カップ酒で、視線を買っている
お酒が好きだ。
ビールは味で選ぶ。苦み、軽さ、気分。
けれど、カップ酒だけは、わけが違う。
私はこれを、完全に「ジャケ買い」している。
「こんなに素敵な瓶が売り物でいいの?」と、
驚くようなデザインに出会うことがある。
だから、旅先でもっとも心躍るのは、
新幹線の駅のコンビニだったりする。
少しの緊張とともに、棚の奥をのぞき込む。
「こんな子が待っていたのか」
そう確信した瞬間、味の想像なんて飛び越えて、私はカップをかごに入れる。
どこでも買える全国流通品しか並んでいない棚を見ると、出会いを奪われたようで少し腹が立つ。
カップ酒は、私にとって「出会い」そのものだ。



あえて大人買いはしない。ただ、ホテルに
1つ置いてきてしまったのが、未だに悔しい。
出会いに任せて手元に招く。
くまモンの愛嬌も、晋作の志も、置き忘れてきた曳山への未練も。すべてが混ざり合って、私の棚は賑やかだ。
┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈
味わったあとの、空のカップ。
それは役目を終えたはずの器なのに、暮らしの中で、もう一度居場所を持ちはじめる。
再びお酒を注ぐ器になり、ときには子どもが面白がって手に取ることもある。
棚に並んで出番を待つ日もあれば、いつのまにかペン立てやしゃもじ立てになって、当たり前のように日常に溶け込んでいく。

鬼太郎たちのいる景色は、なんだか心強くて、
少し可笑しい。

背負えば重いはずなのに、
見ていると、こちらの肩が軽くなる。


私は、お酒を選んでいるのではない。
その奥にある“気配”を選んでいる。
ラベルに描かれたお祭りや人物、小さく記された土地の名。その向こうにある誰かの暮らしの空気。旅先の棚で、それに出会う。
家に連れ帰った瞬間、その気配は私の時間と重なりはじめる。あのとき確かに感じたものが、暮らしのなかで、静かに残る。
手ぬぐいの柄も。海で拾う陶片の欠片も。
気づけばどれも、私の時間に溶け込んでいる。
惹かれるのはいつも、目の前にありながら、その奥に時間が重なっているものだった。
集めているつもりはない。ただ、目に留まったものを手元に置いてきただけ。
けれど、あとから思えば、そのどれもが、消えずに続いてきた時間の中にあった。
その感覚に、はじめて輪郭が与えられた日がある。
壱岐で、静かに続いている暮らしに触れたとき。そしてもう一つ、東郷青児の描く横顔を、何度見返しても色褪せなかったとき。
惹かれてきたのは、その“途切れなさ”だったのかもしれない。
東郷青児の横顔に、私が見ていたもの
◯ 私の収集と「まなざし」の原点
壱岐で触れた、途切れていない時間
◯ 私のまなざしが、風景に返された日
