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壊れた檻(1)

(あらすじ)
高校3年生の早乙女優太は、医学部を目指して受験勉強に励んでいたが、付き合っていた彼女と間に子どもができ、医学部を諦めようと考える。父親に話すも反対され、説得しようとしていたところ、彼女が事故に遭ってしまう。運悪く強く頭を打ち付け、命を落とした彼女と子ども。父親は「これで医学部を目指せる」というが、生まれてから今まで父親の言いなりだったと気が付いた優太は、今度は自分の意志で望む進路を決め、初めて父親に歯向かう。


 どしゃぶりの雨の中、高校3年生の滝本優里菜は傘をさし、片手運転で自転車に乗っていた。日が暮れはじめ、視界が悪い。
「キキ―!!」
 側道から飛び出してきた乗用車を避けようとした優里菜は片手でブレーキをかけてバランスを崩し、側道から大通りにゆらゆらと飛び出した。
「キキー!!」
 大通りを走っていたトラックの運転手は飛び出してきた自転車に気づいたが、対向車線に対向車がおり避けられない。ブレーキを踏み、クラクションを鳴らしたが、飛び出してきた自転車をよけられなかった。

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 夜空を背にした高層マンションを見上げた早乙女優太は、それがまるで怪物のように見え、暑くて汗をかいているのに寒気を感じた。視線を下ろし制服のポケットからスマートフォンを出すと、電話をかける。
「優里菜? 今、何してた?」
「優太がそろそろ塾終わる頃かなって思ってた」
「今、家の前」
「いよいよ、だね」
「うん。昨日も言ったけど、お母さんは味方になってくれるって言ってたから、なんとかなると思う。祈ってて」
「うん。きっと大丈夫! 頑張って」
 電話を切った優太は、スマートフォンの待ち受けにしている優里菜とのツーショット写真を見つめる。
 LINEアプリに通知が届き、開くと優里菜からの「ファイト!」スタンプが表示される。優太はスマートフォンをポケットにしまい、高層マンションのオートロックを開けて入る。エレベーターで11階のボタンを押し、思いを巡らす。
 優太にとって、今日は決戦の日だった。
「ただいま」
 玄関のドアを開けると、部屋の中の涼しい空気が優太の身体を覆った。父・大輔の靴がきっちりと揃えて置いてある。大輔に事情を説明する瞬間を思い、優太は身のすくむ思いがした。
 優太は靴をだらしなく脱ぎ、家に上がる。
「優太〜、ご飯できてるよ」
 母の千恵子がリビングから声をかけた。
「わかった」
 いつもと声が変わらないように気をつけながら返事をする。一度自分の部屋に帰り荷物を置いてからリビングに向かう。
 リビングのドアを開けると、醤油の香りがした。茶色っぽい煮物をはじめとした料理がテーブルに並び、大輔が座っている。
「おかえり」
「ただいま」
 優太はスマートフォンで何かを読んでいる大輔の向かいに座った。準備を終えた千恵子も座り、三人で夕食を食べ始める。
 いきなり話してもいいものだろうか。もう少し食事が進んでからがいいのか。いつもどんな話をしていたっけ。優太の頭にぐるぐると思考が回る。
「お父さん、今日は仕事どうだった?」
「まあ、いつも通りだけど。今日はホワイトニングの人が多かったかな。一度白くすると、エスカレートするんだよ」
 大輔は皮肉を込めた笑顔を作る。優太は父のそういう表情が好きではなかった。
 優太は足に振動を感じた。見ると、千恵子が自分の足で優太の足をこづいている。「早く言え」のサインだろう。優太は、何度もシミュレーションしたセリフを告げる。
「お父さん、話があるんだ」
「何?」
「俺……彼女がいるんだ」
「へえ」
 大輔は優太を見ずに食事を続ける。
「まあ、勉強さえちゃんとしてれば、それくらいの息抜きはいいだろ」
 大体、予定通りの反応だ。これまでも、医学部が狙えるくらいの勉強をしていれば文句を言うことはなかった。
 優太は、千恵子をチラリと見て、水を飲む。
「彼女、俺の子を妊娠してるんだ」
「何だって?」
 大輔は体の向きを変えず、目だけを動かして優太を凝視する。
「俺に言ってどうするんだ。堕すんだろ? 高校生なんだから」
 千恵子が悲しそうな目を大輔に向ける。優太には「堕ろす」の言葉がずしんと重く響いた。
「いや……」
 優太が言うと、大輔は優太に怒りの表情を向けた。
「彼女と一緒に育てたいと思ってる」
「医学部はどうするんだ?」
 子どもの頃から、父の大輔に医者になれと言われ続け、勉強に明け暮れてきた。高校ではトップの成績だが、医学部の道は険しい。高校3年生となった今、優太の学力と大輔の経済力で現実的なのは、地方の国立大学しかない。
 これまでは、秋田大学の医学部を第一志望としていた。
「地方の大学に行くと一緒に育てられない。だから」
「だから?」
「医学部は諦めて……」
 大輔は立ち上がり、優太を見下ろす。その直後、恐怖に歪む優太の頬が、大輔の平手でさらに歪んだ。
 叩かれた衝撃でバランスを崩した優太の肘がテーブル上の食器にぶつかり、ガシャンと大きな音をたてた。
「お父さんっ!」
 千恵子の声がリビングに響く。

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「ねえ、まだ痛い?」
「朝からずーっと聞いてるじゃん。何回目だよ」
「だって」
 優太と優里菜は手を繋ぎ、学校帰りのいつもの道を歩いていた。
 今朝、優里菜は優太の顔を見るなり驚いたが、学校では事情を話せない。「痛い?」と聞くばかりで、優太が両親と話した内容は聞けていなかった。
「お父さん、怒ってた?」
「そうだね、どうしても医学部に行ってほしいみたい。『大学はどうするんだ?』じゃなくて、『医学部はどうするんだ?』って聞くんだぜ」
「医学部……。優太、本当は行きたいんでしょう?」
「ずっと医学部を目指してきたから、もったいないって気持ちはあるよ。でも、よくわかんない。医学部志望ってことを自分のアイデンティティのように思ってきたけど、いざ行かないとなったら別に悲しくないんだ」
「医学部をやめたら、どこに行きたいの?」
「俺、小学生のころからアプリとか作るのが好きだったから、プログラミングをちゃんと学んで、エンジニアとして働きたいって思ってる。医者と違ってリモートワークもあるし、子育てもしやすいと思うんだ」
「本当に……そう思ってるの?」
「うん。本当だよ。嘘じゃない」
 足元に、サルスベリの花びらが舞い、つむじ風が起こった。
「あ、風が渦巻いてる」
 二人はくるくると踊る花びらを見つめた。

 キキー!!

 突然、二人の背後で車のブレーキ音が鳴り響いた。振り返ると、脇道から出てきたらしい自動車の横に、自転車と老婦人が倒れていた。
「大丈夫ですか?」
 すぐに優里菜が駆け寄り、優太がその後ろに続く。
 優里菜は老婦人の肩を抱き、優太が自転車を起こした。
「突然車が出てきたからびっくりしちゃって」
 老婦人が立ち上がり道を開けると、軽自動車のバンがゆっくりと近づき、助手席のウィンドウが開いた。30代くらいの女性が顔を見せる。
「大丈夫ですかぁ? ごめんなさいね」
 運転席に乗っている男はこちらを見向きもせず、前を向いたままだ。
「ああ、大丈夫ですよ」
 婦人がそう言うと、「よかった~」の声とともにウィンドウが閉まり、車は走って行った。
「こちらが優先ですよね」
 優里菜は怒ったように告げた。
「ここ、見通しが悪いからね。私もよく確認すればよかったわ」
「どこか、ぶつけていないですか?」
「驚いてバランスを崩しただけだから、大丈夫。ありがとうね」
 老婦人は自転車に乗り、優里菜と優太に何度もお辞儀をしてその場を去っていった。
「優里菜、だめだよ」
 老婦人の乗る自転車を見送った後、優太が言う。 
「え、何が?」
「走っちゃだめだろ。赤ちゃんがいるんだから」
 優太は、優里菜が老婦人に駆け寄った時にヒヤっとしたのだった。
「私、走ってた? 気づかなかった! やばいやばい」
 優里菜はあっけらかんと笑う。
「優里菜はこの道、塾に行くときに自転車で走るよね? 今みたいな車って結構いるから、気をつけて」
「確かに! もう、自分ひとりの体じゃないもんね」
 優里菜は嬉しそうに言う。
「あ」優太が胸ポケットの振動に気付き、スマートフォンを取り出す。「ちょっと待って」
 優太は、特定のメッセージのみをスマートフォンに通知するようにしていた。そのひとつが、自分で作ったアプリの問い合わせのメッセージだった。小学生の高学年の頃から独学でプログラミングを始め、Webアプリをいくつか作って公開していた。
「アプリの問い合わせ?」
「そうそう」優太はメッセージを読む。「ああ、バグかもしれない。早く直さないと」
「アプリのバグってよくあるし、そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「俺の気が済まないの!」
「じゃあ、すぐ帰る?」
「いい?」
「いいよ〜」
「優里菜、今日の夜電話するから、お父さんのことはまたその時に話そう」
「うん! じゃあね!」
 優太は優里菜にきつくハグをしてから離れ、走って家路に向かった。
 走りながら優太はアプリのバグが気になりながらも、大輔とのやり取りを考えた。大輔は、どんな気持ちで優太を医者にしたいと思っているのか。医者という職業は、大輔にとってどんな存在なのか。
 優太が物心ついたころから、大輔は医者になってほしいという思いを隠さなかった。優太はそれを基本的には喜ばしく受け取った。ここへ来て突然、18年間の思いが叶わなくなってしまうのだ。どう説得すれば大輔の想いを覆せるのか、優太には皆目見当がつかなかった。
 そうだ、母の千恵子に相談してみよう。千恵子も平手打ちが飛び出すとは思っていなかったようだが、それでも、優太よりは大輔の心理をわかっているに違いない。
 汗だくになってマンションの前に着くと、いつものようにマンションを見上げた。昨日は怪物のように見えたが、まだ空が明るい今日は、そこまで邪悪さを感じない。
 優太は自分の部屋に着くと電気も点けず、すぐさま机に座りパソコンを起動した。届いたメッセージを開いて内容を確認し、自分が作ったWebアプリで再現してみる。確かに、これは不具合だった。
 ソースコードをエディタで開き、修正していく。集中できるこの時間は、優太にとって代え難いものだ。
 修正が終わり気がついたら、部屋の中は真っ暗だった。帰宅した時は外の明かりが入ってきていたのに、外がすっかり暗くなっている。時計を見ると19時。もうすぐ大輔が帰ってきてしまう。その前に、母の千恵子に話をしておきたい。
 優太がリビングへ行くと、千恵子が夕飯を作っていた。
「お母さん」
 後ろから声をかける。
 優太は千恵子の横に立ち、話し始めた。子どものころから、こうしてよく母子の会話がなされていた。
「お父さんに、どうやってわかってもらえばいいのかな」
「そうねえ。あなたを医者にするのは、お父さんの夢みたいなものだから、難しそうではあるよね」
「だけど、医者って人の命を救う仕事だろう。新しい命を殺すわけにはいかないよ」
「きれいごと、って言われそうね」
 千恵子は大根を切り終えると、みそ汁にするだし汁に入れた。
「あのね、これ、言ってなかったんだけど」
「なに?」優太が期待を込めた目で千恵子を見つめる。
「うちもね、できちゃった婚なのよ」千恵子が鶏肉を切りながら、優太の方を見ずに言う。「そのときの気持ちを思い出せば、少しはわかってもらえるかもね?」
 優太もうすうす気づいてはいた。二人が結婚した年と自分の年齢を考えると、当然ながら可能性があったからだ。大輔も、年は違えど、過去に優太と同じ気持ちを味わっていたのだ。
「あとは」千恵子は続ける。「お父さんだって無理やり病院に連れて行くわけにはいかないだろうから、堕胎できなくなる時期まで粘るとか」
「粘るって?」
「その話をしなきゃいいじゃない? 時間は勝手に過ぎていくんだし。赤ちゃんはどんどん大きくなるんだし」
「お母さんって、けっこうゴリ押しで行くんだね」
「そうだよ、知らなかった? そうじゃなきゃ、あのお父さんとやってられないよ」
 優里菜は優太と同じ中堅校だが、兄が二人おり、優太の家庭ほど学歴や進路に執着があるわけではない。もちろん大学進学の期待はしていただろうが、言い出したら聞かず、責任感もある優里菜の言い分を比較的すんなりときいてくれたようだった。
 予定通りに進めば出産前に卒業できるため、退学はせず卒業できるよう学校に相談するつもりだ。優里菜は大学を諦めて子育てに専念し、優太は大学に通学しながら子育てしたいと思っていた。だが当然、学費や生活費は親頼みになる。なんとか協力してもらえるよう、説得しなければならない。
「お母さん、この歳で孫に会えるなんて、正直嬉しくて」
「おばあちゃんになっちゃうけど」
「若いおばちゃん、最高じゃない。優里菜ちゃんもいい子そうだし」
「お母さんってさ、理解あるよね」
「お母さんの昔の職場の同僚に、学生時代に子どもができて学生結婚していた人がいたのよ。だから、そんなに特別なことでもないのかも、って。ただ、みんなと一緒に遊べなくて辛そうだったから、優太も覚悟しておかなきゃね」
 いつの間にか下ごしらえを終えた千恵子は、フライパンにバターを溶かし、塩コショウした鶏モモ肉を焼き始めた。香りがキッチンに充満する。
「私は、日々の料理係くらいならやるわよ。子どもの世話は優里菜ちゃんののお母さんがサポートしてくださるってことだったけど、私もそれなりに時間はあるから」
「うん。ありがとう」
 優太がそういうと、玄関の開く音がした。
「ただいま」
 大輔の声。優太はきまずくなり、自分の部屋に戻ろうとして、洗面所へ入ろうとする大輔と顔を合わせた。髪を濡らした大輔を見て、
「おかえり。雨?」
「かな。これからもっと強くなりそうだ。なんとかびしょ濡れにならずに済んだ」
 優太はそれを聞くと、部屋に戻った。
 大輔は寝室で部屋着に着替えてからリビングに入ったころには、窓の外は土砂降りになっていた。ときどきぴかっと稲妻が光る。
 大輔は、料理している千恵子の前に弁当箱を置く。弁当箱の上には、大輔と千恵子が生後まもない優太を抱き、笑っている写真が載せられていた。
「なんでこんな真似」
 大輔が千恵子に言う。
「尊い命が生まれたときのことを、思い出してほしくて」
「思い出したよ。優太が五体満足で生まれてきてくれて、どれだけ嬉しかったか」
 窓の外から稲妻の光が射しこみ、室内を照らす。
「そうだよね。私もときどき忘れちゃう」
「大切な命だってことはわかる。でも、それとこれとを一緒には考えられないだろう。今までやってきたことが無駄になるんだ」
 ドーン!と、近くに雷の落ちる音がした。
「無駄になる? そうかしら。優太がやってきたことも、お父さんと私がやってきたことも、無駄にはならないんじゃない?」
「医学部に行けなかったらこんなに勉強する必要はなかったんだ。金だって時間だって無駄だろう」
 千恵子は無言で料理の火を止め、写真を手に取り見つめた。
「健康に生まれてくれて、健全に育ってくれた。それだけで十分だって気持ち、忘れちゃったの?」
「それは……極端だろう。親ならいろいろと期待するし、子どもだって自分に期待してる」
「期待? あなたの場合は……期待とはまた違う気がするんだけど」
 千恵子は写真を冷蔵庫のドアにマグネットで固定した。
「どういう意味だ?」
 窓の外の稲妻で部屋が一瞬明るくなる。
「期待と言うか……願望? あなたは歯科医じゃなくて医者になりたかった。それを優太に投影しているだけでしょう?」
 窓の外で雨の音が一層激しくなる。バリバリバリ! と雷の音が鳴り響いた。
「はあ。何言ってるんだ?」
 部屋の外から、バタン、と戸を閉め、バタバタと走る音がした。その直後、スマートフォンを片手に優太がリビングへ飛び込んできた。大輔と千恵子がドアの方を見る。
「優里菜が……事故にあった! 俺、病院に行ってくる」
「事故って……。大けがなの?」
 千恵子が聞く。
「わかんない。でも、でも、意識がないって。俺……どうすれば」
 優太のスマートフォンを持つ手が震えている。
「何で行くの? こんな大雨で、危ないんじゃない?」
「車で行こう。どこの病院だ?」
 大輔の問いに優太が答える。
「赤十字病院」
「わかった」
 三人は、大輔の運転で病院へ向かった。

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 葬儀場に制服を着た男女が参列し、すすり泣く声が響いていた。18歳という若さで亡くなった故人を前に、参列者の多くは現実を受け入れられないでいた。
 トラックと衝突した優里菜は、不幸にもアスファルトに頭を強く打ちつけた。病院に運ばれた後に緊急手術を受けたが、助かることはなかった。お腹の中にいた小さな心臓も、優里菜の心臓と一緒に止まった。二つの命が奪われたことを知っているのは、優里菜と優太の家族、優里菜の担任だけだ。
「優里菜、優里菜」
 制服姿の優太は、顔を覆い、うずくまりながらブツブツと優里菜の名を呼ぶ。周りのことは何も見えない。優里菜に会えないという事実、事故時の優里菜の痛みや苦しさ、子どもを楽しみにしていた優里菜の笑顔、次々と押し寄せてくる思いに、息をするのも苦しかった。
 告別式が終わっても優太はひとりで歩けず、大輔と千恵子が手を取って車に乗せた。
 三人で帰宅すると、優太はよろよろと部屋に向かった。ドアを閉めた途端、大声で泣く声が廊下に響く。
 大輔と千恵子は心配そうに顔を見合わせ、リビングへ移動しソファに腰かけた。
「こんなことになるなんて」
 枯れるほど泣いたと思った千恵子だったが、涙があふれるのを止められない。
「大丈夫か?」
「うん、優太の苦しみに比べたら」
 千恵子はテーブルの上にあったティッシュを1枚とり、鼻をかんだ。
「こんなことを言うと、不謹慎かもしれないけど」
 大輔がぼそりと言う。
「優太は、第一志望を医学部に戻す……よな?」
「え……」
 千恵子は驚き、大輔を凝視する。
「もしかして、優里菜ちゃんがこんなことになったのを、喜んで……?」
「いや、そうじゃない」大輔は焦る。「結果として、ってことだよ」
「お父さん……」
 千恵子の目には軽蔑の気持ちが浮かんでいた。
「誰だって自分のことが大事だろう。俺は、自分に正直に生きているだけだ。お前だって、ほっとした気持ちがゼロではないだろう」
 大輔は言い訳を並べたつもりで、墓穴を掘り続ける。
「……お父さんは、ほっとしてるってことね」
「そうじゃないって言ってるだろう!」
 大輔は声を荒げた。
「とにかく、優太にはまだそんなこと言わないで。傷口を開くようなことはやめてね」
「傷口を開く?」大輔は驚いて千恵子を見る。「優太は、医学部に行きたいのに彼女と子どもを優先しようとした。でも、今は医学部をまっすぐ目指せるんだ。むしろそのほうが、亡くなった彼女と子どものためになるだろう。命を救う仕事なんだから」
「お父さん」
 千恵子は優里菜が事故に遭った悲しみと、目の前の夫に自分の気持ちが伝わらない悲しみ、夫の気持ちがまったく理解できない悲しみの3つに押しつぶされそうになっていた。袋小路のような気持になり、目を瞑ると、涙がぽろぽろとこぼれる。何を言ってもすれ違っている。そのことが、千恵子を一層辛い気持ちにした。

(第2話)

(第3話)

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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