【小説】『パンドラ・ファイル』(その10)『月を撃つ影(ムーンショット・シャドウ) ~2050年の甘い罠~』【第一部:国家という名のブランド】第2章:2050年のユートピア
剣崎は書斎のメインスイッチを切り替え、秘匿された通信プロトコルを起動した。
画面に浮かび上がるのは、IQ(知能指数)が人類の上位2%の者だけが入会を許される世界的な高知能団体『NOUS』のロゴ。だが、彼がアクセスしたのは、その公開された議論の場ではない。NOUSの深淵に潜む、知られざる解決チーム――『PANDORA(パンドラ)』のプライベート・ハブだ。
法の手が届かない、あるいは法そのものが悪意に加担している時、論理と技術でその「バグ」を修正する。それがパンドラの存在意義だった。
画面に三つのインジケーターが点灯した。
「やあ、Axiom。64歳になって最初の仕事が『月(ムーンショット)』とは、随分とスケールが大きくなったね」
パンドラ内で「Axiom(公理)」と名乗る剣崎に対し、最初に呼びかけたのはBit(ビット)。
二十代の天才ホワイトハッカーであり、デジタル空間におけるパンドラの「矛」だ。彼に突破できないファイアウォールはこの世に存在しない。
「お久しぶり、Axiom様。でも、今回の案件は少し『冷たすぎる』気がするわ」
次に響いたのは、Rose(マダム・ローズ)の艶やかな声。
臨床心理学の博士号を持つ彼女は、プロファイリングで人の心の脆弱性を暴き出す「盾」であり「罠」でもある。
「……一兆円規模の予算、民間からの巨額投資。数字が大きすぎて、悪意の『体温』が隠されているな」
最後は、乾いた砂が擦れるような声。Abacus(アバカス)。
元国税局の凄腕調査官。金の流れから犯罪の「足跡」を嗅ぎつける、冷徹な猟犬だ。
剣崎は、彼らを束ねるリーダーとして、招待状のデータを共有した。
「ターゲットは、政府が推進する『ムーンショット計画』。そして、それに出資する投資シンジケート『ルナ・キャピタル』だ。……行方不明になっていた進藤君が、このプロジェクトの責任者として現れた」
「進藤……あの若き天才か」Abacusが呟く。
「Bit、政府サーバーへ潜入して、進藤君の現状を調べろ。ローズ、ルナ・キャピタルが謳っている『死後も続くアバター資産運用』の心理的トリックを解析してくれ。アバカス、一兆円の公金が、どのパイプを通って誰の懐に流れているかを洗え」
『宗一郎さん、政府の公式デモンストレーションの開始まで、あと三時間です』
AIメティスが、冷静なカウントダウンを告げた。
剣崎は、地下駐車場に停めてある愛車へと向かった。
会場は、お台場の湾岸エリアにある最新の研究施設。そこでは、二〇五〇年の未来を先取りした「アバター社会」の完成予想図が披露されようとしていた。

会場に入ると、そこは熱気に包まれていた。
車椅子の高齢者が、専用のヘッドセットを装着している。すると、ステージ上に置かれた精巧なヒューマノイド・ロボット――サイバネティック・アバターが、主人の思考と同期して軽やかに立ち上がり、美しいダンスを披露した。
「素晴らしい……。これさえあれば、私はもう、この動かない体に縛られなくて済むのだ」
参加者の一人が、感極まった声を上げる。
政府の役人は、誇らしげに宣言した。
「二〇五〇年、日本から孤独と介護の不安は消滅します。あなたのアバターは、あなたの意識をコピーし、あなたが亡くなった後も、愛する家族を見守り、資産を守り続けるのです」
会場が拍手喝采に包まれる中、剣崎は最前列で一人、アバターの目を凝視していた。
完璧な動き。完璧な笑顔。
だが、剣崎の目は、アバターが動くたびに、背後の制御サーバーから発信される「不自然なパケット」を、スマートウォッチを通じて検知していた。
(……進藤君、君はどこにいる?)
その時、アバターの視線が一瞬、剣崎と重なった。
合成された合成音声ではない、生身の、掠れた声が剣崎の耳元のインカムに直接飛び込んできた。
『……先生。……月を、撃ってください』
それは、失踪した進藤の声だった。
次の瞬間、アバターは再び「完璧なロボット」に戻り、機械的な微笑みを浮かべた。
「メティス。……今の声を記録したか?」
『はい、宗一郎さん。進藤様の声紋と一致。……ですが、送信元はサーバー内ではなく、アバターの「深層意識」の、消去されかけたセクタからです』
剣崎は、拍手の渦の中で冷たい震えを感じていた。
身体の解放。意識の永続。
そんな美名の下で行われているのは、人の「死」をハックし、その主権そのものを盗み取る、国家規模の強奪プロジェクトではないのか。
「……いいだろう。この『ユートピア』のコードを、パンドラが一行残らずデバッグしてやる」
剣崎は、熱狂する群衆を背に、施設の出口へと歩き出した。
月を撃つための弾丸は、すでにパンドラの銃身に装填されている。

