感謝の「火」を繋ぐ。仏教の大祭典ワイサック
ボロブドゥールに来てから、毎晩のようにエコが教える伝統音楽のスタジオ「キナラキナリ」に遊びに行っていた。いつも音楽が鳴り響き、毎日いろんな人が踊りに来るのをぼーっと眺める時間が好きだった。


“ワイサックのチケット買った?”
カフェで出会った女の子に聞かれたとき、「ワイサック」という言葉を知らなかった。
ワイサックは釈迦の誕生・悟り・入滅を祝う仏教の大きな儀式で、三日間行われる。タイからボロブドゥールまで歩く僧侶や、最終日の夜にボロブドゥール寺院で上がるランタンが有名。
カレンダーを見てみると、キナラキナリのダンスのショーと重なっていた。このときは気づかなかったが、後日、キナラキナリでぼーっと見ていたダンスはワイサックで発表することがわかった。


キナラキナリのショーを見たのは二日間だけ。
1日目はエコがガムランと一緒に歌い、2日目は僧侶の格好をして登場したりもした。
彼はイスラム教なのに仏教の祭りに出る。ダンスも踊り、ガムランも演奏できて、影絵芝居もできて、歌も歌うし、音楽療法士(セラピスト)でもある。「何者」にもなれて、「何者」であるかを決めない。



ワイサックは正直、その二日間で満足した。ダンスを見終えたら、この村を出ようとしていた最終日の朝、また予定が変わった。

「これからワイサックの準備に行くけど、、、ランタン見たい?」
ワイサック最終日に宿を引っ越したのだが、そのオーナーはボロブドゥール寺院のマネジメントもしている人だった。中に入れてもらえることになった。

パレードとともに僧侶が寺院に登場。80%がイスラム教の国だからか、僧侶を神様のように崇める空気感もあった。
そこに、私が出会った僧侶、Pannyavaroの姿はなかった。


お経を読む僧侶の背後には、宇宙を立体的に表した曼荼羅「ボロブドゥール」。

瞑想中、周囲は慌ただしかったけど、
言語を理解できないから集中できた
感謝を繋ぐこと
私は事前に渡されたキャンドルを手に持った。僧侶と数万人の参列者の間には、一つの大きな炎が燃えていた。
その一つの火は、光の波紋のように広がった。

中には、“空間を消費しているだけ”の人もいた。写真を撮ることに夢中になって、ろうそくを蹴飛ばしてしまった女性は、中の水をこぼしても謝らずに係の人を呼びつけて直すように指示した。そして写真を撮り続けた。
その女性の火は、誰かに繋ぐ前に消えた。
これは火をつけることに意味があるのではなく、繋ぐ行為にこそ意味があるのだと思う。

感謝を巡らせる
ワイサックに誘ってくれた宿のオーナー。エコとキナラキナリ(エコの伝統舞踊団体)。このエリアに誘ってくれた友達。そして、送り出してくれた日本の友達や家族。もっと言えば祖父母や先祖まで続いていく。そうすると、目の前の宇宙を表すボロブドゥール、「今」に回帰した。

その中で受け取った「火」は返すものではなく誰かに繋ぐもの。
与えたものが本人から返ってこなくても、常にいろんな人たちからもらっている。
それに気づけば感謝の循環は大きくなる。

続く......
