君に名を 〈雨女⑮ 最終話〉
あるのかぁ、尻子玉。
河童の言うことはともかくとして、森さんのあのいいぶりだと、あるとしか思えなくなってきた。
そうなると、なんだか、尻の奥が温かいような気持ちになるから不思議だ。
突然生えてきたってわけでもないだろう、きっと、もとからあって、気づかなかっただけのことだ。
胸腺という臓器についても、知ったのはわりと最近だったし、知って初めてこの体現れたようなものだ。脾臓だって、胆嚢だって、そうだ。心臓や胃腸のように主張の激しい臓器以外はみんな、知ってから現れる。
きっと、雨女も、河童も、店員だってそうだ。
見て、知って、初めて最初からいたことになる。
珍しい蝶のようなものだ。突然現れたのに、発見されるずっとずっと前からいたことになるのだ。
人間同士だってそんなものかもしれない。
恋人であっても、生涯の伴侶であっても、知り合うまでは、他人であるどころか、その存在すら危うかったのではないか。いたのかさえ気づかない存在だったのだ。私たちはすれ違った人たちの顔を全て覚えているわけではないし、もう一度すれ違ったとしても、二度三度すれちがったとしても、きっと気づかない。突然いなくなっても気づかない。
けれど、ほんの少しの接触で初めてそこに現れる。始めからいたような顔をして。そして、それを当たり前に受け入れている。
世の中っていい加減なものだ。
人間についてもそうなのだから、雨女もずっといたし、河童もずっといた、店員の森さんもずっといた
のだ。
そして名前が付く。
雨女には名前がなかった。河童にもなかった。店員の森さんは、そう名乗ってくれたので森さんだ。
彼女も、河童も、名前というか、固有名詞というものにピンときていなかった。
「そんなのぁ、呼びたいやつが呼んでるもんだろぉ」ということらしい。
彼女も「好きに呼んでほしい」と言った。
だから、ここ最近はずっと、「尻子玉問題」と「彼女のことを何と呼ぼうか問題」に悩まされている。
雨女ってのも、なんだか、不躾でストレートすぎる。森さんは「雨の方」と呼んでいるらしい。
なんかズルいなあ。
雨に女って呼び方も、なんだか呼び捨て感というか、無遠慮感もある。フェミニストに怒られそうな気もする。
すると、
雨女性?
雨ガール?
雨系女子?
雨ねえさん?
雨ージョ?
雨ーマン?
ラムちゃん?
雨宮しずく?
水無月れいん?
レイニー・レインハルト?
だめだこりゃ。
みなさん、名前を付けてくれた親御さん並びに関係者の方々に感謝しましょう。
とくに、大切な人の名前。
それを自分で考えるのは、とてつもなく大変です。
彼女の場合は、大切な「人」かどうかはわからないけど。
ああ、もうこんな時間だ。
今日ばっかりは、少しだけ気が重い。
けど、会えるのだから、プラマイゼロ。
とは行かないか。これは複雑な気持ちってやつだ。
満月の明るい夜道、遠くからでも彼女が見える。
「今日は、t シャツじゃないね」
同じ服しかないのかと持っていた、というか、体の一部だと思ってた。
「だってもう、見えるでしょ」
少しでもわかるように、同じ服を着てくれていたのだという。
「君から見えてるかどうかは、私からは、わからないからね」
シャツときたか。全く。Tシャツを見慣れてきた頃に、こうして驚かせてくれるとは。
濡れたシャツときたか…。
「ウォーリーが着替えたら、さすがに見失うでしょ」と説明してくれたが、いまいちピンとこなかった。
認知がずれると、判別できなくなるということだろう、ただでさえ、見えるか見えないかの境界にいるのだから、すぐに見失ってしまうのだ。さっきまで手に持っていたはずの家のカギのように。
「鍵無くしたの?」
聞こえていたみたいだ。
「で、なんで呼んでくれるの?」
ここで、神の名をつければ神になるのかもしれない。名前のないものに名をつけと、それはこの世界に立ち現れて、組み込まれる。雨女と呼び始めたとき、それはこの世のものでない怪異として、私の世界の一部となった。河童は最初から河童で、今も河童だが、私にとっての雨女は、この名付けで決まる。そう考えているからこそ、もっと時間が欲しいところなのだ。でも、いつまで待たせればふさわしい名を思いつくというのか。
もういい。
「雨ちゃん…です。」
「かわい!」
雨ちゃんはくすくす笑ってくれた。
さて、一つだけ荷が降りた。
ここからは、自分の口で、想いを伝えなければ。
河童が好き勝手言ってくれたけど、あれはあれで嘘じゃないんだけど、多分聞こえてなかったんだと思う。
だから、改めて、言わなければいけない…
「じゃあ、私も呼んであげるね」
え、ああ、うん。
ひとまず聞いてからでも遅くないか。
でも、こないだ「見てくれる人」って言ってたし、一応私にも自分の名前はあるのだけど。
まあ、聞こうじゃないか。
「……」
もじもじしている。
「……」
からあげクンだったらどうしよう。
「……ン」
え?まさか
「ダーリン」
事実は私の考えや憶測や覚悟なんか、意にも止めない。
こうして、勝手に回っていくのも世界だ。
ところで、雨ちゃんは、雷も出せるのかな。
まあ、浮気しなければいい話だ。
言いたかったセリフは、また今度言えばいい。
ひとまず、「ハッピーエンド」ということだろう。
だってほら、彼女の雨を通すと、月から虹が見える。
月虹というのだと、教えてくれた。
この世界に、綺麗なものがまた一つ増えた。
〈了〉
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