この小学校の常識、世間では非常識?それとも、もう50年以上も昔の話だから?違うって??(1)
私が6年間通い、卒業した小学校は、奈良県の、今でいう宇陀市にあった、とある公立の小学校でした。なお、その小学校は今、少子化とスクールバスの発達により、残念ながら原形をとどめていません。
以前、別の記事で、少しだけ取り上げたことがありましたが、改めて、今思うに、もしかしたら他の小学校にはない特徴かもしれないことが多数あったので、一応、ここで思い出せるだけ記事にしてみて、「それは珍しい」とか、「いや、それは他の小学校でも普通にあった」とか、その他色々反応を頂ければありがたく思うので、とりあえず記事にしてみます。
なお、実際に私がその小学校に通っていた時期は、記憶に間違いがなければ1969~1975年(昭和44~50年)頃のお話だったと思います。
なお、その小学校の規模は1学年1学級、1学年の人数は17~27人程度の、割と小規模な小学校でした。
[一]1958年(昭和33年)の段階で、すでに鉄筋コンクリートの校舎だった
小学校と言えば木造の校舎が当たり前だったと思われるその頃、地元出身で、当時(今も)大阪に本社があり全国的にも有名な、とある大きな製薬会社の社長さん(当時)が、なんと、地元のために、小学校の校舎を寄付してくださり、当時としては実に珍しかった、小学校校舎としては最先端を行く鉄筋コンクリート2階建ての校舎が、1958年度の半ばに出来上がった。私自身はその10年後、その小学校に併設の幼稚園(法律上は『へき地保育所』だが周囲のみんなは幼稚園と呼んでいた。小学校就学前の1年だけ通う形式だった)に通う一員としてみんなと一緒に、そして小学校のみんなと一緒に「新校舎落成10周年記念式典」に出席した。その中の小学校の校長先生(立場上併設幼稚園の園長先生を兼ねる)のお話の中で、一言だけ、強烈だった言葉、それだけを覚えている。
『10周年と言えば、幼稚園の子は知らない、…』
そして後日、私が高校生になった時、当時の高校の英語担当で、同じく今でいう宇陀市の別の小学校の出身で、今(1979年頃)もその場所から高校へ通う先生が、私にとって、これも強烈に残る、知られざるお話を教えてくれた。本当かどうかいまだに裏付けは取れていないが、それによると…
その、鉄筋コンクリート造りにするために取り壊された木造の旧校舎は、その高校の英語の先生が当時通っていた小学校に移築され、校舎として再び使われていたらしい…
[二]運動会名物「親子孫三代リレー」!!
その小学校の、毎年秋の10月第一日曜日に行われる運動会は、小学生のみならず、併設の幼稚園児、就園前の小さな子、それから中高生、地元婦人会、青年団、消防団、老人会など総出の地域の一大イベントとして行われていた。
その中の競技の一つとして、他の所では今まで全く聞くことの無かった「親子孫三代リレー」というのがあった。100mの短い区間の最初をまず小学生が走り、そのバトンは次にそのお父さんまたはお母さんに渡され、そして最後はその家のお爺さん(またはお婆さん…のはずだが現実にお婆さんが出る例はほぼなかったように思う)に渡されて文字通り一家総出で走るリレーというのがあった。ただ…
私の家は、私自身が生まれるよりも先に家のお爺さん・お婆さんともに他界しており、このリレーには6年間全く出場を申し込めなかった。
[三]年始の挨拶は「年賀カード」!!
これも他の小学校では聞いたことがない。当時の郵便はがきの値段よりもずいぶん安い金額(例えば通常ハガキが7円の頃の或る年、年賀カードは1枚3円だった)で、その小学校に通う児童と先生など職員同士だけに通用する独自の「年賀カード」っていうのがあって、毎年の年末になると、主に6年生の児童有志が手作業で、はがきより少しだけ小さい紙に、表面の切手部分にはなぜか青少年赤十字マークの判を押して、そして同じく表面の下の方には抽選番号が連番で押された年賀カードが作られて児童・教員など関係者にだけ販売され、そして配達については確か前日の大みそか辺りにその小学校の校区の各地域別の高学年の児童が来て地域別に仕分けをして自分の地域のものだけを持ち帰り、その持ち帰った児童が翌日の1月1日に地域の小学生が居る各家庭に配る…っていうのがあった。これも他の地域では聞いたことないな…
そして、新学期早々のある日にその年賀カードの連番をくじ番号として当せん番号を決める抽選会が行われ、1等(1本)から4等(多数)まで景品がもらえたという…
[四]それから小学校での『旗体操』!!しかも児童全員参加…
これも今はどうなったのかな…その小学校の運動会での定例行事として『旗体操』という、その小学校独自のコーナーがあった。
児童全員が両手にそれぞれ一本ずつの、紙製の日の丸の小さな旗、手で持てるように短い棒に付けて入場・整列し、地域独自のオリジナルな音楽に合わせて両手それぞれに持った小さな旗と共に決まった振り付けの体操を行う。そのオリジナルな歌詞、いっそのこと、覚えている限り、ここに載せてしまおうっと!
(とりあえずうろ覚えながら、こんな歌詞だったっけ…)
秋天高く 気は澄みて
涼風 袂 祓う時
禊を受けし このかいな
試すは 今日の 運動会
そびゆる 伊那佐の 麗岳や
その影映す 芳野川
日頃鍛えし この体
示すは 今日の 運動会
(…漢字が多少間違っている可能性がないでもないんですが、概ねこんな感じと記憶しています。歌詞の中で、「かいな」は「荷稲」という漢字にあたると20年以上前のある日のネット検索で見つけた事があったのですが今はそのWebページは無くなっており改めての裏付けが取れなかったのでその部分はひらがなに戻しておきます)
[五]もう一つ運動会ネタで『三百六十五歩のマーチ』
小学校の6年間、変わらずあったコーナーとして、この『三百六十五歩のマーチ』(水前寺清子の歌)ともう一つ、『ジェンカ』(坂本九の歌)に合わせて全校児童みんなでフォークダンスのような踊りを行う、っていうのがあった。
・・・今振り返ってみれば、この中の『三百六十五歩のマーチ』の歌詞、これを六年間にわたってこんな場面で刷り込まれたこと。「やすまないであーるーけー」とか、その他いろんな歌詞。そんな考え方が、自分のその後の人生から自由にものを考える心を奪ったその力は、残念ながら絶大だった気がする。
[六]教室内のテレビ
これは他の学校にもあったかな?各教室に1台ずつ、決して大きいとは言えないテレビがあって、当時は全て白黒で、しかも観音開きのドア付きで、主に当時のNHK教育テレビの学校教育番組を授業時間内に皆で視聴するためにあったんだけれど、小学校3年生から6年生の頃だったか、給食の時間にもそのテレビがつけられていて、当時、平日のお昼の時間帯にあった視聴者参加番組の「ベルトクイズQ&Q」を視聴しながら給食を食べていた…
[七]自校調理の給食室
最近は道路事情が良くなったのに伴いセンター集中方式の調理が主になっていると思われるが、当時のその小学校周辺はまだまだ道路事情が悪かったせいなのか、給食は自校調理方式だった。
給食の調理担当の職員は地元の女性の方が2名。児童からすれば、これぞまさに「給食のおばさん」だった。
いくらシステム化されているとはいえ、たった2名で児童全員と教職員の皆さん総勢140人くらいだったかな?のお昼の食事を作ってくださってたとは…児童の立場では当時目に見えなかったけれどきっとそういう面で苦労されたであろうことを含め、今思い返せば本当に頭が下がる思い。
なお、私の卒業と同時に当時の(合併前の)町内の小中学校の給食を一手に作る給食センターが完成し、その「給食のおばさん」もバスに乗って行く町内中心部に近いその給食センターに職場が変わっていたようだった。
