23_世界の真ん中_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
Q. シーモアが木やおばあちゃまの椅子におかしな真似をするのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」の前半で、ミュリエルの母はシーモアについて「木を見ても例のおかしな真似をやろうとしなかったかしら?」と問いかけ、ミュリエルが「木の方は見ないように見ないようにやってるの」(12)と答える。
また、ミュリエルの母の「おばあちゃまの椅子をあの人(シーモア)がどうしようとしたかは(精神分析医に)話したの?」というセリフから、椅子に対してもシーモアが何か異常な行動をとったらしいことが仄めかされる(18)。これらの表現に込められた意味は何だろうか。
本稿の解釈はこう。
A. 樹木や椅子は古くから信仰の対象であり世界の中心軸。木は分身、椅子は精神分析のカウチにも通じるモチーフ。
以下に理由を述べる。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 『金枝篇』と樹木信仰
「バナナフィッシュ」の前半で、ミュリエルの母がシーモアについて「木を見ても例のおかしな真似をやろうとしなかったかしら?」と問いかける(12)場面から、シーモアが樹木に対して異常な行動を起こしたことが仄めかされる。
また、後半ではシーモアがシビルに「一体きみはどこに住んでるの?」と問い、シビルが「コネティカット州ワーリー・ウッド Whirly Wood」(26)と答える。これが次の会話に出てくる『ちびくろさんぼ』の虎が木の周りをぐるぐる回る様子を意味することは、田中啓史氏が指摘している。(『ミステリアス・サリンジャー 隠されたものがたり』南雲堂、1996年)
ユング派の神話研究では、古くから樹木が生命や宇宙の象徴とされ、世界の中心軸、万物の回転軸、すべての命の源泉とされてきたと説明されている。キャンベルはこれを、キリストが磔刑にかけられた十字架や、ユダヤ神秘主義カバラの生命樹、仏陀が座った菩提樹とも重ね、西洋・東洋共通のものとして説明している。樹木信仰では、木には精霊が宿っていると考えられ、聖なるもの、神様や精霊、あるいは人間と同等のもの、人間の分身として扱われるという(G)。
この樹木信仰は、フレーザーが『金枝篇』で記した儀式や神話、それを参照して書かれたエリオットの『荒地』、イエスの磔刑の起源といわれるオシリス神話で建てられるジェド柱にもつながり、サリンジャーも「逆さまの森」『キャッチャー』「エズメ」「ディンギー」「ハプワース」など、複数の作品でこのモチーフを描きこんでいる(神聖な木々にちなんだ名前、クリスマス・ツリー、杖などとして描かれている、詳細各作品読解にて)。
シーモアが木に対しておこなった「おかしな真似 funny business」が何だったかは、作中には書かれていない。車の修理の費用をシーモアが払うと言っているということは、木にぶつかって車が壊れるような真似をしたということだろうか。
樹木を神聖なものとみなす信仰は世界各地にみられるが、木に対して何を行うかは、土地や民族によってさまざま。だから、サリンジャーはここで、シーモアが樹木に対して特別な感情を持っていたということだけを示し、何をしたのかはあえて明示せず、読者にゆだねたのかもしれない。
また、以前考察したように、神話や豊饒祭祀で木を建てることは、神話の英雄が再生し、大工として新しい世界観を構築することにつながる。
自分の内面にしっかりと根を張り、揺るぎない幹を持つ立派な木を育てることができるか、幹を十分に育てることができないまま、天ばかりを目指してすぐに倒れてしまう脆い木を育ててしまうのかは、個人の力量や、状況にもよるのだろう。
シェイクスピアの『ハムレット』で、オフィーリアが柳の木にのぼろうとして水に落ち、死んでしまうのもこれにつながる表現だ。オフィーリアの性質を体現するかのような優しくて弱い柳の枝は、精神的な危機に瀕したとき、高みへ登ろうとする者をあえなく落下させて殺してしまう。『オセロー』で、〈緑の柳〉(203)が失恋の歌として言及されるのもここからの連想だろうか。
サリンジャーの中編「逆さまの森」では、深刻なマザー・コンプレックスに伴う精神的な倒錯が、地下に向かって伸びていく樹木や森のイメージで描かれている。これは、『お気に召すまま』や『マクベス』で描かれたような無意識の世界としての森のイメージとも結びつけて考えると面白いのではないだろうか。このあたりは改めて考察したい。
「バナナフィッシュ」だけを読んでシーモアが木に何をしたのかを想像するのは困難だが、ここはフレーザーの『金枝篇』やシェイクスピア作品、他のサリンジャー作品の樹木への言及とあわせて読むことで想像が広がる部分だと思う。
2 心の中の玉座
「バナナフィッシュ」では、ミュリエルの「おばあちゃまの椅子」についてもシーモアが何か普通ではない行動をとり(18)、「おばあちゃまが、亡くなるときにはああしてこうしてって、いろんな計画を立ててたのに、あの人ひどいことを言ったじゃない?」(15)と語られる。
サリンジャーは、デビュー作「若者たち」の冒頭と最後の場面で、主人公エドナが〈大きな赤い椅子〉(119・131)に座っている場面を描いており、初期から椅子を重要なモチーフと考えていたようだ。
前回(上記リンク[22_バターになる虎])引用した、未分化のエネルギーについてのジョーゼフ・キャンベルの説明は、ある孤島で、王子と王女が横になった寝椅子が昼も夜も止まることなく回転し続ける神話について紹介したもの。以下にもう少し詳しく引いてみる。
ぐるぐる回る寝椅子は「世界軸」である。眠れる城は、降りていく意識が夢の中にもぐって向かっていく究極の深淵である。そこでは一人ひとりの命がまさに溶けて、未分化のエネルギーになろうとしている。溶けるとは死といってもいいだろう。
『ちびくろサンボ』の虎と同じ寝椅子の回転はむろん、下記でみたようなバミューダの水流とも響きあう。
神話においては、椅子も樹木同様、世界の中心軸を意味する(絶対的な世界の中心があるのではなく、神話においては、一人ひとりがいるその場所こそが世界の中心である)。神話や夢、シェイクスピアやエリオットらの作品において、一人ひとりの内なる精神世界は、自分の国に例えられ、そこで、自分は未熟なうちは王子(姫)、成長すれば王となる。椅子は、一人ひとりが自らの内なる領土をおさめる玉座の象徴といえるだろう。
フランドル地方の伝統的な道化祭りでは、カーニバルの期間中、価値観があべこべになり、司教の代わりに最も愚かなフール=道化が祭り上げられ、教会の司教座に腰かけるという。胸の内にある自分のための玉座を道化にのっとられることは、場がカーニバル化すること、狂気にとりつかれることとイコールなのである。
『キャッチャー』のモチーフにもなっているユダヤ教神秘主義では、古くから玉座信仰があるという。それはグノーシス主義や錬金術の思想に通じるといい(R)、シェイクスピアの思想とも重なる部分がある。ユングが自伝に記している〈赤いクッションが置かれた黄金の玉座〉の夢(P)も有名だ。ユングの自伝の発表はサリンジャーが作品を執筆した時期よりも後だが、サリンジャーの元妻クレアさんの影響など、何らかの方法でサリンジャーがこの話を知っていた可能性もあるし、偶然の一致だとしてもこのつながりは重要だと思う。
シェイクスピア作品にも玉座信仰を思わせる記述がいくつかある。例えば『マクベス』で、現実には「玉座の高み」にいながら狂気にとりつかれたマクベスが、亡霊に椅子を乗っ取られたといって「席がない」(97)亡霊が「椅子から人を押しのける」(99)と激しく動揺するのは、椅子を奪われることが王座から転落することを意味するから。マクベスが支配する王国は、マクベス自身の精神世界を映したものであり、その座を奪われることは、自分の精神を亡霊、あるいは狂気にのっとられること、自分の心が自分のものではなくなることと同義だ。
サリンジャーはおそらく、これをふまえて「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」でバスの「椅子取り合戦」(204)や、日本人夫婦宅には「椅子がなくて座布団だけ」(216)という表現を入れている(この意味は同作品読解にて)。
3 『オセロー』の輿
『オセロー』では、けが人を運ぶために〈chair(二本の棒をつけた輿)〉があれば(215・216)と繰り返し強調される。再三述べている通り、シェイクスピア作品において、続けて二度繰り返される言葉はたいてい、精神が分裂していることや、一緒にいるべき人々が離れ離れになっていることなどを示すし、それは狂気に陥っていること、傷ついていることとイコールである。
ここで脚を切られたのはキャシオーだが、その傷は、オセローとデズデモーナ夫妻の心が引き裂かれつつあること、イアゴーの心が善悪に分裂していることと響きあう。そんな場面で二度求められる〈chair 椅子〉は、神話の英雄の傷を癒すために用意された場所、クジラの腹にもつながるアイテム。キャシオーの脚の傷を経由して、引き裂かれた夫婦の絆やイアゴーの心を癒すための場としても読むことができる。
サリンジャー作品では、これが精神分析で患者が横になるカウチにつながる。『キャッチャー』のアントリーニ先生宅でホールデンが横になるカウチ、「ズーイ」でフラニーが横になるカウチは、世界の中心軸であり、英雄の精神的な傷を癒すために用意された場所だ(詳しくは各作品読解参照)。
4 不死鳥の玉座
『テンペスト』では、魔法による精霊たちの劇中劇を見た驚きが、以下のように語られる。
生身の人形芝居です。こうなると何でも
信じる気になります、一角獣がいることも、アラビアには
不死鳥の玉座という樹木があって、いまでもそこに
一羽の不死鳥が君臨しているということも
不死鳥・フェニックス・火の鳥は、燃え上がる炎に飛び込んで復活する伝説の生き物で、錬金術では賢者の石を象徴するともいわれているという(Wikipedia)。蜜蝋の翼が溶かされて墜落するイカロス、死んでは再生することを繰り返す永遠の少年のイメージにも近い。『十二夜』では、これが虎と対になっていることは、前回述べた通り。
そんな不死鳥が、ここでは玉座信仰・樹木信仰と結びつけられている。一角獣もまた、永遠の少年を象徴するモチーフで、「シーモア-序章-」でシーモアは一角獣だと語られている(詳細後述)。永遠の少年のための玉座という樹木。そこは彼らがバターに還り、再生するための世界の中心軸である。
5 おばあちゃまの椅子
「バナナフィッシュ」で、シーモアがミュリエルの祖母の椅子に対して何をしたのかまでは書かれていないが、愛用の椅子が再生のためのカウチとしての役割を果たせるように、なにか細工を施した。しかし、それは常識的な感覚を持つミュリエルの両親には理解しがたい行為だった。というようなことを表現しようとしたものだろうか。
何をしたかよりも、ここでは精神分析医と、傷を癒すための場としてのカウチ(それはユングいうコンテイナーだと私は思うのだけれど)、としてのおばあちゃまの椅子が結び付けられていることこそが重要なのかもしれない。
「ひどいことを言った」というのは、『ナイン・ストーリーズ』全体を貫く神話的な輪廻転生の思想、肉体が滅びても魂は生き続けるのだから死を恐れる必要はないというような、シーモアは善意でいったことが、ミュリエル一家にとっては思いやりのない言葉に聞こえた、というようなことだろうか。
少々分かりにくいが、ミュリエルの祖母に示した生死観を通して、本作で自殺を遂げるシーモアが、生前から死を恐れる者ではなかったこと、死後により成長した形での再生を強く願う者であったことを示す記述であるように思う。再生がどんな形でなされるのかは、読者の想像次第ということになるのだろう。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
「スキ」をいただけたらうれしいです。
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■参考文献
I_『図説 金枝篇』J・G・フレーザー著、Mダグラス監修、Sマコーマック編集、吉岡晶子訳、講談社、2011年
R_『ユダヤ神秘主義』ゲルショム・ショーレム、山下肇・石丸昭二・井ノ川清・西脇征嘉訳、法政大学出版局、1985年
P_『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年
