ベッルム・スパルタキウムⅢ Panis et Circi
現代イタリア語でAnfiteatro Campano(アンフィテアトロ・カンパーノ)と呼ばれる遺跡がある。60,000人が収容できる円形闘技場だ。
今から2,098年前、この闘技場にスパルタクスが立った。ローマのColossum(コロッセウム=大円形闘技場)に次ぐ大きさがある。
時は紀元前73年4月20日、
南イタリアのカンパニア、
地方都市カプアに遡る。
そのamphitheatrum(アンフィテアトルム=円形闘技場)は熱かった。周囲には幟、旗が沢山立っていた。tabella(タッベラ=対戦表)だ。タベッラにはスパルタクスの名が書かれている。午後、gladiator(グラディアートル=剣闘士)のmunus(ムーヌス=試合)が行われる。
すでにharena(ハレーナ=アリーナ)ではpompa(ポンパ=パレード)は終わっていた。天上の神々や死神の衣装に身を包んだ道化じみた出し物だった。今は円形闘技場の天井を被う天幕を、水夫たちが広げている。帆は風を受けて、七色に輝く仕組みが施されていた。

vela(ウェラー=日よけ、天幕)と言うが、
ローマ帆船の技術を応用している。
砂が敷かれたアリーナに、sparsio(スパルシオ=噴射)が蒔かれた。香水の虹がかかる。だしぬけにtuba(トゥバ=ラッパ)のファンファーレが鳴った。そしてhydraulis(ヒュドラウリス=水圧オルガン)の荘厳な音階が響く。小人のpraeco(プラエコ=触れ役)が飛び出した。
「レディース、エンド、ジェントルメン!」
おっと、違った。
ここは古代ローマ、
現代アメリカではない。
だが似たようなものだ。
剣闘士の試合は、命の奪い合いだが、見世物でもある。lanista(ラニスタ=興行師)は無料で地元住民を招待する。スポンサー・政治家の人気取りのためだ。のちに剣闘士の試合は、ローマのPanis et Circi(パニス・エト・チルキ=パンとサーカス)と呼ばれるようになる。
editor(エーディトル=主催者)が紹介されると、maeniana(マエニアーナ=観客席)には、Libellius Munerarius(リベッリウス・ムーネラリウス=対戦する剣闘士のリスト)が配られた。
cavea(カウェア=最前列升席)には
amatores(アマートーレス=熱心なファンたち)がいる。
主に女たち、特に女優兼娼婦たちが座る。
その中に、歌巫女アポロニアの姿もあった。
「う~。居づらいよ~。
早く助けて、スパルターケ」

苦言を呈していた。霊的に厳しかった。アリーナは悪霊だらけだ。特に彼女の目には、試合で殺された剣闘士たちの死霊が彷徨っているのがハッキリ見えた。多分、悪さをする。
cornu(コルヌ=角笛)が鳴った。
carcer(カルケル=出入口通路)
から四足獣が出て来る。
試合場は血に飢えていた。前座のvenatio(ウェーナーティオー=野獣狩り)が行われた。だが時にはbestiarius(ベースティアーリウス=闘獣士)も猛獣の牙に倒される。彼らはmeridiana(メリーディアーナ=二流の剣闘士)か、paegniarius(パエグニアーリウス=前座剣闘士)だ。

猛獣の定番はursus(ウルスス=熊)か
leo(レオ=ライオン)だ。
死骸が運び出される。
小人のプラエコが出て来て、composito(コンポシトー=籤に寄る組み合わせ)を行った。palus、(パールス=木の杭)が砂地に突き刺さった。名が書いてある。tirones(ティローネス=新人剣闘士)の名だ。死ぬとアリーナの隅にあるstele(ステレ=石碑)にその名が刻まれる。
「Arma decretoria=鋭利な武器)!」
(アルマ・デークレートーリア)
お互い致死性の鋭利な武器、
gladius(グラディウス=小剣)
である事が事前に確認される。
「Incipite!=始め!」
(インキビテ)
summa rudis(スンマ・ルディス=主審)が叫ぶと、par(パール=一組)が向かい合う。全ての剣闘士は、Primarium Bellatorem(プリーマーリウム・ベッラートーレム=第一の闘士)を目指す。ティローネスもそうだ。だが大半は途中で戦死して、石碑にその名を残す。
そのムーヌスは一方的だった。
明らかにチョイ美形が怖気づいていた。
小剣が落ちた。
vincit(ウィンキト=勝った者)は、palma(パルマ=シェロの小枝)か、corona(コローナ=月桂冠)でその頭を飾られる。勝利を重ねてpostulate(ポーストゥラーテ=ベテラン剣闘士)になる。だが敗者の運命は残酷だ。その場で死ななくても、観客が運命を決する。
最前列升席を占める女たちから声が上がった。
チョイ美形の助命嘆願だ。
「Missus!Missus!Missus!=助命」
(ミッスス!ミッスス!ミッスス!)
試合が見苦しくなく、
観客から評価されれば、
命までは取らない。
だが会場全体は異なった。
「Iugula!Iugula!=殺せ」
(イユグラ!イユグラ!)
試合が無様だと、観客が血を欲するのだ。ローマ人が何よりも求める徳、virtus(ウィルトゥース=雄心)を欠いた者は、試合後処刑される。観客が判定する。お客様は神様という訳だ。
「Ferrum recipere=鉄を甘んじて受けよ」
(フェッルム・レキペレ)
女たちの悲鳴が木霊し、
鉄の裁定が下る。
敗者は鉄を甘んじて受けなければならない。
「Periit=彼は死んだ」
(ペリート)
鉄の掟だ。
ローマは雄心を欠いた者に厳しい社会であった。
弱者には死を!強者には栄光を!
libitinarius(リビティ―ナーリウス=死体係)がやってきて、遺体を縄で引きずりながら、アリーナから死んだティローネスを運ぶ。だがCharon(チェロン=死神=ギリシャ語のΧάρων(カローン)のチェックが入る。額に焼き鏝を当てた。動いた。まだ息がある。留めを刺す。

Porta Libitinesis(ポルタ・リビティーネーシス=死者の門)ではMercurius(メルクリウス=古典ギリシャ語のἙρμῆςヘルメース)が待っていた。spoliarium(スポリアーリウム=剝ぎ取り所)まで遺体を案内する。そこでsubligaculum(スブリガークルム=腰布)まで剥がされる。
スパルタクスは控室でその様子を見ていた。そしてガリア人アッボーに、denarius aureus(デナリウス・アウレウス=スッラの金貨)をそっと渡した。彼は剥ぎ取り所に姿を消した。
「Age, Spartace=行け!スパルタクスよ!」
(アゲー・スパルターケ)
黒子から声が掛かった。galea(ガレア=羽根兜)を頭に被る。派手なcrista(クリスタ=羽根飾り)が頭頂部についていた。scutum(スクートゥム=方盾)は持たない。通常、Thrax(トラークス=トラキア闘士)は盾を持つ。だがmanica(マニカ=腕防具)だけで十分だ。
薄暗いPorta Sanavivaria(ポルタ・サーナーウィーウァーリア=生者の門)を通る。まるで産道のようだ。アリーナの大歓声が聞こえてくる。午後のムーヌスの始まりだ。cornu(コルヌ=角笛)が鳴る。闘技場の砂地に足を踏み入れた。思わず、クラッとした。赤い人影が見える。

――Death in the Afternoon
=午後の死。
そんな言葉が
スパルタクスの脳裏に浮かんだか
どうか分からない。だがそんな気分だ。
――アリーナは穢れているし、
呪われている。死霊だらけだよ。
ニアの警告が蘇る。
殺された剣闘士の亡霊が
沢山彷徨っていると言う。
さもありなん。
スパルタクスはこの全てを終わらせるため、
今日ここに立つ。ローマを倒して、故郷に帰る。
summa rudis(スンマ・ルディス=主審)は、マギステル・ユリアヌスだった。secunda rudis、(セクンダ・ルディス=副審)は、ドクトル・ゴルディアヌスだ。よく知っている。対戦相手はゲルマン人のオスカーだ。retiarius(レーティアーリウス=投網剣闘士)の姿で現れる。

「Grrrrrrrrrrrr!」
目が血走り、犬歯を剥き出しに、人ならざる唸り声を出していた。赤黒い影もダブる。主審と副審は、おっかなびっくりにお互い顔を見合わせた。明らかにおかしい。だが二人は言った。
「Incipite!=始め!」
(インキビテ)
「Wryyyyyyyyyyyyyyy !」
オスカーは明らかに異常な跳躍をして、
襲い掛かってきた。動物霊が憑いている。
――それはまさにBerserkr(ベルセルク=熊の毛皮を纏った者)だった。
熊だか、ライオンだが、何だか知らないが、これまで前座で殺された四足獣だ。それが複数オスカーに憑依して、キメラめいた霊体に見える。でたらめにくっついている、憎しみだ。
オスカーはrete(レーテ=投網)を投げた。スパルタクスをすなどるためだ。だがsica(シーカ=曲刀)で網を払った。この剣は東方から伝わった。よく斬れる。sina(シーナ=秦)から伝わったと言うが、これは違う。もっと遠方の島国だ。職人が錆びない鉄を撃って造った。
スパルタクスがここに来るまでの長旅でこの剣を得た。勇者の証として授けられた。古より伝わる幻の一振りだと言う。この名を忘れられたシーカは、肉だけでなく、霊をも切り裂く。
――ニア、頼む。
スパルタクスは升席の歌巫女にアイコンタクトを送った。
――うん、分かった。やるよ。
Ὀρφεοτελεσταί(=オルペウス秘儀伝授者)はお経を唱えた。
(オルフェオテレスタイ)

「Ὦ Ζεῦ Κεραύνιε, πατρὸς ὢν θεῖον χέου φῶς ἐκ ύψους」
(オー・ゼウ・ケラウネイ・パトロス・オーン・テオイン・ケオウ・フォース・エク・ヒュプウス)
(おお、ゼウスよ。雷霆(らいてい)の父よ、高殿より聖なる光を降せ)
―オルフェウス讃歌(Orphic Hymn 19 Zeus of Thunder)
突如、天空に稲妻が走り、
天幕を突き破って、
スパルタクスのシーカに落雷があった。
「Κεραυνός!=電撃一閃!」
(ケラウノス)

雷神剣だ。勇者のみに許される雷霆の父、ゼウスが認める天の一撃だ。放たれた閃光は、オスカーを撃ち、キメラめいた動物霊を全て弾き飛ばした。だが彼はまだ倒れない。
轟音の後、余韻のように、
雷雲がまだ轟いている。
観客席もどよめいていた。
――このような大人数の前で、
霊界の秘儀を使うのは初めてだな。
スパルタクスは少しデモンストレーションが過ぎたかと思った。だがローマ人には、威を示さないといけない。侮られる。畏怖させる必要がある。人心掌握だ。
オスカーはまだ立っている。すると彼の目の前に、どこからか一振りの剣が飛んで来て、砂地に突き刺さった。gladius(グラディウス=小剣)だ。fascina(ファスキナ=三又槍)をこちらに向けて投げつけると、オスカーは小剣を手にした。そのまま大上段から斬りかかって来る。
スパルタクスは、態と曲刀で受けた。
正確には受け流した。派手に火花が散る。
――凄まじい膂力(りょりょく)だ。
まだ何か憑いている。憎しみが増幅されている。

その後も、視覚的に派手な殺陣を態と演じた。斬ろうと思えば、斬れたが、仲間を殺す事は目的ではない。奴隷を解放して、自由を手にする事が目的だ。ローマには従わない。
奴隷とは、自らの運命を、
自らで決められない者の事である。
スパルタクスは違う。
――それにしても、ベルセルクは厄介だな。
戦士の死霊を憑依させて、戦うとは……。
恐らく過去の試合で死んだ腕が立つ剣闘士の死霊が憑いている。技にも冴えがある。元々、オスカーはゲルマン人で槍使いだ。だがこの剣の冴えは何だ?太刀筋からして異なる。
――オスカーは霊体質だから、
何でも憑けられる本当に迷惑な男だな。
理性が低いから、こうなる。理性が高ければ、こんな事にならない。普通は悪霊に身を委ねたりしない。それはともかく、何かしら決着を付ける必要があった。stans missus(スタンス・ミッスス=引き分け試合)を狙っていた。このゲルマン人を正気に返さないといけない。
「Habet!Hoc Habet!=やった!殺した!」
(ハベット、ホックハベット)
観客が沸く。スパルタクスはすれ違い、シーカでオスカーの胴を斬った。派手に血飛沫が飛ぶが、内臓には達していない。加減をした。この程度では死なないが大きなダメージを与えた。
オスカーは片膝を突いた。
今ので悪霊が離れた。
斬られて、恐怖を覚えたのだろう。
主審のマギステル・ユリアヌスと副審のドクトル・ゴルディアヌスがオスカーに駆け寄る。傷の具合を見ている。主審のマギステル・ユリアヌスが来て、スパルタクスの腕を取った。
「Spartacus, victor !!=勝者、スパルタクス!」
(スパルタクス・ウィクトル)
勝った。
引き分けにはならなかったが、
殺されはしないだろう。
見苦しい戦いではない。
「Missus!(ミッスス=助命)」
歌巫女のニアが最初に叫ぶと、
まもなくアリーナ全体が、
ミッススの合唱で埋まった。

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺078
