ベッルム・スパルタキウムⅡRudis et Gladius
南イタリアのカプアはmunus(ムーヌス=剣闘士の試合)が盛んだった。同市はエトルリア人が建設した都市で、沼地の町と言った。元来ムーヌスは義務を意味し、エトルリア人の神事だった。戦争捕虜に剣を持たせて戦わせ、その命を神々に捧げた。それが剣闘士の始まりだ。

Gladiator(グラディアートル=剣闘士)は、ハンニバル戦争以降の言葉だ。当時、ローマ軍が正式採用したGladius(グラディウス=小剣)に由来する。それ以前は単にhoplomachus(ホプロマクス=武装闘士)と言った。古典ギリシャ語ὅπλον(ホプロン=武器)に由来する。
グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・ヴァティアは、Lanista(ラニスタ=興行師)兼Negotiator Familiae Gladiatoriae(ネゴーティアートル・ファミリアーエ・グラディアートーリアーエ=剣闘士団経営者)だった。プレーブス出身で元護民官、元財務官だ。
レントゥルス・ヴァティアは、典型的な古代ローマ人だった。とにかく、如才がない。だから普段から、Ludi glaiatori(ルーディー・グラディアートーリー=剣闘士養成所)に顔を出し、Familia gradiatoria(ファミリア・グラディアートーリア=剣闘士団)を見張っていた。

「Adhibite!」
(アドヒビテ=気合を入れろ)
レントゥルス・ヴァティアは、
Rudis(ルディス=木剣)を持つ剣闘士たちを叱咤した。

大切な商売道具を磨き上げないといけない。ムーヌスは富の源泉だ。社会の根幹だ。後にあのガイウス・ユリウス・カエサルでさえ、ムーヌスは大々的に開いている。人気取りだ。
古代ローマ社会で、政治家になるためには、民衆に人気がないといけない。だから政治家たちは民衆に様々な娯楽・見世物を無償で提供した。ムーヌスはその代表だろう。政治家の義務であり、ローマの神々に捧げる神事だ。古代ローマ社会は人の命を湯水のように消費する。
果たしてこのような事が本当に許されるのか?と疑問を持った人々がいた。キリスト教徒だ。だがそれはローマが帝政期に入ってからの話だ。それでも奴隷に対する過酷な扱いから、シチリア島で二度奴隷蜂起があった。Bellum Servile(ベッルム・セルヴィル=奴隷戦争)だ。

Bellum Spartacium(ベッルム・スパルタキウム=スパルタクス戦争)以前の話だが、ローマの胃袋を満たす小麦の産地であるシチリア島で起きた奴隷蜂起の意味は大きい。主役は農園で働く奴隷たちだ。ローマは軍団を派遣して、鎮圧した。奴隷に対する扱いは過酷になった。

共和制末期、ローマは拡大路線に入り、その社会は大量の奴隷を欲した。労働力だ。農園で、家庭で、役に立つ。だからローマは周辺国に戦争を仕掛け、積極的に戦争奴隷を入手した。ハンニバル戦争で、包囲殲滅戦術を完成したローマの将軍に勝てる蛮族はいない。
ゲルマン人、ガリア人、トラキア人は、この時代、ローマが得ていた戦争奴隷だ。そしてそのまま、剣闘士にも反映される。Secutor(セクトル=追撃闘士)、Retiarius(レーティアーリウス=投網剣闘士)、Thrax(トラークス=トラキア闘士)だ。この三者が代表的だ。

ゲルマン人のトラキア闘士とか、いたのかどうか分からないが、戦い方のスタイルの問題なので、ありと言えば、ありなのだろう。ただ一般的に、トラキア人がトラキア闘士になる。見世物の問題だ。同じ理由で、投網剣闘士同士のムーヌスはやらない。面白くないからだ。
この辺の感覚は、
現代アメリカのショー・ビジネス、
プロレスと近い。
その日、
スパルタクスは
Rudis(ルディス=木剣)を構えた。
訓練相手はConvictorだ。
(コンヴィクトール=同室の相方)
名をAbboと言う。
(アッボー=abona(川)に由来)
ガリア人だ。
Gallia Transalpina出身だ。
(ガリア・トランサルピナ
=アルプスの向こう側)
大人しい男で、故郷をローマに略奪され、家族を奪われた。そして今、剣闘士団のファミリアになって、訓練を受けている。剣の腕前は並より上だが、性格的に流されやすい。アッボーだからか。今はお互いルディスを構えているが、いつかグラディウスに変わる。
スパルタクスはトラキア人のみならず、ガリア人やゲルマン人を解放する事も考えていた。皆、戦争奴隷で故郷を追われた者たちである。出身こそ異なるが、立場は同じだ。Commilĭtes(コミリテース=戦友)になれる。だからなるべく皆に声をかけて、関係を作っていた。
「Fama volat=噂が飛んでいる」
(ファーマ・ヴォラット)
ルディスを交える時、
アッボーはそっと言った。
「Quis rumor?=何の噂だ?)」
(クィス・ルーモル?)
スパルタクスも声を落とす。
「Munus et rebellio=試合と反乱だ」
(ムーヌス・エト・レベッリオー)
確かに季節は5月だ。
剣闘士の試合が始まるシーズンだ。
「Munus?Quis et quis?=試合?誰と誰が?」
(ムーヌス?クウィス・エト・クウィス?)
「Nescio=私は知らない」
(ネスキオー)
「Quae sunt rumores de rebellione?=反乱の噂とは何か?」
(クァエ・スント・ルーモーレース・デ・レベッリオーネ)
「Nescio=私は知らない」
(ネスキオー)
「Quis loquitur?=誰が話している?」
(クウィス・ロクィトゥル?))
「Omnes=皆だ」
(オムネース)
それは不味い。
試合の話ならまだしも、
反乱の噂は危険だ。
目立ち過ぎたか。
突如レントゥルス・ヴァティアが、
剣闘士養成所に現れた。
ファミリアを集める。
「Hordearii!Munus est cras!=大麦喰らい共!明日試合だ!」
(ホルデアリー!ムーヌス・エスト・クラス!)
大変な事になった。
まだ準備ができていない。
試合はともかく、一斉蜂起はどうする?
その後、スパルタクスは、unctor(ウーンクトル=医師、マッサージ師)の処に行った。寝台の上に腹ばいに横たわる。ゲラシウスはゆっくりと、スパルタクスの肩と背中をほぐしていく。この男はラテン人で、いつも笑顔だ。名はγέλᾰσις(ゲラシス=笑い)に由来する。
スパルタクスは自らを指差して言った。
「γελᾰ́ω(ゲラオー=私は笑う)
ゲラシウスはスパルタクスを指差した。
「γελᾰ́εις(ゲラエイス=あなたは笑う)」
スパルタクスもゲラシウスを指差して言った。
「γελᾰ́ει(ゲラエイ=彼は笑う)」
トラキア人奴隷はトリリンガルが多い、
トラキア語、ギリシャ語、ラテン語だ。
「……スパルターケ、不味いぞ」
ゲラシウスはマッサージをしながら言った。
「何がどう不味いんだ?」
スパルタクスは尋ねた。
「全てだ」
沈黙が訪れた。
ゲラシウスの笑顔は変わらない。
「……いつもの事だ。お前が気にする事じゃない」
「忠告、痛み入る」
話があべこべだったが、これもいつもの事だった。
「……スパルターケ、いるか?」
川に流されるガリア人、アッボーが入って来た。
「どうした?何か用か?」
「……Cena libera=贅沢なごちそうだ」
(ケーナ・リベラ)
「それは不味いな。確かに不味い」

だが突然、ゲラゲラと笑った。
ゲラシウスも釣られて笑う。スパルタクスは言った。
「γελᾰ́ομεν(ゲラオーメン=我々は笑う)」
アッボーが笑うスパルタクスとゲラシウスを指差して言った。
「γελᾰ́ετε(ゲラーエテ=あなたたちは笑う)」
スパルタクスも笑うアッボーとゲラシウスに向かって言った。
「γελᾰ́ουσῐν(ゲラオウシン=彼らは笑う)
外国語の習得は大事だ。
ローマではギリシャ語は第二の言葉だ。
このように無理やり覚える。
ファミリアを束ねるレントゥルス・ヴァティアがいた。Doctor(ドクトル=訓練士)ゴルディアヌスとMagister(マギステル=教練士)ユリアヌスもいた。机上にはケーナ・リベラ=贅沢なごちそうがある。スパルタクスは招かれて、席に着いた。はす向かいにゲルマン人がいた。
「オスカー」
そのゲルマン人剣闘士は、絵に描いたようなゲルマン人だった。イメージ通りだ。だが昏い影が憑いている。背後で蠢いている。赤黒い。時折、赤い光を放つ。悪霊だ。

「……スパルターケ」
まるで親の仇でも見るような眼差しで睨んでくる。
骨付き肉を嚙み千切っていた。
「Tabella(タベッラ=対戦表)だ」
ラニスタでもあるレントゥルス・ヴァティアが薄板を投げた。見ると、スパルタクスの名前とオスカーの名前がある。いきなり本番だ。前座ではない。ムーヌスだ。命の取り合いだ。
「今日は前祝いだ。明日、存分に戦え」
ドクトル・ゴルディアヌスが言った。
ムーヌスの前に、ケーナ・リベラを開く習慣がある。
「Η σταφυλή =葡萄の房」
(ヘー・スタフュレー)
スパルタクスは葡萄から食べ始めた。
食べる前に、名前を読み上げる。
「明日、お前はこうだ」
オスカーは指先でヒヨコ豆をぐしゃりと潰した。
そしてニヤリと笑う。背後の影も同様だ。
「Cicer=ヒヨコ豆」
(チーチェル)
スパルタクスは炒った豆をポリポリ食べた。
食べる前に、名前を読み上げる。
「網ですなどり、槍で串刺しだ」
オスカーはrete(レーテ=投網)を投げて、fascina(ファスキナ=三又槍)で突き刺す仕草をした。舌まで出す。それにしても、なぜそんなに闘志を燃やすのか?ゲルマン人だからか?

「スパルターケ、お前はトラキア闘士だ」
マギステル・ユリアヌスが言った。
それは分かっている。定番だ。
「勿論、俺は投網剣闘士だ」
そんな事は見れば分かる。
わざわざ自明な事を言う。
ゲルマン人だからか?
「……ムーヌスを盛り上げてくれ」
レントゥルス・ヴァティアは木の杯を取った。
胴元は儲かる。胴元だからだ。
「ὁ οἶνος=葡萄酒」
(ホー・オイノス)
スパルタクスは酒を呑んだ。
呑む前に、名前を読み上げる。
食卓の一同は、このトラキア人は頭がおかしいのか?という風に肩を竦めた。嗤いたければ嗤うがいい。こんな命の取り合いは馬鹿げている。意図的に増幅した憎しみでしかない。

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺077
