壊れた檻(2)
外ではセミの声が響いているが、高層階に住む優太の部屋までは聞こえない。Tシャツと短パンという姿で寝ていた優太は、暑さで目が覚めた。寝るときのエアコンの温度設定では、遅い時間まで寝ていられない。背中にじっとりと汗を感じた。
優里菜が事故に遭ってすぐのことは、あまり覚えていない。しばらく学校へ行けなかった期間があった気がする。気が付いたら夏休みになっていた。誰かに何かを説明する気にはなれず、志望校は医学部のまま、普段通りに学校へ行き、塾へ通った。申し込んでいた夏期講習にも行っている。
枕元にあるスマートフォンを手に取り、時間を確認した。10時12分。夏期講習の授業はすでに始まっている。父は仕事で、母は友だちと出かけると言っていた。だから誰も起こしに来ないのだ。塾や夏期講習を無断でサボるのは、今日が初めてだった。
目が覚めた瞬間から気になっていたのは、朝4時まで直していたWebアプリのソースコードだ。優太は体を起こし、パソコンが置いてある机に向かった。パソコンの電源は昨夜からつけっぱなしだ。
部屋の中に、カタカタというキーボードの音が鳴り響く。遮光カーテンを閉めているため、部屋の中は薄暗く、パソコンの画面だけが煌々と光る。
「これじゃだめだ」
優太がそう呟こうとしたら、かすれて声が出ない。その時に初めて、優太は恐ろしく喉が渇いていることに気が付いた。
キッチンへいき、冷蔵庫を開ける。牛乳パックを取り出し、コップに注いで一気に飲んだ。それでも足りず、もう1杯注いで一気飲みした。
優太はダイニングチェアに座り、ポケットに入っていたスマートフォンを取り出した。画面を見ると、写真管理アプリから「一年前の思い出」の通知。何気なくタップすると、優里菜と優太の写真が表示される。
その日は、優里菜の誕生日を祝ってデートをした日だった。ディズニーランドでミニーの耳を付け、アイスキャンディを舐める優里菜が映る。優太は、ダメだと思いながら、写真をめくる指を止められない。遠くで手を振る優里菜。アップになりふざける優里菜。手を伸ばして撮るツーショット。
「あ、あああ」
テーブルに突っ伏し、優太は崩れるように泣いた。優里菜の葬式以来、初めて声を出して泣いた気がした。
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「進路志望の用紙を配るから、来週までに書いてくるように」
2学期になり、教室の黒板の前でクラス担任がそう言った。前の席から用紙が配られてくる。優太はその用紙を見つめ、1学期に書いた自分の文字を見つめる。
「秋田大学 医学部」
第一志望の欄に書いてある字が、自分の字ではないように思えた。それがつい数か月前のことだなんて、信じられない。
「別に変わってないからな~」
後ろの席から声がする。
優太はそのまま、2学期の欄に同じ文字を書いた。
「秋田大学 医学部」
保護者のサイン欄があるので、いったん自宅へ持ち帰らなくてはならない。リュックのクリアファイルに入れて、暇そうに窓の外を見つめた。
その時、ポケットにいれたスマートフォンが震えた。担任に見つからないよう、机の下でメッセージを読む。
優太の作ったWebアプリを使っている、ユーザーからのメッセージだった。
今までは暗記が苦手でしたが、このアプリを使い始めてから暗記するスピードがアップしました。おかげで英検に合格できました!
そんな文章から始まる長文のユーザーレビューだ。
「なあ、お前も変わらないんだろ? 早乙女」
後ろの席から声をかけられる。
「医学部だもんな。わかりやすい。でも、大学名が変わったりするんじゃねーの?」
斜め後ろから勝手なことを言っている。
「そうだな、せっかくだから考え直してもいいかも。学部も」
優太は後ろを振り返って告げた。
「ええ、嘘だろ? お前ずっと医学部って言ってたじゃん」
「ふ、冗談だよ」
優太は目を伏せ、控えめにほほ笑んだ。
家までの帰り道にスマートフォンが鳴り、画面を見ると優里菜の母からだった。連絡をもらうのは久しぶりだ。
「あ、こんにちは」
「優太君、実はね、渡したいものがあって。今から届けてもいい?」
「急ぎですか? 俺が取りに行きますよ」
「いいのいいの。今、学校帰り?」
「はい」
「実は……角のコンビニにいるから、そこで渡してもいいかな」
帰り道にコンビニは1店舗しかなく、話しながら優太の目の前に見えていた。
雑誌売り場で本を読んでいた優里菜の母は、麦わら帽子にシンプルなワンピース姿。優太が知っている姿より、一回り小さく見えた。あんなにやせていただろうか。優里菜の葬式の日以来会っておらず、連絡も取っていなかった。お互い、優里菜が亡くなった現実を見るのが辛かったのだ。
「久しぶり」
優太に気が付いた優里菜の母は、優太に声をかける。
「ああ。お久しぶりです。少し、痩せましたね」
「これでも一時期より太ったのよ」
優里菜の母は自分の頬に触れて少しだけ口角を上げた。
「ねえ、アイス食べない? もちろんおごり」
「あ、いいですね。ありがとうございます」
2人でアイスクリームケースを眺めて、ひとつずつ選んだ。コンビニを出て、アイスを食べながら歩く。
「あの、渡したいものって……」
「そうそう。私、ようやく、優里菜のものを少しずつ片付けはじめたの。それでね」
渡したいもの、と言われた時点で、優里菜のものだろうと想像はしていた。優里菜の母がトートバッグから出したのは、A5サイズのノートだった。
「これね、妊娠がわかってから、優里菜が付けていた日記。優太君や赤ちゃんへの手紙のような書き方だから、そのうち見せるつもりだったんだと思う。だから、渡しておこうと思って」
「読みましたか……?」
「うん。申し訳ないけど読ませてもらった。それで、優太君に見せても大丈夫って思ったの」
最後の一口のアイスを食べきると、優太はノートを受け取り、見つめた。
「読むの……辛い、です、よね」
「その時はね。でも、読んでおいた方が、いろいろ乗り越えられると思う」
優太はノートをぎゅっとつかみ、優里菜の笑顔を浮かべて少し涙ぐんだ。
「じゃあ、ここで」
優里菜との帰り道にいつも別れていた曲がり角で、優太は言う。優里菜とほぼ背丈が同じ優里菜の母を見て、そこにいない優里菜をまた思い出していた。
優太はノートをリュックにしまい、早く読みたい気持ちと、読みたくない気持ちで揺れ動きながら自宅までを歩いた。
家に着くと、自分の部屋に行き、ベッドの上でノートを広げた。優里菜の字が目に飛び込んできて、めまいがしそうだった。
優太へ
今日、優太に赤ちゃんのことを話した時、とてもびっくりしていたけど、「ちゃんと考えよう」って言ってくれてめっちゃ嬉しかった! その後話した時、私たちの思いが一緒で「産んで育てたい」だったこと、私はずっと、絶対に忘れないと思う。
読みながら優太は、初めて優里菜に打ち明けられた時のことを思い出した。すごく戸惑ったし、逃げ出したいと思った。間違いであって欲しいと思った。だが、間違いではなかった。
それまで優太は医者を目指しながら、命の尊さをずっと考えていた。医療ミスのニュースも目にしたし、赤ちゃんポストのニュースも。医者が努力をしても救えない命があることに、優太は心を痛めていた。だが、自分たちの決断ひとつで救える命があると考えたら、それを蔑ろにすることはできなかった。
優太、医学部を諦めるしかないって言っていたけど、子どもの頃からの夢だったんじゃないの? そりゃ、優太と一緒に赤ちゃんを育てたいけど、夢を諦めて欲しくなんかない。私って、わがままなのかな。聞いてみたいけど、聞く勇気がないよ。優太、どう思ってる?
「優里菜、そんなことないよ。俺はたぶん、本当に医者になりたかったわけじゃないんだ」
優太は、そう声に出してから、耳に入る自分の言葉に驚いた。「医者になりたかったわけじゃない」という言葉の塊が、変えられないものとしてそこに存在した。優太はそのまま、心の声を音にする。
「俺は、お父さんの気持ちを考えて、医者になろうとしていた。それだけだ。俺は、自分の将来を、自分で考えたことがなかったんだ」
優太は今日「エンジニアになりたい」って言ってたでしょ。それが本当なら、私はすごくすごく嬉しい。優太が医者を仕方なく諦めるんじゃない、ってこと……だよね? 昔からアプリを作っていたこと知ってたし、アプリのことを話す時の優太の情熱が好きだよ。だから、エンジニアはすごく合ってると思う! 私、全力で応援するから。
最後の日記は、優里菜が事故に遭う前に話した内容だった。優太と別れた後、塾に行く前に優里菜はこの日記を書いたのだ。
気がつくと、優太は涙を流していた。
優里菜のことを思いながら、医者になる道と、エンジニアになる道を思った。優太はもう、エンジニアへの道を進もうとしていた。気持ちも体も、すでに道を曲がっていた。
優太はリュックから進路志望に「秋田大学 医学部」と書かれた用紙を出した。母の千恵子にサインをもらってから、志望校を書き換えよう。そう決意した。
(1話目)
(3話目)
