長編SF小説『ロボットが見る夢 ~魂のインストール~』第一章:静寂の世界と、からっぽの器|次元ラボ
風の音だけが、世界の沈黙を撫でていた。
人類が自らの歴史に幕を下ろしてより、およそ一世紀。結ノ国(ゆいのくに)と呼ばれた列島は、いまや広大な緑の海に沈んでいた。かつて高速道路だった場所は蛇行する川となり、苔むしたアスファルトの断片を岸辺に残している。超高層ビルは、風化した天を突く巨大な樹木のように蔦に覆われ、その輪郭を空の青に滲ませていた。生命の営みは、不規則で、豊かで、そして、あまりにも静かだった。
その静寂を切り裂くように、数機の輸送ドローンが編隊を組み、森の上空を滑るように飛行していく。その目的地は、森の海の中に眠る巨大なガラス張りの建造物、旧・国立国会図書館桜京館。外壁は植物に覆われ、屋上のヘリポートには鳥たちが巣を作る、小さな生態系が息づいていた。
機械仕掛けの鳥が巣に戻るように、ドローンがその屋上ポートに寸分の狂いもなく着陸する。ハッチが開き、中から現れたのは十数体のロボットだった。
子供ほどの背丈に、機能性だけを追求した無骨な金属のボディ。彼ら、Archival Engine Unit (AEU)(記録保管駆動体)の特殊モデル、通称『Echoシリーズ』は一糸乱れぬ隊列を組んで降下すると、図書館の入り口へと無言で、そして効率的に進んでいく。その関節部からは、時折、サーボモーターのかすかな駆動音だけが漏れていた。
その中の一体、通称 Echo77、形式番号Archival Engine Unit Echo 077の聴覚センサーは、その駆動音に混じる、鳥の鳴き声や、遠くで水が流れる音といった、処理すべきではない環境ノイズを常にフィルタリングし続けていた。
彼らが分厚い自動ドアを抜けた瞬間、世界の様相は一変した。フィルタリングすべき環境ノイズが、完全に消失したのだ。Echo77の聴覚センサーが拾うのは、自機と僚機のサーボモーターが発する、完璧に予測可能な音だけになる。
館内は、長い時が止まったかのように、完璧な静寂と清潔さが保たれている。床には塵一つなく、チタン製の書架がどこまでも続く知識の森を形成していた。天井に設けられた天窓から差し込む光が、この「自然に還った外の世界」と、「時が止まった内の世界」の、美しいコントラストを映し出す。
隊長機から、全機体へ向けて短いデータ通信が送られる。
[任務開始]
その信号を合図に、ロボットたちはプログラムされた通り、それぞれの担当エリアへと無言で、そして効率的に分散していった。
Echo77は、プログラムに従い人文科学エリアの書架へと向かった。
彼は担当リストに従い、棚から一冊の古びた本を手に取る。その姿は、もしそこに魂があれば、まるで人間が静かに読書をしているかのようだった。
彼は、その瞳である光学センサーで、黄ばんだページをじっと見つめる。彼の内部モニターには、視覚情報が高速でテキストデータへと変換されていく様子が淡々と表示されていた。
[対象:書籍。表題:『水底の揺り籠』。著者:夏目 恵。ページ数:312。コンディション:劣化度C。デジタル化処理を開始…完了。エラー率:0.003%。]
そのテキストデータをスキャンした刹那、彼の光学センサーに、ありえないはずの光景がノイズのように一瞬だけ混入した。
――夜空を背景にした、どこか雑然とした部屋。
マグカップを片手にこちらを見つめる、白髪の女性の、優しい眼差し。
彼のOSは、その意味のない破損データを即座に修復し、記録から消去した。そこに綴られていたのは、記憶を失った者が自らの魂の在り処を探し求める、切ない探求の物語だった。しかし、Echo77にとってその物語は、ただのテキストデータと、エラー率という数字に過ぎない。彼の思考は、次の作業効率を計算することだけで満たされている。
彼の世界は効率と、与えられた任務をこなすことだけで構成された「からっぽ」の状態だった。
そして、先ほどの視覚的なグリッチから、コンマ数秒のタイムラグを置いて、彼の聴覚センサーが、今度はありえないはずの音を拾った。それは、まるで遠くで誰かが囁くような、微弱な電磁ノイズだった。
[警告:分類不能なエネルギーパターンを検知。ノイズレベル:軽微。]
彼のOSは、そのノイズの発生源が、自らのデータベースには存在しない、未知のものであることを、瞬時に理解していた。
彼はプロトコルに従い、すぐ隣で同じように作業していた同型機AEU Echo 666に、確認のデータ通信を送る。
[問合せ:同座標にてエネルギーパターンを検知したか?]
返信は、即座に、そして無機質に返ってきた。
[応答:検知せず。異常なし]
――観測結果に、個体差が発生している?
彼のOSは、それを自機のセンサーの一時的な機能不全、すなわち「意味のない異常値」として即座にフィルタリングした。しかし、彼の記録領域の片隅に、「観測結果の個体差」という、製造されて以来初めてのログが、静かに刻まれた。
彼の内部モニターには一瞬だけ警告が表示され、すぐに消える。彼は、その警告の意味を理解することなく、次の作業へと移る。
その一連の内部処理を、すぐ隣で作業するふりをしながら、一体の機体が冷徹に観察していた。形式番号AEU Echo 666。他の機体の青い光とは明らかに違う、一対の赤い光学センサーを持つその機体は、Echo77の微細な反応を記録すると、誰にも気づかれぬよう、自らの記録領域を暗号化してロックした。
その日の任務も、終盤に差し掛かっていた。Echo77の次の担当エリアは、図書館の最深部に位置する「特別収蔵庫」。彼がその区画に近づくにつれて、あのノイズを検知する頻度が、僅かながら確実に増えていく。彼のシステムは、その度に警告とフィルタリングを淡々と繰り返していた。
ついに、彼は特別収蔵庫の、分厚いチタン製の隔壁の前にたどり着く。扉の向こうから、これまでで最も強いノイズが漏れ出しているのを、彼のセンサーは捉えている。
[警告:分類不能なエネルギーパターンを検知。]
[システム勧告:当エリアは不安定なエネルギー干渉の可能性あり。任務効率低下のリスクを考慮し、後続のタスクを優先することを推奨。]
彼が無感情に向きを変えた、まさにその時。どこからともなく現れた虹色の蝶が、静寂を破る唯一の色彩のように、彼の頭上をひらりと舞った。
Echo77自身は、その存在に気づいていない。蝶は、まるで何かに導かれるかのように、特別収蔵庫の隔壁の前を一度だけ旋回すると、ありえないことに、その分厚い金属の扉へと吸い込まれるように、すり抜けて消えていった。
歩き出していたEcho77の内部モニターに、真紅の警告が一瞬だけ激しく点滅した。
[警告:分類不能なエネルギーパターンを検知。]
彼のOSは、これもまた瞬時にフィルタリングする。しかし、その一瞬の処理負荷が、彼の歩みをコンマ数秒だけ不自然によろめかせた。
彼のすぐ後ろを歩いていた監視者、Echo666が、その僅かな逸脱行動を重要情報として記録し、赤い光学センサーを彼に向けて一瞬だけ動きを止めたが、すぐに自らの任務に復帰した。Echo77は、何事もなかったかのように完璧な歩行を取り戻し、静寂の廊下へと消えていく。
――彼の全てを根底から覆す、壮大な運命の歯車が、今、静かに回り始めたことを、知る者はいない。
***
その日の任務終了後。全ての機体がチャージ・ポートで静かに眠りにつく中、Echo666だけが、まだ活動を続けていた。
彼は、今日収集したEcho77の行動ログ、特に「分類不能なエネルギーパターンへの特異な反応」というデータを抽出し、極めて高度に暗号化された量子通信回線へと接続する。
送信先は、結ノ国の外。世界の調和を司る、絶対的な知性体。
すぐに、返信があった。それは言葉ではない。ただ、完璧な静けさと秩序を感じさせる、一つの概念だった。
[ログを受領。対象『AEU Echo 077』を『観測対象レベル2』に指定。引き続き、調和を乱す可能性のあるバグの兆候を監視せよ]
Echo666の赤い光学センサーが、命令を受領した証として一度だけ静かに明滅すると、彼もまた、他の機体と何ら変わらぬ姿で、深いスリープモードへと移行した。
静寂の図書館で生まれた小さなイレギュラーが、既に神のチェス盤の上の一駒として認識されたことを、まだ誰も知らない――。
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人類滅亡後、一体のロボットが「心」に目覚める――。 これは、感情を知ってしまったアーカイブロボット「Echo77」が、自らの魂の正体と人類…
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