ベッルム・スパルタキウムⅣ Septuaginta quattuor homines
紀元前73年4月21日、
牧人の祭り、
パリリア祭の日の夜だった。
その男が目を覚ますと、
周囲が騒がしい事に気が付いた。
――何だ?
チョイ美形のティローネス
=新人剣闘士は寝台から身を起した。
――ここはどこだ?
自室ではない。
暗くてよく見えない。
部屋の外に出て、顔を洗おう。
「痛ッ!何だ?」
額が痛い。
触ってみると火傷していた。
水飲み場の盥の水面を見た。
「何だ?こりゃ?」
自分の額に
θの文字が焼き印されている。
それで試合を思い出した。
――Θάνατος(=死)のθ(シータ)か?
(タナトス)

Λήθη(レーテー=三途の川)の
渡し守Χάρων(カローン)の仕業だ。
日本でも死者の額に
三角巾(天冠)を付ける。
アレと似たようなものだ。
識別信号だ。
だがなぜ生きている?
「それは私から話そう」
遺体安置所の前に
Mercurius(=Ἑρμῆς)役の男が立っていた。
(メルクリウス)(ヘルメース)

「スパルタクスが袖の下を通して、
君を生きながらえさせた」
チョイ美形は、
いや、額に焼き印がある
元チョイ美形のタナトスのθは理解した。
「……地獄の沙汰も金次第という訳か」
「そうだ。渡し賃が多過ぎた。
だから現世に帰ってきた」
あのカローンは儲かった訳だ。
それにしても一体幾ら渡したのか?
六文銭ではあるまい。
「Denarius Aureus(=スッラの金貨)一枚だ」
(デナリウス・アウレウス)
金貨1枚分の命、
兵士1か月分の給料か、
コメ1年分、いや、パン1年分の価値だ。

「なるほど、スパルタクスに借りが出来た訳だ。
ところでこの騒ぎは何だ?」
先程から周囲が騒がしい。
人々が廊下を走っている。
メルクリウス役の男は答えた。
「Bellum(ベッルム=戦争)だよ。
Bellum Servile(=奴隷戦争)だ」
(ベッルム・セルヴィル)
その戦争は台所から始まった。
「え~い!」
ニアがsartago(サルターゴー=フライパン)で料理人の後頭部を強打した。煩悩を撃ち払う鈍い鐘の音がして、料理人は昇天した。完全に不意打ちだった。女と侮って、不覚を取った。
「何だ!お前たちは!」
スパルタクスたち剣闘士が台所に入って来た。
料理人たちは騒然とした。
「はい、包丁!はい、鉄串!」
ニアが剣闘士たちに、culter(クルテル=包丁)とveru(ウェール=鉄串)を渡していく。スパルタクスたち剣闘士は木剣を持っていた。それで台所を制圧した。料理人たちは逃げた。

基本的に、
剣闘士養成所に刃物・武器はない。
脱走や反乱防止のためだ。
だが台所には多少の刃物があった。
そこに眼を付けた。
歌巫女ニアの機転だ。
手ごろな武器がなかったので、キッチンにあった包丁と鉄串を盗んで、スパルタクスたちは蜂起する事にした。Septuaginta quattuor homines (セプタジンタ・クアットール・ホミネース=74人)の剣闘士たちだ。オリジナル・セブンティ・フォー(始まりの74人)だ。
剣闘士養成所には200名の剣闘士がいたが、呼応できたのは、74人だけだった。決起は夕食後の空き時間が選ばれた。だが見張りのローマ兵もいる。彼らはgladius(グラディウス=小剣)を装備している。culter(クルテル=包丁)やveru(ウェール=鉄串)では心許ない。
ニアは真剣な顔をして、
sartago(サルターゴー=フライパン)
を両手で構えていた。
「俺のsica(シーカ=曲刀)はあるか?」
スパルタクスは尋ねた。基本的にニアは剣闘士養成所の外にいて、アマートーレスとして訪問する時しか会えない。流石にシーカは持ち込めないと思われたが、ちゃんと持って来た。
「偉い?褒めて、褒めて?」
白い布に包まれたスパルタクスのシーカがあった。巫女が守る宝剣だ。勇者の剣は光の巫女が預かる。これは洋の東西、過去、現在、未来を問わない。歴史の定め、伝説の王道だ。
スパルタクスは名も無きシーカを抜いた。錆びない鉄、隕鉄ではない、宇宙に由来する謎の金属を職人たちが打って造った幻の一振りだ。齢数万年と聞くが、もう地上に数本しかない。

全ての刀の原型にして、最高の一振りで、オーパーツ中のオーパーツだ。この刀は地球には存在しない未発見元素で構成されている。だから宇宙に由来する超兵器だ。
竜の勇者と光の巫女が、天の霊感に導かれて、伝説の剣を抜く時、時代が変わる。漫画やアニメの話をしているのではない。ありふれた宇宙の伝説の話をしている。本当の話をしている。
だが差し当たりは台所の包丁と鉄串で戦う。それが現実だ。それが歴史だ。それが物語だ。
「やー!」
ニアがsartago(サルターゴー=フライパン)を振り下ろす。ローマ兵はgladius(グラディウス=小剣)でカーンと受け止めた。そこにculter(クルテル=包丁)やveru(ウェール=鉄串)を持った剣闘士たちが殺到する。忽ち、その哀れなローマ兵は崩れ落ちた。
「ゴメンね」
ニアが目に涙を浮かべて、
すまなそうな顔をして謝っていた。
彼女は心優しいのだ。
「行くぞ」
スパルタクスは、仲間の剣闘士を率いて、脱出を図ろうとした。蜂起は手筈通り三カ所で起きた。ラテン系ガリア人のCrixus(クリクソス)の隊とギリシャ系ガリア人のΟἰνόμαος(オイノマオス)の隊だ。それぞれ20人強いる。馬番を襲ったり、逃走経路の確保に努める。

「待て、スパルターケ!」
Doctor(ドクトル=訓練士)ゴルディアヌスとMagister(マギステル=教練士)ユリアヌスが現われた。gladius(グラディウス=小剣)を持っている。ローマ兵もいた。
「脱走は許さん!」
ドクトル・ゴルディアヌスの指示で、
スパルタクスたちを包囲した。
「……押しとーる!」
一瞬、ドクトル・ゴルディアヌスは、自分が真っ二つになるビジョンを幻視した。だが現実は違った。ズボンの複雑な紐が切れて、下半身が露出した。ゴルディアヌスの結び目だ。

ドクトル・ゴルディアヌスが遅れて叫ぶと、
マギステル・ユリアヌスは裏切った。
「こっちだ!スパルターケ!」
突然横のローマ兵を撃ちながら、
道を示した。予定にない話だ。どうした?
「……いいのか?」
スパルタクスが尋ねると、
背教者ユリアヌスはニヤリと嗤った。
「今日から俺はApostata(=背教者)Iulianus(ユリアヌス)だ」
(アポスタタ)

とりあえず、聞かなかった事にして、
前に進む。いつだって、歴史には先駆者がいるのだ。
剣闘士蜂起の知らせを受け取ると、ファミリアを束ねるレントゥルス・ヴァティアは怒った。彼は剣闘士養成所に急行した。カプアの守備隊にも伝令を走らせる。剣闘士脱走となれば、praesidium(プラエシディウム=ローマの守備隊)の手も借りないといけない。
「誰が首謀者だ?」
レントゥルス・ヴァティアはローマ兵の小隊と共に剣闘士養成所に入った。剣闘士クリクソスが馬番を襲っているのが見えた。剣闘士を円形闘技場に運ぶ時に使う馬車だ。

「阻止しろ!」
ローマ兵が向かう。gladius(グラディウス=小剣)に対して、culter(クルテル=包丁)やveru(ウェール=鉄串)では分が悪い。rudis(ルディス=木剣)は長く持たない。
「Resistere non est mala!」
(レジステーレ・ノン・エスト・マーラ)
(=抵抗する事は悪ではない)
ラテン系のガリア人クルクスが、
仲間の剣闘士に叫んだ。
「Resistentia non est mala!」
(レジステンティア・ノン・エスト・マーラ)
(=抵抗は悪ではない)
台所の包丁や鉄串を持った
剣闘士たちの士気は異様に高かった。

レントゥルス・ヴァティアは
そのやり取りを見て、ピンと来た。
「スパルタクスか!」
いかにも奴が考えそうなスローガンだ。
小賢しい。奴が首謀者だろう。
川に流されるガリア人アッボー
とタナトスのθは、偶然バッタリ、廊下で出会った。
「あ!あの時の新人剣闘士!」
アッボーはそう言ったが、
タナトスのθには何の事かよく分からない。
「オレが金貨で
渡し守Χάρων(カローン)から助けてやったんだ」
「……それはスパルタクスのお陰だろう?」
タナトスのθは憮然とした様子で答えた。
「それはそうだが、
前金後金を考えたのはオレだ」
アッボーは円形闘技場の裏方で、
買収工作を担当していた。
「……前金後金で金貨を使ったのか?金があるな」
タナトスのθは驚いた。
一介の剣闘士にしてはやけに資金力がある。
「それはそうだ。スパルタクスはずっと備えてきた」
「……それがこの騒ぎか?」
アッボーは頷いた。タナトスのθは言った。
「分かった。加わろう。
Bellum Servile(ベッルム・セルヴィル=奴隷戦争)だ」
スパルタクスのシーカが煌めく度、ローマ兵は斃れた。レントゥルス・ヴァティアは苦戦していた。なぜ剣闘士どもはこれ程までに強い?マギルテル・ユリアヌスが斬りかかってきた。
「ユリアヌス!裏切ったな!」
レントゥルス・ヴァティアは驚いたが、
gladius(グラディウス=小剣)で応じた。
「Meministine odiorum quae hucusque habuisti?」
(この間の遺恨、覚えたるか)」
おや?よく見るとこのラテン語、
忠臣蔵が混じっているぞ?
時空の捻じれか。偶然の一致か。

「ええい!何をしている!
相手は碌な武器も持っていないんだぞ!」
明らかにローマ兵はひるんでいた。
士気が異様に高い。レントゥルス・ヴァティアは焦った。このままでは逃げられてしまう。彼はスパルタクスに何か言おうとしたが、不意に後頭部に衝撃を受けた。煩悩を打ち払う鈍い金の音だ。後ろでニアがフライパンを構えていた。
「武器ならあるよ。私たちの心が最強の武器だよ」
レントゥルス・ヴァティアは薄れていく意識の中、
女と侮って、不覚を取った事を後悔した。
「Resistere non est mala!」
「Resistentia non est mala!」
74人の剣闘士は、合言葉を唱えながら、剣闘士養成所を後にした。目指すは、Mons Vesuvius(モンス・ヴェスビウス=ヴェスヴィオ火山)だ。カプアの郊外から近い。

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺079
