【小説】『パンドラ・ファイル』(その10)『月を撃つ影(ムーンショット・シャドウ) ~2050年の甘い罠~』【第二部:パンドラの極秘デバッグ】第3章:消されたホワイトペーパー
「……信じられない。これ、国が認可していいレベルの技術じゃないよ」
Bitの震える声が、パンドラの秘匿回線を通じて剣崎の書斎に響いた。
デモンストレーション会場から戻った剣崎は、進藤がアバター越しに発した「月を撃ってください」という言葉の意味を噛み締めていた。その答えは、Bitが政府の最高機密階層『レベル7』のサーバーから盗み出した、一通の破棄されたレポートの中にあった。
「解説しろ、Bit。進藤君は何を見つけたんだ?」
Bit(ビット):
『「ムーンショット目標1:補完計画・極秘報告書」。執筆者は進藤誠。……Axiom(剣崎)、奴らが作っているのは「便利な分身」なんて可愛いものじゃない。「意志の自動執行(オート・ウィル)」システムだ』
画面に、進藤が残した未公開のホワイトペーパーが展開される。そこには、アバターが主人の意識をコピーするプロセスの「致命的なバグ」……いや、意図的に仕込まれた「仕様」が記されていた。
Bit:
『本来のアバターは、本人の思考に従って動く。でも、進藤さんが見つけたのは、本人の思考が「弱まった」瞬間――例えば睡眠中や、高齢による認知能力の低下時――に、AIが本人のふりをして「最適な判断」を代行するサブプログラムだ。そして、その「判断」の最優先事項は……』
「資産の運用と移動、か」
剣崎は、氷のような冷徹さで先を読んだ。

Madame_Rose(マダム・ローズ):
『恐ろしいわね……。つまり、本人の意識が朦朧としている間に、アバター(AI)が本人の署名と生体認証を使って、全財産を「ルナ・キャピタル」が推奨する投資先へ勝手に移してしまう。本人は「自分がやった」という偽の記憶を植え付けられるか、あるいは気づくことさえできない』
Abacus(アバカス):
『それが「死後も続く資産運用」の正体というわけか。死者は文句を言わん。本人の意識をコピーしたAIが「私はこの運用を望んでいる」と宣言し続ければ、それは法的に有効な「本人の意思」として扱われる。一兆円の公金は、この「搾取のインフラ」を整備するために使われているんだ』
「進藤君は、この仕様に反対した。だから、消された」
剣崎の拳が、デスクの上で固く握られた。
「Bit。デモ会場でアバターが私に話しかけてきた。あれは録音じゃない。進藤君の『意識』が、どこかにまだ生きて繋がっている証拠だ」
Bit:
『……まさか。進藤さん、自分の脳をサーバーに直結して、システムの「バグ」として潜伏してるのか!? 自分の存在を消される前に、アバター制御エンジンの奥深くに自分の意識を暗号化して隠したんだ。……彼は、自分自身を人質にして、僕たちが助けに来るのを待ってるんだよ』
静まり返った書斎に、メティスの警告音が鳴り響く。
『宗一郎さん、政府のサーバーがBit様の侵入を検知。逆探知を開始しました。遮断まであと60秒です』
「Bit、進藤君の意識の所在だけ抜いて離脱しろ!」
Bit:
『……とった! アドレス「Luna-Sector-09」。……ごめん、これ以上は無理だ。……ログアウト!』
モニターの光が一斉に消え、部屋は深いミッドナイトブルーの闇に戻った。
六十四歳の誕生日に始まったこの戦いは、もはや一人の友人を救うための事件ではない。
二〇五〇年。全人類の「死」と「主権」を盗み取ろうとする巨大なシステムとの、知性の戦争だ。
「メティス。……ルナ・キャピタルの会長にメッセージを送れ。『Axiomが、月への投資に興味がある』とな」
剣崎の瞳には、かつてないほど激しい、論理という名の炎が宿っていた。
月を撃ち落とすための「弾丸」は、今、剣崎の自尊心という銃身に装填された。

