【連載小説】「執事はバッドエンドを導かない」第二十三話
暫くお互いに言葉を発さず、血液の巡る音だけを聞いていたが、やがてカインは胸元から文庫本を取り出してレイラに握らせる。
「……これは?」
「これは、お嬢様の楽しみにしていたものですよ。お嬢様の好きな小説のシリーズの最新刊を、アメリアが土産にと持参したのです」
「そう……。後で、ちゃんとお礼を言うわ」
「ありがとうございます。きっとアメリアも喜びます」
カインが「アメリア」の名を口にすると、レイラはまた心臓が軋むのを感じる。
「ねえ、カイン。私も同じよ。あなたが私を見ていると思うと、胸が苦しくなる。とても恐ろしいのに、離れてほしくないと思ってしまう。これは、毒なのかしら。あなたも私も、同じ毒に侵されているのかしら。とうとう私も、死んでしまうのかしら」
「もし同じ毒であるならば、その結末が分かるまで私はお嬢様の側にいましょう。物語というものは、案外長く続くものです。この毒でいつか終わりを迎えるとしても、それは最後の楽しみに、まずは結末に辿り着くまでの道を考えてみてもよいかもしれません」
「結末に辿り着くまでの道……」
「お嬢様も私も、これまでの物語の中で、大切なものをどこかに置いてきてしまったのかもしれない。私はつい先日、妹がいたことをようやく思い出しましたが、それでもやはり名前は忘れたままなのです」
「私にも、忘れてしまったものがあるのかしら」
「それが何かは分かりませんが……、それが涙の理由ということもあるのかもしれません」
いつの間にか、レイラは涙を流していた。レイラが思わず頬に触れると、指先で透明な液体が艶めいている。
「お嬢様は、黄昏時をご覧になったことはありますか。晴れた日の日没、太陽が昼の終わりを惜しむように西の空を赤く染めるのです。何かを思い出せぬ時は、夜にいるようなもの。黄昏の眩さが、昼に見たものを忘れさせてしまうのです。けれど、夜はいつか終わり、朝はやって来る。思い出せぬものというのは、夜の先に待っているものだと私は思うのです」
「一緒に長い夜を歩むというの? カインだって、すぐに私の前からいなくなるに決まってるわ。私が想像する未来は、いつでもバッドエンドなの。側にいるなんて、守れない約束をしないで」
「お嬢様の想像される物語がどんな結末を迎えようと、私はあなたの前でバッドエンドを迎えないと約束しましょう。それとも、お嬢様はすぐにでも結末を知りたいと思われますか。もし、あなたが知りたいのであれば、私は知る限りのことをお話します」
「……いいわ。今はやめておく。だって、物語にはそこに辿り着くまでの道があるんでしょう? それなら、私もあなたの忘れものと一緒に……、探してみてもいいかもしれない」
カインはレイラの額にキスをした。なぜこんなことをしているのか、カイン自身にも理解できていない。だが、こうすることだけが彼女の慰めになるような気がした。
レイラの涙が止まると、カインはレイラに真っ赤な林檎を差し出す。
「これは何?」
「朝食の林檎です。今朝はちゃんとした食事が用意できず、申し訳ありません。おとぎ話では林檎に毒が仕込まれているようですが、こちらはいかがでしょう」
「私、林檎を皮ごとかじったことがないの。毒林檎かもしれないなら……、一緒に試してみてもいいわ」
カインがナイフで林檎を半分にすると、二人は同時に果実にかぶりつく。じゅわっと口の中に溢れた果汁と共に、「ラゴア」の葉とも「毒林檎」とも違う、不思議な毒が二人を満たした。指先が熱を持ち、脳の内部が甘く痺れていく。二人の感情にほんの小さな炎が宿った瞬間だった。
「……美味しいわね」
「ええ。痺れるほどに」
お互いの視線の間に生まれたものが何であるのか、今の二人には知る由もない。
その時、どこからともなく風が吹き、机上に置かれた植物図鑑のページをめくった。
栞の挟まれたページには、花弁の先が広く開いた筒状の黄色い花が描かれている。
──その名は、「ダチュラ」。天使が警鐘のために吹くというラッパに似た花の形状から、別名「天使の呼び声」とも言う。花言葉は、「私を想って」。その毒は中枢神経を麻痺させ、脈拍を亢進させる──。
今、腕の中にあるこの『本』に昨晩綴ったことを、レイラ本人もすでに覚えていなかった。その場所に落とされた涙の跡も、今や彼女の記憶と共に消え去っている。
『一人より二人の方がいいこともあるでしょう?』
セオの声が、風に乗って通り過ぎてゆく。
二人はこの日、心に秘めたものも、胸の苦しみも、こうして分かち合えるということを生まれて初めて知った。
(第二十四話(エピローグ)へ続く)
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