【創作大賞2024応募作】神々の憂い #13
十章
月光院はしんと静まり返り、なにひとつ物音がしなかった。
都会に住んでいると何かしらの音が鼓膜を刺激する。田舎においても無音ということは珍しい。
木々が擦れる音、鳥の囀り、やはり何かしらの音が響いている。
灯は無音の世界を堪能するように目を閉じて耳を澄ました。
すると遠くの方からギチっギチっと廊下の軋む音が近づいてくることに気づいた。
今日はいつもより音が早い。
顔を見なくても足音で誰だかわかる。
三、二、一
「灯様!」
ほらやっぱり。
待ちわびたと言わんばかりの声が響いた。
ゆっくりと目を開けると、泣き腫らしたように真っ赤な目をした蔓が立っていた。
急いで来たのか、珍しく呼吸が乱れている。そして灯の姿を捉えるなり、涙を湛え、やがてほろほろと流れ落ちた。
なんて美しい涙なんだろう、そう思った瞬間、流れる涙を拭おうともせずに、蔓は両腕を伸ばして、がしりと灯を抱きしめた。
優しいぬくもりにじわりと包まれる。
灯の無事を確かめるかのようにぎゅうぎゅうと腕の力が込められるものの、その身体は小さく震えていた。
「あ、かり……さま。かず、らの、せいで、もうし、わけ、ございませんでした……」
しゃくりあげるように、途切れ、途切れの声。
どれだけ自分を責めたのだろう。
きっとこれまでの蔓なら、すぐさま平伏して謝ってきたに違いない。
けれど今日は違う。
いつもの堅苦しさをすっ飛ばして、感情の赴くまま抱きしめてくれた。
まるで親友を心配するかのような振る舞いに、心配をかけて申し訳ないという気持ちよりも、気恥ずかしさと嬉しさの方が勝ってしまう。
「大丈夫だから。擦り傷と捻挫だけですんだよ。七福マートのみんなが助けてくれたの。だから心配しないで」
灯は怪我をしていないほうの手で、蔓が落ち着くように背中を撫でた。
「それよりも、これ見て」
抱きしめられていた身体を離し、右手首を蔓の前に突き出す。
「利き手がこれだから、何をするにも、すっごい大変なの。ここにいる間、申し訳ないけど、色々手伝ってね」
蔓の顔がきりりッと引き締まる。
「そうでございました。わたくしには灯様のお世話という特別任務がございました。泣いてなどいられませんわね」
蔓は袂で涙を拭うと、ノエ様の元へ参りましょう、と歩みを進めた。
灯様のために、ふかふかのお布団をご用意したのですよ、などと軽やかに言っているので、少しは気分が上向いたのだろう。
蔓は大広間の手前まで来ると立ち止まって、中に向かって声をかける。
「ノエ様、灯様をお連れいたしました。お通ししてもよろしいでしょうか」
「かまわぬ。入れ」
ノエの許しとともに、大広間へ足を踏み入れると、上座に座るノエの前に、ふたりの先客が背を向けて座っていた。
そして振り返ったその顔ぶれに思わず息を呑んだ。
「えっ、どうして――?」
そう発するのが精一杯だった。
「それは、こっちのセリフっす。なんで灯さんがここにいるんすか?」
声の主もまた目を丸くして驚いている。
先客は灯がとてもよく知る人物。
店長と坂下だった。
「そんなところに立っていないで、こちらへどうぞ」
状況を呑み込めないふたりをよそに、店長が隣の席を勧めてくれる。落ち着いた振る舞いからして、灯が来ることを知っていたのだろう。灯は勧められるがまま、店長の隣に敷かれた分厚い座布団に腰をおろす。店長を挟んで反対側に坂下が座っているが、店長の座位置が少し下がっているせいで、灯の位置からでも坂下の顔がよく見える。
「驚きましたか?」
灯はブンブンと首を縦に振った。
「私が幼いころ、ノエが我が家に居候していたことがあるのですよ。それから坂下家にもね」
店長はまるで「今日はいいお天気ですね」と同じくらいのニュアンスで話しているが、内容的に決して軽くはない。
居候という言葉は優しいけれど、要するに貧乏神がふたりの家に棲みついて居たということだ。
坂下を見ると、静かに頷いて肯定した。
店長とノエが知り合いだった。
おそらくエキやヤク爺のことも知っているのだろう。
だから、七福マートで雇ってもらえたし、月光院に行く日には、バイトのシフトが入っていなかったのか。
「私が放置児だったことは、ご存知かと思いますが、七福マートで助けてもらえと教えてくれたのはノエなのです」
店長はしみじみとそう言った。
「こいつらは神眼の持ち主でな、俺のことが見えておったのだ」
ノエが言うには、人の子の家に棲みついている間は、本来の姿に戻っているので、神眼でない限り、貧乏神の姿は見えないのだという。
「神眼って坂下君すごいじゃん!」
興奮して、前のめりにそう言うと「今はもうそんな力は残ってないっす。店長は今でも見えるみたいっすけど、僕の場合は子ども特有の力みたいっす」と、寂しそうに呟いた。
そういえば、祖母が言っていた。小さな子どもは、まだ神様との繋がりが残っているから、見えないものが見えることがあると。けれど、大人になるにつれて、その力は消え失せていくのだとも言っていた。
「こいつらはな、俺を見ても怖がりもせずに、普通に話しかけてくるもんだから、俺の方がビビったわ」
懐かしむようにノエが言う。
「怖いなんて思わないっすよ。それに僕、小さいころ寂しかったから、ノエが押し入れに居てくれることが嬉しかったんすよね。ノエには、びっくりするくらい、なんでも話せるんす。そして、全部受け止めてくれるんっすよ。誰にも言えないようなことも全部っす。そして言ってくれたんっすよ。『今は難しいだろうが、大きくなったら、親や周囲の人間に振り回されることなく、お前はお前の人生を生きていいんだぞ』って」
坂下の言葉に、なぜか聞いてはいけないことを聞いたような気がして、いたたまれなくなった。
幼い坂下には、ノエが貧乏神だとは分からなかったのかもしれない。それでもノエにしか本音を言えなかった心境を思うと胸が張り裂けそうになる。同時にたとえ貧乏神であっても本音を言える人がそばにいてくれてよかったねとも思った。
思い返してみれば、坂下の子どものころの話はほとんど聞いたことがない。貧乏神が棲みついていたのだから、裕福でなかったであろうことは想像できる。学費も全額奨学金だと言っていた。お姉さんとも年が離れていると言っていたし、ひとりで過ごす時間が多かったのかもしれない。七福マートのセーフティネットに強く賛同しているのは、ただ単にいいなと思っただけじゃなくて、育った環境も影響しているのかもしれないと思い至った。
「だから今日、久しぶりにノエに会えて、ほんと嬉しかったっす」
綻んだ顔から喜びが伝わってくる。
「坂下君は月光院にきたのは初めて?」
しんみりモードに逆戻りしないように、少しだけ声のトーンを上げてみる。
「はい。店長がノエのことを知ってるっていうのも最近知ったんっすよ。もしかして灯さんの家にもノエが?」
えっ? うち? うちはどうだろう? 少なくとも実家でノエを見た記憶はない……。いやそもそも灯が神眼でなければ、棲みついていたかどうかなんて分からないのではなかろうか。すがるようにノエを見ると
「こいつの家には棲みついてはおらぬ。こいつはヤクが拾ってきたのだ」
とバッサリ否定されてしまった。
「だそうです」
灯はやれやれという顔を作って、坂下に向ける。
確かに悲惨なほど貧乏に陥った記憶はない。強いていうなら、今が一番貧乏だ。
ん? ちょっと待って。ということは……。
「ノエが棲みついたから、店長も坂下君も苦労したってこと⁇」
こんな善良な人たちの家に棲みつくなんて!! と文句のひとつでも言ってやろうと鼻息を荒くすると、店長と坂下ふたり同時に「違います!!」と食い気味に否定され、その剣幕に、灯よりもノエの方が驚いている。
店長は「我が家はすでに末期だったのですよ」と伏目がちに付け足した。
「世の中の仕組みがよくわからない子どもでも、ズルズルと落ちていく生活が続くのは、とてつもなくしんどいのです。今がどん底で、すぐに上向くはずだって期待するんです。でも――、実際の底はまだずっと先で、容赦なく落ちていくんですよね。期待した分、ますます苦しく感じるのですよ。だったら、もういっそ、底まで叩き落としてくれって感じで――」
そうなんっすよねー、と坂下が店長の言葉を拾った。
「こんなに苦しいのに、まだ下があるのかって思うことが辛いんっす。底まであとどれくらいあるんだろうって。客観的に底までの距離が見えないから不安なんっすよ。いっそのこと、一番下まで落ちてしまえば、もうこれ以上悲惨なことにはならないし、あとは上がる期待しかないじゃないっすか。だから頼む、さっさと底に叩き落としてくれーって感じになるんっす」
「つまり、そのたたき落とす役割をしたのがノエってこと?」
ふたりは同時に頷いた。
「うちは、ノエが棲みつく前から、傾いていたっす。そんで、ノエが棲みついてから程なくして廃業したみたいっす。あれ以上借金が膨らまずに済んで、マジでよかったすよ」
トドメを刺すことも、ある意味優しさなのだと初めて知った。
灯はどんな反応をしていいのか分からずにノエを見ると、ぷいっと顔を背けられた。
「あっ、ちなみに中込さん家にも棲みついてたらしいっすよ。だからあの人TWO TONESを辞めたんっすよ。辞めさせられたの方が正しいんすかね」と坂下が無邪気に教えてくれた。
まさかの中込まで……。
中込は以前、自分は天狗になっていたと言っていた。
だからノエに憑かれた?
――憑神には使命がある――
ノエの言葉が蘇る。もしも今、中込が悲惨な人生を歩んでいるなら、所詮貧乏神なんて、面白半分で誰かに憑いて、人の子の転落を楽しんでるんでしょと思われても仕方がないけれど、中込が改心したことも今の生活に満足していることも灯は知っている。
必要悪――。
最後通告されてもなお、自分の置かれている状況を認められずにもがいている人や、天狗になった心を改心させるのがノエの仕事。
貧乏神は人の子の暮らしを見守る神の一柱なのだと、見えない誰かに言われたような気がした。
「それから灯さん、びっくり情報っすよ」
「なに?」
「ノエは今、どこに棲んでると思います?」
どこって……、その口ぶりじゃ、灯の知っている人なのだろう。
最近貧乏になった人――、身近な人の顔を順に思い浮かべてみるがピンとくる人はいない。考え込んでいる灯を見て、坂下がニヤリと笑った。
「メイさんの実家らしいっす!」
「メイさんの⁇」
言われてみれば、ノエは東京を離れているとエキが言っていた。まさかメイの実家とは。
貧乏神が棲みついたとなれば、メイの両親も会社を守るために馬車馬のように働かざるを得ないだろう。なにより捜索資金の捻出も困難になるに違いない。当面は娘にかまっている余裕なんて持てないだろう。こちら側からすれば、申し分のない取り憑き先だ。
だがそんなことよりも、七福マート関係者の憑神関与率って、異常に高過ぎやしないだろうか。偶然という言葉で片付けるにはあまりにも不自然な気がする。
そんなことを考えていると、店長と目が合った。
「いい機会ですし、坂下君にも七福マートの裏の仕事を知って貰おうと思いましてね。今日は一緒に連れてきたのです」
口元は微笑んでいるけれど、その目はちっとも笑っていなかった。裏の仕事という響きに鳥肌が立つ。知らぬが仏とはこのことではないだろうか。けれど知らない方が良いとわかっていても知りたくなるのが人間の性というものだ。
「あのう?」と店長に声をかけ、一呼吸置く。
「七福マートと憑神はなにか関係があるのでしょうか?」
心臓の音がトクトクと速くなる。
ついに訊いてしまった。
店長は「深い縁があるようですよ」と言ってノエを見る。
ここにいる全員の視線を集めたノエは気怠そうに体を横に倒して、肘掛けに寄りかかると「七福マート店主の先祖が月光院を建てたのだ」と答えた。
「店長のご先祖様が⁇」
坂下とハモる。
「違います。私ではなく、オーナーのご先祖様です」
店長が慌てて否定する。
「オーナーのご先祖?」
「はい。それから、七福マートを開業するきっかけとなったのがヤク、エキ、ノエの三柱だそうですよ。ですよね? ノエ?」
「まぁ、そうだな」
ノエがしたり顔で頷く。
ノエによると、その昔、現在の七福町あたりを統括する村の長は、強欲で有名だったという。そこで厄病神であるヤク爺はこの長の家に棲み着こうと決めた。ところが、その日は雪深く、あたり一面、銀世界となり、ヤク爺は道に迷ってしまったらしい。そこへオーナーの先祖である梧平が通りかかったのだそうだ。梧平の暮らしぶりは、村の中でも特に貧しく自分の食べ物でさえ困っているあり様だったというが、雪が舞う中、みすぼらしい着物一枚で難儀しているヤク爺を不憫に思い、一夜の宿と食事を提供したのだという。
翌朝、ヤク爺は、自分は厄病神であると正体を明かし、強欲な村長に取り憑いて、彼を不治の病に処するつもりだったと告白した。そして、一宿一飯の恩義として、梧平に治療法を授けるので、七日後に村長の屋敷を訪ね、村長を助けて恩を売るといいと助言する。
七日後、梧平は約束通り村長の屋敷へと向かい、ヤク爺に言われた通りの治療を施した。
正確には、治療を施す振りをすればよかった。ヤク爺は梧平のニセ治療を見届けると村長の家から離れた。ヤク爺が離れたことにより村長は回復。梧平は褒美をもらい暮らし向きがよくなったのだという。
「あっ、その昔話、なんか聞いたことある」
思わず口にすると、「ここまでの話は有名だからな。だが、これには続きがあるのだ」とノエが言った。
「そうなの?」
「ああ。まぁよく聞け」
梧平は、なんと褒美を独り占めせずに村人にも分け与え、尊敬の眼差しを一身に受けた。だがそんな梧平のことを村長は目の敵にする。ついには助けてもらった恩も忘れて『梧平に褒美などやっておらぬ。あれは盗まれたのだ』と言い出す始末。
「ひっどい! 最低じゃん」
「まぁ、そうだな」
村長は村びとに対して梧平と口を聞くことを禁じて、村八分に追い込んだ。
それを聞いたヤク爺は、烈火の如く怒った。
そこで、この村に熱病を振りまこうとしていた疫病神であるエキに相談。
褒美を分けてもらったことも忘れ、村長のひと言で梧平を村八分に追い込んだ村びとに対しても怒りの矛先は向かい、二柱で手分けして熱病を流行らせることにしたという。
「そんなことしたら、梧平さんも病気になるんじゃない?」
「ああ、だから梧平には熱病が感染しないように事前にまじないを授けた。まじないと言っても、今で言うところの予防法だな」
けれど、人のいい梧平はやはり今回もまじないを独り占めせずに、村人に共有しようと村中の家を一軒一軒回った。だが半分くらいの家は、村八分の梧平と口を聞くことで罰せられることを恐れ、梧平の訪問を無視して感染してしまったのだという。
当の村長はといえば、ちゃっかり梧平の言うことを守り、感染を免れて、ピンピンしていた。しかも強欲さは日増しに酷くなり、年貢の取り立てを厳しくしたせいで、村びとの暮らし向きはますます苦しくなった。
「その話を聞いた俺はな、迷わず村長の屋敷に棲みついた。ついでに村長の財産が梧平の元へ巡るようにしたわけだ」
「さすがっすね」
坂下は尊敬の眼差しをノエに向ける。
「当たり前だ。まぁ、察しはつくと思うが、梧平はやはり財産を独り占めしなかったのだ。その金で、熱病で親を亡くした子どもたちを育て、村びとの『困った』を助ける駆け込み寺兼萬屋を始めてな。それが七福マートの原点だ。それから、俺たちが宿なしに陥ることがないように月光院を建ててくれた。あいつは自分のためだけに金を使うようなことはしないやつだからな」
ノエは梧平との逸話をしみじみと語った。
その話を聞いて、七福マートが駆け込み寺としての役割を果たそうとしている理由がよくわかった。
全ては梧平の意志を継ぐものだったのだ。
「もしかして、ノエがメイさんの実家にいるのは、室見さんの『困った』を助けるため?」
そう訊ねると「私がノエに相談しました」と店長が答えた。
代々、七福マートの店長は、人の手に負えない困りごとが起きると、バックヤードに祀られている神棚に向かって、相談するのだという。
すると月光院から憑神の誰かが七福マートにやってきて作戦会議が開かれるらしい。そうやってこの七福町の平和をずっと守ってきたというのだ。
メイが家出した日も、憑神との作戦会議が開かれ、その日のうちにエキがインフルエンザ攻撃を仕掛けて、ご両親の足止めをした。
慎二を足止めしたのと同じ作戦だ。
けれどインフルエンザごときでは、せいぜい数日間足止めすることが関の山だろう。それくらいでメイの両親の執着が削がれるとも思えない。けれど、そんなことは百も承知で、知り合いの少ないメイが室見を頼るのことは、遅かれ早かれ両親に気づかれるはずだから、室見と全く関係のない場所にメイを避難させるまで、確実に足止めをすることが目的だったという。
次はノエの出番だ。
生憎、ノエが棲みついたからといってすぐに無一文になるわけではない。けれども家業が火の車になれば、娘に構っていられる状況ではなくなる。
実際に商いは徐々に厳しくなってきているらしい。
その話を聞いた灯は、中込が本来のあるべき姿に気付いたようにいつかメイの両親もそうあって欲しいと切に願った。
「さて、次はお前だな」
コホンとノエが咳払いをした。
「今日の会議は志方さんのことですよ。そのために坂下君も連れてきたのですから」
店長が穏やかに継いだ。
「私ですか?」
「もちろんです。志方さんも七福町の大切な住人なのですから。志方さんの困ったを、解決しなければなりません」
「そうっすよ。僕、なんでもやりますよ。灯さん」
「店長……、坂下くん……」
ありがとうございます、そう言いたいのに、言葉が詰まって、うまく口にすることができなかった。
「灯様、この蔓も僭越ながら、お手伝いさせていただきます」
大広間の入り口に控えていた蔓が歩み寄り、隣に腰をおろすと、灯の手をぎゅっと握った。
灯は情の深い人たちに恵まれた幸運を神様に感謝した。
そんな感動モードを蹴散らすように「どんな制裁を喰らわせますか?」と戦闘モードの坂下が切り込んでくる。
「ノエに憑いて貰うのも一案ですが、まだまだそちらを離れるわけにはいかないですよね?」
店長がノエを見る。
「そうだなぁ。今離れると、あいつらはすぐに息を吹き返すだろう。そうなれば、血眼になって娘を探し始めるだろうなぁ」
「それは、やばいっすね」
坂下君が眉間に皺を寄せる。
そこへ蔓が、あのう、と割って入ってくる。
「蔓がそやつの耳元で唄うというのはいかがでしょうか?」
いわば自分の欠点にも関わらず、驚くほど真剣な面持ちで提案してくる。
「天罰というなら、それもいいかもしれぬが、そのムスメへの執着は消えぬのではないか?」
ノエはすました顔で『天罰』という言葉を使ったが、蔓の歌はそんなにすごいのかと別の意味で興味がそそられた。だからといって絶対に聴きたくはないのだが。
「ヤクがいればなぁ」と、ノエがこぼすと「そうでございますわね。ヤク神様がそやつに取り憑けば万事解決にございますのに――」と、歯痒そうに口の端を噛んだ。
「もうじき出雲の『神議り』だ。今ここでひと仕事しておけば、出雲で肩身が狭い思いをすることもなかろうに」
「神議りって?」
「お前は何も知らぬのだな」
ノエが呆れたようにため息をついた。
「十月のことを和風月名でなんという?」
「和風月名って?」
ノエがさらに深いため息を落とした。
「睦月、如月……、言い方があるであろう」
「ああ、それね。えっと……」
あれ、なんだっけ。十月でしょ。十月……。
「神無月っす」
灯に代わって坂下が答える。そして、ああ、わかったっす、と言葉を繋げた。
「旧暦の十月に八百万の神々が出雲大社に集まるってやつですよね。旧暦の十月。つまり今でいうところの十一月。もうすぐ、出雲で神々の集いがあるってことっすね?」
「そういうことだ」
ノエが頷く。
さすがの灯も『ここでひと仕事しておけば、出雲で肩身が狭い思いをすることもなかろうに』の意味が理解できた。
ヤク爺が仕事をしていないことが神様の世界でも問題になっていると言っていたことを思い出した。
蔓が言ったように、ここにヤク爺がいてくれたら、灯が抱えている問題も、ヤク爺が抱えている問題も全て解決できるのに……。
店長がおもむろに「今年は十一月二十二日から、出雲で神在月が始まるみたいですね」と口にした。
――来週だ。
灯もピンチだが、ヤク爺も大ピンチだ。
すると、蔓は何を思ったのか、すくっと立ち上がり、結界が張られているギリギリのところまで歩み寄ると、声を上げた。
「ヤク神様、出ていらしてくださいませ」
慈愛に満ちた声で優しく呼びかけるが、奥からは物音ひとつ響いてこない。
「話は聞いておられたのでしょう? いつまで、そうやっていじけていらっしゃるおつもりですか! 灯様の窮地にございますよ!」
ヤク爺に対しては絶対服従かと思っていた蔓が声を荒げた。
「なんのための厄病神ですか! ここぞというときに、その力を使わなくてどうするのです! そんなだから、厄病神は忌み嫌われるのですよ‼︎」
金切り声が部屋中に響き渡る。
「蔓さん、やめて。私は大丈夫だから――」
慌てて止めに入ったが、蔓の苛立ちは止まらない。
「今、灯様をお助けできるのは、ヤク神様だけなのですよ! 助けを求める者を無視するなど、もはや神ではありませぬぅぅぅっ!」
《続く》
