな格闘があったことが見えてきました。
お上から贅沢を禁じられれば「隠す美学」を編み出し。
薄暗い家の中で過ごすなら「影の中で映える色」を極める。
日本人の感じる「上品さ」とか「センス」って、何もないところから生まれた魔法じゃなくて、そうした「ままならない現実」をいかに面白がって乗り越えるか、という知恵の積み重ねだったんですね。
一粒のマロングラッセから始まったこの連載。
砂糖の権威をめぐるマウンティングから、江戸の町人たちのお上への反骨、そして光と影の設計図と、随分と遠いところまで来てしまいました。
こうして辿ってみると、私たちの日常に転がっている『美味しい』や『お洒落』は、どれも歴史や文化と地続きなんだと実感します。
次に鏡の前に立ったとき、あるいは甘いものを口にしたとき。
その裏側にある誰かの『意地』や『祈り』を、ふっと思い出してもらえたら嬉しく思います。
連載「甘さと装いの文化人類学、日欧「美意識」の衝突」
この連載は全4回で完結予定です。
マロングラッセという一粒の宝石を入り口に、砂糖の価値、江戸の美学、そして現代のファッションまでを横断する事になりました。
各記事は以下の目次から!
【総合目次】甘さと装いの文化人類学、日欧「美意識」の衝突
◀ 前の話:「粋」は幕府へのリベンジ? 江戸の奢侈禁止令が生んだ「隠す贅沢」
▶ 次の話:**この記事が連載最後の記事です**
最後までお読みいただきありがとうございました!
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