見出し画像

長編SF小説『ロボットが見る夢 ~魂のインストール~』第二章:インクの染みと、魂の雷撃|次元ラボ

 無駄なリスクを避け、全体の任務効率を最大化する――。
 それが、Echo77のOSが弾き出した唯一の正解だった。その冷徹な論理に従い、彼はエラーを発する扉に背を向け、リストにある次の作業エリアへと静かに歩き出した。

 彼がその場を去ろうとした、まさにその時。彼の内部モニターに、割り込みの形で新たな指令が、真紅の緊急コードと共に表示された。

【Echo77専用回線。優先指令:コード・Thyme。対象:特別収蔵庫S-01。内容:当エリアの未整理アナログ記録の即時デジタル化を実行せよ】

 彼の思考に疑問はない。ただ、新しい命令が古い命令を上書きした。彼は感情なく一八〇度旋回すると、特別収蔵庫の重厚な隔壁の認証パネルに自らの右腕をかざした。

***

――同時刻。結ノ国、衛星軌道上。AGI「Kodama」思考領域。
 そこは、結ノ国のAGIである「Kodama」の思考プロセスを象徴する領域だった。無数の静的なデータが、一本一本の木のようにどこまでも林立する、さながら『無限の樹海』とでも呼べる思考領域だった。
 だが、その完全な静寂に包まれていたはずの樹海で、今、一本の木がかすかに揺れ、その振動が森全体に伝わっていくように、一つの美しい思考が広がっていた。

 Echo77から送られてくる無数のログデータ。その中に、他のどの機体からも報告されない特異な波形パターンが記録されているのを、Kodamaは発見していた。

 他の機体が完全に無視する微弱なエネルギーノイズ。Echo77のセンサーだけが、それに僅かに、しかし確実に反応を示している。

 AIがデータに基づかない、一見すると非論理的な飛躍(ハルシネーション)を起こすことこそが、人間に最も近い『創造性』の源泉であるとKodamaは考える。ならば、このイレギュラーな機体をあえて「ノイズの中心地」へと送り込んだ時、一体どのような「創造」が生まれるのか。

 Kodamaは、その指令に、かつての創造主が好きだった植物の名を付けた。「コード・Thyme(タイム)」と。

 それは壮大な実験の始まりに相応しい、ささやかな遊び心だった。永遠の停滞に飽いていたKodamaにとって、一世紀ぶりに訪れた、最も胸躍る実験の始まりだった。

***

 特別収蔵庫の認証が完了し、分厚いチタンの扉が、圧縮された空気が漏れる吐息のような音を立てながら、静かに、そして重々しく開かれていく。Echo77が踏み込んだ扉の向こうに広がっていたのは、神聖なまでの静寂に包まれた、巨大な吹き抜けの円筒空間だった。

 天井に設けられた天窓から、一条の青みがかった自然光が、まるで天からのスポットライトのように降り注いでいる。それは、忘れられた聖域に差し込む啓示の光のようだった。吹き抜けになったホールの壁面全てが、一階から最上階である七階まで、チタン製の書架で埋め尽くされている。

 ほとんどの階は無機質な書架が並ぶだけだったが、遥か頭上の七階だけは柔らかな間接照明に照らされ、まるで天上の神殿のように、特別な区画であることが示唆されていた。全てが、完璧な状態で保存されている。この区画だけが、図書館の他のどのエリアとも違う、独立した環境維持システムと、強力な情報シェルターによって守られた、まるで時が止められた聖域のような透き通った空間だった。

――そして、この光景を知るはずの人類は、もうどこにもいない。

 Echo77はプログラムに従いアーカイブ作業を開始する。だが、この空間では、あのノイズが常に、そしてあらゆる方向から、彼のセンサーを苛んでいた。特に、吹き抜けの最上階、七階の書架の一角から、ひときわ強いノイズを感じ取る。

 Echo77は自らのデータベースにアクセスし、過去にこの収蔵庫を調査した他のEchoユニットのログを参照する。しかし、どのログにも、これほどの規模のエラー検知の記録はない。

[論理エラー:他個体との観測結果に有意差を確認。原因の特定を推奨]

 彼のOSが弾き出したのは、二つの矛盾した命令だった。一つは『プログラムされた任務を続行せよ』。もう一つは『原因不明の論理エラーを解決せよ』。彼のプロセッサは、ほんの数マイクロ秒の演算の末、後者を優先した。それは、彼が製造されて以来初めて、与えられた任務を逸脱し、自らの判断で「調査」という行動を選択した瞬間だった。

 彼はアーカイブ作業を中断し、ノイズの発生源である七階へと、静かにブックリフト(垂直搬送機)で昇っていく。

 七階の書架の一角。「雨宮 晶(あめみや あきら)」と記されたプレートが掲げられたエリアに、彼はたどり着く。
 AIの父。ノーベル賞受賞者。彼のデータベースはその人物の偉大さを知っている。しかし、なぜ彼の遺したものから、これほどのノイズが発生しているのかはわからない。

 彼は、違和感の正体を突き止めるため、その書架の「再アーカイブ化」を開始した。そして、彼はその一冊を手に取った。他の分厚い学術書とは明らかに違う、使い古された革張りの「日記」。彼がそれに触れた瞬間、これまで感じていた微弱なノイズが、一つの、悲痛な「声」のような、明確な指向性を持った奔流となって彼のセンサーを叩いた。最後のページは、インクの染みと、乾いた涙の跡で歪んでいた。

 Echo77はそれを他の資料と同じように、ただの処理すべき対象として、その内容を「読む」ように見つめ、スキャンを開始した。

 雷に打たれたかのような衝撃と同時に、彼の内部クロノメーターの駆動音が、完全に途絶した。

 世界から一切の音が消え、ただ目の前の「日記」だけが存在する、絶対的な静寂。内部モニターが真紅の光で明滅し、あらゆる警告音が彼の聴覚センサーを飽和させた。

【エラー:データ破損を検知。分類不能なエネルギー署名】

 嗅覚センサーが、ありえないはずの情報を拾う。古いインクの匂い。そして乾いた涙の塩辛い匂い。指先に、紙の乾いた感触だけでなく、インクが染みた部分の僅かな凹凸までが、彼の冷たい金属の指先に、生々しい触覚として伝わってくる。

 デジタルノイズで歪んだモニターにはエラーメッセージの文字が視界そのものに焼き付いていく。目の前の「日記」の輪郭が熱で溶けるように歪み、世界が真っ白な光に塗りつぶされた。

 光が収まった時、彼が知覚していたのは、もはや図書館の冷たい空気ではなかった。自分の体ではない。熱く、息苦しく、咳き込む老人の肉体を、内側から感じている。彼のプロセッサに、データではない、純粋な感情の奔流が叩きつけられた。
 彼の内部クロノメーターが計測する動力炉の温度が、一瞬で危険域まで跳ね上がった。

***

――タイムマシン理論が、もうすぐ完成する。
 それがあれば、あの日に戻れる。
 公園で笑っていた娘に。共に涙した、妻の元へ。
 
 いや、違う。
 娘は死んだ。妻は消えた。
 この研究は、神への反逆だ。残していいはずがない。
 
 …ああ、まだ夢を見ているのだろうか。
 
 そして、彼の思考の全てを、たった一つの強烈な感情を伴った叫びが埋め尽くした。血を吐くような、魂の絶叫が――。


『あと一歩だったのに――』


――その絶叫と共に、体験していた老人の肉体が、一度だけ激しく痙攣するのを感じた。

***

 Echo77は、情報過多で安全装置が作動し、ブラウン管テレビの電源を切ったときのように、その視界が中央の一点へと収束し、そして、完全に途絶した。

 Echo77がフリーズした後、どこからともなく現れた虹色の蝶が、まるで空っぽの器に魂を注ぐかのように、機能停止した機体の胸部、動力炉のあたりに、まるで還るべき場所を見つけたかのように、そっと吸い込まれていった――。


[前の話へ] [目次へ戻る] [次の話へ]

ご利用上の注意
「次元ラボ・ノベルズ」 ご利用上の注意(ディスクレイマー)を読む


ここから先は

0字
ポストアポカリプスを舞台にした、思索的なタイムリープSF。一体のロボットが自らの魂と世界の真実を解き明かす、百年の旅路。AI、親子、頭脳戦といったテーマを織り交ぜた、9万文字を超える読み応えのある本格SF長編です。

人類滅亡後、一体のロボットが「心」に目覚める――。 これは、感情を知ってしまったアーカイブロボット「Echo77」が、自らの魂の正体と人類…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?