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デッサン面白い!とデッサン誇示したい!の深くて暗い溝の話

※この記事は敬称略で書いています。  

前回テーマが面白そうで無料お試し漫画読んだら作者が力配分間違ってて萎えた話を書いた。  

んでデッサンを念頭に置いた絵って実は2つに分かれてて、それが表題の
「デッサン面白い!」

「デッサン誇示したい!」
である。  

もちろん前回ケチョンケチョンに評した漫画は後者である。  

前者は見てて非常に楽しいし気持ちもよくわかるので快いのだが、問題は後者である。
「デッサン誇示したい!」
………。
って、一体誰得?

前者は「楽しさのお裾分け」という感じでデッサンわかる時のワクワク感が伝わるから「おーいーねいーね」と読者としても楽しく見られる。
まさに描き手の「センス・オブ・ワンダー」が伝わってくる瞬間である。
単純に「楽しそうだな!」とわかる。
しかし後者には、
「それを読者に訴えてどうするの?」
という不毛さを感じるのである。  

正直に言えば読者目線だとデッサン上手いと感じるかどうかは読者たる自分が決めることなので、作者にうるさくがなられ押し付けられる謂れはない。
価値観は読者が自身で決めるものである。  

そもそもデッサン上手いかどうかは作者に言われなくたってわかる事なので、敢えて声に出して言わなくていい日本語である(いや声には出してないけど。でも絵には出てるのよ)  

絵を自分で描かない読者にだって上手い人そうでない人はわかるもんである。
況してや自分で描く人間であれば何をか言わんや、である。
寧ろ私などは意地が悪いので
「わざわざそんな主張を絵に『モロ出ココ』したがる絵師の方が、逆にやっぱり上手くないんだよなあ…」と思ってしまう。
しかし私の底意地の悪さとは無関係に上記の事実とエビデンスは溜まっていく一方なのである。  

本当に上手くてそれが当たり前になってる達人絵師にはわざわざ自分の画力を主張する必然性がないのである。
だって本人にとっては「当たり前」なんだから。  

であれば作者が「私はデッサン上手いんだ!そう思え!」ってわざわざ絵を通して言う必然性もどこにもない、という事になる。
またデッサン力は最低限クリアしていれば特別上手くなくても作品の質と完全に正比例する訳でもない。
また「(一見の)リアル目デッサン力と感動も正比例しない」。  

それらが正比例するならばDRAGON BALLが世界中を席巻した事実に説明がつかない。
あの愛らしいデフォルメの極致(マッチョですら極めて読者に優しいデフォルメ)と一見のリアル目デッサンは正反対である。
もちろん実際には鳥山明のデフォルメは確実なリアルデッサンの元に構築された洗練の果ての極みであるのだが。  

だから「『私はデッサン上手いんだ!』などと主張するのに割く労力、他のとこに回してくれる?」と言いたくなる。
前回の残念漫画のように。  

そういう主張をしたがる人ってのは得てしてその無駄吠えにばかり労力を割いて、他の大事なとこをおざなりにしがちからである。  

なんで無駄吠えになるかと言うと

作品に於いてそんな主張をする事には本来的、本質的になんの意味もない

からである。  

本質的に無意味な事に労力を割いているから本当に、まさに、真に無駄骨の無駄吠えでしかないのである。
そんな事主張しても作品の質は上がらないし、そもそも関係ないのである。  

そんな主張をするために背伸びして
「無理矢理デッサン力ある風に見せかけよう」
という無駄骨を折ると、本来作品のバランスや質をあげたり整えたりするためのリソースが減ってしまい、結果歪な作品が出来上がってしまう。
そんな作品は読者にももちろん作者にとっても何もいいことはない。  

デッサン力なんて最低限自分の描きたいモンを表せる程度があればあとは作品全体の質を上げる方にペース配分した方がよほどいい作品になる。
それでもなお余力があってデッサンに楽しみが見出せるなら追求すれば良い。  

しかし大した上手くもないのに「私はデッサン上手いのよ!!どう!?」
と直接絵に乗せちゃうのはかなり相当みっともない。
見てるこちらが共感性羞恥にまみれてしまうので読者としては勘弁して欲しい。  

読者や閲覧者の立場としては作者の「私、上手いでしょう!?」なんて自負はどうでもいい話である。
作品のテーマや質がちゃんとしてて共感できると自ずと「これいいなあ」と読者は感じるのである。
しかし「私をこう思え!」という余計な思い込みを作品に載せられても、それは読者との共感のフックにはなり得ず読者は困惑する事になる。
作者=作品ではないからである。
作者≒作品はままある事ではあるが、
作者≠作品もままある事だからである。  

要は作者=作品という「因果関係はない」という事である。
であれば

作者側の「読者にこう思われたい、こう思え」という思念は「作品の質にとっては何の因果関係もない単なるノイズ」でしかない。

逆にノイズが乗ると却って作品の質が落ちるまである。

大体「私上手いでしょう!?」が(隠された…と言いつつ実は隠れていないが、作者にとって一番真芯の)テーマの作品が、読者にとって何の意味や共振性があるというのだろう。
読者にとってそんなテーマは「どうでもいいの極み」である。
そして一方的に押し付けられて共感できるはずもない。
これは当然のことである。  

「私上手いでしょう!?」と言いたい作者だとて自分が読者側に回った時には、他者作品に載った「私上手いでしょう!?」などは心底どうでもいい、と感じるのではなかろうか。
それより面白いもの、共感できるもの、感動できるものを見せてくれ、と思うのではなかろうか。  

中には「他者作品を自分の作品の餌にしてやろう」という、最初から作品としてきちんと鑑賞するつもりも品位もない読み方、つまり非礼な振る舞いをする者もいるかもしれないが。
まあその場合はまさに品位がない作者ということなので、そんな作者の手になる作品も品位の落ちるものになる事は想像に難くない。  

いずれにせよ読者には読者の感性があり、自由がある。
それを一方的に「こう感じろ!」というのはかなりの横暴であり、作者の傲慢であり、ある種のファッショであると私は考える。
その押し付け方は毒親の押し付けやダブルスタンダード、ダブルバインドに極めてよく似ていると思う。
まあ、これは全くの余談ではあるが。  

で、最初に戻って
「デッサン面白い!」は描き手自身が面白さのあまり本人がどんどん技術を追求していくので本当に上手くなる。
しかし本心では面白いとも楽しいとも思ってないにも関わらず「上手いと思われたいがためのデッサンを渋々行う」描き手はどうか。
それは言わずもがな「本人にとってはつまんない事」なのでどんどん技術を追求する動機も推進力もなく、当然上達の度合いも低くなる。
であればやはり「『私上手いでしょう!!』という動機で作者が読者に見せつけようといくら無駄骨を折ろうとも、結局は口ほどには到底届かない出来」にしか結果的にならないという事である。  

であるからあらゆる角度から考慮しても
「デッサン誇示したい!」
「上手いと思われたい!」
ほど作品に載せるには無駄な思念というものはないと私は思っている。  

考えてもみよう。
「中途半端な」美人に「アタシ綺麗でしょ!!美人でしょ!!?」とゴリ押しされたらウザイじゃないですか。
「なんや中途半端の癖に絶世の美女ぶって…」
てなるやないですか。
庶民の本音としては。
で本物の絶世の美女はってーと自ら何にも言わず自ずと輝いてる。
世の中そーゆーもんである。  

自分の格は自分が決めるものではない。

だから自分の格を他人に押し付けるという行為自体が自分の格を下げている事に早く気づいた方がいい。

とお互いのために思う次第である。  


相変わらず
世界中で誰も使わない
ワールドワイドぼっちな
描画ブラシで描いた絵
文字以外は全部
ぼっち筆

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