連載7:霊的な交わりと一致〈声なきホサナ〉3-1
マークス神父と「また煌堂で」
受難の始まり/聖週間2020
3-1 霊的な交わりと一致〈声なきホサナ〉
2020年4月7日(火曜日)。
COVID-19の感染拡大を受け、日本政府は7都府県(東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡)に緊急事態宣言を発出し、国民に外出自粛を要請した。
その二日前の日曜日4月5日、カトリック教会は「受難の主日」を迎えていた。
「受難の主日」は、キリストの受難の始まりを記念する日である。
エルサレムに入城したキリストを、民衆が手にシュロ(なつめやし)の枝を持って「ホサナ」と叫びながら出迎えたことから、「枝の主日」とも呼ばれる。
この日から「聖週間」が始まる。
「四旬節」はキリストの受難と十字架上の死を思い起こす、いわば復活祭を迎えるための準備期間であるが、「聖週間」はその四旬節の最終週、教会にとって一年で最も重要な、典礼のクライマックスである。
通常ならば、信徒たちはみな手に枝を持ち、エルサレムの人々のように「ホサナ」と歌いながら入堂(聖堂に入室)する。
しかし2020年、受難の主日(枝の主日)に「ホサナ」の歌声は響かなかった。
聖週間を前に、教会が封鎖されたからである。
実は2月の終わりから、すでに都市部のカトリック教会では、不特定多数が参加する公開のミサや告解(ゆるしの秘跡)を中止していた。
この年は2月26日より四旬節に入っていた。
四旬節期間中の教会は、普段よりも人の出入りが多くなる。
教会がクラスターになるような事態は絶対に避けなければならない。
「密閉、密集、密接」の三密を防ぐため、何らかの措置が必要であった。
マークス神父が奉仕する教会の地区(教区という)を管轄する大司教は、教区内の全ての信徒を対象に、主日と呼ばれる日曜のミサに与る義務を免除し、「特に高齢で持病のある人は、自宅で共同体の祈りに加わるように」という異例の通達を出していた。
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要するに、「感染リスクの高い高齢者は教会に出て来るな」ということである。
司牧に携わる司祭も例外ではない。
高齢司祭は「いのちを守るために」人の集まる現場には出ないように、と伝えられていた。
(これもジョーの激しい憤りの一因であった)
そんな中、教会の庭で行う「青空告解」を思いついたジョー・マークス神父は、彼もまた決して感染リスクが低いわけではない、むしろかなり高い部類に入る高齢者であったのだが、「充分な距離を取って」信徒たちに奉仕していた。
その青空告解も、教会の封鎖決定によりピリオドが打たれた。
何もかもが前代未聞であった。
教会の一連の決定に、マークス神父はひどく衝撃を受け、一時は手がつけられなかった。
(詳細は本連載の第1回から第3回※※)
しかし、「タブレットを使って、煌めく光のバーチャル聖堂を創る」という言葉に心を開いた彼は、翌朝、約束の時間にビデオ通話をコールしてきた。
「おはようございます」
ジョー・マークス神父のタブレットの前には、ミサ道具一式が準備されていた。
mikageです:
コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。
(たまに単発で短編を挟むことがあります)
更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。
なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。
読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。
また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。
続き(連載8)はこちら↓
本文※※↓↓連載の第1回はこちら↓
(↓たまに単発で短編を挟むことがあります)
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今後ともよろしくお願いいたします。
目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage
