50年の窓 第28章
第28章 人類種の再起動
2042年4月
作戦は実行段階へと移行した。 北米、欧州、アジアの主要都市はもちろん、アフリカの奥地や太平洋の島々に至るまで、米軍の輸送機や現地のボランティアの手によってD-ロックが届けられた。 途上国への普及には、米国が巨額の資金援助を行った。「貧困を理由に投薬を受けられない人間を1人も出さない」というΩプロジェクトの理念は、カレンたちの強い要望であり、大統領の理解もそこにあった。
効果は劇的だった。 WHOの統計データは、新規の「亜種」の出生率が急速に低下していることを示していた。既に生まれてしまった亜種の子供たちへの対策は残念ながら現段階で無いが亜種の子が大人になり子を持つ時人として生きることが可能になった。
新たな感染の拡大が止まったことで、パンデミックの終息が見え始めたのである。 今後5年以内に、全ての感染者の体内でDウイルスが完全に封鎖される。再度のパンデミックが起こる可能性は、統計学的に無視できるレベルまで低下するだろう。 「50年の窓」は、閉じられる寸前で、こじ開けられたのだ。
2042年8月
大統領府からカレンに連絡があった。大統領自由勲章の受賞が決まったので、授与式典はホワイトハウスのボール・ルームで行われるので、15日前後の予定を空けておいてほしいということであった。
また、この話を聞きつけてのことと思われるが、サムから当日の夕食の誘いを受けた。どういった風の吹き回しか、目的は良くわからなかった。大統領自由賞受賞のご褒美のおもてなしだろうと、理解した。
15日大統領のスピーチは以下の通りであった。
「歴史上、偉大な先人達は常に、目前にある課題をどう乗り越えるかを議論してきた。しかし、カレンは誰も気づくことのなかった人類滅亡に連なる微細な変化に気づき、50年という決して長くはない、限られた『窓』を世界に放った。
そして、震え慄く人類にその『窓』の向こうに広がる開かれた世界を提示し、それを現実のものとしてみせたのです。
あなたの孤独な戦いは、子供たちの表情に微細な違和感を覚えたという好奇心に始まり、世界中の識者を説得し、かつての人類史にない規模の叡智の集合という完全なチームの結成に至りました。その先端で『50年の窓』に挑戦し、ついに本日、この偉大な解決を結実させたのです。
この快挙は、単に今回の人類の危機を救ったという結果にとどまりません。世界各国の相互理解を深め、世界平和という視点からも、従来にない新たなステップを踏み出したこともまた、正当に評価されるべきです。
合衆国大統領として、私はあなたを世界の誇りに思うと同時に、あなたが切り開いた窓の先にある『明日』を生きる全人類を代表して、言葉では語り尽くせない深い感謝を捧げます。
ありがとうカレン。あなたは、今生きる人類のみを救ったのではない。この後、何万年も続くであろう、未来の人類を構成するすべての人々を救ったのです。神のご加護を。」
カレンが、大統領挨拶の余韻を反芻する中で、サムが近づいてきた。
「おめでとうございます。歴代の大統領もこれほどに受賞者を賞賛することはなかったと思います。おめでとうございます。また、改めて、ありがとうございます。そして、お疲れ様でした。」
「私も過分なお言葉に驚いています。大統領の『子供達の表情に違和感』という言葉から、7年前からの色々な出来事がフラッシュバックしてきました。」
「これから、DC市内のレストランにご案内します。スペースX代表のマスク氏がお待ちになっています。」
「えっ、マスクさんが居られるのですか?どんなお話か気になっていましたが、マスクさんからのお話なんですね。ちょっと怖い。」
車は市内のほぼ中央、オフィスビルの前に止まった。
ビルに入るとMINIBARと書かれたロゴが目に入り、サムはカレンをそちらにエスコートする。中に入ると、BARMINIと名盤が打たれた大きくはないバーの奥に初対面ではあったがひと目で誰かと分かるイーロン・マスク1人が既にそこに着席していた。
マスクはアーモンドを目の前に置いてジントニックを啜っていた。スマホが手元に置いてあった。サムとマスクは親しげに挨拶を交わし、サムは改めて2人を紹介した。
どうも、ご褒美の話だけではないようであった。
2人の紹介が終わると、サムは礼儀正しく別れの挨拶をして、場を離れた。
「いらっしゃい、今日はおめでとうございます。大統領のスピーチもSNSで見ました。過去に例のない素晴らしいスピーチだと思いますよ。おめでとう。」
「ありがとうございます。私、大統領の過分なお言葉に恐れ入っています。
私、学生のときからマスクさんを『得意な視点の方』ということで注目していました。多分、マスクさんの事、なんでも知っていますよ。ファンの一人かもしれません。こんな形でお会いできるとは夢のようです。」
「それは、ありがたい。何をのみますか。」
「シャンパンか、何かいただけますか。」
「それではシャンパーニュ、ヴーヴ・クリコにしましょう。ご存じですか?クリコは未亡人で女性ですが、シャンパーニュの澱を取り除く方法を発明したり、発想の豊な方だったそうです。貴方に似ているかもしれない。」
いきなり、大統領のスピーチを話題にするのは、今日の本題は何か次の話題だな?とカレンは感じます。
マスクには、12月に、延期された待望の火星への第2便を発射する予定がある、、、どうも、火星ミッションへのリクルートかな、と思う矢先、
「用意できたようですね。乾杯しましょう。
今日は、大統領自由賞受賞おめでとうございます。
実は、ご存知かもしれませんが12月に火星行きの第2便が出ます。急な話で恐縮ですが、我々の仲間になっていただけませんか。火星に新たな人類の拠点を作るというプロジェクトです。貴方のような方に来て欲しい。」
ケントとの4年間のブランクも気になり、即答はできなかったが、マスクは、2ヶ月ごとのケントからのレポートを引用しながら、彼の現状を説明してくれた。相変わらず、彼は彼の興味を思う存分広げて活動している様子だった。
カレンはそれでも返事に詰まっていた。
マスクは、彼女の躊躇の理由を察し、
「彼には、パートナーは、まだ居ないみたいですよ。どうでしょう。受けていただきたいのですが、、」
カレンには躊躇する理由が消え、意識が答える先に、
「行きます。お願いします。ありがとうございます。」と続け。嬉さで視野が潤んだ。
2人は、バーから12席の白磁のカウンターに移りいくつかのワインを指定し、食事に入った。こちらにも他の客は無く、マスクが店を借り切ったことは明らかであった。
カレンは苦しかった4年間分のクリスマスと誕生日がまとまって来たような喜びと、感激を楽しむことになった。
Dウイルスとの辛い1人だけの戦いの勝利、予想もしない大統領自由賞受賞、そして、先が保証された、ケントとの再会のこれ以上の話はあり得ないと、シャンパーニュにワイン3本を空けて、楽しい時間を過ごした。
「マスクさん、私が貴方の色々な独創的な物事の展開の中でもっと敬服し尊敬することになった出来事はなんだと思います?」
「今回の火星移住計画かな?」
カレンは薄笑いを浮かべて
「いいえ、そんなことはフツーのアイディアですよ。」
「何かな?」
「それは、ロケットエンジンに特殊な金属3Dプリンターを使ったことです。簡単ではなかったはずで、部下の方々も『出来ない』と言ったに違いないでしょう。
私の専門は遺伝子と心理学ですが、科学者ですのでケントとも同じですが広い範囲に技術的好奇心の網が広がっています。部下を指導して、その困難を超え3Dプリンターでジンバルと言いますか?エンジンである噴射口を作ってしまったことです。」
「たくさんのパイプを組み込み、熱と圧力に耐える素材、簡単ではないはずですが、苦労して成功すれば、いくつも同じ物を自動で作れるし、数が多ければ信頼性が高くコストが低いものができると、感じていました。」
「貴方が、そんなところに注目するとは思ってもみなかったな。しかし、おっしゃる通り、あのエンジンの完成と、逆噴射の着陸でロケットを再利用可能とするには困難がたくさんありましたが、この2つはおっしゃる通り特別だったと思います。
ご興味があれば朝までいろいろご説明しましょうか?
でも、そんな視点で部外者が見ているとは、まして女性の貴方が、、驚きです。あなたをスカウトする判断は間違っていなかった。」
カレンがほとんどの時間喋り続け、マスクの特異性に対して心からの賞賛を伝えた。
カレンは、ケントとの自閉症の議論を始めてから7年の歳月を思い起こせば全てが、1つの瞬間にすぎないように思えてきて、気がつけば心はケントとの再会の想像に走っていた。」
2042年10月
ストックホルムからの電話が、ワシントンのカレンのアパートのベルを鳴らした。
ノーベル生理学・医学賞の受賞決定の通知であった。 授賞理由は「Dウイルスに対する、人類種の保存への貢献」であった。
世界中がカレンを救世主として称えた。しかし、カレンの心にあったのは、名誉への喜びではなかった。 彼女は窓の外、秋の気配が深まるワシントンの空を見上げた。その遥か彼方、赤い砂の惑星にいるはずのパートナーのことを思った。 「ケント、聞こえる? 私たちは守り切ったわ」 彼女の戦いは終わった。しかし、彼女の人生の、本当の目的はまだ果たされていなかった。
2042年12月
フロリダ、ケネディ宇宙センター。 延期されていたスペースXの火星移住船「スターシップ」第2陣の打ち上げ準備が整っていた。 その搭乗者リストの中に、カレン・ハリスの名前があった。35歳になった彼女は、地球での全ての地位と名声を捨て、1人の移住者として列に並んでいた。
許される荷物は最小限だったが、その荷物にはGウイルスのデータと、D-ロックのサンプル、そして心には何よりも大切な「好奇心」という、かつて失われかけた人類の魂が詰め込まれていた。
厳しい重量制限の中、D-ロックのデータなどに潜り込ませた「藁に包まれたキャンティのボトルと赤いケシの種」、4年間のギャップを埋める時間を作る、と彼女は決意していた。
ロケットのエンジンが点火される。轟音と共に強い重力。そしてその重力から解き放たれていく中で、カレンは確信していた。 これが終わりではない。新しい人類の、本当の始まりなのだと。
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第29章 再開、そして新世界の開拓
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