【創作大賞2024応募作】神々の憂い #11
九章 ①
十一月に入ったというのに温かい日が続き、道路脇の銀杏の木は、色づくことなく緑のままだ。今日は、近隣のビルでセミナーが開催されたようで、ランチタイムになると昼食を求めて、一斉に客がなだれ込んできた。坂下がシフトに入っていないときに、この客入りはつらい。加えて、昨夜は蔓とのガールズトークが盛り上がり、寝不足気味なので、かなりのてんやわんや状態だ。
十三時を過ぎて、ようやく客足が落ち着き始めたころ、五、六人のサラリーマンが押し寄せた。やっと一息つけるとホッとしていただけに、ほんの少しがっかりした気分で入口の方へ目を向けると、さらに新しい客が入ってくる。
その客に思わず背筋が凍りつく。
「灯」
ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、親しげにそう呼ばれた。
数ヶ月前に別れた男、片瀬慎二がゆっくりと灯の方へ歩いてくる。
けれど、身体が硬直して、動くことができない。
冷や汗が流れてくる……。
「志方さん、レジお願いできますか?」
店長に呼ばれて、ふと我にかえる。
「はい。ただいま」
灯はくるりと背を向けて、レジへと向かった。
心臓がバクバクと騒ぎ立てて、今にも口から飛び出しそうだ。
落ち着け、落ち着け……。
必死に自分に言い聞かせながら、目の前のカゴの中から商品のバーコードを読み取っていく。
「レジ袋はどうなさいますか?」
「いらないです」
「ご協力ありがとうございます。856円です」
目の前の客は精算機にお金を投入して、ゴソゴソとエコバックに商品を詰め始めた。
ちらりとレジ待ちの列に目を向けると慎二は二番目にいた。
隣のレジの進み具合も確認する。
対応が終わってる。
待機列一番目の客が隣の店長のレジへと歩き始めた。このままでは順番的に慎二は灯のレジにやってくる……。
――万事休す。
すると突然、店長がレジのカバーを開けて、なにやらチェックし始めた。順番が狂う。
ナイス! 店長。
店長の方へ歩いていた客は、必然的に灯の方へとやってきた。
灯が新たな客の対応を始めると、店長はカバーを閉じて何事もなかったように「次の方どうぞ」と声をかけ、慎二は店長のレジへと歩き出した。
――助かった。
会計が終わると、慎二は灯に話しかけることなく、ゾクリとする笑みだけを残して店から出て行った。
強張っていた身体がゆっくりと弛緩する。
それから夕方まで、灯は心を無にして黙々と働いた。定時になりバックヤードに戻ると、どっと疲れが吹き出し、椅子に座り込む。くずれるように机に顔を伏せるとそのまま目を瞑った。
昼間の光景を思い返す。
慎二はあんな顔つきだっただろうか。
たった数ヶ月見ないだけで、人間のいやらしさのようなものが、そこかしこに滲み出ていた。
慎二は灯を見ても、まったく驚く様子がなかった。それどころか親しげに声をかけてきた。ということは、店に来たのは偶然なんかじゃない。灯がここで働いていることを知っていたのだろう。
どうして、ここがわかった?
まさか真芝が告げ口した……?
いや、それはない……と信じたい。
もしも真芝が喋ったのであれば、とっくに慎二はここへやってきたはずだ。
自問自答を繰り返す。
転職先が見つかるまでのつなぎとして始めたアルバイトはもう四ヶ月にも及んでいる。そして、ここは会社の最寄りの隣駅。
これまで気づかれなかったほうが、運がよかったのだ。
灯は机から顔を上げて頭を振ると、ごちゃごちゃと物が溢れた室内を見回した。
居心地のいい秘密基地のようなこの空間から卒業するときがきたのかもしれない。
タイミングよく店長がバックヤードに入ってきた。
気持ちが変わらないうちに言ってしまおう。
灯は椅子から立ち上がり、おずおずと声をかけた。
「あのう……、店長」
「お疲れ様でした。今日は客入りが激しかったから大変でしたね」
優しくねぎらいの言葉が返ってくる。
「え、あ、はい」
店長はスタッフ用のコーヒーサーバーからマグカップにコーヒーを注ぐと、灯の前に置いてくれる。
「立ってると疲れますよ。座ったらどうです?」
「あ、はい、ありがとうございます」
出鼻を挫かれ、言われるがままに腰をおろすと、入れてもらったコーヒーをひと口啜る。
「ホッとします」
それはよかった、と言って、店長もコーヒーを啜った。
ふたりの間に短い沈黙が落ちる。
先に口火を切ったのは店長だった。
「今のご時世、あまり個人的なことを訊くのは御法度だと思うのですが――、昼間いらしていたお客さんって――、もしかして、例の引越しの原因のひとですか?」
ゆっくりと問いかける店長の声には好奇心の成分は感じられず、純度100パーセントの心配に感じられた。
はっとした。
店長には引越しの際に慎二とのことを話している。
店長は気付いていた――?
だから、わざとレジの順番狂わせをして、慎二のプライドを傷つけることなく、灯との接触を防いでくれた――?
灯の沈黙を黙秘と捉えたのか、店長は目を合わせることなく「プライバシーの侵害でしたね。なんとなくあのお客さんが入店したときに志方さんの顔色が変わったような気がしたもので」と、あらぬ方向を向いたまま、ひとり言のように呟き、コーヒーを啜っている。
違う、プライバシーの侵害どころか、気付いてもらえて嬉しかった。
「助けてくれて――、ありがとうございました」
「やはりそうでしたか」
店長は、ゆっくりと灯の方へ向き直った。
アルバイトの面接時に抱いた印象と変わらずに人の良さそうな顔だ。
迷惑はかけられない。
店長の顔を見てそう決心した。
「店長」と呼びかけると、それに被せるかのように「遠慮は無用です」と真っ直ぐに目を見て告げられた。
「怖かったですよね。大丈夫です。困ったときは頼ってください」
そう言われた途端、目の前の視界が滲んだ。
ずるい。
店長はずるい。
灯の決意を言わせなかったことも、
本当は今いちばんかけて欲しかった言葉をさらりと言うところも、
ぜんぶ、ぜんぶ、ずるい。
「どうして……? どうしてそんなに優しいんですか? どうして、そんなに他人の世話が焼けるんですか?」
気付いたら、店長の顔が、ぐにゃりと歪んで、温かい雫が頬を伝っていた。
店長は何も言わずにテーブル脇に置かれたティッシュボックスを灯の方へ差し出した。
「僕もね、子どもの頃、この七福マートに助けてもらったんですよ。常連さんにもたくさん目をかけてもらいました」
懐かしむような、それでいて苦しそうな声だった。
「そうなんですか?」
「――ネグレクトだったのです。いわゆる放置児ってやつですね。七福マートのオーナーと先代店長がいなければ、とっくに死んでたと思います。仮に生きていたとしても、ロクな人生じゃなかったでしょうねぇ」
初めて訊く店長の生い立ちだった。
だから、こんなに親身になってくれるかと、ようやく理解した。
「さて、メソメソしている場合じゃありませんよ。早速、対策を考えましょう。まずは今日の帰りですね。家を知られては大変ですから。ここは慎重にいきましょう」
灯は店長が置いてくれたティッシュで涙を拭うと、チンと鼻をかんだ。
そして気合を入れるためにパンパンと両手で頬を叩く。
「おぉ、いいですね。その調子です」
空気が和んだそのとき、ドアが開いて、アルバイトの女の子がピョコリと顔を出した。そして灯を見るなり、「よかった、まだ帰ってなくて」と言う。
「お客さんが灯さんを呼んでるんですけど、どうします?」
頭のてっぺんからつま先まで電流が走った。
慎二……?
どうしよう、心の準備ができていない。
「僕が対応しましょう」
間髪入れずに店長は立ち上がるとバックヤードから出て行った。
そして、数分後に戻ってきた店長の顔からは、なぜか緊張感が消えていた。
「常連客のエキさんなのですが、どうしますか?」
店長は穏やかにそう訊ねる。
えぇっ、エキ⁇
灯は慌てて立ち上がると、ドアの方へ駆け寄り、そっと店内を窺う。
するとレジの脇に、ヤク爺そっくりの顔をした疫病神姿のエキが立っていた。
「あのう、エキさんと話をしてきてもいいですか?」
店長に伺いを立てると「もちろんです。イートインスペースは誰もいないので、使ってください。それから、帰るときには必ず声をかけてくださいね」と送り出してくれた。
「灯ちゃん、ごめんね。急に押しかけちゃって」
エキの声は老人そのものなのに、月光院で会ったときと同じような若者口調で、そのミスマッチさが妙に面白かった。
テーブルの上に置かれているレジ袋からは七福プリンが透けて見える。きっと大好物の買い物ついでに声をかけてくれたのだろう。
「ヤク爺そっくり」
「双子だもん。ヤクが草色で、僕が鼠色の着物なんだ」
「そっか。覚えておくね」
「よろしく。そんなことよりもさ、今日はね、大事な話しがあってここにきたんだ」
「ヤク爺のこと?」
「そうじゃなくて、灯ちゃん自身のことだよ」
「私?」
「そう。シュリから伝言を頼まれたんだ」
そう言って、急に真顔になったので、思わず身体に力が入る。
「心して聞いてね」
灯は、ぶんと頷いた。
「しばらくは、朱里七福神社に近寄るな、だって」
えっ?
想像だにしていないことを言われ、血の気が引く。
同時に、何か失礼なことをしてしまっただろうかと、これまでの振る舞いを思い返す。
青ざめた顔色にでもなっていたのか「あっ、ごめん。言い方が悪かったね」と、エキは少し慌てていた。
「灯ちゃんの元彼がさ、朱里七福神社の周辺をうろついてるみたいなんだよ」
えっ?
「蔓のことがあるから、灯ちゃん、シュリのとこによくお参りに行ってるだろう? はち合わせしたりすると厄介だからさ」
合点がいった。
バラバラに散らばっていたピースがゆっくりと繋がってゆく。
朱里七福神社から尾行されたのか。
まったく気付かなかった。
慎二は灯が何かにつけて朱里七福神社にお参りしていることを知っている。
携帯電話を解約して、家も引っ越した今となっては、灯の消息を探る唯一の手がかりが朱里七福神社だったのかもしれない。
灯が退職してからもずっと見張ってたというのだろうか。
来るかどうかもわからないのに?
だとすれば、灯が思っている以上に根深い恨みをかっていることになる。
「そいつ、お参りもせずに、境内を出てすぐの喫茶店に居座ってたらしくてね。だからシュリも今まで気付かなかったみたいなんだ。たまたま、シュリの眷属が、最近そいつをよく見かけるって言い出してさ」
慎二は特別に信心深い訳ではないので、灯が目的であれば、お参りをしていないことも頷ける。
「灯ちゃん、そいつに鉄槌を喰らわせたんだろう?」
こくりと頷いた。
シュリ神様には灯がやったことを全部白状している。
だから心配してくれているのだろう。
「一応気をつけるに越したことはないと思ってさ。シュリは神社から離れることができないから、僕が伝言を頼まれて、ここにきたってわけ」
ヤク爺そっくりの顔でニカっと笑う。
でも灯の心内はそれどころではなかった。朱里七福神社で尾行されたのであれば、話は変わってくる。
住んでるマンションも特定されてる可能性もあるのではないだろうか――。
どうしよう。
これからどうすればいい?
考えなきゃ。眉間に力が入る。
「ごめん、不安にさせちゃったね」
心配そうに顔を覗き込まれ、慌てて顔を元に戻す。
エキには正直に話しておこう。
「違うの。今日ね、彼が来たの。七福マートに。突然――」
「マジで?」
灯は頷く。
「なにかされた?」
首を横に振り、大丈夫と答えた。
「そっかぁ、ひとまず今日のところはよかったよ」
エキは胸を撫で下ろすように息を漏らした。
「警戒した方がいいよ」
怖いくらい真面目な顔つきでそう言うと、これからのことに思いを馳せているのか、ギリギリ聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、シュリは身動きが取れないし――、ノエもしばらくは東京に戻って来れない――、ヤクは使い物にならないし――、などとブツブツ言っている。
「大丈夫です。自分でなんとかします」
心配をかけないように作り笑顔を浮かべると、シワシワの手が灯の手にそっと重ねられた。
「こういうときはね、強がらなくてもいいんだよ」
重ねられた手はカサカサなのに、潤いを流し込むように優しい声が心に浸透する。
ずるいよ……、
そんな優しい言葉をかけられたら、また涙腺が緩みそうになる。
灯は涙がこぼれないように、ギュッと下唇を噛んだ。
「不安にさせるつもりじゃないけど、そいつ結構やばいと思うんだ。だからシュリだって心配してるんだろうし。このこと、スグル、えっと店長は知ってる?」
灯は力強く頷いた。
それなら心強いね、そう言って、灯を安心させるかのように、添えている手の力をギュッと込めた。
エキとの話を終えた灯はバックヤードに戻ると、店長の姿はなかった。
灯は、更衣室のロッカーに行き、財布の中から、お守りとして大事にしまっていたメモを取り出す。
今更、真芝の連絡先が役に立つ時がくるだなんて思いもしなかった。
灯に引越しを勧めてくれた彼女。
灯に会ったことを会社では他言しないと約束してくれた彼女。
あの会社の人間で連絡を取れる人は真芝しかいない。
灯はスマートフォンを取り出して、メッセージを打つ。
慎二が店にやってきたこと。
あとをつけられて家を知られるのが怖いと思っていること。
ついては、今、慎二がオフィスにいるかどうか教えてもらえないかということを簡潔に書いて送信する。
すぐに、メッセージに気づいてくれるだろうか?
もし、いると返事がくれば、その隙に帰ることができる。
逆にいないと返事がくれば――、あとをつけられる可能性がある。
じりじりとした焦りだけが膨らみ始める。
まだ既読にならない。
それから五分後に既読のしるしが付いた。
よかった。メッセージに気づいてもらえた。
けれどそれから音沙汰がない。
さらに二十分ほど経過したが返事がない。
忙しいのかもしれない。
いや、そもそも面倒なことに巻き込むなよって思われてるかもしれない。
困っているときだけ連絡をするなんて虫がよすぎるってものだ。
お願いは取り消そう、そう思ったときにスマートフォンが震えた。
『確認に手間取ってごめんなさい。片瀬さん、宇都宮支店に異動になったのですが、今日は有給休暇を取得しているようです。人事部の派遣仲間に確認したので間違いありません。気をつけてください。
追伸
人事部が志方さんを探していた件ですが、謝罪したかったみたいです』
あぁ、ありがとう。人事部のツテを使ってまで調べてくれたんだ。
このご恩は必ずお返しします。
そう何度も心の中で頭を下げた。
真芝への感謝の思いを巡らせていると、店長がバックヤードに顔を出した。
「店長、これを見てもらえますか?」
灯は、真芝とのやりとりを店長に見せると、眉間にシワを寄せて険しい顔をした。
「やはり、助っ人を要請しておいてよかった」
「助っ人ですか?」
「僕が家まで送ることができたらよかったのですが、今日はスタッフが足りないから、ここを離れることが難しそうなので。中込さんはご存知ですよね?」
「えっ、中込さん⁇」
不審者一号なんて不名誉なあだ名で呼んでいたひとに、まさか助けてもらう日がくるだなんて、穴があったら入りたいとはこのことだ。
「大丈夫ですよ。最初はちょっとぶっきらぼうかもしれませんが、とても温かい人なので」
――知ってます。失礼なのは私の方ですから。
灯は心の中で恐縮する。
「中込さんは、これから翔君と一緒に、翔君のお母さんを病院まで迎えに行くそうです。志方さんも一緒に行ってもらえますか? 帰りは送ってもらえるようにお願いしていますので」
「ずうずうしくないでしょうか?」
「翔君は一緒にドライブできることを喜んでいるみたいですよ。それに――、家に直行するよりも、撹乱のために病院に寄り道するのは悪くないと思います」
いつものように冷静で淡々とした答えだった。
「私、いろんな人に迷惑をかけてますよね」
気持ちがネガティブなほうへと引きずられる。
「その考え方、今は捨てましょうか。それにね志方さん、これは志方さんの別れた恋人のためでもあるのですよ」
「慎二のため――、ですか?」
「そうです。彼を犯罪者にしたいですか?」
「えっ⁇」
「申し訳ありません。言葉が過ぎましたね。僕は彼がどういう性格なのか、よくわかりません。ですが、久しぶりに志方さんの顔を見た今、感情が昂っているに違いありません。冷静になれば呑み込めることも感情的になれば難しいものです。昂りが高じて志方さんになにかしらの危害を加えれば、犯罪者になる可能性だってあるのです。もしも過ちを犯して前科がつこうものなら、ますます志方さんに恨みを募らせることになりかねませんよ。逆恨みの無限ループです」
「怪我をするくらいでは済まないってことですね」
「今は、頭を冷やす時間が必要です。逃げ隠れするのは不本意かもしれませんが、接触を断つことは立派な戦術です。それに、もしも店内で騒ぎにでもなれば、七福マートは営業できなくなるかもしれません。中込さんと翔君の朝ごはんはどうなりますか? 朝食は生きる上で大事ですよ。ふたりの朝ごはんのためでもあるのです。ここは正々堂々と助っ人になってもらいましょう」
なんだかよくわからない理論を振りかざされて、張り詰めた空気が緩んでいく。うまく丸め込まれたような気がするが、灯が感じていた負い目みたいなものがほんの少し軽くなったことは否めない。
不思議な人だ。店長は。
店の裏手に着いたと中込から連絡があり、店長が先に出て、周囲に慎二らしき人がいないかを確認してくれる。店長からのGOサインが出たところで、灯は待機している車の助手席に乗り込んだ。
中込は、いつものボサボサスタイルとは違っていて、こざっぱりとした格好をしており、TWO TONES代表取締役として取材に応じていた数年前の面影があった。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
灯は緊張でガチガチになりながら、車が走り出してすぐに謝った。
後部座席から翔に「お姉ちゃん」と声をかけられる。
「中込のおじちゃん、運転が上手なんだよー」と中和剤になってくれることがありがたい。
すると突然「店長に言われなかったか?」と低くバリトンのような深みのある声で中込から話しかけられ、一気に緊張感に包まれる。
「人に助けてもらったときは『申し訳ありません』じゃなくて『ありがとうございます』だ」
車に乗り込んだときのことを言われているのだと思い至り、すぐに、申し訳ありません、ありがとうございますとモゴモゴと言い直した。
「だから、申し訳ありませんは、禁止だ」
からかうように笑う中込の横顔を見ていたら、不審者呼ばわりをしたことへの罪悪感が湧き上がる。
「俺もさ、おんなじことを店長に言われたのよ。確かに『ありがとうございます』の方が気持ちいいわ」
「あ、ありがとうございます」
「ん、それでよし」
車の運転にはその人の性格が現れるというが、中込の運転は翔が言うとおり、とても居心地がいいものだった。
「あのう、私、就活生のころ、TWO TONESの採用試験受けました」
会話を繋げようと、思わずTWO TONESのことを口にした。すると、中込は驚きの表情を浮かべたあと、もの寂しげな表情に変化させたので、しまったと思ったが、あとの祭りだ。今さらどうしようもない。中和剤の翔は窓の外を眺めている。
中込が代表取締を辞任した理由がよくわからないのに、TWO TONESの話題に触れるべきではなかった。
――我ながらアホ過ぎる。
どうしよう。別の話題、別の話題――。
「なん年前だ?」
意外にも会話を繋げてくれた。
「えっ? えっと、――五年くらい前です。でも、筆記試験で落ちました」
恐る恐る続ける。
「はははっ、そりぁ、残念だったな」
思いがけず笑い飛ばしてくれた。
「あっ」
中込が怪訝そうな声を出す。
「まさか、そのことで俺のことを恨んでるのか?」
凄まれた。
「そそそ、そんな、とんでもないです」
盛大に言葉が詰まる。
「ならいいけど。恨むなよ」
「も、もももちろんです」
「――不採用でよかったんじゃないか」
「えっ?」
「あのころの俺は、天狗だったからな」
その横顔にはどこか憂いを帯びている。
社会に出て数年のひよっこにはわからない、仕事上のあれやこれやがきっとたくさんあったのだろう。
「会社をでかくすることに固執してたんだろうなぁ。今は手放してよかったと思ってる。金なんて必要以上稼ぐ必要はないんだな。生活できる分があればそれでいいってもんだ」
中込の横顔に滲み出ていた憂いは、いつの間にか消えていた。
――今が幸せだと思えるなら、それが一番いい。
《続く》
