裁判は終わる。でも会社は続く
民事訴訟法の問題を考えていて、少し止まった。
被相続人の債権者が、相続人に対して六百万円の支払いを求める。
相続人は、限定承認を主張する。
裁判所はそれを認め、相続財産の範囲で六百万円を支払えという判決が確定する。
その後になって債権者が、
限定承認は無効だった。
相続人は個人の財産からも支払うべきだ。
と主張できるのか。
原則として、できない。
一度、限定承認を前提に、支払う範囲が判断された。
その判決が確定した。
それなのに、あとから限定承認の無効を主張して責任範囲を広げようとすれば、前の判決を蒸し返すことになる。
民事訴訟は、どこかで紛争を終わらせる制度なのだと思う。
その裁判の中で主張する。
証拠を出す。
裁判所が判断する。
判決が確定する。
そうなれば、原則としてそこで終わる。
少し冷たいようにも見える。
あとから重要な証拠が出てくることもある。
その時は必死に調べた。
でも見つからなかった。
判決が確定したあと、第三者から資料が出てきた。
そういうことも、現実にはあり得る。
そのたびにもう一度やり直せるのか。
そこを広く認めると、裁判はいつまでも終わらない。
勝った側も、いつまた争いが始まるか分からない。
負けた側も、新しい証拠を探し続けることになる。
だから民事訴訟は、かなり厳しく線を引く。
その時に出せるものは、その時に出す。
その時に争うべきことは、その時に争う。
判決が確定したら、原則として終わり。
ただし、何でも無視されるわけではない。
判決後にまったく新しい事実が発生した場合は、別に考える余地がある。
前の裁判で使われた証拠が偽造だった。
証人が偽証していた。
相手方の不正によって、重要な証拠を出せなかった。
この場合には、再審という例外的な道が問題になる。
民事訴訟は、後から出てきた事情を完全に拒絶しているわけではない。
単に「後から有利な証拠が見つかった」というだけでは足りない。
単なる蒸し返しなのか。
判決の前提を壊すような重大な事情なのか。
判決後に生じた新しい事実なのか。
そこを分けて考える。
民事訴訟は、過去を何度でも開き直す制度ではない。
しかし、判決の前提が壊れるような事情まで無視する制度でもない。
会社の中にも、蒸し返しはある。
会議で決めた。
資料も出た。
質問の機会もあった。
議事録も残った。
担当者も動いた。
お金も使った。
それなのに、あとから、
本当はあの時こうだった。
実は別の話を聞いていた。
誰々は納得していなかった。
あの判断はおかしかった。
という話が出てくる。
これは、会社版の蒸し返しだと思う。
その時に言えばよかった。
その場で出せばよかった。
判断の前に確認すればよかった。
そう言いたくなる場面は、確かにある。
ただ、会社は民事訴訟とは違う。
裁判は、紛争を終わらせるための制度である。
会社は、終わらずに続いていく組織である。
年度が終わっても、会社は終わらない。
事業は続く。
人も残る。
借入も残る。
赤字も残る。
改善されなかった課題も残る。
前年度の会議で一応終わった話でも、翌年度の数字や状況によって、評価が変わることがある。
前年度の判断の前提が崩れた。
新しい事実が出た。
改善されるはずだったものが改善されなかった。
当時の説明と違う実態が見えてきた。
数字がさらに悪化した。
こうなると、それは単なる蒸し返しとは言い切れない。
会社を続いていくものとして見るなら、前年度の判断が今年もそのまま通用するとは限らない。
いわゆるゴーイングコンサーンの感覚で考えると、年度をまたいで評価が変わることはあり得る。
ここが難しい。
もう終わった話だから触れるな。
これだけでは危ない。
やっぱりおかしかったから全部やり直せ。
これも危ない。
必要なのは、蒸し返しと再評価を分けることなのだと思う。
単なる不満なのか。
後出しの言い訳なのか。
本当に新しい事実が出たのか。
前年度の判断の前提が崩れたのか。
今の経営判断に影響しているのか。
そこを見なければならない。
民事訴訟は、過去を閉じることで紛争を終わらせる。
会社は、過去を読み直しながら続いていく。
似ているようで、根っこが違う。
裁判では、確定判決がある。
会社では、年度の区切りがある。
でも、会社の問題は年度末で消えてくれるわけではない。
だからこそ、決める時にはきちんと決める。
資料を読む。
質問する。
記録に残す。
反対なら、その場で反対する。
そして、あとから見直す時には、ただの蒸し返しなのか、本当に前提が崩れたのかを見極める。
うちの会社にも、結構ある。
笑いごとのようで、あまり笑えない。
法律は、どこで線を引くかを考えさせる。
会社は、その線をどこに引くのかを、毎日のように問うてくる。
裁判は終わる。
でも会社は続く。
続くという言葉の重さを、果てしなく感じる。
