日常に紛れ込む、息づく造形たち
「漆黒の鬼」が、空白の壁で深く息を吹き返したのを見て、改めて思う。
台所や食卓にも、そんなふうにしぶとく生き残っているものたちがいる。
陶器 × 食べもの × お土産。
この三拍子が揃うと、もう、ときめきが止まらない。
淡路屋のひっぱりだこ飯、崎陽軒のひょうちゃん、松浦漬本舗のかっぱ、古伊万里酒造のワンカップ。そう、カップ酒ともどこか共通している。
惹かれるのは、ユーモアや愛らしさだけではない。その土地で生まれた理由を、その形の中に「必然」として持っていることだ。
陶器だから、少し値が張ることもある。
それでも、「この値段でこれが手に入るなら」と、つい連れて帰ってきてしまう。
味はやがて消える。けれど器は残る。
食べ終えたあとも、土地の気配ごと、暮らしに混ざりあう。
紙のパッケージも好きだけれど、陶器のほうが、いまの生活には落とし込みやすい。
日々使いながら、旅の続きを手繰り寄せる「道具」になるからだ。
わが家の食卓では、旅の欠片たちがそれぞれの居場所を見つけている。
ひょうちゃんは、ある日は箸置きになり、ある日は台所を彩る小さな住人になる。

ときどき手に取り、箸置きにする

松浦漬のかっぱは、いまや家族の箸を支える「箸立て」として、どっしりと構えている。
なかには、ひっぱりだこ飯の深い器で、豪快にお酒を煽る強者(家族)もいる。



彼らはもう、お土産という役目を終え、この家の一部として呼吸している。
それは単なる旅の記念ではない。
私の時間を編み直すための、「結び目」のような造形たちだ。
旅に出る先、特に焼き物の町には、まだ見ぬ仲間が潜んでいるのかもしれない。
追いきれる気はしていない。
あの「漆黒の鬼」が、自分にふさわしい壁を見つけ出したように。
日常の風景にまた新しい仲間が「居場所」を見つけにやってくる日を、静かに待っている。
▽ こうして、それぞれが居場所を見つけていく様子についても、少し書いています。
▽ これらを選ぶ時間は、旅の一部でありながら、自分のまなざしを確かめる時間でもある。
▽ 漆黒の鬼が、空白の壁で息を吹き返した日のこと。
