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国会議事堂の中は、なぜ、あんなに『豪華絢爛』なのか?その答えの入り口が少しだけ見つかった気がしたので、一応書いてみる。

 国会議事堂。

 多くの人にとって、「永田町」にあるあの建物は、日々の庶民の暮らしからは想像もつかないほど遠く、豪華絢爛な別世界に見えるのではないでしょうか。

 見ようによっては、「これぞ、国会議員という特権階級の地位の象徴だ」と、冷ややかな視線を送りたくなることもあるかもしれません。

 実は、私が10代の頃に読んだ、とある全国紙の新聞の投書欄に、今でも強く印象に残っている、ひとつの投書があります。

 それは昭和50年(1975年)、人口の増加などに伴い衆議院議員の定数が「491」から「511」へ、20議席増やされた頃のことです。
 NHKのテレビニュースで、議席を追加するための実作業(机や椅子の増設)が報じられていました。
 そのニュース原稿の中で、本会議場の議員が座る「椅子と机」の価格が読まれたそうです。私の記憶による価格ですが…

「一席あたり、約百二十数万円」

 それをお茶の間で聞いたという、その投書主の方は、「聞き間違いかもしれない……」と耳を疑い、NHKに直接問い合わせて金額を確かめたといいます。そして、やはりその値段が事実だったと知ると、当時の物価を考えても「あまりにも贅沢すぎる、高すぎる」として、それを批判する趣旨の投書をされていました。

 当時としての「120万円」は、現代の感覚に直せば数百万円にものぼる大金です。
 確かに、それだけを切り取れば「贅沢の極み」以外の何物でもないように思えます。

 話は変わりますが、去年の参議院議員選挙で初当選された、とある新人議員の一人の方が、当選後何ヶ月もしてから、
「改めて国会の建物の内部を見たら、こんなにすごかった!」
・・・と、驚きをもって国会議事堂の内部を案内する動画を投稿されていました。

 動画の中で映し出されるタイルの敷き詰められた床、職人の手彫りの装飾、美しいステンドグラス……。


 やはり、一言で言って「すごい」と圧倒されると同時に、どこか私たちの暮らす社会とは切り離された、別世界のようにも感じられます。

「国権の最高機関」というもう一つの事実

 しかしここで、少し視点を変えて、もう一つの事実に目を向けてみたいと思います。

 日本国憲法第41条には、次のように定められています。

国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である

 それほどまでに重い責任を負う場であるならば、そこで使われる建造物が、憲法の定める役割にふさわしい「最高の造り」であること自体は、一概に否定されるべきではないと思います。

 ただ、ここで考えるべきは、「誰がその席に座るのか」という点です。

 その最高峰の重厚な空間にふさわしい、真に主権者(国民)の代表と言える人間を、私たちはそこにたくさん送り出せているでしょうか。
 投票率は決して高くは無く、多数の棄権者がいるのをいいことに、特定の団体や、外国を含む何らかの宗教団体の影響下にある者、あるいは何の理念もなくただ親の地盤を(その優遇税制を最大限生かして)引き継いだだけの世襲議員など、国民全体の代表としてふさわしくない者たちでその神聖な場を汚してはいないでしょうか。

 主権者である私たち一人一人が安易に棄権せず、皆が自らの意思を投票で示して、真にふさわしい代表を国会に送り込むこと。
 …それこそが、この歴史ある「器」を、本来の意味で活かすことにつながります。

「千年単位」を見据えた、究極のコストパフォーマンス

 さらに、この「豪華絢爛」な建物そのものにも、別の角度からの答えが見えてきます。それは「耐用年数」という視点です。

 現代の日本の建物は、その大多数が数十年で取り壊され、建て替えられます。長く持っても100年いけば「大層立派な建物」とされる時代です。

 しかし、この国会議事堂は昭和11年(1936年)に誕生し、すでに90年が経過しています。
 大理石や高級木材を使用して、その時・その時代の職人さん方が手作業で丹念に作り上げたその頑丈さは、100年どころか、数百年、あるいは一千年を超えてもなお後、きっと何百年や千年単位でも、現役として十分耐えうるであるように見えるほど徹底して造り込まれています。

 もしもこの先、この建造物が数百年、あるいは千数百年、それ以上にわたって何世代もの代表の方々を支え続けて、そしてこの国の今までも長く、そしてこれからも長いであろうことを願う日本の歴史と共に歩みつつづけるのだとしたら。
 一時的に「贅沢すぎる」と見えた120万円の椅子や、息をのむような美しい調度品も、数百年、数千年という超長期スパンで考えれば、「他の多くの建物のように壊しては建てる」を繰り返すよりも、実は圧倒的に安上がりで、もっともコストパフォーマンスに優れた選択だった、そうなると考えていいのではと私は考え、そして願います。

私たちが、その「器」を本当の意味で満たすために

国会議員は居眠りばかりだ」
「待遇が良すぎる」
 ・・・などという批判は後を絶ちません。
 しかし、その「ふさわしくない代表」を当選させてしまい、落選させなかったのも、あるいは選ぶ権利を放棄したのも、また私たち国民の側です。

 一時の空気や雰囲気やブームに流されることなく、何よりも「この国会の場、この最高機関の器にふさわしい主権者の代表か」を見極めて投票する必要があります。

 議員定数が数百にも及ぶにもかかわらず小選挙区制で、たった数人から一人を選ばなければならず、そんな小規模選挙の少数の候補者の選挙に、
 「ろくな選択肢がいない」
・・・と絶望してしまうことも、今の制度上、決して少なくはないでしょう。
 しかし、そんなときでも「ベストではないが、少しでもベターな選択」を繰り返していって、それで前に進んでいくことでしか、政治の質は向上しません。

 同時に、小選挙区制や当選人数の少なさで多数の民意を切り捨ててしまう選挙制度のあり方(死票の多さ)そのものに対しても、国民一人一人が「これはおかしい(のではないか)」と声を上げていくことが必要です。

 短期的な贅沢に目を奪われるのではなく、この先何百年、何千年の未来へと続くこの頑丈な国会議事堂のように。
 私たち自身の手で、地域社会を、そしてこの国と国会という仕組みを、じっくりと、より良く、本物のものへと磨き上げていきたいものです。