【創作大賞2024応募作】神々の憂い #9
七章
結局、あの日ヤク爺は出てきてはくれずじまいで、宴はお開きとなった。
申し訳なさでいっぱいになっている灯に、蔓は満面の笑みで「灯様。わたくし、久しぶりに楽しゅうございました。屋敷の者も息抜きができたようで、ようございました」と、嬉しそうに言ってくれたことが救いだった。
そして帰り際にこうも言われたのだ。
「よろしければ、時おりでかまいませんので、朱里七福神社にも、いらしてくださいませね。シュリ神様も灯様に会えていないようで寂しがっておいでのようですので」と。
そんなこともあり、今日は、バイトも早く終わったので、約束通り、シュリ神様に挨拶に来たのだ。憑き物が落ちたような、やけにさっぱりとした気持ちで訪れた朱里七福神社はこれまでとなにも変わらず、参道を歩むたびに懐かしさに包まれる。
たった数ヶ月ぶりの参拝で郷愁を感じるだなんて、大袈裟過ぎて笑ってしまうけれど、なんとも言えないぽあぽあとした心地の中、拝殿へと向かい、感謝の気持ちと、この数ヶ月のあれやこれやを報告した。
すると、ヤク爺との思い出のベンチに、背中を丸めた着物姿の老人がちんまりと座っていることに気が付いた。
ヤク爺!
月光院から出てきたのかもしれない。
灯は、はやる気持ちを抑えてベンチへと駆け寄った。
けれど、そこに座っていたのは、水分の抜けたバサバサの髪を無造作に束ね、擦り切れて穴のあいたボロボロの着物を纏った痩せこけた老人だった。
――ヤク爺じゃない。
苦虫を噛み潰したような陰気な顔をした老人を前にして、期待の度合いが高かった分、襲ってくる失望感は大きかった。
目の周りが落ちくぼみ、ギョロリとした目つきが異様に不気味で、思わず後退りする。
「あっ、おい、こら、逃げるな」
耳障りなしゃがれた声。
怪しげな老人に逃げるなと言われて、はいそうですかと立ち止まるほど警戒心がないわけではない。
視線を合わさないように、そおっと向きを変えて、全力疾走で逃げようとしたその矢先、背後からうめき声が聞こえた。
振り返ると老人が胸を押さえて苦しんでいる。その姿を見た瞬間、咄嗟に足が反応して老人の元へ駆け寄っていた。
「大丈夫ですか? 今、救急車を呼びますね」
老人の背中をさすりながら、もう片方の手でカバンの中のスマートフォンを探していると、突然、腕を掴まれた。
ビクリっと心臓が跳ね上がる。
具合が悪いはずなのに、すごい力だ。
振り払うことができない。
ギラギラとした目つきが気持ち悪くて、身体中にじっとりと汗が滲んでくる。
「ヤクじゃなくて悪かったな」
老人がにやりと笑う。
「もしかして……、ノエ?」
自分で言っておきながら、美しさの欠片も持ち合わせていない目の前の醜い老人と、美の化身のようなノエを重ね合わせるだなんて暴挙のように思えてきた。
「よくわかったな」
やっぱり、ノエだ。
「胸は? 苦しい? 救急車呼んでも無駄だよね? どうすればいい?」
矢継ぎ早に質問したせいか、ノエは呆気に取られてぽかんとしている。
貧乏神も病院で治療してもらえるのだろうか。いや、それはないだろう。ある種、老人が倒れているより厄介だ。
エキなら、どうにかしてくれるかもしれない。
――ダメだ、エキとの連絡方法がわからない。
――じゃぁ、蔓、も連絡が取れない。
頭の中であたふたとしていると、ノエが口を開いた。
「騙してすまぬ」と言ってゆっくりと腕を離してくれた。
「へっ?」
「走って逃げられると、このおいぼれた体では、追いつくことができぬからな」
「じゃぁ、なんともない……の?」
「ああ」
「ひっどーい!」
思わずぶすくれて、抗議の目を向けるが、ノエは気にする様子もなかった。
あらためて目の前の老人をよく見てみると、月光院での姿とあまりの変わりように、返って好奇心がそそられた。
「本当に貧乏神だったんだー」
「はぁっ?」
「どこからどう見ても貧乏神にしか見えない。見え方が違うって本当だったんだね」
「そいつはどうも」
「隣に座ってもいい?」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうながらも、座りやすいように、座面を空けてくれる。
ありがとう、と言って、灯はノエの隣に腰をおろした。
「もしかして、私に会いに来てくれたとか?」
「たいした自惚れだな。お前は俺に取り憑かれたいのか?」
ギロリと睨まれ、背筋がぞくっとしたが、それを悟られないように平然とした顔をつくる。
「貧乏な私に取り憑いても面白くないよ。無意味なことはしないんでしょ」
ノエがフッと鼻で笑う。
「なかなか肝が据わってるな」
「そりぁ、そうもなるでしょ。厄病神に遭遇したと思ったら、次は疫病神に貧乏神。極めつけは憑神御一行様と大宴会。いやでも肝が据わります」
チクリと棘を刺すように返してみる。
見た目は不気味で恐ろしいが、中身がノエだと分かれば、いくぶんか恐怖心は薄らいでいた。
「初めてヤク爺と話したのはこのベンチなんだ」
聞かれてもいないのに、自然と口を衝いて出た。
「そうか。ヤクがお前に気を許した理由がなんとなくわかった気がするわ」
「ん?」
「俺の顔を見て逃げ出そうとしたのに、具合が悪い振りをすれば躊躇なく駆け寄ってきた。なかなかそういうやつはおらん。見て見ぬふりするほうが余計なことに巻き込まれなくてすむからな。ヤクも嬉しかったんだろ」
「もしかして褒めてくれてる? ふふ、でもノエと違ってヤク爺は愛嬌あるし、私じゃなくても助けてくれる人はたくさんいると思うけどなー」
「お前、性格が悪いな」
「そうかもね」
「ハハハ、お前はやっぱり肝が据わってるわ」
すると、目つきが悪く、みすぼらしい風貌をした老人の高笑いがよほど奇妙に映ったのか、目の前を通り過ぎる参拝客が怪訝そうにこちらを見た。
ノエはばつが悪かったのか、参拝客をギロリと睨みつけて威圧で追い払うと、ブツブツとひとり言を呟き始めた。突然独りごちるノエに驚いたが、当のノエは、おもむろに腕につけていた数珠を外し、なにを思ったのか、その数珠を灯の腕にはめた。
「なに、これ?」
そう言って顔を上げると、さきほどまでの貧乏神の姿と違って、月光院で見た美しい姿に変わっていて目が釘付けになる。
「えっ、なんで?」
「シュリに文句を言われた」
「はっ? どういうこと?」
「営業妨害をするなだと」
参拝客を睨みつけたことを言っているのだとすぐにわかった。朱里七福神社の御祭神であるシュリ神様に参拝客を怖がらせるなとでも言われたのだろう。独り言だと思ったのは、シュリ神様と話していたのか。
「そうじゃなくて、そのう、見た目。私、今、貧乏神じゃなくて、ノエの本当の姿が見えてる」
「その数珠だ」
細く長い、美しい指先で灯の腕の数珠を指す。
「数珠?」
灯は、腕にある数珠をそっと撫でた。
「俺が本来の姿に戻っても、そいつをつけていれば、人の子のお前でも俺が見える」
「へぇー、すごーい」
「声が大きい。もう少し音量を下げよ。いいか、その数珠を持たぬ者には俺の姿は見えぬ。つまり他の参拝者からすればお前が一人で喋っているように見える。それはそれで、不気味だろうが。シュリからまた文句を言われる。周りに気づかれぬよう小声で話せ」
灯はコクコクと頷くと、ノエはふっと表情を緩めた。
「ヤクのために月光院にきてくれたのに、諸々すまなかったな」
もしかして、これを伝えるために来てくれたのだろうか。
「ヤク爺は?」
「相変わらずだ」
「そっか……」
罪悪感がチクリと疼く。
「あいつが、初対面の人の子に声をかけたのは久しぶりなのだ。ましてや月光院に招いたなど、蔓から聞いて驚いたわ」
「でも、傷つけたみたい……」
「気にするな。元々の原因はあいつらがまいた種だ。ただ、気が向いたらでいい――、また月光院に寄ってやってくれんだろうか。蔓の気も紛れるだろう」
「――」
決して行きたくないわけではない。けれど、ヤク爺は、灯に会いたくないと思っているような気がして、素直に首を縦に振ることができなかった。どう返事をしていいか分からずに、黙り込んでいるとノエが続けた。
「お前から見たヤクの印象は、どんな感じだ?」
「どんなって……、好々爺? かな」
「陽キャってことか?」
思わずニマニマとしてしまった。
「なにがおかしい?」
「いやだって、ノエの口から『陽キャ』なんて言葉が出てくると思わなかったから」
「俺は引きこもりのヤクと違ってお前ら人の子の家に棲み着いているのだ。それくらいの言葉くらい知っておるわ」
照れているのか、耳を赤く染めて、ふんっとそっぽを向くノエの姿はとても可愛らしかった。
そんなノエの機嫌をとるかのように、「印象がどうかしたの?」と強引に話を元に戻した。
「――あいつの根っこの部分は『陽』じゃない。ゴリゴリの『陰』だ。俺やエキと違って、精神はガラスのようにもろい。誰よりも傷つきやすく繊細だ。だから、バランスを崩して自分の殻に閉じこもる」
灯が抱いたイメージを全否定されたにも関わらず、妙に腑に落ちた。きっとゴリゴリの『陰』だからこそ、あの日傷ついた灯に寄り添ってくれたのだろう。
灯だって全社員にメールを送信すべきではないことぐらいわかっていた。然るべきひとにだけ、慎二の本性を告げればよかったのだと。けれど、理性だけではどうにもならなかった。
慎二との交際を始める前に、専務の娘さんに真偽を確かめなかった自分の愚かさにも原因があるとわかっていても、騙され、傷つき、灯こそが真の被害者だということを知って欲しかった。傷んだ心に気づいて欲しかった。
だからこそ、悪行を諌めることなく、気にせずともよいと、寄り添ってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
もしも正論で諌められたら、心に鍵をかけ、『引き際を見極めよ』という忠告に耳を貸すことなんて、できなかった。
正論は時にナイフとなって人を傷つける。誰よりも繊細でもろい心をもったヤク爺だからこそ、傷ついた灯の心に最善の方法で寄り添ってくれたのだと今ならわかる。
「俺たちは腐っても神だからな。使命がある。どんなに人の子に忌み嫌われようとも、与えられた使命はまっとうせねばならぬ。憑神は畏怖の象徴、つまり恐れられなければならんのだ」
――使命――
憑神に使命があるだなんて考えもしなかった。
けれど、ノエが言っていたように、憑神は正真正銘の神であって、妖怪ではない――。
「ヤクだって、そのことは十分に理解してるはずなのだ。だが、頭で理解するのと、心で納得することは別だからな」
ヤク爺のことを言っているようで、ノエ自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「疫病を流行らせたり、貧乏にすることに、どんな使命があるの?」
訊いた瞬間、ギロリと睨まれた。
「あっ、別に疑ってるとか、そんなんじゃなくて、知りたいと思ったから……。憑神のことを、もっと知りたいと思ったから……」
ちらりと見ると表情が怒っていなかったので安堵する。
「人の子はな、疫病と戦うことで進化を遂げた歴史がある」
「疫病と戦って進化?」
「そうだ。人の子の免疫には、生まれつき備わっている『自然免疫』と、病にかかることで得られる『獲得免疫』がある。つまり、病に打ち勝つことによって抗体ができ、免疫力が向上して身体が丈夫になるのだ。だから、エキは――、疫病神は定期的に病を流行らせる。もちろん疫病が流行れば、弱き者は命を落とす。そのことにエキはもがき苦しむ。自分の使命を呪ったこともあるだろう。だからと言ってエキが使命を放棄すれば――、予期せぬ疫病が流行ったおりに、抵抗力、免疫力の弱さから人の子は一瞬にして滅びる運命にある。ゆえに、人の子を絶滅から守るために、エキは疫病を流行らせるのだ」
「予期せぬ疫病って?」
「この数年、猛威を奮っておっただろう。あれはエキが引き起こしたものではない。だからこそ、エキは状況調査のために、この数年は休むことなく日本全国津々浦々を駆けめぐっておった。エキの意思や努力をもってしてもどうにもならぬ、嵐のように突然沸き起こる未知なる疫病があるのだ」
人類の進化や絶滅だなんて、想像だにしていなかった内容に頭の中が混乱する。こんなにも情報が溢れた世の中なのに、初めて知る疫病神の真実に胸がギュッと締め付けられる。
「――じゃぁ、貧乏神は?」
「人は必要以上に金を持つと傲慢になる。支配欲が生まれる。怠心を生む。これらは大罪だ。ましてや、よからぬことで得た金でそのようになるなどはもってのほかだ。速やかに没収し、改心させる必要がある。真面目に働き、他人を敬い感謝の念を忘れてはならぬ。まぁ、自身が汗水垂らして稼いだ金で他人に迷惑をかけずに楽しむことは一向に構わんと思うがな。――こうしてみると俺の使命はヤクやエキほど大したものではないな」
そんなの謙遜だ。
「お金にものを言わせた傲慢な人がこの世に溢れないようにしてくれるのって、ありがたい」
自然に感謝の気持ちが口を衝いて出た。
「そんな大層なことはしておらぬ。俺は、ヤクやエキと違って自分の使命に心を痛めてはいないからな」
口ではそんなことを言っておきながら、強がっているだけだ。
ふいに坂下と貧乏神の話をしたことを思い出した。
あれは厄病神って本当にいると思うかと訊ねたときだ。
「灯さん、知ってますか? 貧乏神って福を運んでくれるらしいっすよ」
「えぇ? 貧乏神は貧乏神でしょ。その名の通り、貧乏になるんじゃないの?」
「いや、貧しくなるのはその通りなんすけど、江戸時代に書かれた『兎園小説』って奇談集に『窮鬼』っていう貧乏神を題材にした話があって、貧乏神が棲み着いた家は貧しくなるけど、貧乏神が出ていけば、運が向上して福が舞い込むって書いてあるらしいっす」
あのときは、厄病神のことで頭がいっぱいで、たいして気になど留めていなかった。けれどこうしてノエと話していてわかったことがある。この神、口は悪いが、なんやかんやと思いやり深い。一度は貧乏に陥れたとしても、改心した褒美として福を授けたとしても不思議はない。
憑神だって、本心は、ほかの神々のように慕われ、人の子と親しくなりたいと願い、自分たちの行いには正当な理由があるのだと、ふれ回りたいに違いない。けれど、それではどうしたって畏怖の象徴、恐神でいることができない。
自らの思いと与えられた使命が相反しているとわかっていても、そう簡単に呑み込めるものではない。
もがいているのかもしれない。神もまた人の子と同じように。
「おまえ、いじめられたことはあるか?」
突然斬り込まれて驚いたが、幼い頃に感じた居場所がなくて部屋の隅っこで膝を抱えているような心細さが蘇り、鼻の奥がツンとする。
幼い記憶が走馬灯のように駆け巡った。
小学校一年生の頃だ。
友達との些細な行き違いで喧嘩になり、半年ほど保健室登校をしていたこと。
教室に入れず、この世の終わりのように思えたこと。
下校時間になると、祖母が校門まで迎えにきてくれたこと。
イジメとは少し違うかもしれないけれど、思い出すと今でも苦しくなる。
いや、つい最近でもあった。慎二に別れを告げられた日から、退職までの間。
略奪女のレッテルを貼られ、蜘蛛の子を散らすように周囲から人がいなくなり、白い目を向けられた日々。
侮蔑にまみれた視線が痛くて、俯いて過ごした日々。
ほんのわずかでも気を緩めれば涙がこぼれ落ちそうで、下唇を噛んで必死に堪えていた日々。
「あるんだな」
コクリと頷く。
「どれくらい?」
「つい最近のは、ひと月くらい……かな?」
「ヤクはな、何十年、何百年、何千年と悠久のときをだ。そしてこの先も続く。永遠に嫌われ者だ」
頭から冷たい水を浴びせかけられたような気がした。
一ヶ月でも十分つらかったのに、灯には想像もできないほどの長い年月。
クラス替えがあれば――、
卒業すれば――、
引越しをすれば――、
転職すれば――、
人間であればイジメから逃れられるかもしれない節目がいくつも用意されている。けれど、神にはその節目は永遠にやってこない。
だったら、数人だけでも、真実を知って寄り添ってほしいと願うことを誰が咎めることができるだろう……。
でも、期待すればするほど、拒絶されたときの絶望は計り知れない。
深く深く底しれぬ傷。
だから、傷つかないよう、無意識にいくつもの予防線を張り、保険をかけたのかもしれない。
灯が御朱印帳に興味を示さなければ……。
灯が翠神鏡に手を伸ばさなければ……。
いくつもの関門を設置して、厄病神だから嫌われたのではないという保険をかけた。
眷属軍団にも決して深追いはしないようにと念押しをして。
真実を受け止めてほしいという願いと、拒絶されたらどうしようという不安な思いに苛まれながら、灯にかけてくれたのだ。
なのに……。
なのに……。
張り巡らされたいくつもの関門を突破して、最後の最後、期待が頂点に達したところで、灯は失敗した。
ヤク爺が灯に対していったいどんな危害を加えたというのだろう。
なにひとつない……。
あるとすれば、厄病神という看板、ラベルだけだ。
ラベルの内側は、誰よりも暖かい心の持ち主だと知っていたはずなのに……。
識別ラベルが恐ろしければ、中身だけを見ればよかっただけのこと。
なのに、真逆のことをしてしまった。厄病神という識別ラベルだけを注視して、人に取り憑いて厄災をもたらすというその先入観に、全身全霊で、恐れ、震え、嫌悪し、憎悪し、拒絶してしまった……。
灯は無自覚なまま、もっとも残酷なやり方でトドメを刺した。
どれほど深く傷ついただろう。
神だから、傷つかないなんて保証はどこにもない。神であっても一皮めくれば、小さな子どものように無垢で繊細な心を持っている。
どうして、今の今まで、そのことに気づかなかったのだろう……。
「厄病神はな、憑神の中で最も厄災を司る力が強いのだ」
「憑神にランクなんてあるの?」
「ああ。疫病神は疫病のみ、貧乏神は財力のみだ。だが厄病神は疫病も財力もあらゆる厄災を司る最強憑依神。言い換えれば、最強の汚れ神だ」
汚れ神という言い方にカチンときた。でもそれはノエが悪いのではない。汚れ神にしてしまったのは、灯たち『人の子』だから。
「ヤクとエキは双子だ。なのに一方は疫病のみで一方は全てを凌駕する最強憑依神。そのことがヤクの性格を余計に『陰』にしたのかもしれんなあ」
しみじみとつぶやくノエの横顔には、やりきれなさのようなものが滲んで見えた。
「これまでずっと互いを鼓舞しあって使命を果たしてきた。だが、時代が進むに連れて医術が発達し、疫病で命を落とす者が格段に減った。それとともに疫病神の脅威は少しずつ衰えている。貧乏神もしかり。家業が傾いたとて、時代が進むに連れて、やり直す機会は格段に増えた。昔ほど恐れられてはおらぬ。そのことで、ヤクは三柱の力に差がついたと思い込んでいる節がある。筋金入りのひがみ根性だ。俺とエキの脅威が衰えたのなら、ヤクの脅威だって衰えているのだ。なのに、なのに、あいつは自分だけが――と、拗らせやがって! あいつは史上最強の被害妄想男なのだ!」
静かな口調が、苛立たしげにヒートアップして、どんどん声が大きくなっていく。
心配している分だけ、腹立たしいのだろう。
ずっと、三柱で嫌われ役をまっとうし続けてきただけに、ヤク爺ひとりだけが憑神の象徴のようにいじけていることが腹立たしいのだ。
「俺たちはな、元来、取り憑く人や家がなければ宿無しなのだ。ゆえに、役目を終えれば次の標的となる者を探さねばならぬ。だが、どうしても見つからぬこともある。誰にでも取り憑いていいという訳ではないからな」
神というものは、神社に恭しく祀られ、宿無しの神がいるだなんて一ミリも考えたこともなかった。憑神はこんなところでも苦労していたのか……。
「月光院はな、俺たち憑神の窮状を知った奇特な男によって建てられたのだ。やつのおかげで、宿無しから解放された。快適に過ごすことができる。だがな、月光院は、あくまでも次の標的が見つかるまでの避難場所なのだ。なのにヤクは憑くことをやめた。せいぜい厄出しの手助けをするくらいだ。なんだかんだと言って憑くことを嫌がる。人の子に憑かぬでも棲家があるからな」
そういえば、シュリ神様が慎二に憑いてとお願いしたときも、ヤク爺は断ったと言っていた。確か厄を飛ばす恐れがあるからだとかなんとか言っていたような記憶がある。それは方便で厄病神の使命を放棄しているだけだってことなのだろうか。
「ヤクの所業は、高天原でも問題になりつつある。なんせ、昨今の疫病のせいで、エキは、働きづめだ。なのにヤクは月光院でぬるま湯生活。ヤクだって疫病神としての能力を持っているのにだ。流石にこのままでは、月光院が封鎖されるのは時間の問題だろう。そうなれば、一番窮地に追い込まれるのは他の誰でもなくヤク自身だ。引きこもる以前より、あいつは崖っぷちに立たされているのだ」
憂いを帯びたノエの横顔は、なぜだか、ひときわ美しく見えた。
「すまぬ。余計なことを喋りすぎた。忘れてくれ」
「私になにかできることある?」
そう訊ねた灯にノエは眉を顰めた。
そして何かを考えるように目を伏せ、再びゆっくりと目を開いた。
「――蔓の話し相手になってもらえんだろうか。俺もエキも使命があるゆえに、月光院に長居することができぬ。あいつの話し相手になってやりたくてもできぬのだ」
「蔓さん?」
「ああ。あいつは、ひと一倍責任感と使命感が強い。ゆえに今の状況が相当こたえている。お前には迷惑をかけたが、主人を支えようとあいつなりに必死なのだ。ヤクの面倒をみるためにシュリから派遣されたようなものだから、余計にな」
ノエの思慮深さ、観察力の鋭さを見せつけられた気がした。
灯ならこの状況で蔓のことまで気が回らない。どうにかしてヤク爺を更生させなければという思いで頭がいっぱいになる。
でもヤク爺は、ある意味自分の欲望を貫き通している。
一方の蔓はどうだろう。
ヤク爺の引きこもりは自分の行動が引き金になったのではないかと自身を責めているかもしれない。ヤク爺の好きなようにさせてあげたいという思いと、厄病神としての使命をまっとうさせなければという思いの板挟みに苦しんでいるかもしれない。
今、もっとも救いの手が必要なのは蔓だということはその通りかもしれない。
人の子に忌み嫌われた憑神がこうしてやってこれたのは、ノエの甲斐甲斐しい気配りや思いやりのたまものなのだろう。
「ヤクのことは俺たちでなんとかする。その代わり、蔓を頼む……」
「わかった。蔓さんに会うにはどうしたらいい?」
「朱里七福神社でシュリに願え。あとはシュリがなんとかしてくれるだろう」
そう言ってノエは灯の腕から数珠を抜き取ると、ふぅっと消え去ってしまった。
同時に柔らかな風が灯の頬を撫でていく。
残された灯は天を仰いだ。見上げた空には、うろこ雲が広がっていて、季節はいつの間にか、秋に移り変わろうとしていた。
《続く》
