【小説】ファインダーの向こう側 ~潮風とハレーション~第五章:ファインダーの向こう側へ
先輩方の申し出を断った足で、私はそのまま部室の奥にある事務机に向かった。
机の上には、各種届出用の書類が置かれている。
私が手に取ったのは、退部届ではなかった。
『所属セクション変更届』
震える指でペンを握り、私はそこに、ハッキリとした文字を書き込んだ。
変更前:俳優セクション
変更後:監督セクション
書き終えた一枚の紙。
それは、私にとっての、ささやかだが厳然とした宣戦布告だった。
他人に「撮られる」側から、自ら「撮る」側へ。
誰かの物語の登場人物であることをやめて、自らが物語を創造する者になるという決意表明。
この選択は、周りから見れば奇異に映っただろう。
監督というのは、通常、経験を積んだ上級生が務めるものだ。
ましてや、ヒロインに選ばれたばかりの新入生が、その座を自ら放棄するなど前代未聞だった。
だが、私にとって、それは唯一の道だった。
もう、誰かのファインダー越しに評価されるのはゴメンだ。
これからは、私がファインダーを覗いて、私がこの世界の何を切り取って、そして、どう物語るかを決める。
他人の人気投票という曖昧な評価基準ではなく、フィルムに焼き付けた映像という、誰にも動かせない「結果」だけで勝負する。
変更届を所定の箱に入れた瞬間、私は自分が、もう後戻りのできない川を渡ってしまったことを感じていた。
穏やかで平凡だった「日常の世界」は、もう対岸の風景だ。
これから先には、経験も知識も足りない、茨の道が待っているだろう。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、全身が奮い立つような、静かな興奮に満たされていた。
私は、ヒロインという役を降りた。
そして、茅乃という一人の人間として、自分の物語を始めるための「第一関門」を、今、確かに突破したのだ。
