ベッルム・スパルタキウムⅠEgo sum draco.
真っ暗闇の空だった。
稲光が時折、瞬く。
物凄い轟音だ。
眼下には長靴状の半島が広がっている。
イタリアだ。

そして黒くて細長い影が半島を被っている。
いや、絡みついて、イタリアを締め上げている。
ローマがきしんでいる。
それはdraco(ドラコー=蛇・竜)だった。

――いいぞ。もっと締め上げろ。くたばれローマ!
その男は思わず笑みを浮かべた。
だが次の瞬間、頭を締め付ける激痛に襲われた。
トラキア人はのたうち回る。
両手を頭にやって、ドラコーを引き剥がそうとする。
するとどういう訳か、
火傷する程、そのドラコーは熱かった。
叫んでいると、誰かやって来て、手を貸してくれた。
「スパルターケ!スパルターケ!」
その女は必死になって、
全力でトラキア男の頭からドラコーを引き剥がした。
彼女の両手が燃えている。
スパルタクスは驚いて目を見開いた。
だがあっという間に、
そのドラコーは消えてなくなってしまった。
巫女は崩れ落ちると、
真っ赤になった両手を見た。
火傷している。
「……ニア」
トラキア男は寝台から起き上がると、
トラキア女を気遣った。
「ちょっと大変だったね。でももう大丈夫!」
なぜかそのディオニューソスの歌巫女は、
やせ我慢一杯のガッツポーズで振り返った。
「いや、君の手が……」
「それよりも今の夢、ヤバかったね!」
トラキア女は両手を「ふーふー」しながら言った。
するとなぜか火傷の跡が消えていく。
「ああ、頭を酷く締め付けられた」
スパルタクスは思わず顔をしかめた。
まだ少し痛みが残っている。
「うん。ドラコーが頭に巻き付いていたよ。
お祭りのねじり鉢巻みたいな?」
トラキア男は、うっすら夢を思い出した。
イタリアの昏い空が見える。閃光が瞬いた。
「うっ……まだ何か見える」
スパルタクスは軽く頭を押えた。
頭の中で何かが微かにのたうち回る。
「私が無理矢理剥がしたからもう大丈夫!」
「……一体何だったんだ?ドラコーは消えてしまったが」
「ψυχή(プシュケー=魂、霊体)だと思うよ。憑いていた」
彼女の名はアポロニアと言った。
ギリシャ名だが、トラキア人だ。
クレタ島で修行を積んで、死と再生の神、ディオニューソスから祝福を受け、Ὀρφεοτελεσταί(オルフェオテレスタイ=オルペウス秘儀伝授者)となった。悲しみの輪を超えて、人類の過去と未来を夢見れる。

「そうか。ニアがそう言うなら、そうなんだろう」
スパルタクスは幼い頃からニアを知っている。
霊感があって、時が見える。
「えっと、今いつだっけ?
Iesus Christus(イエスス・クリストス=イエス様)は?」
ディオニューソスの歌巫女アポロニアは少し混乱した様子で、
トラキア人剣闘士に尋ねた。
「イエスス・クリストス?」
誰だ?聞いた事がない。
「ああ、えっとcrux(クルックス=十字架)にかかった方で……」
「noxius(ノクシウス=罪人)か?」

「ノクシウスかもしれないけど、
adam(アダム=人類)の罪を贖った……」
スパルタクスがよく分からないという顔をすると、
ニアはバツが悪そうな顔をした。
「ああ、ここはまだイエス様が生まれていない時代だね。
でももうすぐ?」
意味不明だったが、
クルックスという言葉だけ気になった。
そして一瞬、ビジョンが見えた。

アッピア街道にずらりと並んだ十字架と罪人たち。
不意に二重写しになる。
足軽の長槍で脇腹を刺し貫かれて、絶命する村人たち。
rosarium(ロザリウム=ロザリオ)が光る。

「ごめんね。私寝て起きると、時々いつの時代の、
どこの誰だか分からなくなるの」
彼女は昔からそうだ。
だが今朝はスパルタクスも変な夢を見た。
悪夢の類だろうか?
「……今回はどんな世界の夢だった?」
「その世界で私、あなたの妹になっていた。
でも首を斬られて、晒し首になっていた♪」
そのトラキア女は笑顔で、
こてんと小首を傾げてみせた。
笑顔で転がり落ちる。
「……Cur(クール=なぜ)?」
「それはあなたが反乱軍の首領だったからよ」
なぜかニアは誇らしげに胸を反らして言った。
スパルタクスは苦笑した。
「……どの世界でも、俺はいつも反乱を起こすんだな」
「ええ、そうよ。あなたの魂は、偉大なる蜂起者なの」
これもお決まりの台詞だ。
このトラキア女はいつもそう言う。
「……そうか。それは中々大変なお役目だな。
でもニアにはいつもの朝だな」
ディオニューソスの歌巫女は狂気に侵されているから、基本頭がおかしい。理性がない。だからいつもありもしないものが見えて、よく分からない遠い過去の話や未来の物語を垂れ流す。トラキア男にはお馴染みの朝だ。このトラキア女がおかしいのは今朝に始まった事じゃない。
「ところでニアは夢で、
どれくらい昔にまで遡れるんだ?」
「ゴメンね。私、ポンコツ巫女だから、
一万年ぐらい前が限界かな?」
凄いではないか。
もっともそんな昔の話をされても、
誰も分からないが。
「私の戦闘力は一万年よ!
いっちまんねんとにせんねんまえから~♪」
この歌巫女は時々未来の言葉を喋るので、意味不明だ。
時代錯誤だ。いや、未来錯誤か。
「ニアはこの夢をどう見る?」
トラキア男は皆まで語らなかったが、
トラキア女に全部共有できていると思っていた。
「……そうだね。Bellum(ベッルム=戦争)かな?
イタリア全土を巻き込んだ……」
ニアが目を細めて遠くを見ている。
ビジョンが見えているのだろう。記憶が共有できる。

「それは望むところだ。ローマは倒すべき敵だ」
スパルタクスは拳と拳を合わせた。
いよいよ、蜂起の日は近いという事だろう。
「……そうだね。私たちを解放して。スパルターケ」
トラキア女がそう言うと、トラキア男は頷いた。
「とにかく、ローマは戦争を仕掛けてくる。
そして人を捕らえて奴隷にする」

共和制末期のローマは拡大路線に転じていた。
侵略に明け暮れ、戦争奴隷を獲得する。
「こんな事は間違っている。許されない」
スパルタクスは確信していた。
古代奴隷社会は間違っていると。
「奴隷は自然に反する。人間は本来自由だ。
奴隷状態は人間の本性に反する」
別に近代人の意識がある訳でもない。
故郷の部族社会で自由を享受していただけだ。
「同朋を解放して、故郷に帰る」
目標は最初から決まっている。
トラキア人はトラキアに帰る。それだけだ。
「……だから私たち、わざと捕まって、奴隷になったもんね」
南イタリアにいる同朋を解放するため、二人で潜入した。スパルタクスは剣奴に、アポロニアは娼婦になった。ローマ社会の最底辺だ。そしてここに来るまで旅があった。一介の戦士から最強の将軍になるための長い旅だ。そしていよいよ、兵を集める。このカプアで。
「最強の戦士は要らない。最強の将軍こそ必要だ」
ローマを倒すためには戦士は要らない。
将軍こそ必要だ。あのハンニバルのような。
「ローマを内側から食い破ってやる」
その剣闘士の瞳には焔が揺らめいていた。
破壊の炎だ。全てを焼き尽くす。
「Ego sum draco.
(エゴ・スム・ドラコー=俺はドラコーだ)」
イタリアを締め上げる大蛇、竜だ。
今朝の夢こそ自身の霊的暗示だ。
「……そう、あなたはドラコーよ。
どこまでも天高く登って行く」
旭日昇天の勢いで登って行く飛龍のイメージだ。
地には人々の雨傘が咲いている。
「俺は心で宝を掴んだ。この宝は腐らない。不朽だ」
スパルタクスは長い戦いの末、不敗の剣を掴んだ。
心の剣、宝剣だ。この剣は錆びない。
「そう。私たちの心の中にこそ宝はあるの」
現在・過去・未来、全ての時間が詰まっている。
全ての可能性が詰まっている。それが心だ。
「心の奥底に眠っている
――そしてあなたの魂はドラコー。人じゃない」
ニアの目が遠くなった。
理性を下げて、霊性を高めている。
ビジョンが見える。時が見える。

「そうだ。俺はドラコーだ。
火を噴き、ローマを喰らうドラコーだ」
スパルタクスは満足した。しっくりくる。
まるで昔からそうであったかのようだ。
「ニア、やはりお前は最高の巫女だ」
この女は様々な世界の夢をパラレルに見るので、
訳が分からない。だがそれがいい。
「ううん。ごめんね。私バカだから、お勉強もお仕事もできないの。でも神様を信じる事と、男を愛する事なら、誰にも負けない。だから巫女やっている。妹やっている。イエス様大好き!」
死と再生の神ディオニューソスから祝福を受け歌巫女、
オルペウス秘儀伝授者はそう言った。
「今はただの頭のおかしい娼婦だがな」
スパルタクスはからかった。
アポロニアは頬をプクーと膨らませた。
虎魚だ。だが急に電池が切れた子猫みたいにくたっとなった。
彼女は目を擦っている。
「……ああ、また眠くなってきた」
トラキア女はお眠の時間だ。
とにかく、よく昼寝する。
夜も寝る。1日12時間は寝る。
「なんでそんなに寝るんだ?」
「……霊的だから?
私は歌巫女だけど、夢巫女でもあるから」
「夢巫女はギリシャに結構いるな。
だけど歌巫女は聞いた事がない」
歌巫女は未来から音楽をダウンロードできる。
人類全体でも本当にレアなスキルの所持者だ。
「色んな人の記憶も見るから、
自我境界線が曖昧になって、
自分が溶けてしまいそうなの」
その悩みはトラキア男にはよく分からない。
だからいつも眠いのか?
「時々、自分の裡側から光が溢れて来て、
自分自身が破れそうになるの。理性が飛ぶ」
ニアはあともうちょっとで、完全に霊道が開くのだろう。だが一度飛び越えたら、普通の日常には帰って来れない。全てが非日常になる。見える世界が崩壊して、真実の姿が見える。
「ディオニューソスの狂気だな。俺もちょっとだけ分かる」
スパルタクスもこの時代人並の霊感はあった。
そして戦いの中で独自に鍛え上げた。
「……うん。スパルタクスも流石に魂が
ドラコーだけに霊感は強いよ。勇者の資質がある」
トラキア女は枕に顔を突っ伏しながら言った。
もうすぐ寝落ちする。
「とにかく、お前は俺の傍にいればいい」
剣奴は娼婦の髪を撫でた。
「……うん」
霊界と通じた巫女の愛を得る事は万軍の価値がある。
天を味方につけるに等しい。
「俺はローマを倒して、
お前と故郷に帰る。それだけだ」
「……二つの魂、二つの心だね」
ニアはそう言って、眠りに落ちた。
これから伝説が幕開けする。
イタリア全土を舞台にしたスパルタクスの戦争。
Belluium Spartacium=ベッルム・スパルタキウムだ。
どんな英雄叙事詩よりも新しく、
どんな英雄叙事詩よりも斬新だ。
世の人よ。刮目せよ!

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺076
