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居場所になっていく

 居場所

自分の部屋があるかないかに関わらず、
「ここは自分の居場所だ」と感じる空間がある。

例えば、リビングテーブルの一角。
裁縫ポーチとビーズの入った缶をただ置いているだけだけど、そこはなんとなく私の場所だ。



娘はいつも座るソファの横の窓辺に、
お気に入りの本やノートを積み上げている。
そこは、彼女の場所。

息子にも、ちゃんとある。
ダイニングのいつも座るあたりの、すぐ左。
出番の少ないプリンターの上に布をかけて、
折り紙作品やあやとり、シール帳を並べている。


「ここが私の場所」と、
誰かが宣言したことはない。

それでも、よく居る場所に自然とものが集まり、
いつのまにか暗黙の了解になっていく。
気づけば、そこが定位置になっていた。

そこに集まったものたちが、その場所を、
「居場所」として浮かび上がらせる。

言葉で決めなくても、手の届く範囲に置かれたものたちが、それぞれの個性を守る「目に見えない境界線」になっている。


自分のものが、そこに「あるべきように在る」ことは、安心につながる。
逆に、その境界が混ざり合うと、心は静かにざわつき始める。


それは台所でも同じだ。
調理台の隅に布を敷き、その上にはお盆や巻き簾を置き、かごには調味料を入れる。

使いにくければ、自然と残らないはずの配置。
それがずっと残っているのは、使う私だけでなく、道具たちにとってもそこが馴染む場所だからかもしれない。

愛着のあるものたちがつくる、小さな「点」。
その集まりが、居場所になっていく。


ある組み合わせに、ふと気がついた。


 馴染む居場所

陶器と裁縫。
この2つの組み合わせが、妙にしっくりくることに最近気がついた。

きっかけは、鍋島唐子の針山
なぜか、その組み合わせが頭から離れなかった。

そこから、蓋を失くした「ひょうちゃん」で針山を自作してみた。

手元の、ビーチコーミングで集めた漂着物を眺めていると、海で拾った漁網の沈子が目に入る。
これも針山になるのではないか、と思う。


陶器の硬さや重みが、繊細な針を受け止めてくれる。そうして、針仕事という柔らかな時間の中に、静かに溶け込んでいく。


一方で、居場所を探していたビーズの手作り作品を、ガラス瓶にかけてみた。
色彩が透明に重なり、すとんと腑に落ちた。


飾る居場所が見つかると、ものが呼吸を始めるように感じる。ただ置いていたときには見えなかった表情が、ふっと立ち上がる。

ものは、ただあるだけじゃなくて、
“居場所”を得たときに輪郭が浮かび上がる。

ものが居場所をつくるのか、
居場所がものをひらくのか。
そのどちらもが、同時に起きている気がする。

気づけばそこにあった場所も、
ふと見つけた場所も、
どちらも同じように居場所になっていく。

そうやって、ものたちは、それぞれの居場所を見つけていくのかもしれない。


居場所を見つけていったものたちについて、
少し書いています。よろしければ、こちらも。


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