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ベッルム・スパルタキウムXV decimatio

 その戦場はピケヌムと呼ばれた。
 イタリア半島中部の東側、アドリア海沿岸に広がる。
 
 ――スパルタクスは本当にそんなに強いのか?
 
 クラッススの副将ムンミウスは、二個軍団12,000を率いて、奴隷軍主力に平野で機動戦を仕掛けた。クラッススからは決して手を出すなと厳命されていた。だがムンミウスは、好機を逃さず決戦に入った。結果は惨敗。信じられない結果となった。ローマ通算9回目の敗北だ。
 
 
 
 紀元前72年12月上旬、
 ピケヌムで奴隷軍主力は副将ムンミウスと交戦した。
 「……小出しに行くぞ。いつもの手順だ」
 
 スパルタクスは、わざと何回も少数の部隊を、ローマ軍にぶつけて、平野に誘い出そうとしていた。無論、奴隷軍の小部隊は蹴散らされるし、撃破される。時には全滅したりする。だが確実にローマ軍を死地に誘い込んでいた。彼らは得意の平野でこそ勝てると信じている。
 
 ――奴隷も同じ人間だ。
 機動戦はできる。ローマのお家芸を奪うのだ。
 
 ローマ軍は小部隊を何度も破り、士気が上がっている。ローマ兵は活気づき、将官も勢いを止められない。気が付いたら、平野に両軍が立っていた。勿論、ローマ軍団兵は、機動戦で敗けるなんて思っていない。自分たちより巧みに機動戦をやる者たちがいると思っていない。
 
 ローマ軍は先に軽装歩兵を繰り出し、スリングによる投石と弓矢を仕掛けて来た。奴隷軍は盾を構えて、ダメージを軽減する。その間に、ローマ軍重装歩兵が前進して迫ってきた。だが奴隷軍は見事に二手に分かれて回避し、また後ろで一つに纏まった。一種の運動会だ。
 
 「騎兵隊、前へ!」

Spartacus imperium accipit.

 スパルタクスは命じた。奴隷軍はイタリア長征で、多くのイタリア人を抱えるようになり、とうとう騎兵隊まで組織できるようになった。まだ装備の点で、ローマ軍に劣るが、数が優勢で、戦いに勝つ度に、ローマ軍の装備を奪い、充実させてきた。もう大差ない。
 
 ――先に騎兵隊を封じてしまえば、
 後はどうにでもなる。

Equitatus

 わざと騎兵を消耗戦にもって行き、ローマの騎兵隊を戦闘不能にした。こちらも被害が大きいが、後は歩兵同士の戦いだ。これがアレクサンドロスやナポレオンだったら、通用しない。彼らは騎兵戦の天才だ。逆にやられるだろう。だがこの戦場にはスパルタクスしかいない。
 
 騎兵戦が終わると、ローマ軍は盾を構えて、
 防御態勢を取った。亀の甲羅作戦だ。
 
 「投石!」
 スパルタクスはスリングを持つ軽装歩兵に、
 投石を命じた。石が盾に命中する。
 
 「弓を放て!」
 スリング隊が後退し、軽装歩兵の弓隊が前に出た。
 大型の弓を撃つ。矢が盾に刺さる。
 
 「全軍、前へ!」
 軽装歩兵を下げて、重装歩兵を前進させる。古典古代、戦場の華だ。スパルタクスは斜線陣で、ローマ軍を押した。方陣に斜めに力がかかり、ローマ軍は斜めに押し出されて行く。ローマ兵が持つ左手の盾と、逆方向の力が掛かる。盾は先の攻撃で痛んでいた。方陣が揺らぐ。
 
 ローマの方陣が崩れたのは、
 力のかかり方の問題だった。
 亀の甲羅が割れたのだ。
 
 「一気に蹴散らせ!」
 人間の組織が瓦解した戦場で、
 できる事は何もない。ローマ市民兵は敗走した。
 
 

Spartacus Regii

 紀元前72年12月下旬、スパルタクスの奴隷軍は、長靴型のイタリア半島のつま先、レギウムに到着していた。シチリア島に渡る準備をしている。クラッススは敗れたムンミウスと合流し、奴隷軍をイタリアのつま先に封じ込めようとした。土地を封鎖して柵で囲った。

Intra tentorium

 夜半、そのテントには、
 六人のローマの将軍が座っていた。
 討伐軍十個軍団のトップだ。
 
 主将「プロ・コンスル」クラッスス、元老院からimperium(インペリウム=指揮権)を授けられた。副将「トリブーヌス・プレービス=護民官」ムンミウス、民会から送り込まれたエクイタス=騎士階級だ。騎兵隊長「プラエトル」クィンクティウス、ローマ騎兵隊を預かる。
 
 「quaestorクアエストル=財務官」スクローファス、序列4位で、左翼を預かる。ガイウス・ポンプティニウスとクィントゥス・マルキウス・ルフスは、別動隊の指揮を任される事があるが、そうでなければ、騎兵隊に所属して、騎兵隊長クィンクティウスの指揮下に入る。

 「スパルタクスの強みは何だ?」
 主将クラッススは幕僚に問うた。
 その表情は険しい。
 
 「……機動戦の上手さ、
 兵力の補充が幾らでも可能な事、地形を読む力」
 騎兵隊長クィンクティウスが指を折って、数えた。
 
 「そうだ。あと先を読む力だ。敵
 にギリシャ巫女がいるという話を聞いた」
 クラッススがそう言うと、皆は顔を見合わせた。
 この時代、神通力も大きな戦力だった。
 
 「まず、兵力の際限のない補充だが、
 これが厄介だ。だから手を打った」
 
 「……奴隷を買い集めて、補助兵にした事ですか」
 騎兵隊長クィンクティウスは
 やや苦々しそうな表情を浮かべた。
 ローマの名誉に関わる。

Servi agricolae

 クラッススは金で、カンパニア・ルカニアの農場奴隷を新兵として集め、スパルタクス側の増員を防いだ。だが奴隷は全くの弱兵だ。やる気がない。ローマ側では訳に立たない。しかしスパルタクス側で補充されると、たちまち別人のように活躍する。それを防ぐだけでも大きい。
 
 「ああ、そうだ。だが奴隷兵は弱い。
 だからスッラの古参兵も集めた」
 クラッススは自費で、
 十個軍団+補助兵を集め、
 12万の兵力を組織した。

Veterani

 「……未だにスッラの力を借りるとは」
 副将ムンミウスが呟いた。
 スッラの死後、古参兵は土地を与えられ、
 土地所有者になった。
 
 「言うな。まだ戦いが忘れられない者もいる」
 騎兵隊長クィンクティウスは言った。
 スッラの死は紀元前79年だ。
 まだ10年経っていない。
 
 幕僚たちの会話が、
 戦場の昔話になりそうだったので、
 クラッススは強引に話を戻した。
 
 「スパルタクスの強みである
 機動戦も地形を読む力も、柵で囲って封じた」
 
 クラッススは、考えられる全てのスパルタクスの強みに手を打ち、対処した。この時点で、戦略家として、決して平凡な将でない事を示している。金持ちクラッススは伊達じゃない。
 
 「だがまだ足りない。それが何だか分かるか?」
 幕僚たちは、互いに顔を見合わせた。分からない。何だ?
 
 「奴隷たちは熱狂的だ。
 ディオニュソス的と言っていい。オルギアだ」
 「……奴らは何かを信じているのですか?」
 副将ムンミウスは言った。戦場での悪夢が脳裡にちらつく。
 
 「ああ、できもしない故郷帰還を夢見ている」
 クラッススは憎しみを込めて言った。
 所有する幾つもの大土地農園を奴隷蜂起で失った。

 「だから彼らを絶望させないといけない」
 それは分かるが、どうやってやるのか?
 
 「彼らの士気を挫かないといけない」
 幕僚たちはクラッススの異様な雰囲気に飲み込まれた。
 
 「無敵のスパルタクスとギリシャ巫女の魔法から
 奴隷を解き放たないといけない」

 クラッススは奥の手を用意していた。
 ある意味、不名誉だが、絶対奴隷軍は絶望する。
 
 「だがその前に、
 我が軍の綱紀も粛清しないといけない」
 クラッススはムンミウスを見て言った。
 彼はぎくりとした顔をする。

 「なぜ私の指示を守らず、奴隷軍と戦った?」
 「……それは」
 ムンミウスは言葉が続かなかった。

Mummius capite demisso

 「それからあの逃げ方は何だ?不名誉ではないか?」
 ローマ軍団兵は、蜘蛛の子を散らすように
 戦場から逃げ帰った。

 クラッススは最早反論できないムンミウスを見た。
 「decimatio(デキマーティオー=1/10刑)」

 その場にいた全員の顔色がサッと変わった。古いローマ軍の掟だ。戦で不名誉な敗け方をした部隊に実施されるくじ引きだ。10番目の者が死刑になる。だから1/10刑と言われる。
 
 「……だがそれは古過ぎて、
 近年実施された例はない」
 クィンクティウスは言った。
 それに無駄に戦力を損なう。
 現実的ではない。

 「いや、実施する。
 奴らに勝る絶望と恐怖を与えないと
 ローマ軍が勝てない」

 クラッススは断言した。
 敵も味方も絶望させる。
 それで初めて対等の条件となる。

 「我が戦いの敗者には死と絶望しか
 与えないと知れ。勝者には栄光を!弱者には死を!だ」
 
 
 
 ムンミウスは、配下の軍団を全員整列させた。クラッススの命令を伝えなければならない。これは大変不名誉な事であり、極めて重い刑罰だ。だが信賞必罰は武門の拠って立つ処であり、洋の東西を問わない。decimatio(デキマーティオー=1/10刑)を実施しなければならない。
 
 ムンミウスは、皆の前に立つと、厳かに宣言した。

Mummius decimationem pronuntians

 「諸君らは、栄光あるローマ軍団兵であるにもかかわらず、恥も外聞もなく、軍旗や戦友を見捨てて、戦場から逃げ去った。これは重罪である。罰せねばならない」
 
 二個軍団は静まり返って、しわぶき一つない。
 
 「decimatio(デキマーティオー=1/10刑)」

 ムンミウスがその言葉を口にすると、サーッと驚きと恐怖が広がるのが分かった。Centurio(チェントゥリオ=百人隊長)たちが部下に怒号を発して、動揺を静めた。そして中隊を小隊ごとに分け始めた。さらに10人毎の分隊に分ける。班分けだ。そして草紐が配られる。

 その分隊の軍団兵たちは、くじ引きをした。分隊長が十本の草紐を片手に掴んでいる。その草紐には数字が振られていて、Ⅰ~Ⅹまである。Xを引いた者が死刑になる。仲間から殺害される。これがdecimatio(デキマーティオー=1/10刑)だ。

 「decimatio(デキマーティオー=10番目)!」

decimatio

 Xを引いてしまった軍団兵は、思わず叫んでいた。他の隊でも、Xを引いた軍団兵が青ざめている。全軍で1割が死刑になる凄まじい刑罰だ。二個軍団だから、先の戦闘で定員割れしているとしても、1,000名近くが死刑になる計算となる。Xを引いた者が集められる。
 
 この者たちは、予め武器や防具を貸与させていない。一か所に集められ、gladius(グラディウス=小剣)を渡された残りの者たちがぐるっと包囲した。絶望の瞬間だ。同じローマ市民であり、commilites(コミーリテース=戦友たち)だった者だ。今から虐殺する。
 
 9/10が1/10を殺す。これがdecimatio(デキマーティオー=1/10刑)だ。
ムンミウスは、右手を挙げ、Centurio(チェントゥリオ=百人隊長)たちを見た。
 
 「Fac!(ファク=やれ!)」
 
 手を振り下ろすと、瞬く間に悲鳴と怒号が飛び交った。9/10が1/10を殺して行く。包囲殲滅戦方式だ。誰も助からない。同じ釜の飯を食った仲間同士、同郷の隣近所同士の者たちがくじで分けられて、一方的な殺害に加担する。凄まじい罪悪感がある刑罰だ。
 
 ……クラッススは一体何を考えてこんな事をする?

 ムンミウスは、無抵抗に殺されていく丸腰のローマ軍団兵を見ていた。殺す方も、殺される方も、狂気に侵されている。まともな神経ではいられない。これほど人間精神を深く傷つける刑罰はない。先祖のローマ人は一体何を考えて、このような刑罰を定めたのだろうか?

Crassus vinum bibens

             シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺090


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