理由のない「好き」を、そのまま置いておく
チェストに封じ込めた情熱の正体
「東郷青児って誰?」
そう首を傾げる人もいるかもしれない。
何故あんなにも惹かれていたのか、自分でもうまく説明はできない。
けれど、紙ものや喫茶店文化を辿っていくと、必ずといっていいほど出会ってしまう、避けては通れないあの横顔。
どこか遠くを見つめる、憂いを帯びた特有のまなざし。気づけば私は、その引力に強く惹きつけられていた。
昭和のマッチ箱、喫茶店の壁に掛かった額装、老舗洋菓子店の包装紙。
そのあちこちに、東郷青児の描く女性は静かに、けれど確かに潜んでいる。
描かれた女性そのものが、無条件に好きだったわけではない。むしろ、どこか冷ややかで、少し怖い。しかし、あの流れるような曲線には、日常を美しく装おうとする意志が宿っているように見えた。
収集癖に火をつけたのは間違いなく東郷青児の絵。彼が手がけた、あるいは彼をオマージュした数々のパッケージや佇まい。それらが醸し出す「時代の空気」に、心を掴まれていた。
横顔を追いかけるうちに、選ぶ基準は流行のなかにではなく、自分の内側に。かつては時代の象徴であったその横顔を、あえて自身の物差しで選び直す。そこに、私だけの美学が宿り始めていた。
いま、そのコレクションはすべてチェストの奥に眠っている。部屋に飾ることもなく、新しく探し歩くことも、もうやめている。
それは決して飽きたわけではない。自分の中のひとつの時代が完結した。そんな実感を抱いている。
◉ 収集が、血肉化した
子育ての途中で、いったん趣味を捨てたと思っていた。切手、紙もの、土産もの、郷土玩具、そして東郷青児。
けれど、本当は捨ててなどいなかった。
バラバラに見えた点がつながり、いまの私を作っている。
かつては外にある「美しいもの」を必死に追いかけ、手元に手繰り寄せていた。
何かに心を震わせる、あの切実な時間。
その熱狂を経て磨かれた私の眼はいま、子どもの成長や土地の気配を見つめる視線へと少しずつ姿を変えた。
趣味は消えたのではなく、
視線に変換されていた。
かつての収集は、日々の暮らしを慈しむ「まなざし」として、私の中に残り続けている。
東郷青児は、私の避けては通れない横顔だった。
何に心を震わせてきたかを、忘れずに暮らしていくこと。いま拾い直したこの感覚を、これからは生活の片隅に、そっと置いておこうと思う。
┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈
いま、その「まなざし」を自分の中に持っているのなら、「もの」は手放せるはずだった。
選ぶ基準や物差しは、きっともう、自分の内側にある。
それでも、チェストの中身を捨てることができない。いまも、ときどきそっと開ける。
飾ることもなく、家族の前に出すこともない。
ひとしきり眺めて、また静かにしまっている。
どうして手放せないのか。
そもそも、何を集め、何を残してきたのだろうか。

チェストの奥底に静かに収まっている、東郷青児のコレクション。
包装紙、書籍、ポストカード、マッチ。
ガラス製品、陶器、香水、そして扇子。
ひとつひとつに、あの頃の熱がそのまま宿っている。
出会った瞬間の、胸の高鳴り。
手に入れたあと、何度も眺めた夜。
欲しかったのは、ものだったのか。
それとも、あの時間だったのか。
そしてなぜ、いまは飾らないのか。
ひとつずつ、紐解いてみる。
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