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連載8:霊的な交わりと一致〈煌堂ミサ攻防戦〉3-2

マークス神父と「また煌堂で」

受難の始まり/聖週間2020

3-2 霊的な交わりと一致〈煌堂ミサ攻防戦〉

 「タブレットで祈る気になれたのなら、いっそタブレットでミサをやってみませんか」と提案した時、ジョーはかなり渋った。

 今でこそ、ミサ映像のインターネット配信や、遠隔で行うオンラインでの黙想会・講演会などは、カトリック教会の日常にも溶け込んでいる。

 しかし、コロナ禍以前にネット中継されていた教会行事、ましてミサなどは、例えば教会総本山であるバチカンのクリスマスや、教皇が訪日した際の記念ミサ、教皇が司式する何か特別な意向のミサ、司教や司祭の叙階式、あるいは何か重要な慶弔行事など、いずれも特殊なイベントばかりであったように思う。

 また視聴者の側も、その祭儀に与るというよりも、あくまで式典を見て自分もその祈りに加わる程度の感覚にすぎなかったのではないだろうか。
(あまり相違がないように聞こえるが、両者は大きく異なる)

 少なくともかつての日本のカトリック教会には、ミサのライブ配信や、まして、インターネットを介してミサを遠隔で行うという発想自体が存在しなかった。

 ここで強調しておくべきは、カトリック教会のミサは聖体の秘跡(注:キリストの体であるパンを拝領することによって、神と一致する恵み)を中心とする交わりの祭儀であり、本来は、人が物理的に一つに集い執り行われるべきものである、という大原則である。

 聖体は一人でいただくものではない。
 キリストを信じる民が食卓を囲み、神と民との交わりの中でキリストの体を受け、キリストに結ばれて一つになって感謝を捧げ合うべきものだ。

 物理的な意味でも、霊的な意味でも、ミサは真の交わりと一致にこそ意味がある。

 だから、ミサの映像を単に視聴するだけというのでは、本来はミサに与ったことにはならない。
 コロナ禍の前、ミサのライブ配信が普及しなかった理由も、そのあたりにあるのだと思う。

 そして、その原則は今も昔も、コロナ禍の前も後も変わらない。

 ジョー・マークス神父も、やはりミサでの(物理的な)交わりと一致を極めて重んじており、また典礼には厳格であった。

 「タブレットのミサでは、ミカゲ、あなたが聖体を拝領できないよ」と、ジョーは煌堂ミサに難色を示した。

 「それに、このような機械を使ったインターネットでのミサが、そもそも聖なる祭儀として有効なのかどうか、私には判断ができません」

 「ジョー、あなたが私を気遣ってくださるのをありがたく思います」

 「でもね、私は自分が聖体をいただくことよりも、マークス神父が現在の社会のためにミサを立てることの方が、今は遥かに重要だと私は思うのです」
 ジョーが黙っているので私は続けた。

 「マークス神父はいつも一致の祈りを尊んでいらっしゃいます」

 「人と人とが自分の心からのものを神に捧げ、それを互いに受けとめ合い、心一つにして捧げ合うこと、それを重んじるあなたのミサは、ジョー、いつも真の交わりの祈りそのものではありませんか」

 「こんな今だからこそ、そのような祈りのミサ聖祭を、私はマークス神父に捧げていただきたいと思うのです」

 「そのミサに、私は霊的に一致します」



mikageです:

コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。

(たまに単発で短編を挟むことがあります)

更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。

なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。

読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。

また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。

続き(連載9)はこちら↓

本記事(3-2)「霊的な交わりと一致」の
(3-1)はこちら↓

連載の第1回はこちら↓

(↓たまに単発で短編を挟むことがあります)

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今後ともよろしくお願いいたします。

目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage

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