MVP ARCHIVE HISTORY|Energy : Oil Age 04 : Oil Crisis / オイルショック


オイルショック
20世紀の工業社会は、石油の安定供給を前提として拡大した。
自動車、航空機、船舶、工場、発電所、石油化学製品、交通、産業、都市、生活の多くが、大量の石油を安定した価格で利用できることによって成り立っていた。
しかし1970年代、中東の戦争や政治的対立をきっかけに産油国が生産量と輸出を調整すると、原油価格は急上昇、燃料不足、物価上昇、景気後退が世界へ広がり、石油が単なる燃料ではなく、世界経済と国際政治を動かす戦略的資源であることが明確になった。
石油に依存した社会
第二次世界大戦後、自動車交通、航空輸送、海上輸送、石油化学工業が急速に発展、日本や西ヨーロッパでは、消費する石油の多くを海外からの輸入に頼り、その供給源は中東をはじめとする一部地域へ集中していた。
20世紀前半の石油産業では、欧米の巨大な国際石油会社が油田開発、輸送、精製、販売に強い影響力を持っていたため、産油国は自国内の資源でありながら、価格や生産量の決定に十分な力を持たない場合もあった。
石油需要が増加すると、産油国は資源から得られる利益を増やし、石油政策を自ら決定しようとするようになる。
OPECの設立
1960年、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラによって石油輸出国機構が設立された。英語名の頭文字から OPEC と呼ばれる。
OPEC は加盟国の石油政策を調整し、市場と産油国の利益を安定させることを目的とした。
産油国が共同して生産量や価格を交渉する仕組みが成立したことで、石油市場の力関係は変わり始めた。
第一次オイルショック
1973年10月、エジプトとシリアを中心とするアラブ諸国とイスラエルの間で第四次中東戦争が始まった。
イスラエルを支援するアメリカなどに対し、一部のアラブ産油国は石油を外交手段として利用した。アラブ石油輸出国機構に参加する国々は、生産削減や一部の国への輸出制限を実施した。
OPEC とアラブ石油輸出国機構は異なる組織であり、1973年の供給制限で中心的な役割を担ったのはアラブ産油国側だった。


供給削減によって原油価格は短期間で数倍に上昇、燃料費、電力料金、輸送費、製造費が増加し、その影響は農業、物流、化学製品、生活用品へ連鎖した。この混乱は第一次オイルショックと呼ばれる。


世界と日本への衝撃
アメリカなどではガソリンスタンドに長い車列ができ、販売量や給油日が制限された。自動車中心の地域では、燃料不足が通勤や配送、買い物など日常生活へ直接影響した。
日本は高度経済成長の中で、エネルギー源を石炭から石油へ急速に転換し、工場、発電所、輸送機関の多くが輸入石油に依存していたため、原油価格の上昇は生産費、電力、燃料、生活用品の価格を押し上げた。
経済成長率は低下し、戦後続いてきた高度経済成長は終わりを迎える。
日本では将来の不足への不安からトイレットペーパーや洗剤などの買いだめも発生、実際の供給量だけでなく、情報と集団行動が社会の混乱を拡大することも示された。
スタグフレーション
原油価格の上昇は世界的な物価上昇を引き起こした。
石油は製品の生産、輸送、販売のあらゆる段階で使われるため、価格上昇は経済全体へ波及した。
その一方で、企業活動は停滞し、失業や景気悪化も進んだ。景気停滞と物価上昇が同時に進むこの現象は、スタグフレーションと呼ばれる。


第二次オイルショック
1979年、イラン革命によって同国の石油生産と輸出が混乱、さらに1980年にはイラン・イラク戦争が始まり、主要産油国の供給に不安が広がった。
実際の供給減少だけでなく、今後さらに不足するのではないかという予測も価格を押し上げた結果、原油価格は再び大幅に上昇し、この混乱は第二次オイルショックと呼ばれる。
第一次は第四次中東戦争と輸出制限、第二次はイラン革命と地域情勢の不安定化が直接の要因だった。どちらも中東からの供給不安が世界経済を揺るがした点では共通している。


省エネルギーと産業転換
工場では排熱回収や設備の高効率化、建物では断熱や省エネルギー型の照明・空調、自動車では小型化や燃費改善が進められた。
日本では、鉄鋼、化学、セメントなどの基礎素材産業が省エネルギー化を進める一方、電子機器、精密機械、自動車など、比較的少ない資源から高い付加価値を生み出す産業が成長した。
アメリカ市場でも大型車から燃費の良い小型車へ需要が移り、日本やヨーロッパの自動車メーカーが販売を伸ばした。
石油価格の変化は、車両設計や消費者の選択、産業競争まで変えていった。
備蓄と国際協力
石油輸入国は、供給が一時的に停止しても社会を維持できるよう、戦略石油備蓄を整備した。備蓄は供給不足を永久に解決するものではないが、輸入先の確保や需要削減を行うための時間を生み出す。
1974年には、主要な石油消費国によって国際エネルギー機関が設立された。IEAは備蓄、情報共有、需要抑制、緊急時の協力体制を整えた。
産油国側の OPEC に対し、IEAは主に消費国側の協力機関として成立した。エネルギー問題は、一国だけでは対応できない国際的課題となった。


供給源とエネルギーの多様化
各国は中東への依存を減らすため、北海、アラスカ、メキシコ湾などで新たな油田開発を進めた。同時に、石炭、天然ガス、原子力、水力など、石油以外のエネルギー源も拡大された。
高い原油価格は省エネルギーと新規油田開発を促し、結果として、石油需要の伸びは鈍化、供給源は増加し、1980年代には産油国間の生産調整も難しくなり、原油価格は大きく下落した。
産油国と国際金融
原油価格の上昇によって、産油国の収入は大きく増加した。
一部の国では道路、港湾、空港、都市、医療、教育の整備が進められた。
一方で、国家財政を石油収入へ強く依存する構造も形成され、価格が下落すれば、国家経済が急速に悪化する可能性がある。
石油輸出で得られた大量の資金は、国際金融市場にも流れ、多くの取引がアメリカドルで行われたため、これらの資金はペトロダラーと呼ばれた。
石油価格の変化は、燃料市場だけでなく、各国の財政や国際金融にも影響を与えるようになった。
エネルギー安全保障
オイルショック以前は、必要なエネルギーを安価に確保することが重視され、危機の後には、供給を途絶えさせないことも重要な目標となった。
輸入先の分散、備蓄、輸送路の確保、国内生産の拡大、複数のエネルギー源の利用、省エネルギー、これらを組み合わせて供給停止の影響を小さくする考え方が、エネルギー安全保障である。
石油は限られた地域で生産され、海峡、運河、港湾、パイプラインを通って消費国へ運ばれる。
資源を持つ国は輸出を通じて影響力を持つが、産油国も市場、技術、投資、輸送設備を必要とする。
石油をめぐる関係は、一方的な支配ではなく、複雑な相互依存によって成り立っている。
現代への影響
1970年代以降、各国は備蓄、省エネルギー、燃費規制、供給源の多様化を進めてきた。そのため、同規模の供給減少が起きても、当時とまったく同じ混乱になるとは限らない。
しかし現代社会も、交通、物流、石油化学、農業など多くの分野で石油を利用している。産油地域の紛争、制裁、輸送路の遮断、災害は、現在も原油価格と世界経済へ影響を与える。
さらに現在のエネルギー政策には、安定供給だけでなく、環境負荷を減らすという課題も加わっている。
Oil Crisis
オイルショック は、世界の交通、産業、都市、生活が、一つの資源の安定供給を前提として組み立てられていた前提が崩れたことで、燃料価格の上昇は物価、産業、雇用、外交、日常生活へ連鎖した。
危機の後、各国は石油を備蓄し、供給源を分散し、エネルギー効率を高め、別のエネルギーを探し始めた。
どのエネルギーを、どこから、どのように受け取るのか。その構造そのものが、社会の安定と国家の選択を決めている。

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