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【寄付を文化に】 第3話 沈黙の夫婦 「40回目の夏」

3話 「沈黙の夫婦」

私は、夢を諦めたのだろうか。
忘れてしまったのか。
それとも──ただ、叶えられなかっただけなのか。

いや、もしかしたら夢は叶っていたのかもしれない。

でも、これだけは確かだ。
あの頃、私は本気だった。
結果じゃない。届かなくても、
あの瞬間の熱量は本物だった。

あれから、あの時を超える情熱には出会っていない。そんな気がしてる。

だから、私は役割を変えよう。
もう、私が夢を叶える順番は終わり。
誰かが夢に向かう、その背中をそっと支えるる存在になりたい。

誰かを応援する。
それが私の夢でもいい。

もう、自分で頑張らなくてもいいのかもしれないね。

「かつおクラブに加入する」
その指先が、ほんの少し、爽やかだった。

「そろそろ、いこっか」
美帆がそう切り出してくれた。

「あっ、杉山さん。こんにちは!!」
ヒロが近くの席に目をやり、少し驚いた顔で手を上げた。

どうやら、自分のお客さんらしい

「あっ、矢野さん。ここで会うなんて奇遇ね」

落ち着いた声でそう応じたのは、グレーのカーディガンを羽織った女性、杉山千代子。 向かいの席には、少し照れくさそうな顔をした夫、浩一の姿もある。

「新しい車、快適ですよ。買ってよかった。夫婦で出かけることも増えてね」

浩一が笑って言うと、ヒロも嬉しそうにうなずいた。

「それは何よりです。また、定期メンテナンスお待ちしてます」
「そのときは、ぜひに」

三人の同級生たちはそれぞれ会計を済ませ、店をあとにする。

「美帆と弘高が『かつおクラブ』に加入した。自分のことよりうれしいよな」

純は、暗くなりかけた空を見上げながらそっとつぶやいた。


残されたテーブルで、杉山千代子はふとスマホを取り出した。 noteのアプリが開きっぱなしになっている。 画面には、先ほど途中まで書きかけていた記事の一文が残っていた。

「人生はいつになっても、今日からはじまる。」

画面を閉じかけて、また戻す。 夫婦はしばらく無言だった。

「あなたも何か書いてみたら」
「ワシには無理じゃ。なにも書きたいことなか」

千代子は勇気を出して話したが、またすぐ沈黙になった。

「……沈黙の夫婦じゃな」

浩一がぽつりと言った。 千代子は少し笑って、うなずいた。 ほんのすこしだけ、心がやわらかくなった気がした。

「海江田艦長だと定年してもきっと何かやってるわよ」
「あなたもなんか新しいこと、はじめてみたら?」

千代子はそう言って、タブレットをテーブルに置いた。

「これ、どうかな。『かつおクラブ』っていうらしいよ。 noteで見つけたんだけど、寄付のメンバーシップなの。 みんなから少しずつ、100円ね。それを集めて寄付してるの 。たとえば、ミイコさんって方は 『宇宙兄弟』の全巻を、中学校に寄贈しようって。」

「……ふうん」
浩一は新聞の下から顔を上げたが、特に表情は変わらない。

「ね、ちょっとワクワクしない?」
「いや。ピンとこんね」
「えー? 夢の応援って、いいじゃない?」
「夢ば、自分で叶えるもんじゃ。ワシらの若い頃は、もっとがむしゃらじゃったけん」
「はいはい。出た、がむしゃら論法」
「九州からこっちばきてさ?金もコネもなか」
「知ってますよ。結婚して40年、初耳じゃないから」
「宇宙兄弟じゃなくて、『沈黙の艦隊』なら加人するのかしら?」
「あんなもん中学生に読ましたらいかん。好きな人だけ見ると」

ふたりの会話は、いつものように軽口で終わる。 でも、千代子は内心、少しだけモヤモヤしていた。

帰宅してからも、浩一はいつも通りの夜を過ごしていた。 風呂に入り、ビールを飲み、プロ野球ニュースを見ながらうたた寝する。

千代子は隣で静かにタブレットを開き、noteの編集画面を立ち上げた。 タイトルにはまだ何も書かれていない。 でも、心のなかにはさっきのファミレスでの言葉が残っていた。

「沈黙の夫婦、40回目の夏」

仮タイトルを打ってから、彼女はそっと手を止めた。 書くべきことは山ほどある気がした。ただ、本音をのぞき見されてるようで、なかなか最初の一行が定まらなかった。

それでも、少しずつ言葉を積み重ねていく。 子育てのこと、定年後のあまりある時間、最近noteをはじめたこと。 そして「かつおクラブ」のことも、最後に軽く添えた。 書き終える頃には、時計の針は日付をまたいでいた。

「投稿」ボタンを押して、しばらくじっと画面を見つめた。 特に誰が読むわけでもない。 でも、今夜は書いてよかった。 そんな気がしていた。

翌朝、いつものようにパンとコーヒーの朝食。 浩一は新聞を読み、千代子はタブレットを開いてnoteの「おすすめ記事」を流し読みしていた。 ふと、ひとつの記事に目が止まる。

「寄付から始まる新しい夢、私がかつおクラブに入ったわけ」

サイレント・フィンという名前に見覚えはなかった。だが、そのタイトルは、自分への手紙に思えた。

読み進めるうちに、言葉の熱がじわじわと心を浸食していく。

「県大会入賞6位、『おめでとう!!』って言われるたびに、心がちぎれる思いがした。私が目指していたのはオリンピックだ。まだゴールじゃない。」

本音に打ち震えた。文章は、千代子自身の思いと共通点はあまりなかった。だけど目が離せなくなった。 いや、むしろ彼女よりずっと深い痛みを抱えているようにも見えた。

「この人、本気だったんだ」
「そしてたぶん、今も本気だ」

読み終えたあと、千代子はしばらく何も言わず、画面を閉じた。 そして、すぐに「かつおクラブ」のページへと進んだ。

夕方、浩一が買い物袋を持って帰ってきた頃、 千代子は、ソファの上でスマホをいじっていた。

「あなた、これ見て。『かつおクラブ』、入ってみようと思って」
「まだ、いや、また言うとるんか」
「ね、100円よ。毎月」
「100円で叶う夢なら、安いな」
「そういうこと言わないの」

浩一はしばらく黙って、ビールを取りにキッチンへ向かった。

しばらくして戻ってくると、ぽつりとつぶやいた。

「オレはアプリがよくわからんば。お前のやつで、一緒に入っとけ」

「えっ!?いいの?」
「ワシには『夢』やら『寄付』とかようわからん。ただ、本音と本気の人間、大好きばい」

千代子はうれしさを隠すように、すぐスマホに目を戻した。

「これで、夫婦で『寄付メンバー』ってことになるのかしら」

「沈黙のメンバーな」

浩一が笑った。

「そういや、お前が読んでたやつ。あれ書いたん、『フライング・フィン』とかいう名前じゃったか?」

千代子は笑いながら顔を上げた。

「それ、F1の人じゃない?ハッキネンかな」
「そうか。違ったか」
サイレント・フィンよ。しずかなイルカ、どうしたの?名前なんて気にして。あっ。読んでみて、その人が気になったの?」

「ふーん。さいれんとふぃーさん。じゃが、絶対ステキな人じゃ。」

浩一はそう言って、そっとビールを一口すする。窓の外は、すっかり夕暮れだった。

0話 スタートはここから

1話 ログイン問題

2話 将来の夢「Take Your Mark」


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