ベッルム・スパルタキウムⅦ hiberna Thurina
――最初に、クラウディウスの半個軍団
3,000を破ったのはまぐれではないという事か。
法務官プブリウス・ウァリニウスは考えていた。スパルタクスは強い。強敵と言っていいだろう。手元にある一個軍団6,000では勝てない。財務官トラニウスをローマに向かわせ、援軍を連れて来てもらう。それまでは戦わず、持久戦に入るしかない。奴隷軍は増大している。
――一体どれ程までに増えるのだ?奴隷軍は?
すでに10,000は超えているが、このままだとすぐに20,000や30,000は届いてしまうだろう。烏合の衆とは言え、スパルタクスが率いている。要注意だ。一体何者か知らないが、カプアの剣闘士風情がこれほど見事な戦いをできるとは思わなかった。まるでハンニバルのようだ。

そう考えて、法務官プブリウス・ウァリニウスは
背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
――まさか我々は第二のハンニバルと戦っているのか?
いや、そう考えるのは早計だろう。まだ二回勝っただけに過ぎない。ローマが本気を出せば、奴隷軍など打ち砕ける。ハンニバルが率いた歴戦の傭兵とは訳が違う。機動戦はできない。女子供さえいる奴隷軍など、ローマ正規軍に勝てない。次は執政官率いる4個軍団24,000だ。
――逆に言えば、平野で方陣を組んで、
自由に機動戦ができるローマに勝てる筈がない。

スパルタクスが率いる奴隷軍は数が多くても、軍事訓練などできやしない。個人で武器を扱える者はいても、戦争という集団戦では、個人対個人の戦いは意味がない。方陣を組んで機動戦をやる方が勝つ。基本的に陣形対陣形、機動戦対機動戦だ。奴隷軍にそれはできない。
――平野で会戦に持ち込めば、撃破できる。
だが逆にそうでない戦いは避けるべきだ。
法務官プブリウス・ウァリニウスは、この時代の標準的なローマの将軍として、そう考えを導き出した。やはり相手は蛇だ。ドラコーだ。蛇の道は蛇と言うが、ローマの王道・覇道を阻むには、卑怯な手しかないのだろう。奴隷軍を平野におびき出して、撃破してやる。
紀元前からナポレオン戦争まで、基本的に、平面の戦い、二次元の戦いだった。立体の戦い、三次元の戦いが始まるのは、航空機が登場する第一次世界大戦からだ。それ以前の戦いでは、兵種、方陣、機動戦の要素をどう使うかで勝敗は決した。実は、数はそれほど問題ではない。

アレクサンドロス大王も、皇帝ナポレオンも、20,000~30,000を率いるだけで、何倍もの敵軍を何回も破っている。兵種、方陣、機動戦が上手かったからだ。この二人にとって、最低限の数さえ揃っていれば、敵が何倍いようと関係ない。むしろ敵の数の多い方が有利だ。

少ない部隊を効率的に運用して、
大軍で動き難い敵を翻弄する。
いつものパターンだ。
紀元前73年7月、スパルタクスの奴隷軍はとうとうカンパニア地方に進出した。ウァリニウスの一個軍団6,000は依然として、付かず離れず、追跡してきたが、士気の低下は避けられなかった。何回か小競り合いが起き、ローマの軍団旗が奪われた。奴隷軍の士気は増した。
その夜、軍会でスパルタクスとクリクソスが議論していた。ゲルマン人、ケルト人、トラキア人、イタリア人が参加していた。特にゲルマン人が増え始め、市民・自由民も参加し始めた。指揮系統もスパルタクスとクリクソスの二系統に分かれていた。分裂の兆しがあった。

「奴ら、一体何のために追いかけてくる?」
クリクソスがスパルタクスに尋ねた。
「……送り狼だろう。隙あらば狙って来る」
ローマの軍団兵は弱っているが、依然として侮れない存在だ。
「いっその事、ここで撃破しては?」
「……やめておこう。無駄な犠牲は出したくない」
スパルタクスは平野で、ローマの軍団兵と会戦する事を避けた。
「一個軍団を割っている。今なら勝てる」
スパルタクスは首を静かに横に振った。クルクスは不満そうだった。だがこれは罠だ。平野で戦ってはならない。少なくとも、奴隷軍が機動戦をできるまで、会戦するべきじゃない。
「……ローマから援軍がくる。やめた方がいい」
スパルタクスは確かな情報を掴んでいた。
牧人たちの情報だ。実際、ウァレリウスが来る。
「援軍が合流する前に叩こう」
「……ローマの軍団兵を侮らない方がいい。
今攻めたら、死に物狂いで抵抗する」
彼らは市民軍だ。文字が読め、仕事ができる。
訓練も行き届いている。誇り高い。

「例の包囲殲滅戦術か?」
クルクスもローマ軍の強さは知っているようだった。
「……アレは数が少ないとできない。
少数で大軍を包囲できない」
スパルタクスはハンニバルの戦術を思い返していた。
「ならばなおさら、チャンスではないか」
クリクソスは主戦派だった。
だがスパルタクスは慎重だった。
こちらは奴隷。弱兵だ。
「……会議で決まった事に従おうではないか」
スパルタクスは率先して、軍会に従った。
だがクリクソスは違う。不満だった。
「ローマ進軍だ。それ以外にない」
主戦派として、クリクソスはローマ進軍が持論だった。
永遠の都、ローマを攻略する。

「……ハンニバルでも避けた100万都市だ。やめておこう」
スパルタクスは慎重派だった。
そんな戦力はないし、装備が足りな過ぎる。
「だがいずれは北上するのだろう?」
それはそうだ。
いつまでも南イタリアにはいられない。
北イタリアを目指す。
「……だが今はトウリイ冬営だ。
そこまで移動して態勢を立て直す」
スパルタクスは今冬、工房で武器を作り、
機動戦の軍事訓練をやるつもりだった。
「金が要るな。かき集めて、海賊と取引か」
キリキアの女海賊カッサンドラだ。彼女は奴隷軍にとって重要な存在だった。味方と言ってもいい。海でローマと戦い、ミトリダテスの動向なども伝えてくれる。国際情勢が把握できる唯一の情報網だ。だが紀元前67年、約3か月で、ポンペイウスによって退治される。

有名なBellum piraticum(ベッルム・ピラティクム=海賊戦争)だ。
だがこの時はまだだ。
ローマからの援軍ウァレリウスの一個軍団6,000が、法務官プブリウス・ウァリニウスに合流した。だが士気は高まらず、ローマの軍団兵たちは沈んでいた。やむなく、ウァリニウスは消極的に戦い、奴隷軍を追跡した。紀元前74年9月、奴隷軍はカンパニア地方を出発した。
奴隷軍は、エブルム、ナーレス・ルカニアを越え、アンニ・フォルムに到着した。ここはローマの公有地となっており、耕地の大土地所有者がいた。ここで奴隷軍は略奪を行った。憎悪していた奴隷主がいたせいもあるが、あまりに逸脱した行為があった。だがローマ軍は動かない。
スパルタクスは、アンニ・フォルムの略奪に心を痛めていた。やり過ぎだった。自分の監督不行き届きもあるが、これからは軍規も立てないといけない。軍会を開いて、戦利品の個人所有を禁じた。戦利品は全て軍団で共同管理する。略奪行為なんてもっての他だ。
奴隷軍はアンニ・フォルムを出ると、二手に分かれた。スパルタクスは30,000を率いて、メタポントウムを占領した。クリクソスは10,000を率いて、コセンティアを占領した。その後、スパルタクスは海沿いに進み、クリクソスは山を下って、トウリイで奴隷軍は再び合流した。
紀元前73年10月、イタリア南端のルカニア地方の地方都市トウリイに入る頃には、奴隷軍は70,000に達した。トウリイは港町で、長靴の土踏まずに位置する。ここでスパルタクスは冬を越す事に決めた。手始めに奴隷の鎖を溶かして、武器を作る事から始めた。工房だ。

川に流されるガリア人のアッボーと額に焼き印があるタナトスのθは、工房で槌を振るっていた。溶かした鉄でgladius(グラディウス=小剣)を作っていた。とにかく武器を作らないといけない。奴隷は各地からどんどん集まってくる。武器が足りない。鉄が足りない。
「奴隷の鎖を溶かしただけじゃ人数分の剣は足りないぞ」
タナトスのθは言った。アッボーは考えた。
「それは分かっている。鉄を買い集めないといけない」
「金はあるのか?」
「スパルタクスに訊いてみよう」
果たしてお金はあった。アンニ・フォルムの略奪で得た金があった。以前から共同管理でお金は溜めていたが、今回のルカニア行で、南イタリアの裕福な土地を通過したせいで、お金を得ていた。これを使って、カッサンドラから鉄を買い集めた。また馬も買い始めた。
「北イタリアに行くには荷馬車が要る」
スパルタクスは春の移動に備えて、輜重隊を組織した。女子供が中心となるので、歌巫女のアポロニアに任せる事にした。奴隷軍は男ばかりではないのだ。その家族もいる。
「お馬さんも必要だけど、馬車はどうする?」
ニアは屋根付きが良かった。
日差しや風雨を凌げる。長旅だと病人も出る。
「馬車は私が買い集めて来よう」
Ἑρμῆς(ヘルメース)だった。傍らにΧάρων(カローン)もいる。二人は冬営の間、ルカニア地方を回って、馬と馬車を買い集めた。道化の類に見えるのか、よく侮られた。

「まぁ、我々は戦力外ですからね」
Ἑρμῆς(ヘルメース)は言った。
Χάρων(カローン)も頷く。
牧人ロームルスとレームルス兄弟は軽装歩兵として、弓矢やスリングの訓練を続けていた。またローマのscutum(スクートゥム=方盾)を一撃で貫通できる弓の開発に勤しんでいた。あの盾は木と鉄でできていたが、軽くて丈夫な盾だった。よほど威力がないと貫通できない。
スリングで盾を割る事も考えたが、流石に一撃で割れない。
「スリングで盾にダメージを与えてから、弓矢で撃ち抜くのはどうだ?」
牧人ロームルスは発案した。
さっそくレームルスが盾をセットする。
最初にスリングで、重い石を投げた。
盾に当たって、盾が凹んだ。そこに弓矢を撃ち込む。
「やった!」
見ると見事に盾を貫通して、
scutum(スクートゥム=方盾)は壊れた。
「だが二回攻撃は必須だな」
牧人ロームルスはまだまだ課題があると感じていた。

ドクトル・ゴルディアヌスとマギルテル・ユリアヌスは最重要課題に取り組んでいた。奴隷軍の方陣、機動戦の訓練だった。いつかローマ軍と平野で会戦をする時が来るだろう。その時に備えて、今のうちに訓練しないといけない。だが個人戦に慣れた剣闘士には合わない。
「方陣を組んで、隊列を作ったまま移動もできないとは……」
惨憺たる結果だった。
奴隷軍は隊列を作って移動するだけで、乱れてしまった。
「ローマ軍はどうやって訓練しているんだ?」
「……同じ人間だ。やってやれない筈はない」
スパルタクスは督戦しに来ると、二人に言った。
とにかく冬の間、訓練を続けるしかない。

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺082
